◇◇
 真っ暗な小学校の玄関は、外からの様々な光を受け入れ、天井や壁に奇妙な模様を描いていた。ボクはなぜここにいるのだろう?まるで記憶喪失になったように、そんなことを考えていた。でもボクはそれを知っていたんだ。ボクがここにいる理由は、ボク自身がここを選んだからだ。
 ほんの十五分ほど前まで、ボクは由紀の後を尾けていた。少し前には考えられないことだった。ボクらはいつも一緒で隠し事も無かった筈なのに。大人になるということは、こういうことを指すのだろうか?とボクは少し寂しくなった。

 ずっと前から、たしか小学校に上がった時からボクと由紀は毎日、一緒に下校していたんだ。それはボクらが血の繋がらないとはいえ、兄妹だったから、そして他のみんなは塾に通っていたが、ボクらの家は貧しかったから塾に通うことが出来なかったから、ボクらはずっと二人でいるしか無かったんだ。幸いだったのは、ボクらは互いにお互いの存在を疎ましく思うことが無かった。ボクはお互いを空気のように思っていた。煩わしさを感じるほどの存在感もなく、しかしいないと息苦しさを感じた。
 そんなボクらだからお互いのすべてを知っていた。朝起きてから学校に一緒に行き、下校する。狭い家だから勉強する時も近くだ。おばあちゃんの家に行く時も一緒。風呂に入る時も、寝る時も一緒だった。
 ところが数日前から由紀の様子がおかしくなったのだ。数日前と思うが、実際はもっと前だったのかもしれない。ここ一、二ヶ月というもの、ボクは父さんの古い友達が持ってきたゲーム機に夢中になっていた。その友達が開発したのだという。タダで貰える訳ではなかったので、ボクらの家ではとても買えなかったから、金持ちの淳司の家を紹介した。淳司の家は父親が不動産取引で大儲けしたから、ゲーム機など簡単に買ってくれた。ボクは授業が終わると真人、健太と毎日のように淳司の家に入り浸った。だから、一緒に帰る習慣を最初に破ったのはボクだったんだ。でも、ゲーム機に夢中だったボクはそれがそんなに大変なことだったとは、まったく気付かなかった。
 しばらくしてゲーム機に飽きが来た頃、ボクはまた元の生活に戻ろうとした。いつものように由紀と一緒に帰ると思ったのだ。ところが由紀は、ボクを待たずにさっさと校門から出て行ってしまった。
「おい、待てよう由紀ぃ」
と声を掛けても、素知らぬ振りをしてエントランスから階段の向こうへ消えて行った。ボクが靴を履いて、階段まで出た時には校門の向こうへ姿を消した後だった。よほどの早歩きで出て行ったに違いない。仕方無しにボクは一人で家まで歩いた。
 ゲーム機に飽きた友人達は、淳司の家に集まることもやめた。まっすぐ自分達の家に戻って塾へ行く支度をするのだ。だから放課後のボクは由紀がいなければ一人切りだった。一人で街並みを横切り、りんご畑を通り過ぎながら、なんで由紀はボクを置いて帰るんだろう?と考えてみたが思い付かない。ボクが、もうゲーム機に飽きてしまったことを知らないのかもしれない、とも考えたが、随分と早く歩くのが引っ掛かった。由紀とボクは、いつもゆっくりゆっくり道草をしながら帰ったのだ。なるべく時間を掛けて、遅い時間に家に着くように歩いた。あまり早く家に帰るとマサ兄がいることがあった。夜も来るくせにご苦労なことだ。町役場に勤めているくせに、昼間から義母のところへ来ることが何度もあった。水道課の修理係だから、どこかへ修理に出ると嘘を吐いて義母に会いにくるのだと、町の大人たちが噂していた。
 大人たちの噂は単なる噂に過ぎないが、ボクも由紀も早い時間に家に帰り義母に追い出されたことが何度かあった。それに懲りたボクらは、なるべく五時近辺まで家に帰らないようにした。どうやらマサ兄は、その時間に一度、役場に戻らなければならないらしいのだ。そこでボクらは、町の西外れの千曲川まで歩いて行ったり、東に壁のように立つ雁田山の縁沿いを散策したりした。そして切通しの向こうの、踏切を渡った先にある小山にも登った。上り口に門があって、自然石を使った石段が連なっていた。そこを登ると広場を、その奥に社が立っていた。ボクらは社の周りで鬼ごっこをしたものだった。そして夏には、虫取りをした。
 本来、クワガタやカブトムシは朝方でないと捕まらないが、こういう人のいない場所には間抜けな奴らがいるらしい。まだ明るい日差しの中で警戒もぜず木の汁を舐めているのだ。ボクらはそれを眺め、時に袋の中へ入れて持って帰った。もっとも義母は虫嫌いだったから、長屋の近くまで来たところで、逃がしてやるのだが。それから秋には茸を採った。もっとも毒茸と食用の区別がつかないので、適当に採っては社の階段に置いておいた。採ることに楽しみを感じていたのだ。冬は、麻袋を持ってきて雪の坂道を滑った。春には裏庭一面を黄色に染める菜の花を飽きもせず見詰めていた。
 マサ兄が家にいる、という不幸のお陰でボクらはよく遊んだ。毎日遊んでも飽きなかったものだ。
 ところが、まるでそんなことなど遠い昔の出来事だとても言うように、由紀はボクを無視するように一人で帰ってしまった。ボクがゲーム機に夢中になって、淳司の家に入り浸りになっていたことを怒っているのだろうか?家に着いたら謝ってみようと思いながらボクは足早に、次第に駆け出して、結局、途中から全力疾走で家に向った。
 長屋の中庭に着くと、恐る恐る家の引き戸に手を掛けた。耳を澄ませて中の様子を窺った。すると突然、誰かがボクの頭を抑えた。振り返るとおばあちゃんだった。
「たく、お帰り」
おばあちゃんは満面の笑みを浮かべていた。
「お菓子あるよ。おいで」
ボクの肩を抱くと半ば強引に、自分の部屋に向った。子供心にボクはマサ兄が着ていることを悟った。だから、おばあちゃんに逆らわなかった。
 でも、ボクは先に帰った由紀のことが気に掛かった。
「ねえ、由紀は?」
しかし、おばあちゃんは首を傾げながら
「由紀ちゃん?はて、見てないよ」
と答えた。
「そんな筈無いよ。だって、ボクより先に帰ったんだ」
「ん?一緒じゃ無かったのかい?」
「うん。ボクは一緒に帰ろうと思ったんだけど、由紀が早歩きで行っちゃったんだ」
おばあちゃんは首を傾げ、何かが得ている様子だったが、すぐにまた笑顔を浮かべ
「きっと、お友だちのとこへ寄ってるんだよ」
とボクの背を押し
「ほら、お上がり。お菓子食べて行きな」
とか
「コーヒー牛乳もあるよ」
と言った。
 でもボクは由紀のことが気になって、お菓子どころではなかった。友だちはみんな塾に行っている時間だったから、由紀が誰かの家に寄っているということは考え難かったのだ。
「ボク、由紀のこと探してくるね」
おばあちゃんが台所からコーヒー牛乳の瓶を盆に乗せて来た。それを振り切るようにボクは駆け出した。

 けれど、幾ら町の中を走り回っても由紀は見付からなかった。よく遊びに行くとすれば西の外れの千曲川か、東の外れにある雁田山だった。
 千曲川は北の外れの篠井川との合流地点から、上流の松川との合流地点まで走ってみたけど、由紀らしい姿は見付けられなかった。そのまま松川を東に歩き、雁田山に突き当たったところから、麓に沿って走る農道をずっと下った。よく遊んだ滑り山には誰の姿も無かった。そのまま北に歩くと長野電鉄線見えてきた。切通しの向こう、踏切がある辺りでちょっとした小山に登った。入り口に古い門があり、登り切ると簡単な社があるのだ。もうそこまで行くと隣りの中野市だったが、ボクらは時々そこへも遊びにいったのだ。
 でも、由紀はいなかった。
 夕陽が西の空を赤々を染めていた。この辺りはひどくカラスが多くて、夕方になると童謡さながらに啼き喚くのだ。本当に帰れ、帰れと促しているように聞こえた。仕方なしにボクは帰路に着いた。不思議なもので、帰りはとてつもなく長く感じた。行きは、町の縁にそってぐるりと一周回ったから大変な走ったことになる。でも夢中で走ったせいか、あまり疲れなかった。でもその何分の一かの距離だというのに、帰り道は長い。疲れがどっと肩に乗ってきて、思い荷物を背負っているような感じだった。ボクは歩き疲れて道端の大きな石に腰を降ろした。もうだいぶ歩いたから、長屋まではもう少しというところだったが、足が棒のようになっていたのだ。
 石は、畑の間を通る農道の脇に転がっていたものだ。畑を耕した時に出てきて、野良仕事に邪魔にならぬよう避けられたものだろう。この畑を横切れば長屋まではすぐだった。少し前はそうしたものだが、一昨年くらいから巨峰という葡萄の畑に転作されて、どこも針金製の網が掛けられていた。だから道なりに、すこし遠回りして帰らなければならないのだ。
 疲れていると、ほんの少しの遠回りも億劫になるものだ。ボクは誰に当るべきかも分からない不満をブツブツ言ってみたが、誰も聞いてくれる筈も無かった。仕方なく顔を上げてみると、辺りはすっかり暗くなっているのに空だけはまだ赤かった。星が幾つか見え始めたと思ったら、最近、畑を潰して造られた団地の光だった。その時、突然、車の走る音が近付いてきた。暗闇の向こうでライトが瞬いた。ライトはすぐにボクの目の前を通過した。軽トラックだった。見覚えがあるような気がしたが、農家の多いこの辺りでは、軽トラックなんてほとんどの家にあるのだ。
 軽トラックはボクの前を通り過ぎると、百メートルくらい行ったところで急に停まった。
 ドアが開くと小声で二、三会話が交わされ、それからまたドアに閉まると軽トラック発進した。誰かを降ろしたようにも思えたが、それらしき人影は見えなかった。
 でもボクはそれをきっかけに石から腰を上げた。そして帰り道を歩き始めた。葡萄畑が終わりりんご畑がちょっとあって、すぐに砂山が見えた。時々、ダンプカーが砂を積み下ろしに来る場所だ。地元の大きな建設会社が所有する敷地らしい。ここまで来れば長屋から歩いて五分ちょっとの場所だった。小学校2、3年の頃、よくこの砂山で由紀と遊んだ。ダンプカーはたまにしか来ないので、ボクらは大きな砂場代わりに使っていた。二階建ての家の屋根ほどもある大きな砂山だったから、一番上まで登って、そのまま砂が崩れるのに任せて滑り降りてくるのは楽しかった。だが、大人に見付かると、とても怒られた。そのせいでいつの間にか遊ぶのをやめた場所だった。
 ボクは辺りを見回した。当然、こんな時間だから誰もいなかった。もう真っ暗なのだ。にも関わらず、砂が崩れる音がした。それは
ザザーッ、ザザーッ
と波が打つような音がした。ダンプカーが来て積み下ろしの作業をしているにしては、音が小さ過ぎる。普段は、エンジン音や機械の音で耳が劈けそうになるのだ。でも今聞こえる音は、耳を澄まさなければ聞こえないほどのかすかなものだった。ボクはもう少し砂山に近付いてみた。近付くほどに音は鮮明になった。それにつれボクはその音に聞き覚えがあることに気付いた。それはボクらが砂場で遊んでいた時によく聞いた音だ。砂山の頂上から砂が崩れるのに任せて滑り降りる音だった。でもこんな真っ暗な中、遊んでいるなんで、どこの子供だろう?不思議に思ったボクは立ち止まった。
 音の出所を探してボクは砂山の周りをグルリと回ってみた。どうやらボクが立つ場所の反対側から音が出ているらしいのだ。やがて砂山影から人の姿が現れた。真っ暗な闇の中、そこだけ電灯に照らし出されていた。砂泥棒なんて居ないだろうけど、夜間の警備用の電灯だった。その光の中には由紀がいた。
「由紀!どうしたの?」
何してるの?と言うボクの顔を見て、由紀は驚いたようだ。目を丸くしてボクを見詰めていた。それから
「なんでいるの?」
と問い返してきた。
「え?なんでって、心配だから探しに行ったんだよ。だって一人で帰っちゃうし」
「一人で?」
「うん、いつもみたいに一緒に帰ろうと思ったのに」
「いつもみたいにって、毎日、淳司の家に行ってたじゃない」
「うーん、でももう飽きて来ちゃったから」
「飽きたからまた私と遊ぶって訳?」
「いや、そういう意味じゃないけど。みんなも毎日、塾に遅刻して怒られてたし」
「ふーん」
由紀は大きな溜息を吐くと
「勝手なものね」
と言いながら、また砂山の頂上に向って登り始めた。ボクは慌てて
「もう真っ暗だよ」
と声を掛けたが、由紀は知らん振りしたまま登って行った。
「だから何よ?」
「こんな時間になんで遊んでんだよ?」
「遊んで?」
ああ、と何かに合点がいったというように由紀は頷いた。それから
「ははは、たしかにね。いつの間にか昔みたいに遊んでた」
言いながらまた
ザザーッ、ザザーッ
と波が打つような音を立てながら滑り降りてきた。

「猫がいたのよ」
長屋の明かりを見詰めながら、ボクらは歩いていた。もうすぐ家に着く。
「猫?」とボクが問うと、由紀は大きく頷いた。
「うん、子猫」
「どこに?」
「今日じゃない。昨日いたの」
「なんだ、もう誰かに拾われたんじゃないか」
由紀は、そうかなあ、と言いながら砂山を振り返った。それから
「助けて上げるべきだったな」
と呟いた。
「助けるって?」
「埋まってたのよ」
「埋まって?どういうこと?」
「知らない。昨日の同じ時間、あそこを通り掛ったら声がしたの。それで探したら砂山の天辺に埋められてたわ」
「え?生きたまま?」
「そう」
「え?もしかして由紀、それを助けなかったの?」
「そう」
「なんで?死んじゃうかもしれないじゃん。昼間、ダンプが来て砂を積む時、気が付かなかったかもしれないよ」
「そう」
「え、ちょっと」
由紀ひどいよ、と言ってからボクははっとした。由紀は泣いていたんだ。
「ひどいよね。なんであんなひどいことしたんだろ。助けないなんて、わたしも埋めた人と同じ。ひどいことしちゃった」
由紀は涙を拭いもせず、真っ直ぐに前を見たまま歩き続けた。ボクはそんな由紀に何も言えぬまま、長屋に着いてしまった。
 「ただいま」と言ってから、義母の不愉快そうな顔をチラリを見て、貧しい食事を口にし、食器を片付けると外へ出た。すぐに手招きしているおばあちゃんを見付けると、吸い込まれるようにおばあちゃんの部屋に入った。少しして、由紀も着た。相変わらず由紀はおかずを半分、紙で包んで持ってきた。
「由紀ちゃん、もういいよ持って来なくって。こっちで食べるものはおばあちゃんが作るからね」
毎晩のようにおばあちゃんはそう言うが、由紀は毎日毎日、持って来るのだった。なぜそうするのかはボクには分からなかったけど、おばあちゃんはそれ以上、何も言わなかった。
 いつもと変わらぬ日常がそこにあった。でも、ほんのちょっとした綻びに気付かなかったのはボクだけだったのかもしれない。
「由紀ちゃん、どうしたんい?」
おばあちゃんが厳しい顔で由紀を見詰めた。由紀は身を固くして首を左右に振っていた。ボクはおばあちゃんのこんなに怖い顔を初めて見た。
 おばあちゃんは由紀の前に膝を進めると、由紀の手を取った。由紀は、それを拒否するように首を横に向けた。でも、おばあちゃんは許さなかった。ボクには、おばあちゃんが由紀を苛めようとしているように見えたんだ。
「ねえ、どうしたの?」
知らぬ間にボクの声が震えていた。ボクらの身の回りで、唯一優しいと思っていたおばあちゃんが突然、怖くなったことがボクにはショックだったのだ。
「やめてよ、おばあちゃん」
由紀を苛めないで、と言おうとするボクを遮るようにおばあちゃんは大きな溜息を吐いた。
「もう片方の手も見せてご覧」
由紀は横を向いたまま、首を左右に振った。するとおばあちゃんは、大きな声でもう一度言った。
「見せなさい!」
ボクは怖くてもう、何も言えなかったんだ。由紀が泣いていた。悪戯を見付かった子供みたいに泣いていた。その時のボクにはそのようにしか見えなかった。
 おばあちゃんは由紀の両手をしっかりと握ると、左右を見比べると
「何があったんだい?」
囁くように由紀に訊いた。やさしい口調に戻っていた。でも由紀はいやいやをするように小さく首を左右に振るだけだった。おばあちゃんはそれ以上、聞こうとはしなかった。その代わり片手で由紀の両手を握り締め、もう一方の手で長いこと手首の部分を摩っていた。ボクが覗き込むとおばあちゃんはそれを遮るように両手で由紀の手全体を包み込んだ。
 二人はずっとそのままの姿勢でいた。ボクの知らないところで、握り締めた手と握られた手を通して二人は何かの会話をしているようにも見えた。でも何を話しているのかボクには検討も付かなかったんだ。

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