「三田さん、あんたたちの知りたかったのはこういうことだろう」
風向きが変わったのか、三田の燻らせるタバコの煙がわたしの鼻腔を刺激した。若い時期の一時、タバコを愛飲したこともあったがもう長いこと遠ざかっていた。わたしは不快感を露にするように激しく咳き込んだ。三田は
「失礼」
と言い、身体の向きを変えてみせたがわたしの元に煙が届くのは変わらなかった。
「それで、」
元刑事たちのうちの一人が、堪らず、といった調子で口を開いた。
「犯人は君だったということか」
溜息にも似たその口振りにわたしは言いようの無い不満が湧き上がった。その元刑事は小布施駅に着いた際にわたしに突っ掛かって来た男だ。
「そうさ。わたしが殺した。父親の醜い行為を見て我慢なら無かったんだ」
わたしの言葉に男は皮肉に満ちた笑みを湛え
「ありそうな話だ」
と呟いた。
「ありそうな話でいけないのか?殺人事件なんて、みんなありそうな話で出来てるだろ?それともひとつひとつが小説のように意外なものばかりだというのか?」
わたしは男の言い方に腹が立ち、つい喧嘩腰で言い返してしまった。それを遮るように
「そんな話をしてる訳じゃない」
と三田が言った。
「君が犯人かどうかなんて、もうどうでもいいことなんだ」
三田は根元まで吸ったタバコを足元に落とし、踏み付けて消した。それからポケットから吸殻入れを取り出すと地面にしゃがみ込み、今消えたばかりの吸殻とさっき踏み付けた吸殻を拾い上げた。
「もうあれから30年だ。とっくに時効だよ」
拾った吸殻を吸殻入れに放り込むことに夢中になっているとでもいうように、三田はわたしの顔を見ようとしなかった。足元の地面を舐めるように見回し、別の吸殻が無いか探しているようだった。
「見付からないな。見付からない」
三田は立ち上がるとわたしに視線を向けながら何度か呟いた。
「無い、のかもしれないな」
「なにが?吸殻?」
「まるでない」
「そりゃそうでしょう。さっきあなた二本拾ったじゃないですか。あれで全部ですよ。今日、あなたは二本しか吸ってないし、他の方々も吸ってないでしょう」
「そっか、そうだったか」
「そうですよ。最初から無い」
「最初っから無いものは、探してみても無いわな」
三田は意味ありげな言い方をした。
「ナイフはさ、なんど鑑識で調べてみても健介以外の指紋は出てこなかったんだわ」
まるでわたしの嘘を暴こうとしているかのようだった。
「自殺以外ありえない」
三田はそう断定した。それからまるで何かを思い出すように真っ暗な空に目をやると
「そんな当たり前のことがなあ、自分たちが当事者になってる時は分からねえもんなんだよ」
三田はポケットからタバコの箱を取り出して、しかし考え直したように元に戻した。
「つまりさ、北原さん。あんたはまだすべてを思い出しては無いってことだ」
「すべてを?」
「そう、すべてだ」
ふいに暗がりの中で男たちが動き始めた。正確に言うと、わたしから離れ始めた。今にもわたしを捕縛するかのごとく、わたしを取り囲んでいた彼らがその包囲を解いたのだ。
 明らかに彼らはこの場を立ち去ろうとしているのが分かった。彼らは、彼ら元・刑事たちはわたしを追い詰め、遠い過去の罪を贖罪させる為に集まったのではなかったのか?
「ちょっと待てよ!どこへ行く気だ?」
「私ら、今日はこれで帰ります。お時間を取らせて申し訳なかった」
わたしに背を向けながら三田がそう言った。既に歩き始めていた。途端にわたしは腹が立ってきた。
「待ってくれ!なんなんだこれはいったい。人を罠に嵌めるようなことをして、こんなところまで引っ張り出しておいて!勝手に帰るなよ」
「だから済まなかったと言っている」
「済まなかったで済むかよ!いったいこれは何なんだ?捜査なのか?おい、三田さん。あんたもうとっくに定年だろう。それどころか、もうとっくにあの事件は時効だろう。さっき自分達でそう言ってたじゃないか!だったらこれは何なんだ!わたしをどうしようとしてるんだ?」
「あんたをどうしようなんて、考えてないさ。さっきも言ったでしょう。もうとっくに時効だって」
「だったら何の為にわたしをここまで誘い出した?それに」
そう言って月明かりに照らし出された男たちの顔をひとりひとり見た。だが、どの顔もわたしの疑問に答えてくれようとはしてくれないようだった。
「すべてを思い出してないとはどういうことだ?」
三田が立ち止まった。そして何かを諦めたように首だけわたしに向き直った。
「あなたのお父上が自殺したところまでは分かっている。その後、起きた火事がお父上が放火したのか、それとも君らのどちらか、或いは二人でそうしたのかは分からず仕舞いだが。報告書では父上の放火ということになった」
それから三田はくるりと全身で振り返った。黒い上下を着ているせいか、月明かりに照らし出された生首が闇の中に浮いているように見えた。
「まあ、そんなことはどうでもいい。それより私らが知りたいのは、そこから先の記憶なんだ。そこから先のあんたの記憶を知りたかったんだ」
「知りたかった?」
わたしの問いには答えず三田は背を向けた。彼の声だけが闇の中を密やかに伝わって来た。
「或る意味、私らとあんたは共犯のようなもんだから、あんたとともに真実を確認したいと思ったまでのことだったんだが・・・」
共犯?わたしが首を傾げる間に三田は続けた。
「いや、これは我々の身勝手な希望的観測だったのかもしれない。身勝手な思い込みというべきか」
三田の言葉に、男たちから溜息が洩れた。
「それにしても長い長い思い込みだったな。”そうあってくれればいい”などと、刑事が考えるべきではなかったのだ。二十年以上も君を騙して悪かった」
「二十年以上も騙して?」
「ああ、探偵なんて真っ赤な嘘だ。向かいのビルに事務所があるっていうのもね。我々は誰かが東京へ出張に行くたびに、交代で君の様子を窺っていただけだ」
探偵社が嘘だった?しかし、やはり三田はわたしに質問の時間など与えてくれなかった。
「もう、いい。もう、やめにしよう。我々が間違っていたらしい。なんとなくそれが分かっただけでいいのだ」
それから三田は思い出したように言った。
「ああ、そうそう。さっきも誰かが言ったが、もう一度よく思い出してみた方がいい。細かいところで記憶の間違いがあるようだ。まだ思い出したばかりだからね。長い時間の封印が解けて、ようやく蘇った記憶だ。慌てずに、もう一度思い出してみるがいい」
三田と仲間の男たちは闇の中に消えて行った。消える際、こんな言葉が聞こえた。
「あの事件が無ければ、君の少年時代はそう悪いものではなかった」


 彼らは
『そこから先』
と言った。だが、わたしには本当にそこから先の記憶は無かった。
 というより、その時のことも本当のところよく憶えていなかった。ただあの日、由紀を追ってここへ来て、二人の行為を見たのだ。その場面だけは映画のワンシーンのように鮮明に思い出された。だがそこから先、父がどう死んだのかに関してはまるで記憶がない。三田たちにわたしが犯人だという作り話を話したのは、どうせもう時効なのだ、という計算もあった。だが、他の誰かに累が及ぶのが嫌だという考えが一瞬浮かんだからでもあった。他の誰か、と言っても由紀以外の誰も思い浮かばなかった。
 わたしたちの少年時代は、酷いものだったのだ。由紀がああして精神病院にいるのも、こんな過去が原因しているに違いない。もしかしたら父が死んだ直後から、由紀は入院していたのかもしれない。
 なぜ父は由紀にあんなことをしたのだろう?と考えた時、安っぽいストーリーが頭に浮かんだ。会社が倒産し、路頭に迷った家族、母が働きに出て、過労で死んだ、それから何かの縁があったのだろう、父は再婚した、しかし再婚相手の女はあろうことか父の弟と不倫を繰り返す、次第にそれは度を越し、父の弱さに付け込んで、一目を憚ろうともしなくなった、だが父はそれに抗うこともできなかったんだ。結果、父はその鬱憤を由紀に向けたのかもしれない。それは由紀が、不倫を繰り返す妻の連れ子だったからかもしれない。それが父のささやかな復讐だったのかもしれない。
 だが、生贄となった由紀はどうなるのだ?由紀には何の罪も無かったのに。
 突然、耳元で
キキィッ
と嫌な高音が響いた気がした。あの頭痛が蘇ったのだ。次第に収まっていた筈なのに。わたしはそれを記憶が蘇るとともに収束したと解釈していた。それがここに来て、一番酷かった時と同じだけの痛みが訪れたのだ。わたしはその場にしゃがみ込んだ。同時に、父の言葉が一斉に頭の中に流れ込んできた。それは、30年という時間を飛び越えて来たように思えた。

「なあ、たくみ。人間ってのはさ、ひどい生き物だよな」
父はなぜか穏やかに微笑んでいた。こんな醜い場面に似つかわしく無い、爽やかな微笑だった。
「お父さんがさ、大学時代からずーっと研究してたんだよ。アメリカに留学してさ。ゼファックス社っていう大きな会社の展示館で見付けたんだよ、それを。既に骨董品として扱われてた。まだ、何にも使ってないのにだ。どうやら開発した研究者にも、この会社にも使い道が分からなかったらしい。でも父さんには一目で分かった。その技術が何を意味して、どう使えば良いか、いや未来にどう使われるのか、それらのすべてが一気に頭の中に浮かんできたんだ。それは鮮明なSF映画みたいだったけど、父さんにとって確かな未来だった」
ボクには、父が何をいってるのかさっぱり分からなかった。
「会社に入っても、その研究の継続を申し出たんだ。その時、二つ返事でOKだったんだ、あれは嬉しかったなあ。それで、お礼に会社がすぐに儲けられる方法を考えたんだ。そう、子供が使える何か、を考えたんだ」
父は自慢げに微笑んだ。それから右手の人差し指を宙に向け、くるくると回し始めた。
「幸せだったなあ。あの頃、憶えてるか?母さんと海行っただろ。海の中にテトラポットを積んだ小島があって、お前はまだ幼かったのにそこまで泳いで行きたいって言い出したんだ。砂浜から100メートルはあるっていうのにさ。お前を浮き輪に入れて、なんとか泳いでそこまで辿り着いた。小島に上がったお前はテトラポットの隙間を行ったり来たりして、父さんが危ないというのも聞かずトンネルのような隙間を底の方まで降りて行ったんだ。そして古い箱を拾ってきたな。憶えてるか?外国製のそれは、宝箱のような形をしてた。幾ら開こうとしても、鍵が掛かってて開かなくて、家まで持って帰って器具でこじ開けようという話になった。ところが二人で浮き輪を取りに言ってる間に盗まれちまった。盗んだのは近くで遊んでいた子供らのグループに違いない。お前よりずっと大きな、そう小学校高学年くらいかな。大人を見かけなかったから、きっと地元の子供らだろう。奴らは盗んだ宝箱をどこかに隠したんだ。お前が浮き輪に乗り、父さんと二人で小島を離れるまでじっとこちらを見詰めていたから間違いない。なぜそんな話をするのかって?なんでだろうな?突然、そんなことを思い出したんだ。ああ、父さんもさ、同じことをされた経験があるんだよ。父さんにしてみれば宝箱だった。アメリカで見付けた時、それは形が無かったんだ。父さんが宝箱にした。でも、突然テレビで大騒ぎが始まった。アメリカの大統領の顔が一日中、テレビに映ってた。その日から、あっという間だったな。順調だった筈なのに、それを約束してくれたから会社を辞めて、自分で会社を作ったのに、会社はまるで父さんの会社のことなんか知らないとでもいうようだった。わたしの独立を後押ししてくれたかつての上司も、電話を掛けても出なかった、FAXを送っても答えてくれなかった、信越線で4時間も揺られて東京の本社まで行っても秘書から『出張でいません』『いつ帰るか分かりません』という答えばかりだった。そんなある日、会社の電話が鳴った。てっきりその上司が連絡をくれたのかと思った。それで慌てて出たんだ。ところが電話の主は銀行の担当者だった。返済のスケジュールを変更したい、ということだった。『変更?どういう意味でしょう?』という父さんの問いに担当者は『とにかく明日伺います』ということだった。翌日、支店長と担当者が二人で訪れた。彼らの話に父さんは愕然とした。だってさ、長期の約束で借りてた融資を来月返せって言うんだ。『なぜ?いくらなんでも突然すぎますよ』『本社の方針なんです』『そんな、約束が違う』『われわれに言われてもですね、例外は認められないんです』『ですが、来月返せって、そんなことしたら倒産してしまう』『今ね、どこの会社も厳しいんですよ、おたくだけじゃないんです』『もう三ヶ月も親会社から発注がないんです』支店長と融資担当者は顔を見合わせてこう言ったんだ『じゃ、どっちにしろ倒産ですね。そういうことに巻き込まれたくないから回収してるんです』ってな。翌月、父さんは全てを失った。事務所も工場も。でも、それだけじゃ銀行が要求する金額に足りなかったんだ。銀行が送ってきた書類には、びっくりするくらい沢山の0が並んでてさ、数える気にもならなかったんだ。そんな時さ。かつての上司が電話してきたのは。『北原君、大変なことになっちゃったなあ』拍子抜けするほど素っ気無い口振りだった。父さんは連絡が取れなかったことを恨みがましく言ってみたが、まるで無意味だった。『海外へさ、長期で出張に行かされたんだよ』って、軽くいなされてしまった。父さんは返す言葉も見付からず、ただ受話器を握り締めたまま、悔しさをどう表現していいのか分からずただ身体を震わせていた。『なあ北原君、まだ大分借金が残ってるらしいじゃないか』余計なお世話だと思う反面、助けてくれるのだろうか?という浅ましい気持ちが湧いた。でも、それが悪魔の誘いだと気付いた時には手遅れだった」
 父はボクの顔を真正面から見ると、手の甲を二三度こちらに振った。「行け」という合図だったように見えた。小屋の中は炎が天井まで達していた。燃え始めた大鋸屑が、真っ白な煙を発していた。ボクは由紀を抱きかかえた。由紀は意識を失っているのだ。まだ少年のボクが一人で抱えるには、由紀の身体は成長し過ぎていた。小屋を覆う炎から逃げ出すには、今すぐにも引き摺り出すしかなかった。でも、まだ父の話は終わっていなかった。
 父は必死でボクに何かを伝えようとしていた。普段、寡黙な父が始めて自分のことを話し始めたのだ。
「さあ、逃げろ、たくみ。いいんだ、父さんの話なんか聞かなくなって。どうせもう死んでしまうんだからな。ただな、お前が逃げ出す間、勝手に喋らせてくれ。そう勝手に喋ってるから、早く逃げろ。そうだ、それでいい。ああ、たくみ。人間という奴はなんでだろうな?なんで自分より弱い人間を虐めなければ生きていけないんだ?分かってるんだ。父さんには分かってる。正直言うと、あの時は分からなかったけれど、今ははっきり分かってる。あの時、会社はな、父さんが元いた大きな会社のことだ、その会社がな、苦しかったんだよ。倒産しそうだったんだ。それくらい酷い不景気だった。あの頃、大きな会社が沢山、倒産した。あの会社も危機的状況だったんだ。それでさ、考えたんだろう。危機を乗り切る可能性を。結果、父さんの開発した技術に目が留まった。あの頃はまだよちよち歩きの技術だったが、その可能性は専門家なら誰でも分かる。その可能性を売りにして、投資を集めることを考えたんだ。つまりさ、あの巨大な会社が、倒産の技術を再生の切り札だって考えたんだよ。父さんの技術はそれほど高く評価されたんだ。だが、そのためには父さんが不要だった。何しろ知的所有権の重要な部分を全て父さんが持っていたからね。だから父さんを罠に嵌めることにしたんだ。父さんの元上司を使ってね。ああ、銀行だってグルだったに違いない。それで父さんは会社から独立して作った自分の会社が行き詰まった時、元上司から『知的所有権の全てを買いたい』っていう提案をされたんだ。普通の状態ならもちろん考える余地も無い、お断りだ。だが、父さんは取引先や銀行から返済に迫られていたんだ。その額は、父さんが一生かけても払える金額じゃあ無かった。何しろあの技術には無限の可能性があると信じてて、独立する時、会社も全面的なバックアップを約束してれてたんだ。だから父さんは、自分の器を遥かに越える借金をしてしまった。銀行の取立てに苦しみ、いよいよ父さんのすべてを寄越せと銀行から迫られた時、元上司が提案してきた金額は、借金額と一円まで同じだった。でも不思議だったよ。父さんは悔しい気持ちとともに、なんだかホッとしたんだ。これで借金から解放されると思ったら、なんだから気が楽になった。それですぐに捺印してしまった。でもな、たくみ。父さんは馬鹿だった。借金はそれだけじゃなかったんだ。母さんがな、父さんの知らないところでお金を借りていたんだ。それもその筈さ。だって父さんの収入が無かったんだからな。三人で生活していくためのお金なんて無かったんだ。母さんは、美和は責任を感じて働き詰めに働いて、疲れ果てるまで働いてな。なあ、たくみ。人間ってさ疲れ果てると死んでしまうんだよ。美和はな、お前の母さんは、疲れ果てて死んでしまった。お金のために死んでしまったんだ」
既に父の姿は大鋸屑が燻された煙の中に消えかかっていた。ただ炎に照らし出されて真っ黒な人型の影だけが浮かんで見えた。だが、影だけになっても父は語り続けるのをやめなかった。まるで現世への憎しみを、わたしの心に刻んでいこうとでもするように。
「会社は、巨大な組織は父さんから取り上げた技術を使ってな新しい商品を開発した。お前も知ってるだろう。あのゲーム機がそうだ。お前たちが遊んでいるあのゲーム機だ。あれはな、父さんが考案したものなんだ。お前が小学校に上がる前にだ。まだ、あの頃は製品化が出来なかった。まだまだ周辺機器の開発が遅れていたんだ。それがさ、借金の方に取り上げられてから6年も経ったある日、父さんの前に氷川が現れたんだ。氷川って?元・上司の名前さ。もう呼び捨てしてもいいだろ。氷川は言った『君の考案したものが遂に形になった』と。父さんはな、なんだか嬉しかった。あの日、借金の代わりに取り上げられた技術が父さんの元に帰って来た気がした。大企業に捨てられたって思っていたけど、なんのことはない、父さんの技術を元に、父さんが考案した製品を開発していたんだ。そして、いよいよ商品化した今、父さんの元にそれは帰って来たのだって、そう思ったんだよ。だって氷川部長はこう言ったんだ。『ありがとう。君のお陰で我が社は再生した』ってな。あの切れ者の部長が、父さんに向って頭を下げたんだよ。そうして持ってきた試作品を見せてくれた。『まったくもって君の発想は凄い。恐れ入ったよ。社の役員も感心しきりだ』それは父さんがイメージしたものそのものだったんだ。父さんは、再び元の仕事に戻れることを確信した。だって父さんの技術は、巨大企業を再生させたんだからな。だが、次に氷川部長の口から発せられた言葉に、父さんは首を傾げた。意味が分からなかったんだ。氷川部長はこう言った。『実は会社から言われて確認に着たんだ』父さんは『何を?』と問い返した。『あの日、契約書を交わしたのを憶えているだろう?』『契約書?』『そうだ。君の技術に関する契約書だ。それには考案された製品イメージも含まれている』『それが何か?』『それをもう一度、確認したいんだが、いいかね?』『え?ええ、どうぞ』『うん、ここにだな、コピーがある。これをよく見てくれないか』『どこでしょう?』『ここだ、ここ。「今後、当該技術に関するに権利の一切は日電通社に帰属する」というところと』父さんは、ごくりと大きな唾を飲み込んだ。『「北原健介は技術と製品に関する一切の権利その他を放棄し、この開発に関わった事実も喪失する」といったところ』父さんは氷川部長の顔を穴が開くほど見詰めた。彼が次に言い出す言葉が信じられなかったのだ。『何かわたしの顔に付いているかね?』父さんの視線にさすがの氷川部長も驚いたらしい。部長は一つ咳払いしてからこう続けた。『日本も法治国家として先進国の仲間入りをした。こうして法律に則って交わした契約書は遵守しなければならないのだよ』氷川部長の視線が突然、冷たく輝いたようにが見えた。『つまりだ。この商品に関しては君は一切、関わりが無いということなんだ』そしてあろうことか、こんなことを言いだしたんだ。『ただ、それじゃああんまりだと思う。そこで第一号を記念に持ってきた。君に進呈するよ』当然のことながら、父さんはそれを拒否した。はっきり『いらない』とね。『だったら、そう。ええっと。君の友人がいたな。なんて言ったけな。あの不動産屋。彼はなかなか見込みのある男だ。これからの時代、彼のような男は伸びる。これも彼に渡しておく。その後は君らの好きにするがいい』そう言い残して氷川部長は去って行った。それから少ししてだ。たくみ、お前が市村の家に入り浸っているという」

 小屋の中は煙と炎で一杯だった。そこかしこで大鋸屑に火が移り、熱せられた大鋸屑は線香花火のように火花を放って燃え出した。まるで火の付いたマッチ箱の中にいるようだと思った。気を失ったままの由紀を抱えたままここにいるのももう限界だった。父の姿は既に炎と煙の中に消え失せ、生きているのかさえ分からなかった。けれど、ボクの耳には間違いなく父の言葉が聞こえていた。
「淳司君の家に入り浸っていると聞いた。ゲーム機に夢中だと。それは氷川部長が市村に渡したものだ。何の為にそんなことをしたのか?少なからず父さんに罪悪感を感じてのことか?それとも父さんへのあてつけか?それはよく分からなかったが、父さんはひどく動揺してしまった。だからどう出来るというものじゃあない。だが、知らず知らず、学校帰りのお前の後を尾けていた。ゲーム機のことが気になって仕方なかったのだ。なんどかお前に声を掛けて、見せてもらおうと思ったこともあったが、それが何の意味も持たないことも理解していた。だが、父さんはいつまでも市村の家から出てこないお前をずっと外で待っていたんだ。そんなある日『お義父さん?』と呼ぶ声がした。振り返ると由紀だったんだ。由紀は父さんが何度もお前の後を尾けていたことを知っていた。『誰にも言わないよ』と由紀は言ったが、その言葉は逆に父さんの心に不安の種を植え付けてしまった」
 父の声は炎が上げる悲鳴のような音に掻き消され、途切れ途切れとなった。父の命も、何度も終わりを向え、それでもボクにその話を聞かせたい一心でなんとか繋ぎとめているだけに過ぎないのだろう。炎と煙で姿の見えぬ父は、ボクの想像の中で、既に顔は焼け落ち、肉は溶け出していた。しかしボクの耳に聞こえる父の声はひどくはっきりとしていた。
「そう、あの日のことだ。たくみ、お前が市村の、淳司君の家に行ってあのゲーム機に夢中になって、由紀の存在すら忘れていた頃、父さんの不安はいよいよ頂点に達していたんだ。お前の後を尾けていたことを、由紀に見られたから?違う。わたしがなぜたくみの後を尾けていたかの理由など、由紀には想像も出来なかっただろう。父さんの不安とは、そのゲーム機が成功を収めるのではないか?ということだ。不当な手段であの会社は父さんから奪い取った技術を元にあの機械を作ったんだ。ドルショックを発端とするあの不景気の中では、会社から独立したばかりの中小企業など一たまりも無かった。そんな父さんの小さな会社を助けようとするどころか、父さんが研究してきた技術を掠め取ったんだ。あの技術は、父さんの全てといって良かった。父さんが会社から独立して小さな会社を作ったのも、あの技術を一日も早く実用化したからだったんだ。たしかに、あんなひどい不景気の中じゃ自分が生き残るのが精一杯で、他人を助ける余裕なんて無い、という理屈は分かる。だが、父さんには、会社が、銀行や、その他もろもろの取引先に裏で手を回し、父さんからあの技術を取り上げたんじゃないかと、そう思ってしまうんだ。そのために母さんが、美和が死んでしまったんじゃないかって。そう思えば思うほど、お前があのゲーム機に夢中になるのが疎ましく思えた。お前が夢中になるほどに、あのゲーム機の成功が近づいてい行くような気がしたんだ。あのゲーム機の成功は、本当は父さんのものだというのに、それを指を咥えて見ていろというのか!?父さんは、何度もお前に市村の家にもう行かないよう言おうと思った。だが、そのたびに躊躇した。お前に『なぜか?』と問われたくなかったからだ。だが、画面は限界を超え、父さんは市村の家から帰ってくる道の途中でお前を待った。砂山の影で、しかし日が暮れてもお前は帰ってこなかった。父さんは、夢中でゲーム機に没頭するお前を想像すると怒りが込み上げてきた。突然、砂が落ちて来た。ふと見上げると砂山の中腹に子猫がいた。子猫は上に登ろうとしているらしいが、足元の砂が崩れて登れない。それでも必死でもがいていた。『助けてあげよう』父さんの心の中で誰かが呟いた。それが父さんの最後の良心だったのかもしれない。しかしそんなことには気付かず父さんは砂山を登っていった。砂山といっても三階建てくらいの高さしかないのだ。すぐさま子猫の場所まで辿り着いた。子猫は振り向きざま父さんの姿を見ると、更に激しくもがき始めた。せっかく助けに来たというのに、まるで父さんから逃げようとしているように見えた。実際、逃げようとしていたのだろう。それが本能なのか?親から教えられたことなのか?それとも短い生の間に人間の怖さを知っていたのかは分からない。ただ言えるのは、父さんはひどく不愉快な気持ちになったということだ。せっかく助けに登ってきたのに、この態度はなんだ?父さんが自分の足を見ると、靴は砂に埋もれ靴下の中まで砂でいっぱいだった。いっそ、この猫も砂まみれにしてやろうか?などという残酷な感情が沸き起こるのを感じた。それを敏感に感じ取ったのか、子猫は横方向へ移動した。明らかに父さんから逃げようというのだ。小さな身体を機械仕掛けの玩具のように小刻みに動かしていた。よく見ると恐怖からか、激しく震えていた。残酷な感情というものは、そうした事象の積み重ねにより、より増幅するらしい。父さんの中にはこの小さな命を慈しむ心より、それを切り刻む爽快感の方により魅力を感じ始めていたのだ。そう認識するや、まるで血に飢えた捕食者のごとく、命を奪うことの喜びが身体中に沸き起こった。『やめて!』振り向くと砂山の下に由紀が立っていた。暗闇の中、砂山を照らす街灯の輝きが、由紀の表情をいやにはっきり映し出していた。『そんなことしたら死んじゃう!』初めてだった。由紀が父さんの娘になってから、初めて父さんに反抗したのだ。『早く助けて上げて!』由紀の声にわたしは我に返った。手元を見ると子猫が砂に埋まっていた。どうやら砂を大量に吸い込んだらしい。苦しそうにむせ返っていた。だが、やがて呼吸は小さくなり、砂を吐き出す力も弱くなっていった。そして眠るように大人しくなると、そのまま砂の上に横たわった。子猫は死んだのだ。『なんで?義父さん。なんでそんなことしたの!?』由紀の叫び声が間近で聞こえた。いつの間にか由紀は砂山を登ってきていたのだ。由紀はぐったりと横たわった子猫を抱き上げ、父さんを睨み付けてきた」
嗚咽にも似た唸り声が聞こえた。獣の咆哮にも聞こえたそれは、父の悔悟の呻きであることがボクには理解できた。
「これまで見たことも無いような敵意に満ちた目をしていたんだ。由紀は、たくみ、お前も知っているとおり明るくて、よく笑って、父さんのことも、本当の父さんのように慕ってくれていたじゃないか。だがその時の由紀は、まるでそれらが全て嘘だったとでも言うように、憎しみに満ちた目を父さんを見詰めていたんだ。父さんは、父さんの知らない由紀を見た気がした。そして父さんは、由紀が問うているように思えた。猫に対する残虐さの訳を。会社に対する怨み、憤り、騙された自分の愚かさへの悔悟、取り返しの付かない妻・美和の死、それらもろもろの父さんの失態のすべてをさらけ出せと由紀が問うているように思えたんだ。『違うんだ、由紀』と振り絞った言葉は、父さんにも意味不明だった。なぜそんな言葉が出たのか、父さんにも分からない。ただ、父さんはこれ以上、由紀の責めに耐えられなかったんだ。『違う、違う』と父さんの口は勝手に喋り続け、両手は暗闇の中をまさぐり続けた。街灯に照らし出されていた筈の砂山は、いつしか光を失い真っ暗闇になっていた。気付くと、砂山の裏手にある、小屋の中にいた。父さんはズボンが降りているのに気付いた。同時に、由紀を穢したことにも。由紀はまるで叱られた少女がぬいぐるみを抱くように、子猫の屍を胸に抱いていた」
それから父は、なんどとなく由紀を呼び出し、陵辱したのだろう。そうすることで、ゲーム機に夢中になるボクを忘れることが出来たに違いない。それとともに、抵抗する力も無く、巨大企業という腕力に奪われた、自分の人生を忘れることが出来たに違いない。
 やがてボクの目の前で、小屋が崩れ始めた。父の声は燃え盛る炎に掻き消され、生きているのか死んでいるのかすら分からなかった。だが、いずれ数秒後には父は燃え尽きてしまうのだ。ボクは父の影が見えなくなったのを確認すると、由紀を抱え小屋を出た。小屋の外も煙が巻いていた。煙が目に沁みた。ボクは目を瞑ったまま煙から逃れようと由紀を抱えたまま必死で歩いた。誰かが助けに来てくれている筈だという期待は、外れたらしい。人の気配は無かった。どうやら、既に夜の闇が辺りを支配し、きのこ工場で働いていた人々はとっくに帰ってしまったらしい。人家から離れたここで起きた火事に、まだ誰も気付いていないようだった。
がらがら
と大きな音がして、小屋が崩れた。同時に中で燃え盛っていた炎が屋外に吹き出た。真っ暗な夜の闇を切り裂くように、真紅の炎が立ち昇った。
 どこかで
「おーい!火事だぞー!」
と叫ぶ声が聞こえた。どうやらようやく火事に気付いてくれたらしい。ボクらも、ようやく煙から逃れた。由紀を地面に寝かせ、ボクは膝を付いた。小学生のボクにとって、炎の中から由紀を抱えてここまで逃げてくるのは簡単なことではなかった。身体が軋むような気がした。煙のせいか、息が上がっていた。心臓がドキドキして呼吸が苦しかった。そのまま仰向けに寝た。目を開くと星空が見えるだろうと思ったのに、目の前には何かが立っていた。門だった。どうやら工場団地の入り口まで、由紀を抱えて走ってきたらしい。それにしても大きな門だと関心しながら眺めているうち、ふと由紀の嘘を思い出した。由紀は、髭おじさんという架空の人物から、満月の夜くぐると願いが叶うという門の話を聞き、それを見に行くのだなどとボクに嘘を付いたんだ。それはボクと離れ離れに下校して、父の待つここへ来るために付いた嘘だった。だが、目を少し横に向けると満月が見えた。由紀の話が嘘でも構わない。ボクは由紀に騙されて、この門に向って願いを掛けることにした。くぐってはいないが、ちょうど門の真下にいるのだ。
 さて、何をお願いしようかと考えて、ボクは戸惑った。昨日までなら「ゲーム機が欲しい」と願っていただろう。だが、父のあんな話を聞かされたら、そんなことはお願いできない。というより、ボクはこれから父のいない子供として生きていかなければならないのだ。そして、警察は父が由紀に犯した罪も暴くかもしれない。そうなればボクには恥ずべき人生しか待っていないのじゃないか?
 いろいろ悩んだ挙句、ボクが願ったのは、今日起きた全てのことを忘れてしまいますように、ということだった。願い終わった時、遠くから人の声が聞こえた。何人もの声と、半鐘を鳴らす音。火事の消火に来たのだ。ボクはなんだがホッとして目を瞑った。そのまま意識が薄れていった。薄れる意識の中で、煙を沢山吸い込んだからか、ひどい頭痛を感じた。この頭痛を感じる度に嫌な思い出を思い出さなければいいが、と少し心配になったものだった。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中


「その時、父と由紀は裸で抱き合っていた。それがどういう意味か、裕二や淳司らから聞いていたから頭では分かっていた。それがいけなかったのだ」
三田はもう、わたしに質問などして来なかった。
「その時のわたしは、きっと由紀のことも奇異な目で見ていたに違いない。由紀が怒り狂ったように叫ぶ声を今でも憶えている」
三田も、他の男たちも後ずさりするように、闇に紛れた。
「父が一方的に由紀を抱いていたのかもしれないが、その時のわたしには抱き合っているように見えたんだ」
わたしは、その時の光景を思い出した。20年、いや30年以上、忘れていた光景だった。正確に言えば、忘れ去ろうとした光景に違いない。わたしの思いを察してか、三田が闇の中から語り掛けてきた。
「そんなことがあったんだな。当時の捜査では分からなかった」
まるで殺意の原因をようやく突き止めたというような口振りだった。
「三田さん、逆に聞きたいがなぜそんなこと分からなかったんだ?」
わたしの問いに三田は戸惑いを見せたが、何かを諦めたように言った。
「うん、そうだな、それは、君がわたしらの前から姿を消したから、と言えば良いのかな?」
「わたしが姿を消した?」
「ああ、どうやら憶えてないようだが」
三田が点けたライターの火が、刑事たちの顔を映し出した。やがて火は、三田が咥えたタバコに移った。タバコの先が赤々と燃え上がると、その光がわたしの表情を映し出したような気がして、慌てて顔を背けた。
 わたしはひどく後悔していたのだ。自分の判断の誤りにひどく後悔をした。当然のことだが、それを話すかどうかでわたしは悩んだのだ。短い時間だったが、とても悩んだ。由紀を傷付ける事実だからだ。義父とはいえ、自分の父に犯された過去など今更、掘り起こされたくないというものだ。わたしも出来ればそこは避けて通りたかった。だが、恐らく彼らは、この元・刑事たちは当然のこととして知っているものだと思っていた。そして、それ以上にその部分が無ければ話の辻褄を合わせるのが直一層難しくなると思ったのだ。
 しかし刑事たちは知らなかった。あるいは、かつては知っていたのかもしれない。しかし長い時を経た今、そんな事実はすっかり忘れ去られてしまったらしい。彼らはまったく違うことに関心があるようだった。


 その時の光景をボクは死ぬまで忘れられないだろう、と思った。実際にはそれからすぐにすべてを忘れ去ってしまうらしいのだが。
 とにかく、なぜ二人がそんな格好で抱き合っていたのかについては、裕二から聞いていた大人の男女の行為だったように思う。そして裕二が言うように、それは子供には見せたくないもので、だから父はボクに必死で否定したんだ。でも同い歳の由紀が、それをしていたことがボクにはひどく気に掛かった。ボクの知らぬ間に由紀は大人の仲間入りをしていたのだろうか?
 それに、とボクは思ったんだ。裕二から聞いたところによれば、それは子供を作る為に行うのだという。でも父に義母がいる筈で、子供が欲しいのであれば義母とすれば良いのに、と思った。もっとも義母は既にマサ兄の子供を産むつもりで、もう父の相手はしてくれないのかもしれない。だからといって由紀を相手にするのは、子供のボクが考えてもおかしなことだった。
 でも裕二はこうも言っていた。それはなぜか気持ち良くなるので、子供が出来ないようにして、ただ気持ちよくなるためだけにする大人も多いという。それで父と由紀は気持ち良くなるためにしていたのだろうか?
 ボクはそんなことを考えながらも、父と由紀がしていたことを自分なりに理解しようと努めていた。だが、ボクは父と由紀に対する嫌悪の念が湧き上がるのを抑えられなかった。
「たくみ、違うんだよ!」
父が大きな声で叫んだ。でも、ボクにはそんな声は聞こえなかった。ただ父が口をパクパクさせているのと、由紀が脱ぎ捨てられた服を抱き締めているのが見えた。
 ボクはまだとても子供だったが、何も分からないほど子供じゃなかったんだ。もう少し、ボクが無知であれば、何ごとも起こらなかったに違いない。でもボクは壁際に設置された棚の上の容器を一つ手に取った。中には大鋸屑がいっぱいに入っていた。エノキの菌を打ってある筈だった。ボクはそれを二人に投げ付けた。一つだけでは何も起こらなかった。またボクのコントロールが悪過ぎて、二人の足元にも届かなかったのだ。だからもう一つ、いや左手にももう一つ、合わせて二つ持って、交互に投げ付けた。右手で投げたものは父と由紀の間をすり抜けて向こうの壁に当った。だが、左手で投げたものは見当違いの方向へ飛んで行ったように見えたが、天井に当たり父と由紀の頭上へ降り掛かった。
 ボクは繰り返し繰り返し投げ付けた。壁にあるもの全てを投げ終わるまでそれは終わらないだろう、とボクの中の醒めた誰かが言っているのが聞こえた。でもその前にボクは辞めたんだ。なぜなら由紀の叫び声を聞いたから。初め
「やめて!」
と言ったように聞こえたが、よく思い出してみるとそれは単に「きゃー!」と叫んだだけだったかもしれない。それとも「ぎゃー!」という悲鳴だったような気もする。いずれにせよ由紀のそれはボクの行為を止めるに十分だった。それはボクがこれまで聞いたことがなかった声だった。

 ふと目の前を見ると男の死体が横たわっていた。男が床に寝ているの、と思っても良いのに、何故かボクはそれが死体だと知っていた。由紀が泣き声が聞こえた。それがボクのすぐ目の前なのは分かっていたが、暗くて由紀の泣く姿は見えなかった。由紀は、ちょうど電灯の陰に隠れていたのだ。小屋の中を暖めるための電灯は黄色い光を発し、明るさは無いくせに酷く眩しかったのだ。
「父ちゃん?」
ボクは誰に訊ねたんだろう?誰も答えてくれる人はいないということは分かっていたが、ついそれを口に出してしまった。お陰で由紀が尚更大きな声で泣き始め、ボクに対する恨み言さえ並べ始めた。
「だから付いて来ないで、って言ったのに!なんで分からないの!この馬鹿!馬鹿たく!」
ボクには反論の余地は無かった。たしかに由紀はボクに言った。
『満月の日にね、お月様の影が鳥居の下を通る時、そこにいると願いが叶うんだって』
だから一人で神社に行くのだ、と。でもボクに言わせれば神社なんてどこにないんだ。あるのは切通しと、その向こうにあるキノコ工場だけだった。
 だが、切通しの間を通る線路の、その両脇に立つ鉄柱。地面から生えたように足元は草むらに覆われていたそれは、パンタグラフに電機を伝えるための電線を吊るためのものだ。そのため線路の両脇に立った二本の鉄柱は、空中で二本の鉄の梁によってつながれていた。それは鉄製の鳥居に見えなくも無かった。切通しのこちらの世界と、向こうの世界を遮る鳥居の役目を果たしているようにも見えた。その日ボクは、由紀の行き先を目指して一人鉄の鳥居をくぐったのだ。夕陽を背に受け鳥居の影はどこまでも長く伸びていた。伸びた先にはひと際巨大な工場が見えた。一番新しく、一番大きいそれの板金製の屋根は全面に受けた夕陽を神々しく跳ね返していた。
 小屋は、つまり板金製の神社の脇にぽつんと立っていたのだ。裏手と言ってもいい。実際、位置的には一番巨大な工場の東北側にあったから、夕陽を遮られそこだけ既に夜のように暗かった。操業時間を過ぎた工場群からは既に人気が失せていたから、ボクは気味の悪い静けさの中を、由紀の気配のするその小屋へ近付いていった。
 実際、小屋から由紀の気配がした訳じゃなかった。ただ以前、こんな時間にそこに父がいたのを憶えていたのだ。ボクはなんらかの予感を抱えていたのかもしれない。小屋が近付くにほどボクの足取りは慎重になり、恐る恐る近付いていった。そうして小屋の入り口に近付くと、引き戸に手を掛けた。思ったとおり南京錠は開かれていた。それは開かれた閂の片側にぶら下がったまま、ボクの侵入を拒もうとはしなかった。ボクは小屋の中に静かに足を踏み入れたんだ。
 あの日、最後に虫取りに来た日、裕二が指差したりんご箱。それは農家の誰かが放置したものだった。中には腐ったりんごが入っていた。鼻を吐く腐臭、その腐臭に釣られて集まってきた何匹もの虫たちが絡み合い、腐って酸を発した蜜に溺れ、おぞましい欲望が充満していた。ボクの目の前にあるのはそれだ。カブトムシとクワガタが互いの肉を貪り合っているのだ。
 ボクは慌てて手を伸ばし、偶然掴んだ容器をカブトムシに投げ付けた。しかし容器は軽過ぎて天井に向って飛んでしまい、中に入った大鋸屑を散乱させるだけだった。それでもボクは、もう一度手を伸ばし掴んだ容器を投げ付けた。さっきより下に飛んだが、逆にムシたちに掛かる大鋸屑の料は少なかった。更にもう一度、今度はクワガタを目指して飛んだ。だがクワガタに当る前に、身体を投げ出したカブトムシの脇腹に当った。脇腹が潰れ、体液が漏れ出すかと思ったが、そうそう柔な身体では無いようだった。次に伸ばして手が掴んだのは、随分と重量があった。手に持って見るとそれはナイフだった。厚目のナイフ。それは普段、荷造り用の荒縄を切ったりするのに使っているごついやつだ。ムシたちもそれと気付いたのか、投げる前から悲鳴を上げた。身の危険を感じたのだろう。まるで許しを請うように、両手を拡げて泣き叫んでいる。でもボクにはそれが、外骨格の関節が軋む音にしか聞こえなかった。
 ボクがそれを投げた時、
グシャッ
というりんごが潰れたような音がして、一方のムシが崩れ落ちた。腹から体液が流れ出ていた。随分と濃い体液だと思ったら、内蔵だった。醜い内臓を撒き散らしながら、ムシは床に崩れ落ちた。
 次にボクが目にした時、小屋は燃え上がっていた。どうやって出たのかボクには分からない。ただ、隣りで由紀が泣いていた。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中

第10章 ◇混沌◇


「ちょっと待てよ」
暗がりからわたしに声を掛ける男がいた。その声にわたしは吾に返った。まるでタイムマシンに乗って、過去の世界行き、突然舞い戻ってきたような気分だった。顔を上げると街灯の下に男が進み出た。その男の姿を見てわたしはギョっとした。新幹線の中でわたしに古い日付のスポーツ新聞を渡した男だった。
「やはりあんたも一味だったのか」
わたしが言うと三田が「一味とは心外だな」と小さく笑った。
「わたしの説明に何か問題でも?」
男に対し、わたしは問い掛けた。今やわたしは、わたしの記憶になんら疑いは無いと思っていたのだ。
「あんたの説明だと、義母の芳子と叔父の正夫が男女の関係になったのは、大分以前という印象だ」
「うん、そう。たしかそうだった筈だ」
「うーん、その辺が微妙に違うんじゃないかな。われわれが当時、捜査したところでは、芳子と正夫の関係は事件のおおよそ半年前からだった筈だ」
「半年前?馬鹿な」
「いいや、その筈だ」
「だって、ボクらは、いやわたしと由紀は、マサ兄の訪問を恐れて毎日のように町を徘徊して歩いたんだ」
「それもどうだろう?そもそも君ら家族は、芳子と君は、継母と連れ子だというのに実の母子のように仲が良いと評判だったらしい」
「ええ?!」
わたしと芳子が実の母子のようだった?わたしは、また記憶が堂々巡りを始める予感がした。
「芳子は、健介が以前経営していた会社の社員だった筈だ」
 突然、
コホンッ
と咳払いするのが聞こえた。まるでわたしと男の会話を遮るようだった。
 三田だった。
「やあ、だいぶ寒くなってきたな」
コートのボタンを閉め直しながら
「この寒さじゃ風邪をひいてしまう。早めに帰ろうや」
と続けた。
「細かいことは、もういいじゃないか」
まるで、”ボクが思い出そうとしていること”を遮るように言った。
 三田は溜息をつくように深く息を吐くと
「それで君は」
と言い、三田は小さく咳払いした。
「いや、君たちは父親を殺した訳かね?」
抑揚の無い声だった。
「ちょっと不躾だったかな?」
と三田が禿げ上がった頭を掻いた。それからコートの襟を立て
「おお寒い」
小刻みに震えて見せた。
どうなんだね?、という三田の問いを聞きながら、わたしはふと疑問に思った。それを口に出すか少し迷ってから、やはり訊ねてみることにした。
「みなさんは、なぜボクらを疑ったのです?」
三田と、暗がりでわたしを取り囲むように立ち並ぶ男たちを見渡した。
「いや、否認しようという訳ではないのです。そうではなく、ちょっと不思議に思ったのです。だってそうでなければボクと由紀を疑う理由が無い」
三田は一度、真っ暗な天を仰ぐとこう言った。
「うん。その辺がよく分からないんだ。何しろ当時、君らから何も聞けなかったから」
「そう、でしたね」
「ああ、ただ少し想像していることはある」
『どうして来たの?!』
わたしの耳の中で由紀の叫ぶ声が聞こえた。
『もう6年生でしょ!いつまでもままごとしてるんじゃないわ!』
結局、三田の配慮も空しく、ボクはそのことを思い出し始めていた。

 ボクは由紀の行き先が分かった気がした。あまり良い予感はしなかったのだければ、雁田山の山裾に沿って走る農道をどんどん北に歩けば、行き先に行き当たるのだ。
 問題は、由紀がその先どこへ行く気かということだが、ボクにはある予感がしていたんだ。
 半年くらい、いや一年くらい前からだろうか?ボクの家は壊れ始めていた。義母の芳子が父にひどく冷淡な態度を取るようになったのだ。マサ兄が逢引に来るのを隠そうともしなかっただけじゃない。芳子は父の食事をまともに作ろうとしなくなった。そして、父が家にいる間中、監視するように睨み付けていたんだ。父もそれに気付いたから、徐々に家に寄り付かなくなった。
 そんなことが続いて、ボクらがおばあちゃんの部屋にいるところへ父が現れたんだ。ボクはきっと家に帰り辛いから、おばあちゃんの部屋へ逃げ込んできたんだろうと思ったのだけれど、どうやらそうでは無かったらしい。
 由紀が、父にひどく怯えていた。父は、ボクと由紀の間に座ったんだ。その瞬間、由紀の身体は震え始めた。
 由紀は由紀なりにそれを抑えようと努力していた。でも、止めようと思えば思うほど、由紀の身体はどんどん震え始め、やがて全身が痙攣したように激しく動き始めたんだ。
『どうしたんだ由紀、大丈夫か?』
父が、いつもの気弱そうな笑みを浮かべながら、由紀の身体に触れようとした。次の瞬間、由紀の身体は弾けるように壁際へ飛び退いた。
『いや!』
由紀が大きく叫ぶと、驚いたおばあちゃんが由紀に近付いた。おばあちゃんは由紀の頭を抱き、抱かれたまま由紀は、泣き出してしまった。
 由紀とおばあちゃんは抱き合ったまま、離れようとしなかった。おばあちゃんの腕の中に埋もれて由紀の表情は見えなかったが、ボクにはおばあちゃんが一切、こちらを見なかったのが印象に残った。まるでこちらに見てはいけないものがあるとでも言うように、おばあちゃんは由紀を抱き締めたまま壁を見詰めていた。
『健介さん。今日はもう帰ってもらえるかしら』
優しいおばあちゃんが、珍しく冷淡な言い方をした。父は
『ああ』
と苦笑いを浮かべながら頭を掻くと立ち上がった。引き戸と開け、外に出た。
『おいたくみ、由紀、遅くなる前に帰って来いよ』
ボクは父に向って大きく頷いた。だが、由紀の方を見ると、由紀とおばあちゃんは更に強く抱き締めあっていたんだ。

 そんなことを思い出しながら、ボクは農道を北へ向って歩き続ける由紀の影を追った。やがて切通しが見えてきた。平地の上に半島が浮かぶように横たわる山の斜面の先に切通しはあった。正確には切通しの残骸だ。しかしボクは由紀の向う先が、切通しなどでは無いことを知っていた。
 昨日、由紀はボクに言った。
切通しの向こう側、桜沢の山手に山門があって、そこを登ると神社があって、そこに大きな鳥居があるの』
と。今日、そこに行くのだと言った。
『満月の日にね、お月様の影が鳥居の下を通る時、そこにいると願いが叶うんだって』
何を願うつもりなのだろう?と思ったが、その前に、
『神社なんてどこにないのじゃないか?』
そう由紀に問い掛けたかった。山門も、もちろん無い。そしてボクの夢に出てきた『髭おじ』もいないのだろう。
『髭おじさん、雁田にいるでしょ?』
居もしない人物を、由紀はなぜ咄嗟に思い浮かんだんだろう?それは誰か別の人物を、そう変えて言っていたに違いない。そのままボクに伝えたくない人物だったのだ。

 それからボクは山沿いの農道を歩くのをやめにした。ずっと遠回りにはなるが、田んぼの畦道を歩くことにしたんだ。延徳田んぼと呼ばれるそこは、かつて延徳沼と呼ばれる湖ほどもある湿地帯を開拓して作られた。ほとんど底なし沼のような、ひどい沼地だったから、今もところどころ畦が崩れたりする。子供が一人で歩くにはとても歩き難い場所だった。
 でも、由紀に気付かれないよう由紀の先回りをするにはそこを歩くしかなかった。ボクはもう由紀の跡を尾け気は無かった。ただ、自分の中の嫌な予感をはっきりさせたいと思っただけだった。
 しかし沼地と思っていた田んぼは、知らぬうちにひどく乾燥していた。収穫の時期が終わりすっかり水がひけた田んぼはそこかしこにひび割れが入っていた。田んぼの中ですらそれほど乾燥しているのだから、畦道などまるでコンクリートで固めた道と変わりなかった。ボクはやすやすと走って行けた。いつもは斜面側の道路から左手に見ていた切通しを右手に見ながらボクは走った。
 やがて中野市に入ると電信柱に桜沢という表示が見えるようになった。ボクの目指す場所はすぐそこにあった。工場群が競うように大きな屋根を重ね合う、その場所にボクは来た。入り口に、鳥居があった。たしか、古い祠があった場所を切り開いて工業団地にしたのだ。鳥居はその名残だと聞いたことがあった。ボクは鳥居の下を潜ると、一番ボロの小屋を探した。新しい板金屋根の工場が軒を連ねる中に、ぽつんと一つだけ、古い木造の小屋があった。そこは父の仕事場だった。地元のエノキ農家から父が預かっている栽培用の倉庫だ。
 ボクは音を立てぬよう引き戸を引いた。大鋸屑(おがくず)の異臭が鼻を突いた。それもその筈だった。倉庫の中はエノキ栽培用の大鋸屑でいっぱいだったからだ。それを燻す煙で、前がよく見えなかった。突然、
ガチャンッ
と音がした。入り口で南京錠が地面に落ちたらしい。その音はボクに不安な気持ちを湧き上がらせた。それでもボクは奥へ進んだ。奥に行くほど大鋸屑を燻蒸する煙が濃くなっていった。でも、ボクはその煙の先で動く白いものを見付けた。
 五時を知らせるサイレンが聞こえた。戦争もののテレビ番組で聞いた空襲警報みたいだった。警報の行方を追ってから、もう一度、煙の中を見付めた。しかしさっき白いものが見えたと思った場所に、それらしいものは無かった。代わりに、突然小屋の中に小さな風が流れ込んだ。小さな風は燻蒸の濃い煙を流し去った。その先に薄っすらと人影が見えた。ボクはギクッとした。人影はボクの方を見ていたのだ。
「たくみ、なにしに来たんだ?」
父さんだった。ボクは返答のしようもなくその場に立ち竦んだ。由紀の大きな泣き声が聞こえたが、ボクは由紀を見ることが出来なかった。
「なあ、たくみ。違うんだ、これは」
困惑する父を置いてボクは後ずさりを始めた。そこで気付いたのだ。由紀を一緒に連れ出さなきゃいけないと。でもボクは腰が抜けたようになってそれが出来なかった。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中


 いつの間にか朽ち果てた切通しの前で、ボクは大きな橡の木を見上げていた。
 まだほんの二年ほど前、たしか小学校三年生の頃まで、真夏の最中、早朝に自転車を走らせてここまで来た。ボクの乗る自転車は、近所の爺さんが乗っていたものだったから酷く大きくて重かった。爺さんはその荷台に大きな籠を載せて、毎日農作物を運んでいたんだ。いつの間にか爺さんだけいなくなり、自転車が残った。爺さんが死んだという話もあったし、どこかへ引っ越した、頭が呆けて入院した、という話も聞いた。でもボクにとってはそんなのどうでも良かった。ボクにとっては、その自転車が誰のものでも無くなった、ということが一番重要だった。
 真人や健太はテレビでコマーシャルしてる自転車に乗っていた。アニメの絵柄が描かれているものだ。淳司は、なんだか地味な色合いの自転車に乗っていたが、とてつもなく高価なものだと誰かが言っていた。裕二のは兄のお下がりのオンボロだった。だが、自転車を持っているだけ羨ましかった。ボクはなんでもいいから自転車が欲しかったのだ。
 そんな時、毎日、自転車で野良仕事に行っていた爺さんが、自転車を残して姿を消した。翌日からその自転車はボクのものになった。誰が良いと言った訳ではないが、誰もいけないと咎めないのだから、それで良かった。早速、夜明けとともにボクは自転車を駆って、切通しまで走ったのだ。
 でも、爺さんが乗っていた自転車は重いばかりでスピードが出なかった。お陰でボクは切通しに付くのがビリッケツになってしまった。それだけでなく、ボクはもうへとへとだった。走ってきた方がずっと楽だったのだ。
「おせえなあ!もうこんなに採っちゃったぞ」
裕二の虫篭を見るとカブトムシが三匹と、クワガタが一匹。四匹は、押し競饅頭でもするようにひしめき合っていた。
「おれはさ、箱背負い(はこしょい)専門」
真人の虫篭には、ミヤマクワガタだけが四匹入っていた。
 ミヤマクワガタのことを子供は「箱背負い」と呼んでいた、四角い頭部が、まるで箱を背負っているように見えるからだ。箱背負いは、短い体毛に覆われ、緑っぽい色をしており、他のクワガタより明らかに高貴に見えたから、ボクらに取っては宝物のようなものだった。ボクは思わず
「わあ、いいなあ」
と叫んでいた。
「もうこの木にはいないよ」
淳司が一番大きな橡の木を見上げて言った。
切通しの斜面を登ってみれば、いるかもよ」
言われてボクは、斜面を登り始めた。みんなもボクの後に付いて登ってきた。
 少し上がると、橡林が綺麗に刈られていた。斜面から山に連なる辺りがすっかり丸坊主になっていたのだ。
「なんだこりゃ?」
「なんか造るのかな?」
ボクと淳司が首を傾げていると
「おーい、こっちこっち。いっぱいいるぞ!」
裕二の叫び声が聞こえた。ボクらは裕二が立っている場所へ走った。
「どこにいるんだ?木が無いよ」
ボクらの問いに、裕二が小さく顔を横に振ったのが見えた。
「なんだよ裕二。もったい付けないで教えろよ」
「ここ」
「え?どこ?」
「ここだよ」
裕二が指し示したのは放置された木箱だった。林檎や桃など収穫した果樹を入れて農協に出荷するために使われている。「都住農協」と刻印された、この辺の農家ならどの家にもあるものだった。
 しかし、その木箱にはなぜかベニアで蓋がされていた。普通、果樹を入れる場合、蓋なんかしない。ボクらはなんだか嫌な予感がした。
「めっくてみな」
そう裕二に言われボクは恐る恐るベニア板に手を掛けた。それを捲り上げるとなにかとんでもないものが出てきそうな気がした。見ている淳司や真人、健太、武男も「ごくり」と唾を呑み込んで見守っていた。
「なあ、裕二。まさか蛇が飛び出してくるとかないよなあ」
真人が不安気な声を出した。
切通しは蛇が多から気を付けろって母ちゃんに言われたんだよう」
泣きそうな声になっていた。
「もし蛇が出たらやばいから、ベニアを取ったらすぐ逃げよう」
淳司が言った。ボクらは全員、頷いた。
 いよいよボクがベニア板を剥ぎ取ることとなった。
「さあ、行くぞ!」
ボクはみんなにそう声を掛けると一気にベニアを引っ張り、遠くへ放り投げた。
「わあー!」
その瞬間、蜘蛛の子を散らすように、みんな八方へ逃げ出した。当然、ベニアを投げたボクが一番、逃げ遅れた形だったので、恐る恐る中を覗いてみた。
「ひ!」
ボクは思わず悲鳴を上げてしまった。みんなはそれを聞いて余計に遠ざかった。
「ははは、馬鹿だな。よく見てみろよ」
一人だけ逃げなかった裕二が大声で笑った。言われてボクは、もう一度中を覗いてみた。木箱の中は黒い何かでいっぱいだった。
「うわ!」
ボクはまた声を上げてしまった。裕二が蔑むように笑いながら言った。
「気ぃちっちぇえなあ、よっく見てみろよ」
もう一度、覗いてみると、黒いのは腐った桃だった。
「うわあ、汚ねえ!」
箱の中は腐った桃でいっぱいだった。出来損ないの桃を木箱に入れておいたのだろう。腐って来たので隠す為にベニアで蓋をしたらしい。ボクはその気持ち悪さに目を背けた。集まってきた淳司や真人、健太、武男も口々に
「げげっ!」
とか
「おえ!」
なんて呻き声を上げた。
「お前ら、もっとよく見ろよ」
裕二が呆れた、という声で言った。仕方なくボクはもう一度、腐った桃でいっぱいの木箱の中を覗いてみた。腐乱し切った部分は真っ黒に、まだ途中の部分は白かったり桃色だったり、そのコントラストがまた気味悪かった。だがボクはもっと気色の悪い光景を見た。
「おわ!」
またボクは大声を上げてしまった。その叫び声にみんなも驚いて飛び退いた。
「どうした!たくみ」
健太が恐る恐る訊いてきた。
「やっぱ蛇?蛇がいるんでしょ?」
ボクは大きく横に首を振った。
「いや、違う。でも、気持ち悪い」
「え?じゃなんだよう」
真人がまた心細そうな声を出した。淳司も真人も健太も武男も、一度は覗き込んだのに、飛び退いたまま戻って来ない。
「大丈夫だよ、そんなに怖がらなくても。蛇なんかいないし。ただ・・・」
「ただ?」
「うん、汚いなあ、このクワガタ」
カブトムシもいた。虫たちは腐った桃を漁っていたのだ。淳司も真人も健太も武男も、木箱の前に戻ってきた。
「うわあ、汚ねえ!」
口々に言いながらも、今度は代わる代わるのぞき込んだ。
「これじゃ、捕まえたくないなあ」
「ほんと、汚過ぎる」
「それに臭いよ。桃が腐った臭いがする」
みんなが文句を言ってる目の前に、ヌッと手が伸びてきた。伸びた手は、腐乱した桃の中で蠢く虫たちのうち、一番大きな一匹を捕らえた。木箱から取り上げ、日に当てられたそれは、見たこともないくらい巨大なミヤマクワガタだった。
「お前らがさ、いらないって言うなら、全部おれがいただくよ」
裕二が巨大なそれを虫籠に入れながら言った。まるでボクらを見下しているようだった。


 ボクは橡の木の前に立って、そんなことを思い出していた。
 当時、『蛇がいるから切通しにはいくな』とは、どの子供も言われたことだ。でも、もともとこのあたりは蛇が多いから、特に切通しだけだ危険ということはない。第一、子供にしても蛇には慣れていたから不用意に噛まれたりはしない。
 結局、切通しへ行かせたくなかったための方便だったのだろう。切通しは、長野電鉄線の線路を造る為に山の斜面を刳り貫いたものだ。天井の無いトンネルと言っていい。つまり切通で虫取りをするということは、線路の上で虫取りをするということで、それに夢中になった子供が危うく電車に撥ねられそうになったという話もあった。真実かは分からないが、そういう噂には子供より親の方が敏感なものだ。
 でも、ボクらが切通へ虫取りに行ったのはその年、小学校三年生の夏が最後だった。工事が始まったのだ。その年の秋、切通しから山へ連なる斜面が丸坊主になった。それから大きなシャベルカーが現れ、木の根っ子を地面ごとひっくり返し始めた。気付いた時には斜面そのものがひっくり返されていた。斜面は、大きく削り取られ切通しの何倍も大きな穴が掘られた。雪の降る季節になると工事は一時中断されたが、翌年、雪解けの始まった春先にはまた大きな重機が何台も集まってきた。ダンプカーが砂や砂利を運んできた。帰りには斜面を切り取った土砂を運んで行った。
 そんなことを毎日、毎日繰り返していた。ボクと由紀は、毎日、近くまで来ては夕方まで眺めていた。そのうち、斜面だった場所はすっかり平らになった。道路が開けたのだ。
 道が開けた日、ボクらがそこへ来てみると、重機から立ち揚がる湯気の向こうに隣町が姿を現した。桜沢という集落だ。桜沢には見たことも無い銀色の建物が連なるように建っていた。真新しいそれらの建物に見入っていたボクらに、工事の休憩に入った作業員の一人が教えてくれた。
『ありゃ、きのこの工場だ。エノキ作ってる』
人の良さそうなそのおじさんは、胸のポケットからくしゃくしゃのタバコを取り出すとマッチで火を点けた。しばらくボクらの横で煙をくゆらすと
『景気が良くなってきたもんだから、きのこがえれえ売れるらしい。あすこの工場やってる百姓らは、昔の長者並に稼いでるそうだ』
そう言って、工場群のある平地から集落のある斜面に視線を移した。ボクらも同じように斜面を見た。
『どうだい、立派な家ばっかじゃねえか。キノコ御殿って呼ばれてるんだぜ』
ボクは桜沢の家並みから、切通しの残骸に目を移した。切通は、何故か残されていた。線路の両側の部分だけ、まるでトンネルの名残のように土が盛り上がっていた。そこだけ残すことにどんな意味があるのだろう、とボクは首を傾げた。
『なぜここだけ残してあるかって?そんなもの、道路を造るお役所にとっちゃあ、関係ねえからさ。すぐ隣とはいえ、その切通は私鉄のものだからな』
一番大きかった橡の木も残されていた。他の木は全て伐採されたというのにだ。それでも一本だけ残ったことを喜ぶべきなのか?でもボクは、それらを見ている何故かうち心が痛くなった。それらが取り残されたもののように見えたからだった。第一、一本だけ立った橡の木に虫が集まるとは思えなかった。
 
 道路が出来てから、ボクらはあまり切通しには来なくなった。ボクが今ここに来たのも、淳司や裕二たちと最後の虫取りをした小学校三年生の夏が過ぎ、冬間近になって由紀と二人で工事現場のおじさんの話を聞いて以来だった。少なくとも、ボクはそうだった。
 小学校の玄関で由紀を見失ったボクは、校門の向こうへ消える影を見たんだ。それが由紀かどうかは分からなかったけれど、ボクは一か八か追いかけてみることにした。影は確かに実体を持ってボクの前を歩いていた。校門を南に出た影は郵便局に突き当たると東に折れた。山の方へ向かったのだ。そこからの道は一直線だったのに、ボクがどんなに一生懸命走っても、どうにも追い付けなかったのだ。
 気付くとボクは、影に誘われるように切通しの残骸のある町境に来ていたんだ。町境から見える光景は、トタン屋根が波のように続く工場群。そこから右手、山の斜面にかけて大きくて新しい”キノコ御殿”ばかりが立ち並んでいた。あれから二年とちょっと過ぎたが、キノコ御殿の数は増えはしたも減ることはなかったらしい。
 ドルショックに端を発した不況の嵐は、中小企業の多くを呑み込み、倒産、大量の失業者という混乱を招いた。ボクが小学校に上がる直前の話しだ。それから五年も過ぎると、世の中は復興してしまうらしい。そして、世の中が復興に向っても、依然荒廃から脱することが出来ぬ者もいるらしい。ボクの父がそうだったのだ。
 1971年の冬、ボクら家族は忘れられぬ寒さを経験した。父の経営していた会社が倒産したのだ。新しい技術を大手メーカーに提供していた父の会社は、たしかに時代の寵児だった筈だった。でも、そんなたしかさは、大きな社会の中ではゴミ屑ほどの価値も無かったんだ。呆気なく、あっさりと倒産した父には何一つ残らなかった。そして何より辛かったのは、まだ幼いボクを抱えた夫婦にとって、日々の生活の糧が失われたことだ。倒産後も借金の清算に追われる父に代わり、母が働きに出た。しかし、育ちの良い、また結婚してからは家事以外したことのない母にとって、生活を支えることは許容範囲を大きく超えていたに違いない。たちまちに体調を崩した彼女は、あっという間に言葉も利けぬほどに痩せ衰え、病院のベッドで朽ち果てるように死んだ。
 それから5年、キノコ工場を見る限り、世の中はたしかに復興したらしい。しかし父はまだ、借金の返済に汲々としていたのだ。返すメドすら立たない膨大な借金。だが、後妻に入った芳子は、そんなことを気に留める様子も無かった。それどころか父の弟を家に引き込み、不貞の関係を隠そうともしなかった。それらは、間違いなく父の精神を蝕んでいった。
 思えば、父はなぜ芳子と再婚したのだろう?ボクの実母の美和が死んで、寂しかったのかもしれない。大人の事情などボクには分からなかった。
 でも、芳子なんかと結婚したから、父はあんなことをしたんだと思う。ボクは、父も許せなかったが、父をそこまで追い込んだ義母も、芳子も許せなかった。お陰でボクらの家族はバラバラになったんだ。そしてボクと由紀もまったく別の人生を歩むことになってしまった。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中

◇◇
「ん?父ちゃん、どうしたんだ?」
ボクは父に声を掛けようとした。だが、すかさず由紀が
「なんでもないよ」
とそれを制したんだ。ボクが見るに、父はショウウインドウのガラスがたわむほど頭を押し付けていた。それほど何かに見入っていたのだ。
「ガラス割れちゃうよ」
「だから大丈夫だって!」
由紀は「行こう!」と言ってボクの腕を掴むと、反対側へどんどん歩き出した。それは西の方角だった。小学校から見て商店街は東にあったから、また小学校の方へ戻る格好だ。
「あれー。今日は雁田の方へ行くんじゃなかったの?」
「ふん、急に川が見たくなったのよ」
由紀は強引にボクの腕を引っ張った。ボクはといえば、なぜか父のことが気になって仕方がなかったから、何度も振り返ったものだ。しかし由紀はボクの腕を決して離さなかった。ボクらは退屈な畑の道をどんどんと歩いて、歩き疲れた頃、大きな土手が目の前に立ち塞がっていた。まるでピラミッドの一面を見ているようだった。誰の侵入も拒んでいるように見えた。けれどボクらは道路から裏に抜けるトンネルがあることを知っていた。ガーデンが通るための隧道だ。河川敷内に畑があって、農家がそこへ野良仕事に行くための道だった。
 ボクらはその道を抜け、河川敷の畑を抜け、川原に辿り着いた。
「釣りしてる」
対岸を見てボクは叫んだ。木製パイルに横木を張り、ジャングルジムのように組んだ上に三人ばかりの大人が座り、のんびりと釣り糸を垂れていた。しかし、すぐさま由紀が
「釣れてそうにないわ」
と言った。ボクらは川原で、腰掛けるのに良さそうな大きさの石を探して腰掛けた。何をする訳でも無かったが、座る以外することもなかったのだ。
「ねえ、あれ本当かなあ?」
ボクの問いを由紀は無視した。でもボクは諦めずにもう一度訊いた。
「ねえ由紀はどう思う?」
由紀は相変わらず顔を上げない。上げないまま
「”あれ”ってなによ?」
と空と呆けてる、と思った。
「あれはあれさ」
「だから何よ」
「裕二が言ってた奴」
「裕二?知らないわ」
由紀が外方を向いた。向いた方向には水鳥がいた。由紀は薄っぺらな石を選んで、水面に向けて投げた。薄い石ほど上手く水切りしてくれるのだ。だが、由紀の投げた石は、水面を一度も撥ねずに呆気なく水没してしまった。由紀は
「ちぇっ」
と舌を鳴らした。広い川の中ほどに水鳥はいたから、由紀の力では届かないに決まっていた。それでも水鳥を脅かすには十分だった。水鳥はその大きな羽をゆったりと拡げると、宙に向って羽ばたいていった。
 ボクは意外な気がした。由紀が生き物に向って石を投げるなんて初めて見たからだ。そういえば由紀を探し回った日の夜、由紀がいた砂山で、由紀は首まで埋まった猫を見捨てたと告白した。ボクは首を傾げるばかりで、由紀の中で何かが変化し始めていることに、まったく気が付かなかったんだ。
「ねえ、由紀。その、裕二がさ、言ってた話だけど。あのさ、」
ボクがそこまで言ったところで由紀は不機嫌そうに
「なに?」
とボクを睨み付けた。
「だからさ、あの、父ちゃんの話だけど、本当なのかな?」
「だからなによそれ?」
「あのゲーム機、父ちゃんが創ったっていう話」
由紀はまた新しい石を探し出した。今度はさっきより少し小ぶりだった。アンダースローの姿勢で川に向って投げた。水面の上で石は大きく一度撥ねた。
「お!」
とボクはその見事さに声を上げてしまった。でも、次に着水したところでまた水没してしまった。由紀が
「あーあ」
と溜息を付いた。
 ボクは再び父の話を切り出すことが出来なかった。


「あれ?由紀がいない」
六時限目の授業が終わり、ランドセルに教科書を詰め終わったボクは、由紀の姿が無いことに気付いた。
 ボクと由紀の生活は元通りに戻っていた、少なくともボクはそう思っていた。ボクらは毎日、六時限目の授業が終わると玄関で合流し、そのまま散策に出た。もう五年以上続けて来たことだ。それがたまたま二ヶ月ほど前、淳司がゲーム機を買った。ボクはそれに夢中になり、そしてボクの友だちもみんなそれに夢中になって、塾に行く時間ぎりぎりまで淳司の家でゲーム機を弄り回した。普段は皆、学校から真っ直ぐ家に帰り、おやつを食べてから塾に向う、という生活をしていたのに、ゲーム機のお陰でボクも彼らも一緒に遊ぶ時間が出来たのだ。
 ボクはゲーム機と、友だちと遊ぶことに夢中になり、由紀を置き去りにしてしまった。その間、由紀は何をしていたのだろう?何をして過ごして、何をして時間を潰していたのだろう。無限に続くような孤独な時間。ボクらには、ボクら以外、時間を共有できる誰もいなかったのだ。本当のところ、塾になど通っていない友だちだって沢山いた。裕二なんて週に一度、そろばん塾に通っているだけだった。それでもボクらは、ボクと由紀は放課後、いつも二人きりだった。それは、ボクらの家の事情も大きく影響していた気がする。ボクらの家の特別な事情から、彼らの親がボクらと遊ぶことに抵抗を持っていたんだと思う。
 特別な事情とは、マサ兄と義母の芳子のことだ。二人の不貞の関係は、町の大人は知らぬ者が無かったらしい。人口一万人に満たぬ小さい町だから当たり前のことだったろう。それでも二人は、これ見よがしに不貞を続けた。マサ兄は、町役場に勤めていたが、町中では有名な遊び人で、その派手な風貌は公務員とは掛け離れヤクザ者にしか見えなかった。だから役場でも厄介者扱いされ、庁内に置いておくとトラブルの種になり兼ねない、ということで「水道の修理係」という仕事を与えられていた。水道メーターの壊れた家に行き、修理する仕事だ。体の良い厄介払いだろう。しかし上司の眼の届かぬ仕事のため、毎日のように芳子の元へ通って来るようになったのだ。いっそ芳子が父と離婚して、マサ兄と一緒になれば良いと思うのだが、彼らはそうしなかった。また父も、特に離婚を切り出さなかったらしい。いずれの理由も子供のボクらにはよく分からなかった。つまり、そんな家庭の子供と親しく遊ばせることを躊躇う親が多かった、ということだ。唯一、淳司の母親だけは、ボクらに優しかった。それは彼女がボクの本当の母親と友人だったためらしい。
「どこ行ったんだろう?」
ボクは廊下を早足で歩き、玄関に着くと辺りを見回した。でも、どこにも由紀の姿は無かった。靴を履き、エントランスに走り出た。校庭を見たボクの眼に、校門から消え去る影がチラと見えた。
「あ!」
それが由紀かどうかと言われると、正直分からなかった。ただ黒い影が動いたように見えただけだったのだ。でもボクは、なんとなくそれが由紀だったような気がして、すぐにも追い掛けたい衝動に駆られた。でもそれは間違いで、もしかしたらまだ由紀は校舎の中にいるのかもしれなかった。ボクは玄関を振り返った。でも由紀らしい姿は現れなかった。ボクは意を決し、校門に向って走った。さっきの黒い影を追い掛けることにしたのだ。校庭はまだ誰もいなかったから、ボクは全力で走った。
 校門から出て、広い道路を見渡した。影は右の方に向って消えた筈だった。でも、どこにもそれらしい人の姿は見当たらなかった。やっぱり人違いだったか、と思った。けれど広い道を右に直進すると二百メートルほどでT字路に突き当たる。そこをどちらかに曲がったのかもしれない、とも思った。ボクはまた小学校の玄関に戻ろうか、それともT字路まで行ってみようか悩んだ挙句、行くことにした。ボクはまた全力で走り、すぐにT字路まで辿り着いた。そこで左右を見渡したが、どちらを見ても由紀らしい影は見えなかった。
 いや、待てよ、とボクは思った。左手に、それは千曲川とは逆方向、つまり山手の方だ。そちらの方向をよく見ると、ずっと向こうに小さな点が見えた。点は上下に揺れながら、少しずつ進んでいるように見えた。ボクにはそれが由紀に見えた。


 あの日わたしは由紀の影を追って歩いたと思う。影は、町の真ん中を南北に貫く県道を横切り、千曲川とは反対側、雁田山の方へ向っていた。わたしは影に追い付こうと全力で駆けたように思うのだが、走っても走っても追いつけなかった。むしろ影との距離は拡がってしまっているように感じた。しかしどんどん離れて見えなくなったと思いきや、結局同じくらいの距離にいたりした。わたしとその影は付かず離れずの距離を保ったまま進んだのだ。
 やがて山に突き当たり、その後は山沿いの道を北に向って歩いた。途中、長野電鉄線と合流し、切通しがあった。わたしは知らぬ間に男の発する光に導かれ、ここまで来ていた。あの日、由紀らしき影を追って駆けて来た道だった。もう少し行って踏み切りを渡れば山門がある。そしてそれをくぐり、参道を登れば神社だった。
 だが、目の前の景色の中に、山門などどこにも無かった。
 切通しの向こうには、工場群が広がっていた。そこかしこに「ガット・ウルグアイラウンド」という表記が、夜間灯の光に浮かび上がって見えた。国の補助金を使って建てられたきのこの工場群だった。踏み切りを渡り、工場群を背に山の斜面に向うと、夜目にも立派な家並みが見えた。豪華な家が放つ特有の光を発していたと言っていい。えのきの栽培で成功した農家達の家が立ち並んでいるのだ。

 あの日、ここにあったのは茸の冷蔵倉庫だ。あの頃はまだ、えのき栽培が盛んになり始めたばかりだった。今のように巨大な工場ではなく、農家ごとに一軒家くらいの冷蔵倉庫を保有し、その中でえのき茸の栽培をしていた。それでもちらほら成功した農家が現れ、彼らはこぞってえのき御殿と呼ばれる豪奢な家を建てた。それを見てまた、多くの農家がこぞってえのき栽培を始めたのだ。
 その一つの農家で父はきのこ栽培の作業を手伝っていた。
 あの日、由紀らしき影を追ったわたしは、ここで父が手伝うえのき農家の冷蔵倉庫を見た。そしてわたしは、由紀の影を見失ってしまった。
「本当に見失ったのかい?」
ふいに心の底辺から、誰かに問い掛けられた気がした。しかし顔を上げたわたしの目の前に、三田所長が立っていた。暗がりの中、街灯の光のしたで三田はこちらを見詰めていた。会社の向かいのビルで見たかつての彼とは少し違う印象に見えた。
 三田は、わたしが新入社員となった頃に知り合いになった。たまたま飲みに行った居酒屋で意気投合したのだ。しかしその後二十年ばかり、彼はわたしの人生から消えていた。姿を見なくなったのだ。しかし奇妙なのは、わたしが会社から荷物を引き揚げたその日から、再びわたしの人生に割り込んできたように思う。割り込んできた、というほど強引なものでも無いが、何故か彼の影が見え隠れすることが多くなった。柴崎常務の通夜に向う電車の中に、三田はいた。そして新幹線の中や小布施駅で降りた際に現れた男たちに、わたしは三田の影を感じていたのだ。
「ここで、由紀ちゃんを見失った?」
三田は同じ質問を繰り返してきた。
 わたしは答えず、辺りに眼を走らせた。真っ暗な中に幾つもの眼が光って見えた。わたしはその中に男たちが紛れている予感がした。そんなわたしの予感を察したようにそのうちの一人が前に進み出た。
「彼が、君をここまで連れてきた」
三田が指差すと、男は街灯の下に躍り出た。わたしは「あっ!」と声を上げた。長屋で見た泥棒だった。
「済まなかったな。泥棒などではないんだ。君をここまで連れて来るにはああするより仕方なかった」
「ああする?」
「ああ、あの日、君たちが通った道を歩かせる為にはね」
「あの日、通った道?」
三田は「そうだ」と大きく頷くと、
「神社なんてどこにも無い」
と両手を拡げておどけて見せた。それをきっかけに「神社」という言葉がわたしの頭の中の何かに触れた。神社、そう、あの日わたしは由紀は神社に行く由紀を尾けていたのだ。
 前の夜、由紀は神社に行くのだ、と言った。
『鳥居をくぐるの』
それは、由紀が突然
『明日は一緒に遊べないわ』
と言い出したから、わたしが
『なんで?』
と理由を問うた答えだった。
『この前もさ、由紀ったらどっか行ってたじゃん』
『この前って?』
『あのさ、砂山にいた時だよ。猫が埋まってたって言ってたじゃん』
『ああ、あの時』
『あの日だってどこ行ってたんだよ』
わたしの問いに由紀は答えあぐねているようだった。その時のわたしはまだ由紀の心中を察してやることなど出来なかった。想像すら出来なかったのだ。
 むしろ由紀の方が、そんなわたしの未熟さに気を遣ってくれたらしい。
『鳥居をくぐりに行ったの』
と答えた。
『鳥居?そんなのどこにあんの?』
『えー、っと。北の外れの切通しの向こう』
切通しの?じゃ桜沢?』
『う、うん。そう。その山手に山門があって、そこを登ると神社があって、そこに大きな鳥居があるの』
『へえ?あったっけ、そんなの。それでなんでそんなのくぐりに行ったの?』
『え?うん、えっとね、願いが叶うのよ』
『願い?なにそれ?』
『満月の日にね、お月様の影が鳥居の下を通る時、そこにいると願いが叶うんだって』
『ええ?でも、なんか本当っぽいね』
『本当よ』
『でも何で由紀はそんなこと知ってるの?』
『え?ええ、うん、聞いたのよ』
『誰から?』
『ええーっと、おじさん』
『おじさん?』
『髭生えてるおじさんよ』
『髭生えてるおじさん?誰それ?』
『いるのよ。髭おじさん。雁田にいるじゃない。知らないの?』
わたしは頭の中を巡らせてみたが、さっぱり思い付かなかった。だが由紀が
『私が一人で散歩してると、鉢に水を注していた』
とか
『突然、声掛けられて気味悪かったけど、話してみたら良さそうな人だった』
とか
『年の頃はマサ兄と同じくらいで同級生かもしれない』
などと言われているうち、なんとなくそれらしい姿を思い浮かべてしまったのだ。
『ボクも行ってみたいな』
とわたしが言い出した時、由紀は見たこともない表情を見せた。笑みでもなく驚きでもなく拒絶でもなく、小学校六年生にしてはあんまり複雑な表情で、あの頃のわたしには理解出来なかったのだ。由紀はひどく戸惑っていたのだ。
『ねえ、ボクも連れてって』
『うーん、でも駄目』
『なんでえ?』
『実はね、天狗が出るのよ。怖ーい天狗。子供を連れ去って食べちゃうんだって』
『ええ!?何それ』
『でしょ。だから危ないの』
『だったら由紀だってヤバイじゃん』
『ええ?!』
こちらが驚いてしまうほど、由紀は驚いた顔をした。
 それから由紀は何かを思案していたように思う。それから
『わたしは大丈夫なの』
と答えた。
『なんで由紀だけ大丈夫なんだよー』
『うーん、それは秘密』
『ずるいよー』
それきり由紀はその話題には触れなかった。わたしが何度話を向けても無視していた。

「思い出したかね?」
三田が、はっきりとした声で言った。暗闇の沈黙の中、それほど大きな声を出した訳ではないのに三田の声はよく響いた。
 あの日と違うな、とわたしは思った。あの日、風の強かったあの日は、三田の声は風に掻き消され、よく聞こえなかった。
『誰がやったんだー!』
三田は何度も叫んでいた。だが、それが誰に対して発せられた言葉なのかわたしたちには分からなかった。
 わたしと三田の周りに立つ男たちの姿は、あの日のままだった。そうか、そうだったのか、三田と男たちはあの日の再現をしたいと考えたのだ。
「三田さん、まだわたしたちを疑っていたんだね?」
わたしの問いに三田は小さく頷いた。
「ああ、そうなんだ。それで本当のところだうだったのか教えて欲しいんだが」
「それでもし、わたしが犯人だったとしたら、わたしは逮捕されるのだろうか?」
「いや、それはないよ。もうとっくに時効だ。公訴時効が廃止されたが、既に時効が完成している罪については適用されない」
「それじゃあ何故、今ごろこんなことをする?それもこんな手の込んだことを」
三田は激しく苦笑した。それから
「個人的な趣味だ、としたらおかしいかね?」
と笑った。
「個人的な趣味にしては、お仲間が多いような気がするが」
「そうさな。まあ、賛同者といったところかな」
「あの日、捜査に関わった全員が賛同者?」
わたしの問いに三田は片目を瞑り
「まあね」
と頷いた。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中

 少し錆び付いているのか、鉄製のドアはキキイと不快な高音を発っした。軋むようにゆっくりと開いたそこには、子供たちの靴箱が書棚のようにならんでいた。ここでわたしは、いつも由紀を待っていたのだ。友だちは皆、塾に行ってしまう。わたしたい兄妹は取り残されたように、二人だけの時間を過ごした。家にも帰れなかった。家には、いつの頃からか正夫という父の弟、わたしからすれば血の繋がった叔父が出入りするようになっていた。それも父の不在を狙った昼間に来るのだ。
 つまり、正夫と義母の芳子は姦通していたのだ。正夫は役場に勤めていて、仕事は水道の修理だったから、一度外に出てしまえばある程度の時間は自由になったのだろう。その自由になる時間が大抵、午後だったらしい。わたしたちが下校する時間と重なったのだ。
 もっともそれは、すぐに大人たちの知れるところとなったらしい。隣室に住むわたしの祖母は、小学校から下校したわたしや由紀を、わたしたちの部屋には近づけなかった。また、父もすぐに知ったようだ。わたしたちが寝静まった夜、父と義母が交わす口論で眼を覚ましてしまったのだ。先に眼を覚ました由紀は人差し指を唇に当て、声を上げそうになるわたしを制した。そんな夜が何日が続き、そのうち何ごともなかったかのような静かな夜になった。しかし相変わらず、正夫は義母の元へ通い続けてきた。
 週に何日か夜勤のある父は、夜勤明けの日など昼間家で休んでいた筈だった。それがいつの間にか、朝、帰宅して風呂に入るとどこかへ出掛けるようになったらしい。まるでマサ兄の来訪から逃げているようだった。子供心に父は負けたのだと思った。マサ兄い負けて自分の居所を失ったのだと。父は夜勤の前日、早番で午後の早い時間に帰宅する日があった。ちょうどわたしたちと同じ時間に帰ってきた。当然、わたしたちは家に入れず、おばあちゃんの部屋にいた。すると、それを見付けた父も、おばあちゃんの家に入ってきた。父は少し気まずそうだったが、おばあちゃんは何も言わず茶と茶菓子を出した。父は軽く頭を下げ、ありがたそうに茶を啜っていた。
 今、思えば、父はどんな心境でおばあちゃんの部屋にいたのだろう?当時のわたしに大人の世界のことなど知る由もなかったが、明らかに父は妻を弟に奪われたのだ。にも関わらず、素知らぬ顔をしていた。自らその場所に立ち入ろうともせず、逃れるように今は亡き前妻の、その母親の部屋に逃げ込んでいたのだ。そして何ごとも無いかのように、差し出された茶を飲み、菓子を食べ、時にわたしたちと一緒に笑ったりした。正夫という叔父が、毎日のようにわたしたちの家へ家族の絆を蹂躙しに来るというのに、義母がわたしたちを裏切り続けていたというのに、父は何もしようとしなかった。もっとも、それはわたしも同じだったかもしれない。父を責めることも、まして義母やマサ兄に抗議することも出来なかった。そして由紀と、そのことについて触れることすらしなかったのだ。
 しかしそのお陰でわたしたちはその後数年間、家族でいられたのだ。

 真っ暗な玄関を見回すと、あの頃の喧騒が蘇るようだった。誰もが幸福だったように思えた。実際は子供といえどそれぞれに事情を抱えていたに違いない。それでも、あの頃のわたしですら幸福を感じて生きていたのだ。暗闇の中に少年達の姿が蘇った。淳司、真人、健太、裕二、今はもう見間違えることはない、はっきりと思い出した。あの日々を。

「この子見てご覧よ!勃起させてるよ!」
芳子に笑われながら、ボクはパンツの中が気になって仕方がなかった。ねばねばした液体でいっぱいになっていた。それは自分の性器から噴出したものだった。ボクはあの日の裕二を思い出した。きっと裕二も同じ目にあったに違いない。毛が生えたとか、ちんぼが大きくなったと自慢しているうち、こういう液体が噴出してしまったに違いない。
 悪いことに次第に、臭いが立ち昇ってきた。それは生臭い、吐き気を催すような臭いだった。ボクは由紀の方にもこの臭いが漂ってしまったら、どうしようと心配になった。
「他人のセックスを見て夢精するなんて、お前は父親と同じ変態だ!」
急に芳子が真顔になり、吐き捨てるように言った。
「汚らしい!早く出て行け!」
それがボクの精通だった。
 ボクはパンツを押さえたままおばあちゃんの部屋に行った。表から入ろうとしたが、鍵が閉まっていた。どこかへ出かけているらしい。
「こっち」
振り返ると由紀がいた。由紀が指し示したのは長屋の裏側だった。ボクは頷くと由紀に続いて長屋の向こうに回った。
 そこは勝手口だった。明けると台所と、その手前に風呂場があった。おばあちゃんはいつも表の鍵は締めるが、こちらは開け放しにしていた。ボクも由紀もそれを知っていた。ボクが風呂場に入ると由紀も入ってきた。ボクは洗い場でズボンと、汚れたパンツを脱いだ。由紀が天井から下がったホースの栓を開けた。ホースは屋根の上に設置された温水器に繋がっていた。太陽の光を使って、タダで湯を沸かすというものだった。
「出てきたよ!」
由紀が持つホースの先から、暖かい湯が溢れ出した。
「ちょっと熱い」
今日は朝から天気が良かったのだ。天気が良いと湯もそれだけ熱くなった。
 ボクはまず、自分の腹から股、ちんぼや睾丸のまわりに付いたべたべたを洗い流した。それから今度はパンツに付いたそれも洗い流した。横で由紀が石鹸を泡立てていた。ボクがパンツを洗う間に、洗い流したボクの身体の部分を泡で洗い始めた。
「くすぐったいよ」
ボクらは笑いながら洗った。今度はボクが石鹸を取り、汚れたパンツに泡を立てた。
 ボクらは汚れをすっかり洗い流した。汚れとともに苦い気持ちも流れ去って行った。
 すっかり綺麗になったところで、ボクは泡を洗い流した。由紀が取ってくれたタオルで身体を拭いて、外へ出た。パンツは穿けなかったから、そのままズボンを穿いた。濡れたパンツは物干しに使っている紐に掛けた。
「ふー、やっと落ち着いた」
見上げると青い空が広がっていた。小さな雲が一つ浮かんでいるだけだった。
「これならすぐ乾くね」
ボクらは顔を見合わせて笑った。

 わたしたちは、いつも明るく振舞っていた。というより、本当に明るい気持ちでいた。マサ兄の無頼な行為にも義母、由紀にとっては実母だが、その芳子の罵声にも、わたしと由紀はすぐに立ち直って、それを笑いに変えた。何者も、わたしたちを不幸に落とすことなど出来ないようにさえ感じていた。苦痛、恐怖、落胆、屈辱、わたしと由紀の日常には、そんなものがゴロゴロ転がっていたが、それらに打ちひしがれることなど無かったのだ。
 ところが、そんな由紀の顔が曇ってしまったことをわたしは憶えている。

 ボクらが、風呂場から出てしばらくするとおばあちゃんが帰って来た。ボクらはいつもの生活に戻った気がした。おばあちゃんは
「今、中村さん家でお焼きを貰ってきたよ」
と新聞紙の包みを卓袱台に出した。丸ナスと餡子のお焼きだった。餡子は小豆と白豆の2種類があった。ボクは白豆の餡子が好きだった。すぐさま手を伸ばすと一つ取り上げ、大きな口で齧り付いた。由紀はいつも丸ナスから食べた。丸ナスが好きなのか?と聞いたことがある。その時、由紀は「丸ナスは大人が食べるから、それを食べれば早く大人になれると思って」と答えたものだ。その頃のボクにはまだ、早く大人になりたい、と考える子供の気持ちがまるで分からなかった。
「お茶でも出すかね」
おばあちゃんが台所に立った。ボクらは二人、お焼きを頬張りテレビを観ていた。ちょうど午後のバラエティ番組が終わり、短いニュースが流れていた。中国の話題だった。アナウンサーは随分、興奮しながら話していて、画面には政治家とは違う雰囲気の脂ぎった中年のおじさんが高笑いしているのが映っていた。
「景気、良くなってるんだって」
「けーき?」
ボクの返答に由紀は呆れたように黒目だけ天井を向け黙り込んだ。
 やがてテレビ画面の一面に、巨大な道路を造っている様が映し出された。こうそくどうろ、と呼ばれる道路が全国に走るなんて子供が考えても夢のような話だった。
「ぎゃ!」
台所からおばあちゃんの悲鳴が聞こえた。ボクらは口々に「おばあちゃん?大丈夫?」と叫びながら立ち上がった。しかし、すぐにおばあちゃんの安堵した声が聞こえた。
「なんだ、健介さんか」
おばあちゃんは、脅かさないで、と言って小さく笑った。ボクも、思わず笑った。由紀の顔を見ると、由紀は笑っていなかった。


 小学校の玄関に眼を走らせたが、長屋のわたしたちの家を荒らした犯人の姿は無かった。玄関から校舎の中に侵入したのかもしれない。だが、それは無いだろうと思った。なぜなら、この玄関も、廊下も、酷く音が反射するのだ。コンクリート製の校舎は、まるでコンクリートで作られた洞窟のように音を反射した。反射した音は木霊のように、どこまでも子供たちを追い回したものだ。犯人がここにいれば、校舎のどこに逃げようと、わたしの耳に入ってくる筈だった。しかし、コンクリートの洞窟を覆う闇にふいに非常灯の光が描き出した不気味な模様のどこにも、音らしい音は見付からなかった。聞こえてくるのは無機質な機械音だけだった。
 わたしは、ふいに振り返った。何かが眼の隅で動いた気がしたのだ。ガラス張りの玄関の隅々を眼で追った。しかし、ガラスが真っ暗な夜を背景に鏡張りのように玄関内の様子を反射しているだけだった。だが、また動いた。鏡の向こう側に、別の光を発見したの。その光をわたしは見逃さなかったのだが、むしろ光の方がわたし見付けられようとしていた、と言った方が正しいのかもしれない。それは、まるでわたしに合図するかのように、わたしの目の前で移動し始めた。
 光はガラスの外、そのずっと向こう側で輝いていた。校門の辺りらしい。わたしは玄関を飛び出した。中二階のエントランス、コンクリートで築かれた巨大な堰堤のようなエントランスの上で、光の探した。光は校門の出口で一度大きく輝くと、すっとその外へ消え去った。消え去る間際、光の中に浮かんだ姿が見えた気がした。遠い過去の世界を見止めたような思えた。それは少年の頃のわたしだったような気がした。
 わたしは慌てて駆け出した。少年時代の自分に誘われた気がしたのだ。抗えない衝動が身体中を駆け巡った。わたしは中二階のエントランスからコンクリート製の幅広な階段を駆け下りると、校庭を全力で走った。ひどく息が切れた。この何十年もまともな運動をしたことが無いのだ。そんな反省をしながらそれでも走った。しかし、校門に立つ少年の姿が近付くにつれ、それが少年などではなく、わたしたちの家に侵入していた男であることに気付いた。男は逃げるでもなくわたしを待っていた。少年時代のわたしとは似ても似付かぬ男の風体。わたしはがっかりして走る速度を緩めた。しかしすぐに思い直して走った。男を捕らえねばならぬ、と思ったのだ。
 しかしようやく校門に辿り着いた時、男はくるりと踵を返すと、校門の外へ走り出た。わたしは思わず
『待て!』
と叫んだが、男はまるで聞こえないとでもいうように、校門の向こうへ姿を消した。わたしも男を追って校門の外へ走り出た。そこは比較的広い公道だったが、人通りが少ない為、街灯の数が驚くほど少ない。街灯というよりも街の灯そのものが少ないのかもしれない。わたしは暗闇の中を四方八方に視線を送った。すると南へ向った先に、男が携帯する光が見えた。どうやら男は逃げる気が無いらしい。しかし、わたしに捕まる気でもなく、まるでわたしを翻弄するように止まっては逃げ、止まっては逃げしているのだ。わたしが道を走り出すと、はやり、というか案の定、男はするすると闇の先を進んだ。
 男がわたしをどこかへ誘っているのではないか、ということに気付くのに、随分時間が掛かった。息切れが酷くなり走れなくなるほど走った後だった。
 そもそも、泥棒の件にしてからが筋が通らない話だ、と思った。あんな長屋に泥棒に入る理由が無いのだ。盗みの対象になるものなど無い筈だった。あの部屋にあるのは何十年も前にわたしたち親子が使っていた布団や棚、タンスなど日用品の類だけだ。そして、もしそれらが欲しいならこの30年、いつでも盗めただろう。それが今になって突然盗もうなどタイミングが悪いにもほどがある。それ以外にあるといえばわたしが数日前に持ち込んだ荷物。しかしその中にあるものと言えば着替えの下着と、歯ブラシ、タオル、出張のサラリーマンが携帯しているものに毛が生えた程度のものだ。
 男が泥棒をするような価値のあるものは何も無かった。少し前、会社に勤めていた頃なら、数社の下請から徴集した見積書をカバンに入れていたこともあった。それらを家に持ち帰り、内容を精査していたこともある。下請業者であれば、是非とも欲しい資料に違いない。この厳しい受注競争の最中であれば、不当な手段を使っても落札したいところなのだ。特に、出版に関わる業界は、どの会社も困窮を極めていた。だがもうすでに、わたしはそのステージにいない。二十数年にわたるそうしたキャリアの全てを自ら放棄したのだ。
 所詮、世の中など肩書きでしか人を見ないのだ、と若い頃よく年長者に言われたが、今つくづくそれを実感できた。今のわたしは、盗まれるものすらないのだ。そして例えば今、犯罪に巻き込まれたなら、新聞はわたしを『住所不定無職』と書くだろう。読んだ人間はわたしを怪しげな人物と決め付けるに違いない。

 そんなことを考えながらも、なんとか男を追跡した。男は相変わらず時、わたしが歩き始めると立ち止まり、わたしの様子を窺ってわたしが近付いてきたところでまた走りだした。明らかに逃げるつもりではないらしい。しかし捕まる気も無いらしい。つまり、わたしをどこかへ連れて行こうとしているに違いない。
「おい!」
と声を掛けてみたが、道路の暗闇がそれを掻き消してしまった。
 ふと気付くと商店街に入った。簡素な商店街で、どの店もシャッターが閉まっていた。廃業している訳ではなく、早い時間に店仕舞いしてしまうのだろう。むしろ、今時こんな小さな店たちが営業していけることが不思議なくらいだった。
『カシショー、やまさ、魚ふさ・・・』
いずれも記憶にある。子供の頃、よく見た看板だった。そんな幾つかの店の看板を見ている間に、男の姿を見失ったように思った。しかし男がわたしを置き去りにする筈が無いのだ。案の定だった、男はまるでそれが目印とでもいうように光を照らしながら店の立ち並んだ先に立っていた。あるいは男の持つ光は、本当にわたしへの目印なのかもしれない、と思った。
「今、行くよ」
と大声で呟くと、わたしは小走りに進んだ。それを見届けた男はくるりと背を向けると店と店の間に消えてしまった。どうやら細い路地に入ったらしい。
 店と店の間を走る細い路地は、コンクリートブロックの塀で両側を塞がれていた。そこに衣服を擦ってしまいそうなくらい細い路地だ。こう暗くては走るのもままならなかった。息が切れていたわたしはちょうど都合が良いとばかりに歩き始めた。真っ暗な路地の何十メートルか先に、男が放つ光があったが再び走り出すほど体力が回復しなかった。光の方も、わたしの追跡する速度が落ちたのを確認したのか、こちらに合わせるようにゆっくりと進み始めた。
 コンクリート塀に触れながら、わたしは進んだ。暗いのでそうするより仕方無かったのだ。もっとも少し先に小さな街灯があって、そこだけくっきりと光の輪が出来ていた。まるで別世界のようなそれは、わたしに何かを照らし出しているように思えた。
 街灯の光の只中まで辿り着いたわたしは、顔を上げ男が放つ光がすぐ先にあるのを確認した。どうやら五十メートル間隔で、わたしに追わせているらしい。泥棒にしては小癪な真似だが、既にわたしはその男を泥棒とは思っていなかった。まあ、そんなことはどうでもいい、むしろ目の前で街灯が照らし出す何かを探す方がわたしには興味があった。そもそも何かを照らし出しているかどうかなんて分からなかったが、そんな予感がしたのだ。わたしの予感などまるで宛にならないことは、ここ数日の出来事でよく分かっていたが、それでも人間という奴は内から湧き上がる予感を信じずにはいられないらしい。
 しかし、予感はどうやら当ったらしい。わたしは小さな落書きを見付けたのだ。それは、風化してブロック塀の模様と化していた。しかし間違いなくクレヨンで描かれた模様だった。古びた緑色のクレヨンの跡は一見、苔でも生したように見えたが、それは街灯の光を受け鈍い色彩を放った。街灯の光がなければ気付くことさえ無かっただろう。
 それは、わたしが描いたものだった。
『そんなとこに落書きしたら叱られるよ』
あの日の由紀の声が蘇る思いがした。わたしが
『だいじょうぶ、だいじょうぶ』
と言いながら緑色のクレヨンで、怪獣の絵を描いた。わたしは人並みの絵は描けたから、一通り描き終えてから全体を見渡すとそれらしい姿が浮かび上がった。大きく口を開いた怪獣は、緑色の火を吐いていた。その先には逃げ惑う人。だがクレヨンで人など細かく描くことは出来ないから、人間など見ようによっては「大」という字にしか見えなかった。
 由紀はもう咎めもせず、わたしの横で絵を眺めていた。
『みんな死んじゃうね』
『そりゃそうさ!怪獣の口から出る火は5万度の熱ささ。それに放射能も含まれてるんだ』
まるで自分の自慢でもするように意気揚々と答えるわたしを見もせず、由紀は
『この人たちの家族はどうなっちゃうんだろう?』
と妙なことを言った。答えに窮したわたしが
『家族、なんて出てこないよ』
と答えると由紀は真顔でこう反論した。
『それはテレビに出て来ないだけで、実際は家族がいるでしょ?』
『実際は、って。実際はこんな人たちいないもん』
『実際はいないかもしれないけど、実際いたら家族はいるでしょ?』
『でも、いなんだもん!怪獣だっていないだろお。だからこの人たちだっていないんだよ!』
わたしは次第に腹が立ってきたのを憶えている。
 その絵にそっと指で触れてみて、それから顔を上げ歩き出した。男が光の中でおいでおいでをしているように思えたのだ。懐かしい思い出の落書きを後にわたしは歩き始めた。そうか、そうだった。わたしは由紀と歩いたのだった。毎日毎日、この路地を歩き、街の中を彷徨った。友だちはみんな塾に行き、家にも帰れず、おばあちゃんの部屋に行くのも義母に気を遣い躊躇う状況だった。そんなわたしたちは、まるで迷子のように街のあちこちを歩き回った。わたしは、あちこちに落書きをし、時間を潰した。日が暮れて、マサ兄が帰るまでの時間をだ。いつの間にかそれが日課になっていたのだ。

 男は、相変わらずわたしが歩を速めれば、自分の早く歩き、わたしが止まれば止まる、を繰り返した。また時折、わたしが駆け出せば、同じように走り出すのだ。ただ一つ
わたしが気付いたのは、男が誘う途はわたしがかつて由紀と歩いた道、ということだ。男がなぜそれを知っているのかは分からない。単なる偶然かもしれない。だがそれを質そうにも、男はわたしとの距離を一定に保ったまま、わたしを近づけようとしないのだった。
 暗がりから突然、現れた光と轟音。それは長野電鉄という地元の私鉄だ。都会と違い田舎の私鉄は静まり返った雑木林の間を平然とすり抜けていく。それが去った後、りんご畑が続いた。街灯も無い畑の間の道は、前を歩く男の光無しには進めないほどだった。退屈な無い道、いつもわたしと由紀はそう思いながらここを歩いた気がする。突然、目の前に真っ黒な壁が聳え立った。いつか映画で見た牢獄の壁のようだった。しかし、それは千曲川の土手だった。巨大な推量を持つ千曲川は、ビルくらいの高さの土手が無いと水害になってしまう、と遠足の際に社会科の教師から聞いた気がした。
 男は土手の中をぐるりと回ると、再び真っ暗な畑の中へ進んだ。わたしは男の放つ光を見失わないよう、足早に追った。墨を塗りたくったような暗黒の上に青みがかった天が乗っている、そんな感じだった。空は夜でも青いのだと、わたしは思い出した。由紀と何度も見た光景だった。明るい光が交錯する都会では、夜空の青さを感じることは出来ないのかもしれなかった。それで忘れていたのか、それとも夜空を仰ぎ見ることすら忘れて生きてきたのだろうか?それだけ幸福だっということだ、と思った。夜空すら忘れて、つまり、自分だけを見て生きてこられたこの二十年ほどの時間、わたしはひどく幸せだったのだ。
 自分の幸福に悔悟の念が湧き上がるのを感じながら、わたしはふと、元の商店街に戻ってきたことに気付いた。目の前にはさっき通り過ぎた「やまさ」があった。
『あのゲーム機、ヤマサに売ってたで』
という裕二の声が蘇った。もう、男のことなどどうでもよくなった。わたしはやまさの、既に電灯の消されたショウウインドウを見詰めた。いつしたショウウインドウの前に、裾を綺麗に刈り上げた華奢な頭をした男が立っているのが見えた。夜の闇の中で、不思議なことにそこだけが昼間だった。浮かび上がるような昼間の光景は、あの日のものだった。学校帰り、この道を通ったわたしと由紀は、そこに父が立っているのを見た。ショウウインドウの一点を見詰め、何ごとが呟いていた。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中

第9章 ◇悪夢◇
 
「あのゲーム機、ヤマサに売ってたで」
裕二は大変な発見をした、というような口振りだった。そりゃそうだろう、と思った。淳司が買ったゲーム機は、まだ発売されてないものだと言われて買ったのだ。もっとも、近いうちに発売する、とも言っていた。でも一台3万円もするゲーム機なんてこの町じゃ淳司の家くらいしか買えないだろうから、発売しても意味が無いんじゃないかと思っていたのだ。
「早速、五年の小島が買って貰ったらしいで」
「ええ?!ほんとか?」
真人が大きな声を上げた。一瞬、クラスのみんなが驚いて、ボクたちに視線が集まった。二時間目が終わった休憩時間だった。昼休みの次に長い休憩時間なので、みんな仲良し同士がそれぞれ集まって雑談をしていたのだ。
「しーっ」
裕二が人差し指を唇の前に立てるとボクらはみんな肩をすぼめて身を寄せ合った。裕二が小声で話始めた。
「それだけじゃない。中学校じゃ、十人ばかりが買ったらしいで」
「ええ!?3万もするのにかあ?」
今度は健太が大声を上げそうになって、慌てて両手で口を押さえた。すると、さっきまで少し離れたところで話を聞いていた武男が、
「実は俺も買って貰ったんだ・・・」
とばつが悪そうに言った。
「ええー!?」
裕二、真人、健太も、もちろんボクも驚いた。
「武男んち、そんな金持ちだったかあ?」
「金持ちなんかじゃないよ。だってうちの親、公務員だもん」
「でも、お前んち、共稼ぎだよな」
「ん?うん、お母さんも働いてる。別の役所だけど」
「あー、そっかー」
急に裕二が頭を抱えるようにして頷いた。
「うちの両親が話してたで。最近の若い夫婦は共稼ぎが多いって。共稼ぎすりゃあ、二倍儲かるから、知らねえ間に金持ちになるってさ」
「金持ちなんかじゃねえって」
「いいや、それにこうも言ってた。公務員はいいって。ろくに働きもしねえくせに、給料だけはちゃんと入ってくるって。今みたいな不況の時は公務員が一番オトクは商売だってさ」
「オトクなんかじゃねえよ!」
武男は裕二に掴み掛かりそうになった。それをボクと真人がなんとか止めた。
「別に金持ちでいいじゃねえか。悪いことして稼いでる訳じゃねえし」
健太はそう言ってから、はっとした。淳司が頭を掻いていたのだ。
「いや、まあ、おれたち子供には関係ないっつーかさあ・・・」
「いいよ、健太。どうせうちは”強盗”だからな」
淳司が言うと健太は苦笑いを浮かべながら
「そういう意味じゃないってえー」
と言い訳したが、淳司は笑いながら
「いいよいいよ」
と顔の前で手を振った。

「そんなことよりさ。なんか怪しくねえかあ?」
「怪しい、って?」
「まだ発売してない、って話だったろ。それが何で淳司の家にだけ売ったんだ?」
「試作品だからだろ」
ボクらは腕組みをして頭を捻った。そもそも試作品なら東京で試してみればいいのに、なんでこんな田舎に持って来たんだろう?と思ったのだ。
「日電通で作り始めたらしいよ」
小林君という同級生が言った。彼の両親は日電通の工場で働いていた。
「先月、急に話があって、急ごしらえでラインを造ったって話してた」
「ははーん。それでこんな田舎に持って来たって訳か」
「それにしてもさ、試作品を売り付けるなんておかしくね?」
「そうだよ。普通、試作品なんてタダだよな」
「淳司んちがいっくら金持ちだっつったって、試作品が有料っておかしいで」
「なあ、淳司も変だと思うだろ?」
淳司はあまり興味が無い、という表情だった。だが、何も答えないと、余計に煩いことになりかねないと思ったらしい。
「あれはさ、父さんが貰ってきたんだよ」
「え!?」
「だからタダさ」
「タダ!?」
「そ、ほんとはタダで貰ったんだ」
なーんだ、とみんな手品の種明かしをされたような気分になった。
「でもさ、淳司の父ちゃん誰からタダで貰ったんだ?」
「金持ちだから日電通の偉い人と知り合いなんだろ」
「ふーん、やっぱ金持ちはトクだなあ」
淳司は不満げに溜息を吐き、
「うちはさ、みんなも知ってるとおり悪徳不動産屋だから、日電通なんて大手の会社と取引なんか無いさ」
と苦々しい顔をした。みんな淳司の顔を見て押し黙った。明らかに淳司は怒っていた。自分の家を金持ちと言われることを淳司は嫌がっていたのだ。
 その時、ふいに小林君が口を開いた。
「おれ、変な噂、聞いたんだ」
「変な噂?」
「うん。父ちゃんと母ちゃんが噂してたんだけど、あれさ、本当はたくみの父ちゃんが発明したって言うんだ」
「たくみの父ちゃんが?」
みんなが急にボクの顔を見た。突然のことにボクは、答える言葉が思い浮かばなかった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。なんで急にうちの父ちゃんなんだよ」
「うちの父ちゃんと母ちゃんがそう言ってたんだ」
「でもうちの父ちゃんなんて、警備員や工事現場の仕事をしてるだけだよ。なんでゲーム機なんて開発できるんだよ」
ボクはゲーム機の話が突然、父さんの話に移ってしまったので、困ってしまった。それにボクの知る父さんは、大人しくて、無口で、ただ毎日、真っ黒になりながら黙々と仕事をする人だった。
「いや、考えられるで」
また裕二が、年寄りのような口調になった。
「おれは聞いたことがあるぞ。たくみの父ちゃんは昔、社長さんだったって。東京のでっかい会社の研究所から独立して、えらい進んだ機械を作る会社をやってたって。淳司の父ちゃんより金持ちだったとも言ってた」
「え?オレ聞いたことないよ。そんなこと」
「いやでもおれも、それ聞いたことある」
追い討ちを掛けるように真人が言った。
「父さんが話してた。あの人は優秀な人だったって」
みんなの視線がボクに集まった。答えに窮したボクは、何も言えずただ戸惑うばかりだった。
「おーい、授業だぞー!三時間目が始まるぞー。みんなー席に着いてー」
先生の大きな声が、ボクらの会話を遮った。途端にチャイムの音が鳴り響いた。お陰でボクはみんなの追及から逃れることが出来たのだ。
 それから放課後まで、ゲーム機の話題は出なかった。次の短い休憩時間はともかく、昼休みにはみんなに問い詰められるんじゃないかって少し不安だったけど、誰もその話題には触れなかった。思い出さなかった、と言った方が正しいのかもしれない。子供の興味なんてそんなものだ。そして、下校時間が近付くにつれ、ボク自身もその話題を忘れてしまった。
 そんなことよりボクは、由紀の姿を探した。昨日はあっという間に先に帰られてしまったけれど、今日は一緒に帰ろうと思ったんだ。それで、この一ヶ月ちょっとの間ゲーム機に夢中になっていたことを謝ろうとも思った。きっと由紀はそれを怒っているに違いない。昨夜だってその件については
『勝手なものね』
と呆れたような口振りだったじゃないか。

 ボクは六時限目の授業が終わるや、一目散に玄関に向かった。淳司や真人、健太に挨拶もせずにだ。これなら由紀を待ち構えることは容易だと思った。背の高い靴箱の陰に隠れて由紀を待った。わざわざ隠れる必用など無いような気もしたが、クラスの誰かに見付かりたくなかったのだ。しかし結構な時間待ったが、由紀は一向に来ない。他の生徒がポツリポツリと少しずつだが玄関を出て行った。
『今日は用事がないのかあ?』
ボクは昨日、由紀が足早に帰ったり、暗くなるまで家に帰らなかったりしたのは、誰かの家に遊びに行っていたのではなく何か特別な用事があったのではないかと考えていた。
「たっくちゃん」
背中から誰かが抱き付いて来た。振り返ると裕二だった。こいつはいつも馴れ馴れしい。ボクと特に仲が良い訳ではないのに馴れ馴れしい。そうやって馴れ馴れしいから、ボクはこいつを好きになれなかった。
「たくちゃん、こんなとこで何してんの?」
意味ありげな言い方をした。ニヤニヤ笑っていた。そして裕二の向こうには淳司、真人、健太が同じように含み笑いを浮かべていた。
 裕二が「ねええ」と、わざとオカマ言葉で答えを催促してきた。
「なんでも無いよ!」
とボクが無視しようとすると
「あれ!来たよ?」
と裕二が素っ頓狂な声を上げた。それに合わせて淳司、真人、健太が
「来た来た」
ふふふ、とひそやかに笑った。ボクは靴箱の陰に隠れていたので、ボクの位置からだと由紀の姿は見えないのだ。それが分かっていて、ボクをからかっているのだった。
 ボクは、彼らのお陰で由紀に逃げられてしまうんじゃないかと思うと気が気じゃなかった。だから下駄箱の陰から由紀の姿を確認したかったけれど、悪友4人が邪魔で出来なかったのだ。
 やがて誰かが靴箱の前で立ち止まる気配がした。そして靴箱から靴を取り出す音、コンクリート製の床に置く音がして、靴を履くと、何のためらいも無く、玄関に向かって足早に歩き始めた。ボクは慌てて追い掛けようとした。また昨日のように逃げられてしまうかもしれないのだ。しかし、出口に向ったボクの視線の先を横切ったのは美奈子だった。
 悪友たちが「来た来た」と言ったのは美奈子だった。ボクをひっかけてからかったのだ。でも、ボクは文句を言えなかった。言ったら彼らの思う壺、
『やっぱりたくちゃん、由紀が好きなのね』
なんて裕二にオカマ言葉で笑い者にされてしまうに違いないのだ。
「残念だったねー、たくちゃん。由紀ちゃんはまだですよ」
裕二が意味ありげな言い方をした。
 ボクと由紀が兄妹であることは、当然みんな知っている。でも同時に、ボクと由紀が血のつながりの無い兄妹だということも知らない者は無いのだ。昨年までは、つまり五年生までは、そんなこと誰も気にしなかった筈なのだ。少なくともボクにはそう思えた。でも、裕二のちんぼがある日突然、びっくりするくらい大きくなったり、髭が生えたりするようになってから、みんな少しずつ色んなことにそわそわし始めたんだ。運動会の練習でするフォークダンスで、男子が女子の肩に手を回すのに、顔を真っ赤にしたり、手付きがぎこちなくなったりする奴らが増えていった。それは伝染病のように少しずつ、でもたちまちに学年中に蔓延し、今や男女が二人でいるだけで、他の児童からのからかいの的になってしまった。
 そして綺麗な子や可愛い子は特にその対象になってしまった。彼女たちの一挙手一投足に皆の関心が集まったと言って良い。結果、彼女たちと親しげに話したりする男子はまるで痴漢でもしたかのように蔑まれた。困ったことに、由紀は学年でも一番の美人と見られていた。勉強が出来、スポーツも万能というところが、彼女の価値を更に高めていたと言っても良い。欠点といえば少し無口なだけで、それすら神秘的な魅力に見られる方が多い。ボクにすればいつまで経っても真っ黒な男の子のような妹に過ぎないのだけれど、周囲がそれを受け入れる時期は過ぎてしまったらしい。
 結果、血の繋がらないボクらが、一つ屋根の下で暮らしているという事実が、みんなの妄想を書きたてた。女子の中には勝手なロマンスを妄想する者もいた。ボクら兄妹は、好奇の目で見られるハメになったのだ。
「たく、なにやってんの?」
振り返ると由紀がいた。靴箱の最上段から靴を取り出していた。
「またみんなでゲーム?」
「違うよ。もう帰るんだ」
「ふうん。じゃ、一緒に帰る?」
ボクが「うん」と答えると、裕二が
「由紀ちゃん、たくみはずっとあなたを待ってたんですよ」
と芝居染みた口振りで言った。しかし由紀はまった動じなかった。
「へえ、そりゃ兄妹だからね。帰る方も一緒だしね」
と軽く返した。往なされた思いをしたのか、裕二は白けたように黙り込んだ。
 その時、ボクは聞いたんだ。由紀が
「たく、帰るよ」
と言った言葉が、コンクリートの壁や天井、床でまるで洞窟のように響き渡ったのを。なぜそんな風に聞こえたのかはよく分からない。ただ、少しの間、由紀の言葉は玄関に木霊していた。

 ボクと由紀が校門を出ると、玄関から出たすぐの中二階の位置にあるエントランスから悪友たちが恨めしそうな顔をこちらを見ていた。
「熱いよお二人さん!」
と叫んだのは相変わらず裕二だった。他の三人、真人、健太、淳司は白けている感じだった。当たり前だ。ボクにしてみれば、例え血のつながりが無いとはいえ、由紀は妹以外の何者でも無かった。第一、同級生には黙っているが、ボクと由紀はいまだに一緒に風呂に入っているのだ。背中を流し合ってもいた。二人で湯船に入り、潜水ごっこや手の平で作った水鉄砲で湯を掛け合ったりしていたんだ。だから誰がなんて言おうとボクらは兄妹で、・・・しかしそれにしては由紀の方が大人び過ぎているのは否めない。背も学年で一番高いし、勉強ができるせいかどこか大人びていた。それに比べてボクは、まだまだ大人になるには時間が掛かるらしい。裕二など、大人と変わらないくらい毛が生えていたりするんだ。
 由紀が姉で、ボクが弟だったらちょうど良いのかもしれなかった。ボクは二人で歩くたび、いつもそう思うんだ。行き先を決めるのも、先を歩くのも、立ち止まって辺りを見回すのも由紀だった。ボクは由紀の後を付回しているに過ぎない。
 ところで今日の由紀は様子が変だった。いつもは遠回りして帰るくせに、今日に限って真っ直ぐ長屋に向った。何か特別な用があるのだろうか?と思ったが、そうでもないらしい。ボクの問いに由紀は
「ん?別に」
と簡単に答えたんだ。その割りに由紀は時間を気にしているようだった。窓の外から柱時計が見える家の前で立ち止まっては、今の時間を確認しているようだった。
「やっぱり何かあるの?急いでる?」
ボクが訊ねると由紀は突然、不機嫌そうに横を向いた。それから
「うるさいわねえ!黙って歩いて」
と怒鳴ってから俯いた。自分自身が一番驚いたように見えた。
 りんご畑の向こうに屋根が小さく一つ見えた。最近、建った関口さんという家だ。元は長屋の向かいの部屋に住んでいたが、貯めたお金で建てたという。父親は郵便局員で、公務員らしい四角い建物だとボクは思っていた。
 その家を越えるともう長屋の壁がすぐそこに見えた。北側の壁は、長屋の背中に当る。壁伝いに表に回った。コの字型に作られた長屋の中庭に出た。ボクと由紀は慎重に家の様子を窺った。マサ兄が来ていないか確認したのだ。マサ兄が居る所へ帰ってしまうと義母に酷く叱られる。奥の部屋から声だけしか聞こえないのだが、まるで仇に向っているかのような激しい口調なのだ。きっと顔も鬼のように恐ろしいものになっているに違いない、とボクは密かに思っていた。
 マサ兄がいるのかいないのか、家の外からは分からなかった。ボクは不安になって由紀の袖を引いた。
「ねえ、いつもみたいにどこか行こうよう。こんな早く帰ったらまた叱られるよ」
でも由紀は動かなかった。
「由紀い、松川行こうよ。それとも滑り山の方がいい?」
由紀は首を左右に振った。
「じゃ!遠いところで切通しの向こうの小山は?神社の境内で鬼ごっこして遊ぼうよ」
「嫌!絶対に嫌!」
今日の由紀はどうかしてる、とボクは思った。普段なら由紀の方からボクを誘うのに。
 意を決したように由紀は、ボクらの家の引き戸を開け始めた。少しずつ、音を立てずに隙間を開け始め、やがてボクらが一人ずつなら出入り出来る程度の空間が出来た。まず由紀が、滑り込むように入った。続いてボクが侵入すると、今度は静かに引き戸を閉めた。締め切る時、一瞬だがピシャッという木と木が弾ける音がした。
 ボクらが侵入した部屋は、静まり返っていた。急に静まり返ったような気もするし、ずっと静かだった気もする。由紀が耳に手を当て、部屋の中の音を探った。だが何の音もしない。人の気配も感じられなかったから、ボクは
「マサ兄来てないね」
と声を上げてしまった。すぐさま由紀に手の平で口を封じられた。耳元で由紀が激しく叱責した。もちろん、音にならない声だ。
『馬鹿ね!隠れてたらどうするの』
ボクも同じ声で答えた。
『誰もいないよ。義母さんだっていない。きっと今日は来ない日なんだよ』
由紀はう〜ん、と唸るような仕草をしてから、目の前を指差した。奥の部屋を覗いてみようというのだ。そこはボクらにとって謎の部屋だった。マサ兄が来ると決まって義母と二人でその部屋に篭りっきりになるのだ。義母が怒る声も、決まってその部屋から聞こえて来るのだ。
『えー?もしもマサ兄がいたら大目玉だよ』
『だから、しー、静かに』
ボクらは鼠のように四つん這いになった姿勢で、奥の部屋に近付いた。家の中は相変わらず静まり返っていた。それはマサ兄と、そして義母の不在を示していた。
 ボクは、そういえば?と初めて疑問に思った。マサ兄が来ると何故、二人は奥の部屋に行ってしまうのだろう?話をするなら居間でいい筈だし、居間にはテレビもあるし、卓袱台だって居間にあるんだ。
『ばか!』
小さな声で、由紀がボクを罵倒した。まるでボクの頭の中を見透かしているようだった。あるいはボクは、頭の中で思ったことを口に出して言っていたのだろうか?ボクの目の前で由紀が奥の部屋の前に辿り着いた。襖で仕切られた向こう側が奥の部屋だ。夜は布団を敷いて寝床に使っている。
『開けてみる?』
ボクの問いに由紀は首を左右に振った。そして顔を横に向け、耳をゆっくりと襖に押し当てた。中の音を聞いていた。ボクも由紀の真似をした。静かに耳を近付けると、洞窟の中にでもいるような、低い風の音がした。それ以外、何の音もしない、そう思った時、ボクらの耳に大人の話し声が聞こえてきた。
 それはかすかな音だったが、ボクらは聞き逃さなかった。普段聞きなれている義母とマサ兄の声だったから。声は、意図して小声としていることがすぐに分かった。でもボクらの耳は、そんな微かな会話の内容も聞き逃さなかった。
『やっぱりさ、念のため見てこようか?』
という言葉が聞こえた。義母の声だった。すぐにマサ兄の声がそれを否定した。
『いらねえよ』
『でもさ、もしあの人だったら』
『いいじゃねえか今更よう』
『そりゃそうだけど』
『もうとっくく了解済みの話じゃねえか』
まさ兄が小さく『くっくっくっ』と笑うのが聞こえた。
『今更見られてもなんのこたあねえさ。文句言う度胸もねえんだからな』
『そりゃそうだけど、気味悪いじゃないか』
『そっかな?俺は気になんねえ。むしろ見せ付けてやるのも面白えな』
『やだ!悪趣味だねえ』
二人の低い唸り声が響いた。顔を見合わせて笑っているらしい。
 それで会話は途絶えた。ついで、布団が捲くれる音がした。布が擦れ合う音がして、襖が揺れ始めた。すると由紀が襖から顔を上げた。しばらく襖を凝視した後、顔を左右に向けて何かを探し始めた。ボクが
『どうしたの?』
と訊いてもそれには答えず、襖の隅から隅に目を凝らした。でもすぐに一番壁際に何かを見付けたらしい。鼠のような格好のまま、四つん這いの忍び足で壁際まで移動した。
 由紀は壁に頭をくっ付けると、そのまま顔を前にずらし襖の端に押し当てた。どうやら襖の端を覗き込んでいるらしい。
『何してるの?』
と訊いてみたが、ボクはまるで由紀に無視されてしまった。そこでボクは由紀の隣りに行き、由紀の頭の上から同じように襖の端を覗き込んだ。そこには隙間があった。1センチほどの隙間。子供が部屋の中を覗きこむには十分な隙間だった。
 隙間の向こうに広がる部屋には、布団が拡がっていた。といってもボクらが寝る時とは違い、一つしか敷かれていない。また掛け布団が足元に丸まって山を作っていた。その足元が、ちょうどボクらが覗き込む襖の方だった。だからボクらは布団の作った山が邪魔でその向こうが良く見えなかった。だが突然、足が一つ山の向こうから落ちて来て山を潰した。その為に向こう側の様子が見えた。二人が裸でいた。それはマサ兄と義母だった。
 義母の上にマサ兄の乗っていた。二人は懸命に身体をぶつけ合っているように見えた。やがて掛け布団が形作っていた山がすっかり崩れ、全体が見え始めた時ボクはマサ兄の動きに合わせるように見え隠れするマサ兄のちんぼに目を奪われた。
 それは、
『ほーれ、どうだ!』
と裕二が校舎の裏で見せてくれたちんぼと同じだった。

『おめらはまだ毛も生えてねんだろ?』
と裕二は自慢げだった。
でもボクは、いやボクや淳司や真人や健太は、毛よりも裕二のちんぼの大きさに驚いていた。夏にプールの着替え室で見た裕二のそれは、ボクらのとさして違いは無かった。例えるなら小指程度のものだったのだ。それが、目の前の裕二のそれはまるで鰻のように見えた。
『ははは、これか。こりゃ毛が生えてきたら急にでかくなったんだ』
裕二はこれ見よがしに手の平で掴んで見せた。
『弄ってるともっとでかくなって固くなんだぜ』
言いながら裕二は自慢げに手の平で擦った。するとたちまち棒そっくりになった。お寺の和尚が木魚を叩く撥(ばい)という棒にそっくりだった。
『いけね!これやってると気持ち良くなっちゃって』
おお!という声を上げて突然、裕二は蹲った。顔が真っ赤だ。
『どうしたんだ?裕二』
心配そうに淳司が声を掛けたが裕二は答えなかった。
『腹痛いのか?』
真人の問いに裕二はしぶしぶ頷いた。
『ばっかだなあ。ちんぼなんか出してるからだよ。保健室に行け!おいみんなで連れてってやろうぜ』
真人が裕二の腕を取ろうとしたが裕二は首を左右にふり嫌々をした。
『おい!いいのかよ。大丈夫なのか?』
『一人で行く』
『だって裕二、立てるのか?』
『立てるさ。でもおめえらが居たら立てねえ』
『なんでだ?』
『なんでもなんだよ』
みんな裕二の言う意味が分からなくて、裕二の言うようにこのまま一人残して教室へ帰ってしまって良いやら、思案したまま立ち尽くしていた。その時、突然健太が
『なんか臭え!』
と叫んだ。
『そうか?』
『臭えよ!なんか変な臭いがする』
言われて見ると今まで嗅いだ事が無いような臭いがした。
『なんだこりゃ?』
『なんの臭いだ?』
皆が口々に騒ぎ始めた。でも、すぐに収まった。裕二が叫んだのだ。
『おめえら帰れ!帰ってくれよお、』
裕二は『おっおっおっ』と泣き始めた。ボクらは泣き続ける裕二にただ驚き、裕二に何の言葉も掛けられぬままその場を去ったんだ。

 マサ兄と義母は裸で抱き合ったまま、必死に動いていた。肌には汗が浮き湯気が立ち昇っているようにさえ見えた。ボクは
『ね、何してるんだろう?』
と由紀に訊ねようとしてやめた。由紀がそれを拒んでいるように見えたからだ。でもボクは、どこかで見たことがあるな、と思った。一生懸命思い出してみると、社会見学の時に見たあれだ、と思い出した。
 あれは螺子工場だった。コンプレッサーが熱い蒸気を発しながら力強く鉄板を突くのだ。コンベアの上の鉄板が、少しずつ移動するのに合わせて
とーんとーんとーん
とリズミカルな音を立てながら何度も何度も繰り返し聞こえた。
 その、繰り返される音は人間が発するものとは明らかに異質だった。プログラミングされた機械特有の動きだ。
 マサ兄と義母はまだ同じ動きを繰り返していた。コンプレッサーの奏でる音、規則正しい音が聞こえてくるようだった。それは人間では叶わぬ音の筈だった。心を持たない機械だけが発する音。吹き出る汗だけが、コンプレッサーが発する唯一の悲鳴に感じられた。永久に繰り返されると思われた正確な動きも、いつかは終わりが来ることを暗示していた。
 二人の身体から噴出す汗、立ち昇る湯気が濃さを増したように思えた。壊れる寸前の機械がブレーキを失ったように暴走し始めたように見えた。ボクは思わず
『ねえ由紀』
と由紀に助けを求めた。しかし由紀は襖の隙間に険しい視線を向けたまま、ボクを振り返ってはくれなかった。
 その時、ボクは自分の身体に変化が現れているのを感じだ。ボクらは襖の隅に身を寄せ合い、折り重なるようにして狭い隙間から覗いていた。そしてボクはボクの身体にぴったりとくっ付いた由紀の身体が、これまでと別のもののように感じたんだ。淳司や真人や健太の身体とは異なる別の生き物の身体のように思えてきた。突然、そんな思いが湧きあがったボクは慌てて由紀の身体から離れた。でも、由紀の身体の感触が、ボクの血液を逆流させる方が先だった。
 突然、
ドクンッ
という大きな音が聞こえた。それは由紀には聞こえなかっただろうと思う。なぜならボクの耳の中でした音だからだ。その音の震源地はボクの心臓だった。大きく脈打った心臓から大量の血が流れ出した。それは次第に激流となっていったらしい。激流はあっという間に身体を巡った。次の瞬間、体内のあちこちで波打った血流はひっぽんの波にまとまり一つの方向を目指して突進した。大量の血が一気に流れ込んだの場所は逃げ道の無い袋小路だった。
 恐る恐る手に触れたそれは、何ものかが分からなかった。ボクはパンツの中に手を入れたまま由紀を見た。由紀の様子を窺おうと思ったんだ。しかし、由紀は襖の隙間から眼を外し、ボクを見詰めていた。
『裕二のちんぼがある』
ボクはなんだかひどく卑怯な言い方をしてしまった気がして、後悔した。後悔は、パンツの中を汚した白濁した液体をより醜いものに見せた。ボクは由紀に嫌われたかどうかがひどく気に掛かった。
「あんたたち!なにやってるの!」
ばしゃん、という乱暴に襖が開かれる音とともに罵声が聞こえた。義母が全裸のまま立っていた。全身の汗は既に引いていた。むしろ真っ青な顔が、部屋中の空気を凍り付かせた。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中