◇◇
「ん?父ちゃん、どうしたんだ?」
ボクは父に声を掛けようとした。だが、すかさず由紀が
「なんでもないよ」
とそれを制したんだ。ボクが見るに、父はショウウインドウのガラスがたわむほど頭を押し付けていた。それほど何かに見入っていたのだ。
「ガラス割れちゃうよ」
「だから大丈夫だって!」
由紀は「行こう!」と言ってボクの腕を掴むと、反対側へどんどん歩き出した。それは西の方角だった。小学校から見て商店街は東にあったから、また小学校の方へ戻る格好だ。
「あれー。今日は雁田の方へ行くんじゃなかったの?」
「ふん、急に川が見たくなったのよ」
由紀は強引にボクの腕を引っ張った。ボクはといえば、なぜか父のことが気になって仕方がなかったから、何度も振り返ったものだ。しかし由紀はボクの腕を決して離さなかった。ボクらは退屈な畑の道をどんどんと歩いて、歩き疲れた頃、大きな土手が目の前に立ち塞がっていた。まるでピラミッドの一面を見ているようだった。誰の侵入も拒んでいるように見えた。けれどボクらは道路から裏に抜けるトンネルがあることを知っていた。ガーデンが通るための隧道だ。河川敷内に畑があって、農家がそこへ野良仕事に行くための道だった。
 ボクらはその道を抜け、河川敷の畑を抜け、川原に辿り着いた。
「釣りしてる」
対岸を見てボクは叫んだ。木製パイルに横木を張り、ジャングルジムのように組んだ上に三人ばかりの大人が座り、のんびりと釣り糸を垂れていた。しかし、すぐさま由紀が
「釣れてそうにないわ」
と言った。ボクらは川原で、腰掛けるのに良さそうな大きさの石を探して腰掛けた。何をする訳でも無かったが、座る以外することもなかったのだ。
「ねえ、あれ本当かなあ?」
ボクの問いを由紀は無視した。でもボクは諦めずにもう一度訊いた。
「ねえ由紀はどう思う?」
由紀は相変わらず顔を上げない。上げないまま
「”あれ”ってなによ?」
と空と呆けてる、と思った。
「あれはあれさ」
「だから何よ」
「裕二が言ってた奴」
「裕二?知らないわ」
由紀が外方を向いた。向いた方向には水鳥がいた。由紀は薄っぺらな石を選んで、水面に向けて投げた。薄い石ほど上手く水切りしてくれるのだ。だが、由紀の投げた石は、水面を一度も撥ねずに呆気なく水没してしまった。由紀は
「ちぇっ」
と舌を鳴らした。広い川の中ほどに水鳥はいたから、由紀の力では届かないに決まっていた。それでも水鳥を脅かすには十分だった。水鳥はその大きな羽をゆったりと拡げると、宙に向って羽ばたいていった。
 ボクは意外な気がした。由紀が生き物に向って石を投げるなんて初めて見たからだ。そういえば由紀を探し回った日の夜、由紀がいた砂山で、由紀は首まで埋まった猫を見捨てたと告白した。ボクは首を傾げるばかりで、由紀の中で何かが変化し始めていることに、まったく気が付かなかったんだ。
「ねえ、由紀。その、裕二がさ、言ってた話だけど。あのさ、」
ボクがそこまで言ったところで由紀は不機嫌そうに
「なに?」
とボクを睨み付けた。
「だからさ、あの、父ちゃんの話だけど、本当なのかな?」
「だからなによそれ?」
「あのゲーム機、父ちゃんが創ったっていう話」
由紀はまた新しい石を探し出した。今度はさっきより少し小ぶりだった。アンダースローの姿勢で川に向って投げた。水面の上で石は大きく一度撥ねた。
「お!」
とボクはその見事さに声を上げてしまった。でも、次に着水したところでまた水没してしまった。由紀が
「あーあ」
と溜息を付いた。
 ボクは再び父の話を切り出すことが出来なかった。


「あれ?由紀がいない」
六時限目の授業が終わり、ランドセルに教科書を詰め終わったボクは、由紀の姿が無いことに気付いた。
 ボクと由紀の生活は元通りに戻っていた、少なくともボクはそう思っていた。ボクらは毎日、六時限目の授業が終わると玄関で合流し、そのまま散策に出た。もう五年以上続けて来たことだ。それがたまたま二ヶ月ほど前、淳司がゲーム機を買った。ボクはそれに夢中になり、そしてボクの友だちもみんなそれに夢中になって、塾に行く時間ぎりぎりまで淳司の家でゲーム機を弄り回した。普段は皆、学校から真っ直ぐ家に帰り、おやつを食べてから塾に向う、という生活をしていたのに、ゲーム機のお陰でボクも彼らも一緒に遊ぶ時間が出来たのだ。
 ボクはゲーム機と、友だちと遊ぶことに夢中になり、由紀を置き去りにしてしまった。その間、由紀は何をしていたのだろう?何をして過ごして、何をして時間を潰していたのだろう。無限に続くような孤独な時間。ボクらには、ボクら以外、時間を共有できる誰もいなかったのだ。本当のところ、塾になど通っていない友だちだって沢山いた。裕二なんて週に一度、そろばん塾に通っているだけだった。それでもボクらは、ボクと由紀は放課後、いつも二人きりだった。それは、ボクらの家の事情も大きく影響していた気がする。ボクらの家の特別な事情から、彼らの親がボクらと遊ぶことに抵抗を持っていたんだと思う。
 特別な事情とは、マサ兄と義母の芳子のことだ。二人の不貞の関係は、町の大人は知らぬ者が無かったらしい。人口一万人に満たぬ小さい町だから当たり前のことだったろう。それでも二人は、これ見よがしに不貞を続けた。マサ兄は、町役場に勤めていたが、町中では有名な遊び人で、その派手な風貌は公務員とは掛け離れヤクザ者にしか見えなかった。だから役場でも厄介者扱いされ、庁内に置いておくとトラブルの種になり兼ねない、ということで「水道の修理係」という仕事を与えられていた。水道メーターの壊れた家に行き、修理する仕事だ。体の良い厄介払いだろう。しかし上司の眼の届かぬ仕事のため、毎日のように芳子の元へ通って来るようになったのだ。いっそ芳子が父と離婚して、マサ兄と一緒になれば良いと思うのだが、彼らはそうしなかった。また父も、特に離婚を切り出さなかったらしい。いずれの理由も子供のボクらにはよく分からなかった。つまり、そんな家庭の子供と親しく遊ばせることを躊躇う親が多かった、ということだ。唯一、淳司の母親だけは、ボクらに優しかった。それは彼女がボクの本当の母親と友人だったためらしい。
「どこ行ったんだろう?」
ボクは廊下を早足で歩き、玄関に着くと辺りを見回した。でも、どこにも由紀の姿は無かった。靴を履き、エントランスに走り出た。校庭を見たボクの眼に、校門から消え去る影がチラと見えた。
「あ!」
それが由紀かどうかと言われると、正直分からなかった。ただ黒い影が動いたように見えただけだったのだ。でもボクは、なんとなくそれが由紀だったような気がして、すぐにも追い掛けたい衝動に駆られた。でもそれは間違いで、もしかしたらまだ由紀は校舎の中にいるのかもしれなかった。ボクは玄関を振り返った。でも由紀らしい姿は現れなかった。ボクは意を決し、校門に向って走った。さっきの黒い影を追い掛けることにしたのだ。校庭はまだ誰もいなかったから、ボクは全力で走った。
 校門から出て、広い道路を見渡した。影は右の方に向って消えた筈だった。でも、どこにもそれらしい人の姿は見当たらなかった。やっぱり人違いだったか、と思った。けれど広い道を右に直進すると二百メートルほどでT字路に突き当たる。そこをどちらかに曲がったのかもしれない、とも思った。ボクはまた小学校の玄関に戻ろうか、それともT字路まで行ってみようか悩んだ挙句、行くことにした。ボクはまた全力で走り、すぐにT字路まで辿り着いた。そこで左右を見渡したが、どちらを見ても由紀らしい影は見えなかった。
 いや、待てよ、とボクは思った。左手に、それは千曲川とは逆方向、つまり山手の方だ。そちらの方向をよく見ると、ずっと向こうに小さな点が見えた。点は上下に揺れながら、少しずつ進んでいるように見えた。ボクにはそれが由紀に見えた。


 あの日わたしは由紀の影を追って歩いたと思う。影は、町の真ん中を南北に貫く県道を横切り、千曲川とは反対側、雁田山の方へ向っていた。わたしは影に追い付こうと全力で駆けたように思うのだが、走っても走っても追いつけなかった。むしろ影との距離は拡がってしまっているように感じた。しかしどんどん離れて見えなくなったと思いきや、結局同じくらいの距離にいたりした。わたしとその影は付かず離れずの距離を保ったまま進んだのだ。
 やがて山に突き当たり、その後は山沿いの道を北に向って歩いた。途中、長野電鉄線と合流し、切通しがあった。わたしは知らぬ間に男の発する光に導かれ、ここまで来ていた。あの日、由紀らしき影を追って駆けて来た道だった。もう少し行って踏み切りを渡れば山門がある。そしてそれをくぐり、参道を登れば神社だった。
 だが、目の前の景色の中に、山門などどこにも無かった。
 切通しの向こうには、工場群が広がっていた。そこかしこに「ガット・ウルグアイラウンド」という表記が、夜間灯の光に浮かび上がって見えた。国の補助金を使って建てられたきのこの工場群だった。踏み切りを渡り、工場群を背に山の斜面に向うと、夜目にも立派な家並みが見えた。豪華な家が放つ特有の光を発していたと言っていい。えのきの栽培で成功した農家達の家が立ち並んでいるのだ。

 あの日、ここにあったのは茸の冷蔵倉庫だ。あの頃はまだ、えのき栽培が盛んになり始めたばかりだった。今のように巨大な工場ではなく、農家ごとに一軒家くらいの冷蔵倉庫を保有し、その中でえのき茸の栽培をしていた。それでもちらほら成功した農家が現れ、彼らはこぞってえのき御殿と呼ばれる豪奢な家を建てた。それを見てまた、多くの農家がこぞってえのき栽培を始めたのだ。
 その一つの農家で父はきのこ栽培の作業を手伝っていた。
 あの日、由紀らしき影を追ったわたしは、ここで父が手伝うえのき農家の冷蔵倉庫を見た。そしてわたしは、由紀の影を見失ってしまった。
「本当に見失ったのかい?」
ふいに心の底辺から、誰かに問い掛けられた気がした。しかし顔を上げたわたしの目の前に、三田所長が立っていた。暗がりの中、街灯の光のしたで三田はこちらを見詰めていた。会社の向かいのビルで見たかつての彼とは少し違う印象に見えた。
 三田は、わたしが新入社員となった頃に知り合いになった。たまたま飲みに行った居酒屋で意気投合したのだ。しかしその後二十年ばかり、彼はわたしの人生から消えていた。姿を見なくなったのだ。しかし奇妙なのは、わたしが会社から荷物を引き揚げたその日から、再びわたしの人生に割り込んできたように思う。割り込んできた、というほど強引なものでも無いが、何故か彼の影が見え隠れすることが多くなった。柴崎常務の通夜に向う電車の中に、三田はいた。そして新幹線の中や小布施駅で降りた際に現れた男たちに、わたしは三田の影を感じていたのだ。
「ここで、由紀ちゃんを見失った?」
三田は同じ質問を繰り返してきた。
 わたしは答えず、辺りに眼を走らせた。真っ暗な中に幾つもの眼が光って見えた。わたしはその中に男たちが紛れている予感がした。そんなわたしの予感を察したようにそのうちの一人が前に進み出た。
「彼が、君をここまで連れてきた」
三田が指差すと、男は街灯の下に躍り出た。わたしは「あっ!」と声を上げた。長屋で見た泥棒だった。
「済まなかったな。泥棒などではないんだ。君をここまで連れて来るにはああするより仕方なかった」
「ああする?」
「ああ、あの日、君たちが通った道を歩かせる為にはね」
「あの日、通った道?」
三田は「そうだ」と大きく頷くと、
「神社なんてどこにも無い」
と両手を拡げておどけて見せた。それをきっかけに「神社」という言葉がわたしの頭の中の何かに触れた。神社、そう、あの日わたしは由紀は神社に行く由紀を尾けていたのだ。
 前の夜、由紀は神社に行くのだ、と言った。
『鳥居をくぐるの』
それは、由紀が突然
『明日は一緒に遊べないわ』
と言い出したから、わたしが
『なんで?』
と理由を問うた答えだった。
『この前もさ、由紀ったらどっか行ってたじゃん』
『この前って?』
『あのさ、砂山にいた時だよ。猫が埋まってたって言ってたじゃん』
『ああ、あの時』
『あの日だってどこ行ってたんだよ』
わたしの問いに由紀は答えあぐねているようだった。その時のわたしはまだ由紀の心中を察してやることなど出来なかった。想像すら出来なかったのだ。
 むしろ由紀の方が、そんなわたしの未熟さに気を遣ってくれたらしい。
『鳥居をくぐりに行ったの』
と答えた。
『鳥居?そんなのどこにあんの?』
『えー、っと。北の外れの切通しの向こう』
切通しの?じゃ桜沢?』
『う、うん。そう。その山手に山門があって、そこを登ると神社があって、そこに大きな鳥居があるの』
『へえ?あったっけ、そんなの。それでなんでそんなのくぐりに行ったの?』
『え?うん、えっとね、願いが叶うのよ』
『願い?なにそれ?』
『満月の日にね、お月様の影が鳥居の下を通る時、そこにいると願いが叶うんだって』
『ええ?でも、なんか本当っぽいね』
『本当よ』
『でも何で由紀はそんなこと知ってるの?』
『え?ええ、うん、聞いたのよ』
『誰から?』
『ええーっと、おじさん』
『おじさん?』
『髭生えてるおじさんよ』
『髭生えてるおじさん?誰それ?』
『いるのよ。髭おじさん。雁田にいるじゃない。知らないの?』
わたしは頭の中を巡らせてみたが、さっぱり思い付かなかった。だが由紀が
『私が一人で散歩してると、鉢に水を注していた』
とか
『突然、声掛けられて気味悪かったけど、話してみたら良さそうな人だった』
とか
『年の頃はマサ兄と同じくらいで同級生かもしれない』
などと言われているうち、なんとなくそれらしい姿を思い浮かべてしまったのだ。
『ボクも行ってみたいな』
とわたしが言い出した時、由紀は見たこともない表情を見せた。笑みでもなく驚きでもなく拒絶でもなく、小学校六年生にしてはあんまり複雑な表情で、あの頃のわたしには理解出来なかったのだ。由紀はひどく戸惑っていたのだ。
『ねえ、ボクも連れてって』
『うーん、でも駄目』
『なんでえ?』
『実はね、天狗が出るのよ。怖ーい天狗。子供を連れ去って食べちゃうんだって』
『ええ!?何それ』
『でしょ。だから危ないの』
『だったら由紀だってヤバイじゃん』
『ええ?!』
こちらが驚いてしまうほど、由紀は驚いた顔をした。
 それから由紀は何かを思案していたように思う。それから
『わたしは大丈夫なの』
と答えた。
『なんで由紀だけ大丈夫なんだよー』
『うーん、それは秘密』
『ずるいよー』
それきり由紀はその話題には触れなかった。わたしが何度話を向けても無視していた。

「思い出したかね?」
三田が、はっきりとした声で言った。暗闇の沈黙の中、それほど大きな声を出した訳ではないのに三田の声はよく響いた。
 あの日と違うな、とわたしは思った。あの日、風の強かったあの日は、三田の声は風に掻き消され、よく聞こえなかった。
『誰がやったんだー!』
三田は何度も叫んでいた。だが、それが誰に対して発せられた言葉なのかわたしたちには分からなかった。
 わたしと三田の周りに立つ男たちの姿は、あの日のままだった。そうか、そうだったのか、三田と男たちはあの日の再現をしたいと考えたのだ。
「三田さん、まだわたしたちを疑っていたんだね?」
わたしの問いに三田は小さく頷いた。
「ああ、そうなんだ。それで本当のところだうだったのか教えて欲しいんだが」
「それでもし、わたしが犯人だったとしたら、わたしは逮捕されるのだろうか?」
「いや、それはないよ。もうとっくに時効だ。公訴時効が廃止されたが、既に時効が完成している罪については適用されない」
「それじゃあ何故、今ごろこんなことをする?それもこんな手の込んだことを」
三田は激しく苦笑した。それから
「個人的な趣味だ、としたらおかしいかね?」
と笑った。
「個人的な趣味にしては、お仲間が多いような気がするが」
「そうさな。まあ、賛同者といったところかな」
「あの日、捜査に関わった全員が賛同者?」
わたしの問いに三田は片目を瞑り
「まあね」
と頷いた。

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