わたしの記憶の中でさしたる地位を占めていなかった角の婆さんが、わたしの母方の祖母だったらしい。そしてそれは多分、正しいのだろう。心の中でガチャリッと大きな音が響いた。何かの鍵が開いた気がした。そして、押し込められていた記憶の数々が、頭の中で巡った。
 淳司の家を出て、わたしは淳司の母が言った公営団地、わたしたちが住んでいた長屋に急でいた。そこは、わたしの今のねぐらでもある。だが、今は早くそれ確かめたい気持ちがわたしの足を急かしていた。
 ふいに頭痛の予感がした。しかしあっという間に去っていった。きっとこうして頭痛は止んで行くのだろうと思った。頭痛は心の中で過去の記憶に掛けられた鍵を開けるための苦しみだったに違いない。
 長屋の屋根が見え始めた。それが近付くにつれ、押し込められていた記憶が鮮明に蘇り始めた。
『おばあちゃん』
そうわたしは呼んでいた。引っ込み思案だったわたしは、なかなか継母に馴染めなかった。芳江という継母の方も、それを感じていたのだろう。わたしはあまり良くはして貰えなかった。
 小学校から家に帰ると、時々芳江の機嫌が悪い日があった。そういう日は、まともな夕食が貰えなかった。夜遅くまで働いている父が、夕食時にはいなかったこともある。芳江はこれ見よがしに、実子である由紀とボクの食事に差を付けた。それは小学生にとって辛いほど大きな差だった。
 そんな時、ボクはコの字型に建つ長屋の真ん中に設置されたブランコで時間を過ごした。ボクの分は一口で済んでしまうから、継母や由紀が食べているのを見ているのが辛かった。そして、そんなボクを見ながら食事をするのが由紀には辛いようだったから。
 それからもう一つ、そうやってブランコに乗っていると、必ずおばちゃんが声を掛けてくれたんだ。
「たくみや、こっちおいで。おばあちゃんのとこへな」
ボクは継母が見ていないのを確認すると足早におばあちゃんの部屋に入った。前妻の母親が隣りに住んでいることを継母は激しく嫌がっていたから、ボクは継母の前ではおばあちゃんと仲良くしなかった。
「ほらたくみ、コロッケ揚げたよ」
おばあちゃんの料理といえば、決まってコロッケかカレーだった。
「今日は挽き肉が安かったからね。いつもより沢山入れたよ」
おばあちゃんの作ってくれるコロッケは、いつも暖かくて優しい味がした。きっと母も同じコロッケを作ってくれたに違いない。ボクはそれを食べるたび、亡くなった母のことを思い出してしまうのだ。でもボクは涙が出そうになるのを堪えるのが上手だったから、
「とってもおいしい!」
って笑顔をおばあちゃんに向けた。おばあちゃんも嬉しそうに「そうかそうか、沢山お食べ」と笑っていた。
「あれ、由紀ちゃんだよ」
窓から外を覗きながらおばあちゃんが言った。夕食を終えたらしい由紀が、ブランコの周りできょろきょろしていた。それからこっちへ向って歩いてきた。おばあちゃんは窓から由紀に向って「おいで、おいで」と手を振った。それに気付いて由紀は継母が、いや由紀にとっては実の母親が、見ていないのを確認すると由紀もおばあちゃんの部屋に入って来るのだ。
「たくみに、これ」
いつも由紀は母に見付からぬよう、自分のおかずを残しては広告紙に包んで持って来てくれた。芳江はそもそも料理があまり好きでなかったらしい。だから由紀の分ですら、十分な量だとは言い難かったのだ。それでも由紀は、ボクのためにこっそり残してくれていた。
「由紀ちゃんの分も揚げてあるよ。そうだ、二人ともご飯も食べなさい。今、よそって来て上げるからね」
おばあちゃんは小さな台所に立つと、盆にコロッケとご飯を盛った茶碗を二つ持って来てくれた。こうしておばあちゃんの部屋で、三人で夕食を取るのが日課のようになっていた。
 そんな幸せな時間をぶち壊すように
ガラッ、ガチャン
という乱暴に戸を開ける大きな音が聞こえた。マサ兄が来たのだ。
 そうやって毎夕のように、マサ兄がやって来るようになってから、3年あるいは4年くらい経つだろうか?ボクらは、マサ兄が家のドアノブを乱暴に扱う音を聞く度に彼が来るようになった頃のことを思い出した。

 ボクらはマサ兄が来るたび、継母に真っ暗な夜の闇の中へ追い出された。まだ二年生だったボクらに暗闇の中で何をすれば良いのか思い付かなかった。初め長屋の中庭にあるブランコに乗ったが、すぐに飽きてしまった。何しろマサ兄が来ると三時間は帰らないのだ。由紀は勉強道具を持って出たこともあったが、暗い街灯の下では子供の目でも字が読めなかった。薄暗い長屋の中庭で、ボクらは二人、ブランコに座ったマサ兄が帰るのを待ち続けた。
 帰る時、マサ兄は決まって酒に酔っていた。呂律が回らないくらい酔って、ブランコに佇むボクらを見付けるとニヤニヤしながら近寄ってきた。
「はは!揃いも揃って親に似てらあ!」
吐き捨てるような口振りだった。
「おい!たく。おめえは本当に気の小さそうなツラしてやがんなあ。兄貴と、おめえの親父とソックリだぜ」
ははははは!!と高笑いしてから、
「親父と一緒でつまんねえ人生が待ってんだろうなあ」
言いながらわたしの頬を小さく平手で叩いた。
「ユキはいい女になりそうだな」
子供心にマサ兄に吐き気を催した。由紀は、マサ兄を必死に睨み付けていた。
「ふん!なんて目で見やがる。大人になりゃ、どうせ母ちゃんと一緒さ。何人も男を咥え込むような女になるに違いねえや」
由紀は震えた。まるで雪の日でもあるかのように。しかし寒さから震えたのでは無かった。恐怖と怒りに震えていたのだ。
 マサ兄の来訪は毎夜のように続いた。そして、マサ兄が帰り際、ボクらを捕まえてはさんざんに口汚く罵っていくのだ。ボクらは辟易として、彼が帰る時間には暗闇に隠れるようになった。それでもマサ兄はボクらを執拗に探した。
「やい、どこにいる!糞ガキども!どうせロクな大人にならねえんだ。オレが折檻してやるよ!」
しかし物置や土管の影に小さな身を竦めて隠れるボクらを見付けるのは容易なことではなかった。
「け!勝手にしろ!」
マサ兄は諦めて帰るのだ。
 ボクらは二人、手を握り合っていつも小さくなって隠れていた。そうしてマサ叔父さんが帰るのをじっと待っていたのだ。ところが、そんな日々が続いたある日、ボクは
「たくみ」
と呼びかけられた。振り向くとおばあちゃんだった。
 おばあちゃんとは三年ぶりだっただった。母さんが死んでから、会わせて貰えなかったんだ。継母がそれを嫌がった。
「久しぶりだね、たく。大きくなったねえ」
おばあちゃんは母さんにそっくりな目をしてボクに微笑んだ。

 それからボクらはマサ兄が来ても外の暗がりで何時間も待つ必用は無くなった。継母に与えられる貧しい夕食はそこそこに、中庭の暗がりの中へ身を潜めると、おばあちゃんがボクを呼んでくれた。それから少し遅れて由紀が来た。そのまま毎晩、マサ兄が帰るまでおばあちゃんの部屋で過ごした。由紀は、継母に知られぬようこっそりと勉強道具を持ち出し、おばあちゃんの部屋に持ってきていたりした。
 ここならマサ兄に見付かる心配も無かった。そして何より、おばあちゃんはボクらにお腹いっぱいご飯を食べさせてくれた。芳江の作る貧しい食卓に比べると、おばあちゃんの作るコロッケやカレーはボクらにとってご馳走だった。ボクらはおばあちゃんに育ててもらったようなものだ。

 今にして思えば、おばあちゃんはボクを救う為に引っ越してきたのかもしれない。もともとおばあちゃんは、亡くなったおじいちゃんと暮らした家に住んでいた。そうした色んなものを捨てておばあちゃんはボクの傍に越して来てくれたに違いない。
 そんな大切なおばあちゃんのことを、わたしはなぜ忘れていたんだろう。わたしの記憶の中で、彼女は単なる隣人だった。隣りの部屋に住む気味の悪い老婆だった。だからつい三日前に長屋を訪れた時の彼女の歓待を、わたしは奇異に思ったものだ。もっと言えば、彼女がなぜ、まだあの長屋に住んでいるのかが理解出来なかった。しかし今、その理由が分かった気がした。おばあちゃんはわたしを待っていてくれたのだ。
 長屋のトタン屋根が見えてきた。太陽熱温水器の残骸も見えた。役場の斡旋でおばあちゃんが設置したものだ。そこから風呂場にホースが伸びていて、夏場には熱湯とまではいかないが、熱い湯が流れ出たものだ。わたしと由紀は、風呂場でホースから溢れる湯を「熱い熱い」とはしゃぎながら浴びた。それを見ておばあちゃんも笑っていた。
 おばあちゃんとの思い出が止め処なく溢れ出た。わたしの頭の中は溢れ出たそれらでいっぱいになった。パノラマのように次々に景色を替えるそれらで、目の前も見えぬほどだった。記憶は時間を遡っているらしい。おばあちゃんが長屋に現れた数年前、彼女の娘であるわたしの母がまだ生きている時代の風景で、それは停止した。当時としてはモダンな家の中に、父と母と祖父、祖母がいた。四人は豊かさを現すようなソファに座っていた。そこへ幼い少年が駆けて来た。途端に、その空間に幸せが満ち溢れた。
 わたしが忘れ去っていた幸福な時間がそこにあった。そしてその幸福が、予期せぬタイミングで瓦解したのだ。そしてわたしは思いも寄らぬ苦難の中に放り込まれた。
 そこまで考えた時、目の前に引き戸があった。いつの間にかおばあちゃんの部屋の前まで来ていたのだ。わたしは取っ手に手を掛け、引き戸を開いた。そこには少年の頃と変わらず、おばあちゃんが座ってテレビを観ている筈だった。ところが部屋の中に彼女の姿は無かった。
 買い物にでも出ているのだろうか?そう思った。特別な予感など微塵も沸かなかったのだ。それより「ようやく思い出したよ」と告白した時、彼女がどんな顔をするだろうということばかりを想像した。取り合えずわたしは自分の部屋、わたしたちが以前住んでいた部屋で待つことにした。若干の荷物もあるし、三日目に来た時、置いていった荷物の確認もしなければ、と思ったのだ。
 しかし、部屋に入ったわたしは唖然とした。部屋の中は泥棒が掻き回したとでもいうように、滅茶苦茶にされていたのだ。引き出しを全て開けられ、タンスは倒されていた。わたしが置いていった大き目のカバンはファスナーを開けられ、中のものが畳の上に散乱していた。幸いだったのは、部屋の中に大したものが無かったということだ。他には布団くらいしかなかった。もっとも布団も投げ捨てられたとでもいうように、部屋の隅でまるまっていた。
 誰の仕業か?なんのためにこんなことをしたのか?考えてみたが、何も思い当たらなかった。それもその筈、わたしがこの町に帰ってきたのは二十年ぶり、いやそれ以上なのだ。帰って来たと言っても、まだおばあちゃん、淳司の母親、淳司の三人くらいとしか交わりが無かった。その三人がこんなことをするとは想像出来なかった。そしてそれ以外の人間など名前すら思い出せなかった。
 なんの予兆も無く、こういうことが起きるのだ、と自分を納得させた。恐らくくだらない物盗りだろう、と思った。わたしが出入りするのをどこかで見ていたのだろう。それで、しばらく姿が見えない間に侵入したに違いない。だが、残念なことに盗るべき何も無かった。
 わたしは仕方なく、散らかった部屋を片付け始めた。細かいものはほとんどわたしの荷物だ。会社から預かった社会保険関係の書類や、証明書の束が散乱していた。ところがその時、奥の台所から見知らぬ男が姿を現した。男はサングラスを掛け、毛糸の帽子を被っていた。暗い色のジャンバーにジーンズと、明らかに自分の正体が知られないための服装だった。
「誰だ?」
わたしの問いに答えず、男は台所の向こう側にある勝手口へ向って走った。閉まっている筈のドアを軽く蹴った。すると、思いのほか簡単に開き、男はやすやすと逃げ出した。わたしも勝手口から外へ躍り出て、男の姿を追った。夕闇が辺りの景色を覆い隠していた。しかし、男の姿は街灯に照らし出されはっきりと見えた。男はやすやすと逃げ出した割りにそう遠くへ行っていなかった。更に、逃げやすいからだろうか、道路の真ん中を走っていくので、その姿は等間隔で立つ街灯の明かりが照らされ続けた。
 お陰でわたしはやすやすと追跡できた。しかし、こちらが全力で走ると男もスピードを上げるのでなかなか距離が縮まらない。かといってこちらが疲れて歩くと、男も歩くといった具合で、逃げられてしまうということは無かった。男とわたしは等間隔を保ちながら家並みから少し外れたりんご畑の間を抜け、観光客用の栗菓子屋が数件群れる辺りを通り過ぎた。宿泊施設の無い町なので、夜が早いのだ。ついさっき暗くなったばかりというのに町はもう眠ったように静かだった。そうして昼間は繁華な街並みを抜けると駅へ向う広い道へ出た。広い道だが、既にこの時間は誰も通っていなかった。
 わたしはふと男はこのまま駅に向うつもりだろうか、と思った。だが、地方の小駅は夕刻過ぎでは三十分に一本くらいの感覚なのだ。到底、泥棒が逃げる足には使えなかった。 そこで突然、男は90度向きを変えた。クルリと身を翻し、道から逸れたのだ。そこは小学校だった。懐かしい校門が目の前に広がっていた。ここへ来るのはおおよそ三十年ぶりといったところか。しばらく校舎の佇まいに目を奪われた。多少の手直しは施されているが、わたしが小学生の頃とさほど変わっていない。その間に男の姿を見失ってしまった。だが、中二階にあるガラス張りの玄関の向こうで何かが光るのが見えた。
 男に違いない。そう確信しわたしはコンクリートの階段を上がった。屋外の横に広い階段は、同時に何百人という生徒の昇降りを容易く受け止めるだろう。それはそのまま玄関前のエントランスに繋がっていた。登り切ると、背の高い厚いガラスのドアが幾つも並んでいた。わたしが通っていた当時と変わらない。あるいは、厚ガラスを入れ替えたのかもしれないが、素人目には分からなかった。
 ドアの取っ手の一つに手を掛けてみた。開かない。鍵が掛けられているのだ。当然だ。既に下校時間はとうに過ぎ、宿直の教師が残っているのみだろう。今時の学校は夜間の管理を警備会社に委託しているので宿直すらいないかもしれない。それでもわたしは隣の取っ手も引っ張ってみた。やはり開かなかった。
 わたしは、さきほどの情景を思い出してみた。たしか一番奥、それより少し手前で光が見えたのだ。わたしはエントランスの一番奥まで進むと、奥から順に取っ手を引いてみた。一つ目、開かない。二つ目、も開かない。三つ目、やはり開かなかった。やや諦めの気持ちとともに、先ほどの光が男とは無関係な別のものであろう、という考えが浮かんで来た。それでももう一つ、取っ手を引くと、まるでわたしを誘うように軽くそれは開いた。何かを予感させるのに十分な感触。だが、あまり良い予感では無いような気がした。

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