「その時、父と由紀は裸で抱き合っていた。それがどういう意味か、裕二や淳司らから聞いていたから頭では分かっていた。それがいけなかったのだ」
三田はもう、わたしに質問などして来なかった。
「その時のわたしは、きっと由紀のことも奇異な目で見ていたに違いない。由紀が怒り狂ったように叫ぶ声を今でも憶えている」
三田も、他の男たちも後ずさりするように、闇に紛れた。
「父が一方的に由紀を抱いていたのかもしれないが、その時のわたしには抱き合っているように見えたんだ」
わたしは、その時の光景を思い出した。20年、いや30年以上、忘れていた光景だった。正確に言えば、忘れ去ろうとした光景に違いない。わたしの思いを察してか、三田が闇の中から語り掛けてきた。
「そんなことがあったんだな。当時の捜査では分からなかった」
まるで殺意の原因をようやく突き止めたというような口振りだった。
「三田さん、逆に聞きたいがなぜそんなこと分からなかったんだ?」
わたしの問いに三田は戸惑いを見せたが、何かを諦めたように言った。
「うん、そうだな、それは、君がわたしらの前から姿を消したから、と言えば良いのかな?」
「わたしが姿を消した?」
「ああ、どうやら憶えてないようだが」
三田が点けたライターの火が、刑事たちの顔を映し出した。やがて火は、三田が咥えたタバコに移った。タバコの先が赤々と燃え上がると、その光がわたしの表情を映し出したような気がして、慌てて顔を背けた。
 わたしはひどく後悔していたのだ。自分の判断の誤りにひどく後悔をした。当然のことだが、それを話すかどうかでわたしは悩んだのだ。短い時間だったが、とても悩んだ。由紀を傷付ける事実だからだ。義父とはいえ、自分の父に犯された過去など今更、掘り起こされたくないというものだ。わたしも出来ればそこは避けて通りたかった。だが、恐らく彼らは、この元・刑事たちは当然のこととして知っているものだと思っていた。そして、それ以上にその部分が無ければ話の辻褄を合わせるのが直一層難しくなると思ったのだ。
 しかし刑事たちは知らなかった。あるいは、かつては知っていたのかもしれない。しかし長い時を経た今、そんな事実はすっかり忘れ去られてしまったらしい。彼らはまったく違うことに関心があるようだった。


 その時の光景をボクは死ぬまで忘れられないだろう、と思った。実際にはそれからすぐにすべてを忘れ去ってしまうらしいのだが。
 とにかく、なぜ二人がそんな格好で抱き合っていたのかについては、裕二から聞いていた大人の男女の行為だったように思う。そして裕二が言うように、それは子供には見せたくないもので、だから父はボクに必死で否定したんだ。でも同い歳の由紀が、それをしていたことがボクにはひどく気に掛かった。ボクの知らぬ間に由紀は大人の仲間入りをしていたのだろうか?
 それに、とボクは思ったんだ。裕二から聞いたところによれば、それは子供を作る為に行うのだという。でも父に義母がいる筈で、子供が欲しいのであれば義母とすれば良いのに、と思った。もっとも義母は既にマサ兄の子供を産むつもりで、もう父の相手はしてくれないのかもしれない。だからといって由紀を相手にするのは、子供のボクが考えてもおかしなことだった。
 でも裕二はこうも言っていた。それはなぜか気持ち良くなるので、子供が出来ないようにして、ただ気持ちよくなるためだけにする大人も多いという。それで父と由紀は気持ち良くなるためにしていたのだろうか?
 ボクはそんなことを考えながらも、父と由紀がしていたことを自分なりに理解しようと努めていた。だが、ボクは父と由紀に対する嫌悪の念が湧き上がるのを抑えられなかった。
「たくみ、違うんだよ!」
父が大きな声で叫んだ。でも、ボクにはそんな声は聞こえなかった。ただ父が口をパクパクさせているのと、由紀が脱ぎ捨てられた服を抱き締めているのが見えた。
 ボクはまだとても子供だったが、何も分からないほど子供じゃなかったんだ。もう少し、ボクが無知であれば、何ごとも起こらなかったに違いない。でもボクは壁際に設置された棚の上の容器を一つ手に取った。中には大鋸屑がいっぱいに入っていた。エノキの菌を打ってある筈だった。ボクはそれを二人に投げ付けた。一つだけでは何も起こらなかった。またボクのコントロールが悪過ぎて、二人の足元にも届かなかったのだ。だからもう一つ、いや左手にももう一つ、合わせて二つ持って、交互に投げ付けた。右手で投げたものは父と由紀の間をすり抜けて向こうの壁に当った。だが、左手で投げたものは見当違いの方向へ飛んで行ったように見えたが、天井に当たり父と由紀の頭上へ降り掛かった。
 ボクは繰り返し繰り返し投げ付けた。壁にあるもの全てを投げ終わるまでそれは終わらないだろう、とボクの中の醒めた誰かが言っているのが聞こえた。でもその前にボクは辞めたんだ。なぜなら由紀の叫び声を聞いたから。初め
「やめて!」
と言ったように聞こえたが、よく思い出してみるとそれは単に「きゃー!」と叫んだだけだったかもしれない。それとも「ぎゃー!」という悲鳴だったような気もする。いずれにせよ由紀のそれはボクの行為を止めるに十分だった。それはボクがこれまで聞いたことがなかった声だった。

 ふと目の前を見ると男の死体が横たわっていた。男が床に寝ているの、と思っても良いのに、何故かボクはそれが死体だと知っていた。由紀が泣き声が聞こえた。それがボクのすぐ目の前なのは分かっていたが、暗くて由紀の泣く姿は見えなかった。由紀は、ちょうど電灯の陰に隠れていたのだ。小屋の中を暖めるための電灯は黄色い光を発し、明るさは無いくせに酷く眩しかったのだ。
「父ちゃん?」
ボクは誰に訊ねたんだろう?誰も答えてくれる人はいないということは分かっていたが、ついそれを口に出してしまった。お陰で由紀が尚更大きな声で泣き始め、ボクに対する恨み言さえ並べ始めた。
「だから付いて来ないで、って言ったのに!なんで分からないの!この馬鹿!馬鹿たく!」
ボクには反論の余地は無かった。たしかに由紀はボクに言った。
『満月の日にね、お月様の影が鳥居の下を通る時、そこにいると願いが叶うんだって』
だから一人で神社に行くのだ、と。でもボクに言わせれば神社なんてどこにないんだ。あるのは切通しと、その向こうにあるキノコ工場だけだった。
 だが、切通しの間を通る線路の、その両脇に立つ鉄柱。地面から生えたように足元は草むらに覆われていたそれは、パンタグラフに電機を伝えるための電線を吊るためのものだ。そのため線路の両脇に立った二本の鉄柱は、空中で二本の鉄の梁によってつながれていた。それは鉄製の鳥居に見えなくも無かった。切通しのこちらの世界と、向こうの世界を遮る鳥居の役目を果たしているようにも見えた。その日ボクは、由紀の行き先を目指して一人鉄の鳥居をくぐったのだ。夕陽を背に受け鳥居の影はどこまでも長く伸びていた。伸びた先にはひと際巨大な工場が見えた。一番新しく、一番大きいそれの板金製の屋根は全面に受けた夕陽を神々しく跳ね返していた。
 小屋は、つまり板金製の神社の脇にぽつんと立っていたのだ。裏手と言ってもいい。実際、位置的には一番巨大な工場の東北側にあったから、夕陽を遮られそこだけ既に夜のように暗かった。操業時間を過ぎた工場群からは既に人気が失せていたから、ボクは気味の悪い静けさの中を、由紀の気配のするその小屋へ近付いていった。
 実際、小屋から由紀の気配がした訳じゃなかった。ただ以前、こんな時間にそこに父がいたのを憶えていたのだ。ボクはなんらかの予感を抱えていたのかもしれない。小屋が近付くにほどボクの足取りは慎重になり、恐る恐る近付いていった。そうして小屋の入り口に近付くと、引き戸に手を掛けた。思ったとおり南京錠は開かれていた。それは開かれた閂の片側にぶら下がったまま、ボクの侵入を拒もうとはしなかった。ボクは小屋の中に静かに足を踏み入れたんだ。
 あの日、最後に虫取りに来た日、裕二が指差したりんご箱。それは農家の誰かが放置したものだった。中には腐ったりんごが入っていた。鼻を吐く腐臭、その腐臭に釣られて集まってきた何匹もの虫たちが絡み合い、腐って酸を発した蜜に溺れ、おぞましい欲望が充満していた。ボクの目の前にあるのはそれだ。カブトムシとクワガタが互いの肉を貪り合っているのだ。
 ボクは慌てて手を伸ばし、偶然掴んだ容器をカブトムシに投げ付けた。しかし容器は軽過ぎて天井に向って飛んでしまい、中に入った大鋸屑を散乱させるだけだった。それでもボクは、もう一度手を伸ばし掴んだ容器を投げ付けた。さっきより下に飛んだが、逆にムシたちに掛かる大鋸屑の料は少なかった。更にもう一度、今度はクワガタを目指して飛んだ。だがクワガタに当る前に、身体を投げ出したカブトムシの脇腹に当った。脇腹が潰れ、体液が漏れ出すかと思ったが、そうそう柔な身体では無いようだった。次に伸ばして手が掴んだのは、随分と重量があった。手に持って見るとそれはナイフだった。厚目のナイフ。それは普段、荷造り用の荒縄を切ったりするのに使っているごついやつだ。ムシたちもそれと気付いたのか、投げる前から悲鳴を上げた。身の危険を感じたのだろう。まるで許しを請うように、両手を拡げて泣き叫んでいる。でもボクにはそれが、外骨格の関節が軋む音にしか聞こえなかった。
 ボクがそれを投げた時、
グシャッ
というりんごが潰れたような音がして、一方のムシが崩れ落ちた。腹から体液が流れ出ていた。随分と濃い体液だと思ったら、内蔵だった。醜い内臓を撒き散らしながら、ムシは床に崩れ落ちた。
 次にボクが目にした時、小屋は燃え上がっていた。どうやって出たのかボクには分からない。ただ、隣りで由紀が泣いていた。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中