少し錆び付いているのか、鉄製のドアはキキイと不快な高音を発っした。軋むようにゆっくりと開いたそこには、子供たちの靴箱が書棚のようにならんでいた。ここでわたしは、いつも由紀を待っていたのだ。友だちは皆、塾に行ってしまう。わたしたい兄妹は取り残されたように、二人だけの時間を過ごした。家にも帰れなかった。家には、いつの頃からか正夫という父の弟、わたしからすれば血の繋がった叔父が出入りするようになっていた。それも父の不在を狙った昼間に来るのだ。
 つまり、正夫と義母の芳子は姦通していたのだ。正夫は役場に勤めていて、仕事は水道の修理だったから、一度外に出てしまえばある程度の時間は自由になったのだろう。その自由になる時間が大抵、午後だったらしい。わたしたちが下校する時間と重なったのだ。
 もっともそれは、すぐに大人たちの知れるところとなったらしい。隣室に住むわたしの祖母は、小学校から下校したわたしや由紀を、わたしたちの部屋には近づけなかった。また、父もすぐに知ったようだ。わたしたちが寝静まった夜、父と義母が交わす口論で眼を覚ましてしまったのだ。先に眼を覚ました由紀は人差し指を唇に当て、声を上げそうになるわたしを制した。そんな夜が何日が続き、そのうち何ごともなかったかのような静かな夜になった。しかし相変わらず、正夫は義母の元へ通い続けてきた。
 週に何日か夜勤のある父は、夜勤明けの日など昼間家で休んでいた筈だった。それがいつの間にか、朝、帰宅して風呂に入るとどこかへ出掛けるようになったらしい。まるでマサ兄の来訪から逃げているようだった。子供心に父は負けたのだと思った。マサ兄い負けて自分の居所を失ったのだと。父は夜勤の前日、早番で午後の早い時間に帰宅する日があった。ちょうどわたしたちと同じ時間に帰ってきた。当然、わたしたちは家に入れず、おばあちゃんの部屋にいた。すると、それを見付けた父も、おばあちゃんの家に入ってきた。父は少し気まずそうだったが、おばあちゃんは何も言わず茶と茶菓子を出した。父は軽く頭を下げ、ありがたそうに茶を啜っていた。
 今、思えば、父はどんな心境でおばあちゃんの部屋にいたのだろう?当時のわたしに大人の世界のことなど知る由もなかったが、明らかに父は妻を弟に奪われたのだ。にも関わらず、素知らぬ顔をしていた。自らその場所に立ち入ろうともせず、逃れるように今は亡き前妻の、その母親の部屋に逃げ込んでいたのだ。そして何ごとも無いかのように、差し出された茶を飲み、菓子を食べ、時にわたしたちと一緒に笑ったりした。正夫という叔父が、毎日のようにわたしたちの家へ家族の絆を蹂躙しに来るというのに、義母がわたしたちを裏切り続けていたというのに、父は何もしようとしなかった。もっとも、それはわたしも同じだったかもしれない。父を責めることも、まして義母やマサ兄に抗議することも出来なかった。そして由紀と、そのことについて触れることすらしなかったのだ。
 しかしそのお陰でわたしたちはその後数年間、家族でいられたのだ。

 真っ暗な玄関を見回すと、あの頃の喧騒が蘇るようだった。誰もが幸福だったように思えた。実際は子供といえどそれぞれに事情を抱えていたに違いない。それでも、あの頃のわたしですら幸福を感じて生きていたのだ。暗闇の中に少年達の姿が蘇った。淳司、真人、健太、裕二、今はもう見間違えることはない、はっきりと思い出した。あの日々を。

「この子見てご覧よ!勃起させてるよ!」
芳子に笑われながら、ボクはパンツの中が気になって仕方がなかった。ねばねばした液体でいっぱいになっていた。それは自分の性器から噴出したものだった。ボクはあの日の裕二を思い出した。きっと裕二も同じ目にあったに違いない。毛が生えたとか、ちんぼが大きくなったと自慢しているうち、こういう液体が噴出してしまったに違いない。
 悪いことに次第に、臭いが立ち昇ってきた。それは生臭い、吐き気を催すような臭いだった。ボクは由紀の方にもこの臭いが漂ってしまったら、どうしようと心配になった。
「他人のセックスを見て夢精するなんて、お前は父親と同じ変態だ!」
急に芳子が真顔になり、吐き捨てるように言った。
「汚らしい!早く出て行け!」
それがボクの精通だった。
 ボクはパンツを押さえたままおばあちゃんの部屋に行った。表から入ろうとしたが、鍵が閉まっていた。どこかへ出かけているらしい。
「こっち」
振り返ると由紀がいた。由紀が指し示したのは長屋の裏側だった。ボクは頷くと由紀に続いて長屋の向こうに回った。
 そこは勝手口だった。明けると台所と、その手前に風呂場があった。おばあちゃんはいつも表の鍵は締めるが、こちらは開け放しにしていた。ボクも由紀もそれを知っていた。ボクが風呂場に入ると由紀も入ってきた。ボクは洗い場でズボンと、汚れたパンツを脱いだ。由紀が天井から下がったホースの栓を開けた。ホースは屋根の上に設置された温水器に繋がっていた。太陽の光を使って、タダで湯を沸かすというものだった。
「出てきたよ!」
由紀が持つホースの先から、暖かい湯が溢れ出した。
「ちょっと熱い」
今日は朝から天気が良かったのだ。天気が良いと湯もそれだけ熱くなった。
 ボクはまず、自分の腹から股、ちんぼや睾丸のまわりに付いたべたべたを洗い流した。それから今度はパンツに付いたそれも洗い流した。横で由紀が石鹸を泡立てていた。ボクがパンツを洗う間に、洗い流したボクの身体の部分を泡で洗い始めた。
「くすぐったいよ」
ボクらは笑いながら洗った。今度はボクが石鹸を取り、汚れたパンツに泡を立てた。
 ボクらは汚れをすっかり洗い流した。汚れとともに苦い気持ちも流れ去って行った。
 すっかり綺麗になったところで、ボクは泡を洗い流した。由紀が取ってくれたタオルで身体を拭いて、外へ出た。パンツは穿けなかったから、そのままズボンを穿いた。濡れたパンツは物干しに使っている紐に掛けた。
「ふー、やっと落ち着いた」
見上げると青い空が広がっていた。小さな雲が一つ浮かんでいるだけだった。
「これならすぐ乾くね」
ボクらは顔を見合わせて笑った。

 わたしたちは、いつも明るく振舞っていた。というより、本当に明るい気持ちでいた。マサ兄の無頼な行為にも義母、由紀にとっては実母だが、その芳子の罵声にも、わたしと由紀はすぐに立ち直って、それを笑いに変えた。何者も、わたしたちを不幸に落とすことなど出来ないようにさえ感じていた。苦痛、恐怖、落胆、屈辱、わたしと由紀の日常には、そんなものがゴロゴロ転がっていたが、それらに打ちひしがれることなど無かったのだ。
 ところが、そんな由紀の顔が曇ってしまったことをわたしは憶えている。

 ボクらが、風呂場から出てしばらくするとおばあちゃんが帰って来た。ボクらはいつもの生活に戻った気がした。おばあちゃんは
「今、中村さん家でお焼きを貰ってきたよ」
と新聞紙の包みを卓袱台に出した。丸ナスと餡子のお焼きだった。餡子は小豆と白豆の2種類があった。ボクは白豆の餡子が好きだった。すぐさま手を伸ばすと一つ取り上げ、大きな口で齧り付いた。由紀はいつも丸ナスから食べた。丸ナスが好きなのか?と聞いたことがある。その時、由紀は「丸ナスは大人が食べるから、それを食べれば早く大人になれると思って」と答えたものだ。その頃のボクにはまだ、早く大人になりたい、と考える子供の気持ちがまるで分からなかった。
「お茶でも出すかね」
おばあちゃんが台所に立った。ボクらは二人、お焼きを頬張りテレビを観ていた。ちょうど午後のバラエティ番組が終わり、短いニュースが流れていた。中国の話題だった。アナウンサーは随分、興奮しながら話していて、画面には政治家とは違う雰囲気の脂ぎった中年のおじさんが高笑いしているのが映っていた。
「景気、良くなってるんだって」
「けーき?」
ボクの返答に由紀は呆れたように黒目だけ天井を向け黙り込んだ。
 やがてテレビ画面の一面に、巨大な道路を造っている様が映し出された。こうそくどうろ、と呼ばれる道路が全国に走るなんて子供が考えても夢のような話だった。
「ぎゃ!」
台所からおばあちゃんの悲鳴が聞こえた。ボクらは口々に「おばあちゃん?大丈夫?」と叫びながら立ち上がった。しかし、すぐにおばあちゃんの安堵した声が聞こえた。
「なんだ、健介さんか」
おばあちゃんは、脅かさないで、と言って小さく笑った。ボクも、思わず笑った。由紀の顔を見ると、由紀は笑っていなかった。


 小学校の玄関に眼を走らせたが、長屋のわたしたちの家を荒らした犯人の姿は無かった。玄関から校舎の中に侵入したのかもしれない。だが、それは無いだろうと思った。なぜなら、この玄関も、廊下も、酷く音が反射するのだ。コンクリート製の校舎は、まるでコンクリートで作られた洞窟のように音を反射した。反射した音は木霊のように、どこまでも子供たちを追い回したものだ。犯人がここにいれば、校舎のどこに逃げようと、わたしの耳に入ってくる筈だった。しかし、コンクリートの洞窟を覆う闇にふいに非常灯の光が描き出した不気味な模様のどこにも、音らしい音は見付からなかった。聞こえてくるのは無機質な機械音だけだった。
 わたしは、ふいに振り返った。何かが眼の隅で動いた気がしたのだ。ガラス張りの玄関の隅々を眼で追った。しかし、ガラスが真っ暗な夜を背景に鏡張りのように玄関内の様子を反射しているだけだった。だが、また動いた。鏡の向こう側に、別の光を発見したの。その光をわたしは見逃さなかったのだが、むしろ光の方がわたし見付けられようとしていた、と言った方が正しいのかもしれない。それは、まるでわたしに合図するかのように、わたしの目の前で移動し始めた。
 光はガラスの外、そのずっと向こう側で輝いていた。校門の辺りらしい。わたしは玄関を飛び出した。中二階のエントランス、コンクリートで築かれた巨大な堰堤のようなエントランスの上で、光の探した。光は校門の出口で一度大きく輝くと、すっとその外へ消え去った。消え去る間際、光の中に浮かんだ姿が見えた気がした。遠い過去の世界を見止めたような思えた。それは少年の頃のわたしだったような気がした。
 わたしは慌てて駆け出した。少年時代の自分に誘われた気がしたのだ。抗えない衝動が身体中を駆け巡った。わたしは中二階のエントランスからコンクリート製の幅広な階段を駆け下りると、校庭を全力で走った。ひどく息が切れた。この何十年もまともな運動をしたことが無いのだ。そんな反省をしながらそれでも走った。しかし、校門に立つ少年の姿が近付くにつれ、それが少年などではなく、わたしたちの家に侵入していた男であることに気付いた。男は逃げるでもなくわたしを待っていた。少年時代のわたしとは似ても似付かぬ男の風体。わたしはがっかりして走る速度を緩めた。しかしすぐに思い直して走った。男を捕らえねばならぬ、と思ったのだ。
 しかしようやく校門に辿り着いた時、男はくるりと踵を返すと、校門の外へ走り出た。わたしは思わず
『待て!』
と叫んだが、男はまるで聞こえないとでもいうように、校門の向こうへ姿を消した。わたしも男を追って校門の外へ走り出た。そこは比較的広い公道だったが、人通りが少ない為、街灯の数が驚くほど少ない。街灯というよりも街の灯そのものが少ないのかもしれない。わたしは暗闇の中を四方八方に視線を送った。すると南へ向った先に、男が携帯する光が見えた。どうやら男は逃げる気が無いらしい。しかし、わたしに捕まる気でもなく、まるでわたしを翻弄するように止まっては逃げ、止まっては逃げしているのだ。わたしが道を走り出すと、はやり、というか案の定、男はするすると闇の先を進んだ。
 男がわたしをどこかへ誘っているのではないか、ということに気付くのに、随分時間が掛かった。息切れが酷くなり走れなくなるほど走った後だった。
 そもそも、泥棒の件にしてからが筋が通らない話だ、と思った。あんな長屋に泥棒に入る理由が無いのだ。盗みの対象になるものなど無い筈だった。あの部屋にあるのは何十年も前にわたしたち親子が使っていた布団や棚、タンスなど日用品の類だけだ。そして、もしそれらが欲しいならこの30年、いつでも盗めただろう。それが今になって突然盗もうなどタイミングが悪いにもほどがある。それ以外にあるといえばわたしが数日前に持ち込んだ荷物。しかしその中にあるものと言えば着替えの下着と、歯ブラシ、タオル、出張のサラリーマンが携帯しているものに毛が生えた程度のものだ。
 男が泥棒をするような価値のあるものは何も無かった。少し前、会社に勤めていた頃なら、数社の下請から徴集した見積書をカバンに入れていたこともあった。それらを家に持ち帰り、内容を精査していたこともある。下請業者であれば、是非とも欲しい資料に違いない。この厳しい受注競争の最中であれば、不当な手段を使っても落札したいところなのだ。特に、出版に関わる業界は、どの会社も困窮を極めていた。だがもうすでに、わたしはそのステージにいない。二十数年にわたるそうしたキャリアの全てを自ら放棄したのだ。
 所詮、世の中など肩書きでしか人を見ないのだ、と若い頃よく年長者に言われたが、今つくづくそれを実感できた。今のわたしは、盗まれるものすらないのだ。そして例えば今、犯罪に巻き込まれたなら、新聞はわたしを『住所不定無職』と書くだろう。読んだ人間はわたしを怪しげな人物と決め付けるに違いない。

 そんなことを考えながらも、なんとか男を追跡した。男は相変わらず時、わたしが歩き始めると立ち止まり、わたしの様子を窺ってわたしが近付いてきたところでまた走りだした。明らかに逃げるつもりではないらしい。しかし捕まる気も無いらしい。つまり、わたしをどこかへ連れて行こうとしているに違いない。
「おい!」
と声を掛けてみたが、道路の暗闇がそれを掻き消してしまった。
 ふと気付くと商店街に入った。簡素な商店街で、どの店もシャッターが閉まっていた。廃業している訳ではなく、早い時間に店仕舞いしてしまうのだろう。むしろ、今時こんな小さな店たちが営業していけることが不思議なくらいだった。
『カシショー、やまさ、魚ふさ・・・』
いずれも記憶にある。子供の頃、よく見た看板だった。そんな幾つかの店の看板を見ている間に、男の姿を見失ったように思った。しかし男がわたしを置き去りにする筈が無いのだ。案の定だった、男はまるでそれが目印とでもいうように光を照らしながら店の立ち並んだ先に立っていた。あるいは男の持つ光は、本当にわたしへの目印なのかもしれない、と思った。
「今、行くよ」
と大声で呟くと、わたしは小走りに進んだ。それを見届けた男はくるりと背を向けると店と店の間に消えてしまった。どうやら細い路地に入ったらしい。
 店と店の間を走る細い路地は、コンクリートブロックの塀で両側を塞がれていた。そこに衣服を擦ってしまいそうなくらい細い路地だ。こう暗くては走るのもままならなかった。息が切れていたわたしはちょうど都合が良いとばかりに歩き始めた。真っ暗な路地の何十メートルか先に、男が放つ光があったが再び走り出すほど体力が回復しなかった。光の方も、わたしの追跡する速度が落ちたのを確認したのか、こちらに合わせるようにゆっくりと進み始めた。
 コンクリート塀に触れながら、わたしは進んだ。暗いのでそうするより仕方無かったのだ。もっとも少し先に小さな街灯があって、そこだけくっきりと光の輪が出来ていた。まるで別世界のようなそれは、わたしに何かを照らし出しているように思えた。
 街灯の光の只中まで辿り着いたわたしは、顔を上げ男が放つ光がすぐ先にあるのを確認した。どうやら五十メートル間隔で、わたしに追わせているらしい。泥棒にしては小癪な真似だが、既にわたしはその男を泥棒とは思っていなかった。まあ、そんなことはどうでもいい、むしろ目の前で街灯が照らし出す何かを探す方がわたしには興味があった。そもそも何かを照らし出しているかどうかなんて分からなかったが、そんな予感がしたのだ。わたしの予感などまるで宛にならないことは、ここ数日の出来事でよく分かっていたが、それでも人間という奴は内から湧き上がる予感を信じずにはいられないらしい。
 しかし、予感はどうやら当ったらしい。わたしは小さな落書きを見付けたのだ。それは、風化してブロック塀の模様と化していた。しかし間違いなくクレヨンで描かれた模様だった。古びた緑色のクレヨンの跡は一見、苔でも生したように見えたが、それは街灯の光を受け鈍い色彩を放った。街灯の光がなければ気付くことさえ無かっただろう。
 それは、わたしが描いたものだった。
『そんなとこに落書きしたら叱られるよ』
あの日の由紀の声が蘇る思いがした。わたしが
『だいじょうぶ、だいじょうぶ』
と言いながら緑色のクレヨンで、怪獣の絵を描いた。わたしは人並みの絵は描けたから、一通り描き終えてから全体を見渡すとそれらしい姿が浮かび上がった。大きく口を開いた怪獣は、緑色の火を吐いていた。その先には逃げ惑う人。だがクレヨンで人など細かく描くことは出来ないから、人間など見ようによっては「大」という字にしか見えなかった。
 由紀はもう咎めもせず、わたしの横で絵を眺めていた。
『みんな死んじゃうね』
『そりゃそうさ!怪獣の口から出る火は5万度の熱ささ。それに放射能も含まれてるんだ』
まるで自分の自慢でもするように意気揚々と答えるわたしを見もせず、由紀は
『この人たちの家族はどうなっちゃうんだろう?』
と妙なことを言った。答えに窮したわたしが
『家族、なんて出てこないよ』
と答えると由紀は真顔でこう反論した。
『それはテレビに出て来ないだけで、実際は家族がいるでしょ?』
『実際は、って。実際はこんな人たちいないもん』
『実際はいないかもしれないけど、実際いたら家族はいるでしょ?』
『でも、いなんだもん!怪獣だっていないだろお。だからこの人たちだっていないんだよ!』
わたしは次第に腹が立ってきたのを憶えている。
 その絵にそっと指で触れてみて、それから顔を上げ歩き出した。男が光の中でおいでおいでをしているように思えたのだ。懐かしい思い出の落書きを後にわたしは歩き始めた。そうか、そうだった。わたしは由紀と歩いたのだった。毎日毎日、この路地を歩き、街の中を彷徨った。友だちはみんな塾に行き、家にも帰れず、おばあちゃんの部屋に行くのも義母に気を遣い躊躇う状況だった。そんなわたしたちは、まるで迷子のように街のあちこちを歩き回った。わたしは、あちこちに落書きをし、時間を潰した。日が暮れて、マサ兄が帰るまでの時間をだ。いつの間にかそれが日課になっていたのだ。

 男は、相変わらずわたしが歩を速めれば、自分の早く歩き、わたしが止まれば止まる、を繰り返した。また時折、わたしが駆け出せば、同じように走り出すのだ。ただ一つ
わたしが気付いたのは、男が誘う途はわたしがかつて由紀と歩いた道、ということだ。男がなぜそれを知っているのかは分からない。単なる偶然かもしれない。だがそれを質そうにも、男はわたしとの距離を一定に保ったまま、わたしを近づけようとしないのだった。
 暗がりから突然、現れた光と轟音。それは長野電鉄という地元の私鉄だ。都会と違い田舎の私鉄は静まり返った雑木林の間を平然とすり抜けていく。それが去った後、りんご畑が続いた。街灯も無い畑の間の道は、前を歩く男の光無しには進めないほどだった。退屈な無い道、いつもわたしと由紀はそう思いながらここを歩いた気がする。突然、目の前に真っ黒な壁が聳え立った。いつか映画で見た牢獄の壁のようだった。しかし、それは千曲川の土手だった。巨大な推量を持つ千曲川は、ビルくらいの高さの土手が無いと水害になってしまう、と遠足の際に社会科の教師から聞いた気がした。
 男は土手の中をぐるりと回ると、再び真っ暗な畑の中へ進んだ。わたしは男の放つ光を見失わないよう、足早に追った。墨を塗りたくったような暗黒の上に青みがかった天が乗っている、そんな感じだった。空は夜でも青いのだと、わたしは思い出した。由紀と何度も見た光景だった。明るい光が交錯する都会では、夜空の青さを感じることは出来ないのかもしれなかった。それで忘れていたのか、それとも夜空を仰ぎ見ることすら忘れて生きてきたのだろうか?それだけ幸福だっということだ、と思った。夜空すら忘れて、つまり、自分だけを見て生きてこられたこの二十年ほどの時間、わたしはひどく幸せだったのだ。
 自分の幸福に悔悟の念が湧き上がるのを感じながら、わたしはふと、元の商店街に戻ってきたことに気付いた。目の前にはさっき通り過ぎた「やまさ」があった。
『あのゲーム機、ヤマサに売ってたで』
という裕二の声が蘇った。もう、男のことなどどうでもよくなった。わたしはやまさの、既に電灯の消されたショウウインドウを見詰めた。いつしたショウウインドウの前に、裾を綺麗に刈り上げた華奢な頭をした男が立っているのが見えた。夜の闇の中で、不思議なことにそこだけが昼間だった。浮かび上がるような昼間の光景は、あの日のものだった。学校帰り、この道を通ったわたしと由紀は、そこに父が立っているのを見た。ショウウインドウの一点を見詰め、何ごとが呟いていた。

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