2010-01-01から1年間の記事一覧

わたしの記憶の中でさしたる地位を占めていなかった角の婆さんが、わたしの母方の祖母だったらしい。そしてそれは多分、正しいのだろう。心の中でガチャリッと大きな音が響いた。何かの鍵が開いた気がした。そして、押し込められていた記憶の数々が、頭の中…

◇真実◇ 長い廊下を大きな足音が向かってくるのが聞こえた。くぐもった音ではあったが、それが男の足音であることは容易に分かった。 「あら!淳司かしら?」 時計を見るとまだ五時前だった。淳司の母はドアを開け、その向こうを覗き込んだ。ドアに半身が隠れ…

◇ 『どうして来たのよ?』 由紀は問い詰めるような口調だった。 『ねえ!どうして!?』 口調は次第に激し、何かを堪えるように唇を噛むのが分かった。 『どうしてよ。たくには絶対分からないように、毎日巻いてきたのに。どうして来ちゃったの?』 由紀が一…

◇ 以前は藪に覆われた荒地だったのに、いつの間にか住宅が立ち並ぶ団地となり、しかしそれらの住宅もはや色褪せ始めていた。家々の庭には古ぼけたエクステリアが朽ち果て、親子の関係が次の世代に引き継がれようとしているのを現しているようだった。わたし…

◇ 内海と外海の境にはテトラポット群が”島”のように浮かんでいた。ボクはそこに沢山の蟹がいたり、貝がコンクリートの側面にへばり付いているのを知っていた。そこから泳いで戻ってきた小学生らの会話を聞いていたからだ。でも、まだ幼かったボクにはまで泳…

◇ 偽りの夢を見た。葬儀の為に東京へ戻って以来、ずっとこんな夢を見る。事実とまるで反対の、嫌な夢だ。 小学校時代の夢ばかりを見るのは、ボクが小学校時代の6年間が一番幸せだったからだろう。実母に捨てられた幼年期を経て、小学校に上がると、ボクの前…

◇ 通夜を終え、柴崎さんの家を出た。 『どうせ明日、告別式やお斎(とき)の席に出て頂くのだから』 と、奥さんが家に泊まるように勧めてくれた。しかし遠慮した。一人になりたかったからだ。 川崎駅近くの安普請なビジネスホテルは、平日の中日だというのに…

◇ また妙な夢を見た。そう思った次の瞬間、わたしは慌てて車窓の外を確認した。京浜東北線は今、どこを走っているのだろう?どうやらぐっすり眠ってしまったらしい。川崎はとっくに過ぎてしまっただろうか? 「今、大森を出たところだ」 目の前で誰かがわた…

◇ 京浜急行は、帰宅ラッシュ前の一瞬の空白時間なのだろうか、空いていた。疲れ果てたわたしには、幸いだったといえる。柴崎さんの家がある川崎まで、座って行けるのだ。目を瞑るとつい先刻、告げられた言葉が浮かんできた。それは所長がわたしに言った。 貴…

◇ 「はっ!」 息が止まったように思えたのだ。続けてわたしは、慌しく深呼吸した。ぜいぜい、と音を立てながらの呼吸に、一つ向こうの席の女性が嫌な顔をした。 しばらく呼吸を整えると。ここが新幹線の中だと理解できた。上田までは、この三人掛けの椅子に…

◇ 「はっ!」 息が止まったように思えたのだ。続けてわたしは、慌しく深呼吸した。ぜいぜい、と音を立てながらの呼吸に、一つ向こうの席の女性が嫌な顔をした。 しばらく呼吸を整えると。ここが新幹線の中だと理解できた。上田までは、この三人掛けの椅子に…

◇ 「はい、北原由紀さんですね・・・・ご面会、ですか。お兄様、ですね。ええ、っと。少々お待ち下さい」 昨日と同じ受付嬢だった。同じようにパソコンの画面を目で追っていた。 昨日、父への面会を申し込んだ時は、まるでわたしがとんでも勘違いをしている…

◇ 婆さんに促されて、わたしは鍵を開けた。かつてわたしと父、義理の母、連れ子だった妹の4人で暮らした家だ。父が長野市の老人施設に入所して以来、誰も開けていないのだろう、錆付いていて開けるのが一苦労だった。ギシギシと軋む大きな音を立てようやく…

◇ 「目ぇが覚めたかや?」 老婆の声でわたしは目覚めた。 「まったく突然『うん、うん』唸り出すからびっくりしたで。こっちゃ久しぶりに酔って気持ちよーく寝てたっつーのによ」 わたしは布団の中にいた。婆さんが敷いてくれたのだ。婆さんは文句を言いなが…

◇ 目を覚ました時、僕がいたのは自宅の布団の中だった。隣りに由紀もいた。 後で聞いたことだが大人達が探しに来てくれたのだ。遅くになっても帰らない僕らを心配し、大勢で探しに出たのだ。神社に探しに来たのは髭おじだった。僕らに鳥居の下でのおまじない…

◇ 「誰か助けに来てくれないかな?」 僕は不安になった。こんな暗い場所に来たことが無かった。 ついさっきまで月明かりに照らされいた境内が途端に真っ暗になったのだが、これは月が雲に隠されただけではない暗さだった。普段は、田舎町とはいえ街灯や家の…

◇ 辺りが十分に暗くなるのを待っていたように月が山の麓から顔を出した。月は濃い橙色に輝き、いつもに増して大きく見えた。 「やった!満月だ」 由紀が小さく叫んだ。 僕らはかくれんぼにも鬼ごっこにも疲れ果て、社の木の階段に並んで腰を降ろしていた。ど…

◇ それはかつて何度も見た光景だった。いや、正確に言うと僕は毎日それを見ていたんだ。 「行って来るね!」 由紀が明るい声を放った。母が、優しい笑顔で僕らを見送った。もう6年もそんな光景を見ているというのに、僕はこの母娘のこんな姿をみるのが好き…

◇ 「さあさあ、上手く揚がったで」 今時珍しい卓袱台の上に置かれた皿の上には、コロッケがこれでもかというくらいに乗っていた。 「腹いっぱい喰っとくれ」 先ほど病院で遅い昼食を食べたばかりだった。第一、コロッケの量は若者が食べるほどのものだ。 「…

ドログバが骨折。 サッカーではよくあることだからトゥーリオを責めることはできない。 (監督のエリクソンもそう言っている) でも、今回大会の主役の一人がこういう形で去るのは本当に残念。 前回ドイツ大会、初戦のアルゼンチン戦の思い出すよ。 百戦錬磨…

それは街中に聞こえるんじゃないか、と思うほどの大きな泣き声だった。だが、顔を出したのは角の家のばあさんだけだった。それも窓越に老眼鏡を下げ、ちょっと見てみたというだけ。すぐにその姿は消えた。 突然、僕に色んな音が襲い掛かって来た。犬はもう吠…

◇ 「どうしたん?」 母の美和が由紀と、由紀の隣りに立ち竦む僕を見て首を傾げたんだ。由紀と美和の親子が僕の家に来た年の夏のことだ。僕にとっては小学校の入学と新しい母親が出来たことで毎日が楽しい日々の筈だった。そんな日々に冷や水を浴びせるような…

しかし、病院から北に出たわたしの目の前には、葦の藪など無かった。葦が生えていた筈の場所は病院の駐車場になっていた。機械で管理されたそれは、都会のものと変わり無かった。振り返ってみると、かつて木造だった病院は鉄筋コンクリートの建物に建て替え…

荷物を片付けながら『つまり早く出て行けということか』と僕は理解した。 医師の説明は看護婦のそれとさして変わりは無かった。ただの過労だそうだ。もっとも僕は頭痛のことは一言も話して無かった。だから、それを話せば医師の判断も違ったものになっていた…

◇ 『暖かい』 あの日、藁の中で眠ってしまった時と同じだ。藁は太陽の匂いがした。太陽光線の熱をずっとそこへ溜め込んでいたみたいに暖かだった。まるで快適なベッドのようで、僕はすぐに眠ってしまったんだ。隣りで由紀が怒っている声がしたけど、僕は気に…

◇ 「由紀、由紀」 月が山裾から顔を出した時、僕らは鳥居の下に並んで座っていた。僕は由紀に肘鉄を喰らって目を覚ました。 「痛ててて。何するんだよう」 「あんたが寝惚けて人の名前呼ぶからよ」 「え?誰かの名前呼んだ?」 「ふん、馬鹿ねえ。ホントその…

こんなことを考えているなんて、あの会社のみんなに知れたら大変なことになるな。裏切り者の誹(そし)りを受けるだけでは済まないかもしれない。しかし、自分でも驚くほど早く会社と無関係な人間になっていた。 未練がましく会社のことを考えていること自体…

「お客さん。どうかしましたか?」 タクシーの運転手が不愉快そうに訊ねてきた。自分のことを笑われたと思ったらしい。まったく人間というものはどこまでも自分という狭い世界で生きているものだ。目の前で起きている全ての事柄が自分を中心に回っていると勘…

もはやこれ以上、交わす言葉も見付からなかった。会社から逃げ出したわたしの言葉など、彼にとって害悪以外の何ものでも無かった。 「悪いな、関口。今、親父の見舞いに来たんだ。退社した報告もしなきゃならんし、何より久しぶりなんだ・・・それが妙なこと…

◇ 電話に出ると関口だった。わたしの直属の部下である。もっともわたしの退社は既に決まっているのだから「だった」と言った方が正しいのだろう。 「どうした?」 わたしは無力感を隠さなかった。関口もまた、会社に絶望感を持っている一人だ。だから変な期…