第10章 ◇混沌◇


「ちょっと待てよ」
暗がりからわたしに声を掛ける男がいた。その声にわたしは吾に返った。まるでタイムマシンに乗って、過去の世界行き、突然舞い戻ってきたような気分だった。顔を上げると街灯の下に男が進み出た。その男の姿を見てわたしはギョっとした。新幹線の中でわたしに古い日付のスポーツ新聞を渡した男だった。
「やはりあんたも一味だったのか」
わたしが言うと三田が「一味とは心外だな」と小さく笑った。
「わたしの説明に何か問題でも?」
男に対し、わたしは問い掛けた。今やわたしは、わたしの記憶になんら疑いは無いと思っていたのだ。
「あんたの説明だと、義母の芳子と叔父の正夫が男女の関係になったのは、大分以前という印象だ」
「うん、そう。たしかそうだった筈だ」
「うーん、その辺が微妙に違うんじゃないかな。われわれが当時、捜査したところでは、芳子と正夫の関係は事件のおおよそ半年前からだった筈だ」
「半年前?馬鹿な」
「いいや、その筈だ」
「だって、ボクらは、いやわたしと由紀は、マサ兄の訪問を恐れて毎日のように町を徘徊して歩いたんだ」
「それもどうだろう?そもそも君ら家族は、芳子と君は、継母と連れ子だというのに実の母子のように仲が良いと評判だったらしい」
「ええ?!」
わたしと芳子が実の母子のようだった?わたしは、また記憶が堂々巡りを始める予感がした。
「芳子は、健介が以前経営していた会社の社員だった筈だ」
 突然、
コホンッ
と咳払いするのが聞こえた。まるでわたしと男の会話を遮るようだった。
 三田だった。
「やあ、だいぶ寒くなってきたな」
コートのボタンを閉め直しながら
「この寒さじゃ風邪をひいてしまう。早めに帰ろうや」
と続けた。
「細かいことは、もういいじゃないか」
まるで、”ボクが思い出そうとしていること”を遮るように言った。
 三田は溜息をつくように深く息を吐くと
「それで君は」
と言い、三田は小さく咳払いした。
「いや、君たちは父親を殺した訳かね?」
抑揚の無い声だった。
「ちょっと不躾だったかな?」
と三田が禿げ上がった頭を掻いた。それからコートの襟を立て
「おお寒い」
小刻みに震えて見せた。
どうなんだね?、という三田の問いを聞きながら、わたしはふと疑問に思った。それを口に出すか少し迷ってから、やはり訊ねてみることにした。
「みなさんは、なぜボクらを疑ったのです?」
三田と、暗がりでわたしを取り囲むように立ち並ぶ男たちを見渡した。
「いや、否認しようという訳ではないのです。そうではなく、ちょっと不思議に思ったのです。だってそうでなければボクと由紀を疑う理由が無い」
三田は一度、真っ暗な天を仰ぐとこう言った。
「うん。その辺がよく分からないんだ。何しろ当時、君らから何も聞けなかったから」
「そう、でしたね」
「ああ、ただ少し想像していることはある」
『どうして来たの?!』
わたしの耳の中で由紀の叫ぶ声が聞こえた。
『もう6年生でしょ!いつまでもままごとしてるんじゃないわ!』
結局、三田の配慮も空しく、ボクはそのことを思い出し始めていた。

 ボクは由紀の行き先が分かった気がした。あまり良い予感はしなかったのだければ、雁田山の山裾に沿って走る農道をどんどん北に歩けば、行き先に行き当たるのだ。
 問題は、由紀がその先どこへ行く気かということだが、ボクにはある予感がしていたんだ。
 半年くらい、いや一年くらい前からだろうか?ボクの家は壊れ始めていた。義母の芳子が父にひどく冷淡な態度を取るようになったのだ。マサ兄が逢引に来るのを隠そうともしなかっただけじゃない。芳子は父の食事をまともに作ろうとしなくなった。そして、父が家にいる間中、監視するように睨み付けていたんだ。父もそれに気付いたから、徐々に家に寄り付かなくなった。
 そんなことが続いて、ボクらがおばあちゃんの部屋にいるところへ父が現れたんだ。ボクはきっと家に帰り辛いから、おばあちゃんの部屋へ逃げ込んできたんだろうと思ったのだけれど、どうやらそうでは無かったらしい。
 由紀が、父にひどく怯えていた。父は、ボクと由紀の間に座ったんだ。その瞬間、由紀の身体は震え始めた。
 由紀は由紀なりにそれを抑えようと努力していた。でも、止めようと思えば思うほど、由紀の身体はどんどん震え始め、やがて全身が痙攣したように激しく動き始めたんだ。
『どうしたんだ由紀、大丈夫か?』
父が、いつもの気弱そうな笑みを浮かべながら、由紀の身体に触れようとした。次の瞬間、由紀の身体は弾けるように壁際へ飛び退いた。
『いや!』
由紀が大きく叫ぶと、驚いたおばあちゃんが由紀に近付いた。おばあちゃんは由紀の頭を抱き、抱かれたまま由紀は、泣き出してしまった。
 由紀とおばあちゃんは抱き合ったまま、離れようとしなかった。おばあちゃんの腕の中に埋もれて由紀の表情は見えなかったが、ボクにはおばあちゃんが一切、こちらを見なかったのが印象に残った。まるでこちらに見てはいけないものがあるとでも言うように、おばあちゃんは由紀を抱き締めたまま壁を見詰めていた。
『健介さん。今日はもう帰ってもらえるかしら』
優しいおばあちゃんが、珍しく冷淡な言い方をした。父は
『ああ』
と苦笑いを浮かべながら頭を掻くと立ち上がった。引き戸と開け、外に出た。
『おいたくみ、由紀、遅くなる前に帰って来いよ』
ボクは父に向って大きく頷いた。だが、由紀の方を見ると、由紀とおばあちゃんは更に強く抱き締めあっていたんだ。

 そんなことを思い出しながら、ボクは農道を北へ向って歩き続ける由紀の影を追った。やがて切通しが見えてきた。平地の上に半島が浮かぶように横たわる山の斜面の先に切通しはあった。正確には切通しの残骸だ。しかしボクは由紀の向う先が、切通しなどでは無いことを知っていた。
 昨日、由紀はボクに言った。
切通しの向こう側、桜沢の山手に山門があって、そこを登ると神社があって、そこに大きな鳥居があるの』
と。今日、そこに行くのだと言った。
『満月の日にね、お月様の影が鳥居の下を通る時、そこにいると願いが叶うんだって』
何を願うつもりなのだろう?と思ったが、その前に、
『神社なんてどこにないのじゃないか?』
そう由紀に問い掛けたかった。山門も、もちろん無い。そしてボクの夢に出てきた『髭おじ』もいないのだろう。
『髭おじさん、雁田にいるでしょ?』
居もしない人物を、由紀はなぜ咄嗟に思い浮かんだんだろう?それは誰か別の人物を、そう変えて言っていたに違いない。そのままボクに伝えたくない人物だったのだ。

 それからボクは山沿いの農道を歩くのをやめにした。ずっと遠回りにはなるが、田んぼの畦道を歩くことにしたんだ。延徳田んぼと呼ばれるそこは、かつて延徳沼と呼ばれる湖ほどもある湿地帯を開拓して作られた。ほとんど底なし沼のような、ひどい沼地だったから、今もところどころ畦が崩れたりする。子供が一人で歩くにはとても歩き難い場所だった。
 でも、由紀に気付かれないよう由紀の先回りをするにはそこを歩くしかなかった。ボクはもう由紀の跡を尾け気は無かった。ただ、自分の中の嫌な予感をはっきりさせたいと思っただけだった。
 しかし沼地と思っていた田んぼは、知らぬうちにひどく乾燥していた。収穫の時期が終わりすっかり水がひけた田んぼはそこかしこにひび割れが入っていた。田んぼの中ですらそれほど乾燥しているのだから、畦道などまるでコンクリートで固めた道と変わりなかった。ボクはやすやすと走って行けた。いつもは斜面側の道路から左手に見ていた切通しを右手に見ながらボクは走った。
 やがて中野市に入ると電信柱に桜沢という表示が見えるようになった。ボクの目指す場所はすぐそこにあった。工場群が競うように大きな屋根を重ね合う、その場所にボクは来た。入り口に、鳥居があった。たしか、古い祠があった場所を切り開いて工業団地にしたのだ。鳥居はその名残だと聞いたことがあった。ボクは鳥居の下を潜ると、一番ボロの小屋を探した。新しい板金屋根の工場が軒を連ねる中に、ぽつんと一つだけ、古い木造の小屋があった。そこは父の仕事場だった。地元のエノキ農家から父が預かっている栽培用の倉庫だ。
 ボクは音を立てぬよう引き戸を引いた。大鋸屑(おがくず)の異臭が鼻を突いた。それもその筈だった。倉庫の中はエノキ栽培用の大鋸屑でいっぱいだったからだ。それを燻す煙で、前がよく見えなかった。突然、
ガチャンッ
と音がした。入り口で南京錠が地面に落ちたらしい。その音はボクに不安な気持ちを湧き上がらせた。それでもボクは奥へ進んだ。奥に行くほど大鋸屑を燻蒸する煙が濃くなっていった。でも、ボクはその煙の先で動く白いものを見付けた。
 五時を知らせるサイレンが聞こえた。戦争もののテレビ番組で聞いた空襲警報みたいだった。警報の行方を追ってから、もう一度、煙の中を見付めた。しかしさっき白いものが見えたと思った場所に、それらしいものは無かった。代わりに、突然小屋の中に小さな風が流れ込んだ。小さな風は燻蒸の濃い煙を流し去った。その先に薄っすらと人影が見えた。ボクはギクッとした。人影はボクの方を見ていたのだ。
「たくみ、なにしに来たんだ?」
父さんだった。ボクは返答のしようもなくその場に立ち竦んだ。由紀の大きな泣き声が聞こえたが、ボクは由紀を見ることが出来なかった。
「なあ、たくみ。違うんだ、これは」
困惑する父を置いてボクは後ずさりを始めた。そこで気付いたのだ。由紀を一緒に連れ出さなきゃいけないと。でもボクは腰が抜けたようになってそれが出来なかった。

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