いつの間にか朽ち果てた切通しの前で、ボクは大きな橡の木を見上げていた。
 まだほんの二年ほど前、たしか小学校三年生の頃まで、真夏の最中、早朝に自転車を走らせてここまで来た。ボクの乗る自転車は、近所の爺さんが乗っていたものだったから酷く大きくて重かった。爺さんはその荷台に大きな籠を載せて、毎日農作物を運んでいたんだ。いつの間にか爺さんだけいなくなり、自転車が残った。爺さんが死んだという話もあったし、どこかへ引っ越した、頭が呆けて入院した、という話も聞いた。でもボクにとってはそんなのどうでも良かった。ボクにとっては、その自転車が誰のものでも無くなった、ということが一番重要だった。
 真人や健太はテレビでコマーシャルしてる自転車に乗っていた。アニメの絵柄が描かれているものだ。淳司は、なんだか地味な色合いの自転車に乗っていたが、とてつもなく高価なものだと誰かが言っていた。裕二のは兄のお下がりのオンボロだった。だが、自転車を持っているだけ羨ましかった。ボクはなんでもいいから自転車が欲しかったのだ。
 そんな時、毎日、自転車で野良仕事に行っていた爺さんが、自転車を残して姿を消した。翌日からその自転車はボクのものになった。誰が良いと言った訳ではないが、誰もいけないと咎めないのだから、それで良かった。早速、夜明けとともにボクは自転車を駆って、切通しまで走ったのだ。
 でも、爺さんが乗っていた自転車は重いばかりでスピードが出なかった。お陰でボクは切通しに付くのがビリッケツになってしまった。それだけでなく、ボクはもうへとへとだった。走ってきた方がずっと楽だったのだ。
「おせえなあ!もうこんなに採っちゃったぞ」
裕二の虫篭を見るとカブトムシが三匹と、クワガタが一匹。四匹は、押し競饅頭でもするようにひしめき合っていた。
「おれはさ、箱背負い(はこしょい)専門」
真人の虫篭には、ミヤマクワガタだけが四匹入っていた。
 ミヤマクワガタのことを子供は「箱背負い」と呼んでいた、四角い頭部が、まるで箱を背負っているように見えるからだ。箱背負いは、短い体毛に覆われ、緑っぽい色をしており、他のクワガタより明らかに高貴に見えたから、ボクらに取っては宝物のようなものだった。ボクは思わず
「わあ、いいなあ」
と叫んでいた。
「もうこの木にはいないよ」
淳司が一番大きな橡の木を見上げて言った。
切通しの斜面を登ってみれば、いるかもよ」
言われてボクは、斜面を登り始めた。みんなもボクの後に付いて登ってきた。
 少し上がると、橡林が綺麗に刈られていた。斜面から山に連なる辺りがすっかり丸坊主になっていたのだ。
「なんだこりゃ?」
「なんか造るのかな?」
ボクと淳司が首を傾げていると
「おーい、こっちこっち。いっぱいいるぞ!」
裕二の叫び声が聞こえた。ボクらは裕二が立っている場所へ走った。
「どこにいるんだ?木が無いよ」
ボクらの問いに、裕二が小さく顔を横に振ったのが見えた。
「なんだよ裕二。もったい付けないで教えろよ」
「ここ」
「え?どこ?」
「ここだよ」
裕二が指し示したのは放置された木箱だった。林檎や桃など収穫した果樹を入れて農協に出荷するために使われている。「都住農協」と刻印された、この辺の農家ならどの家にもあるものだった。
 しかし、その木箱にはなぜかベニアで蓋がされていた。普通、果樹を入れる場合、蓋なんかしない。ボクらはなんだか嫌な予感がした。
「めっくてみな」
そう裕二に言われボクは恐る恐るベニア板に手を掛けた。それを捲り上げるとなにかとんでもないものが出てきそうな気がした。見ている淳司や真人、健太、武男も「ごくり」と唾を呑み込んで見守っていた。
「なあ、裕二。まさか蛇が飛び出してくるとかないよなあ」
真人が不安気な声を出した。
切通しは蛇が多から気を付けろって母ちゃんに言われたんだよう」
泣きそうな声になっていた。
「もし蛇が出たらやばいから、ベニアを取ったらすぐ逃げよう」
淳司が言った。ボクらは全員、頷いた。
 いよいよボクがベニア板を剥ぎ取ることとなった。
「さあ、行くぞ!」
ボクはみんなにそう声を掛けると一気にベニアを引っ張り、遠くへ放り投げた。
「わあー!」
その瞬間、蜘蛛の子を散らすように、みんな八方へ逃げ出した。当然、ベニアを投げたボクが一番、逃げ遅れた形だったので、恐る恐る中を覗いてみた。
「ひ!」
ボクは思わず悲鳴を上げてしまった。みんなはそれを聞いて余計に遠ざかった。
「ははは、馬鹿だな。よく見てみろよ」
一人だけ逃げなかった裕二が大声で笑った。言われてボクは、もう一度中を覗いてみた。木箱の中は黒い何かでいっぱいだった。
「うわ!」
ボクはまた声を上げてしまった。裕二が蔑むように笑いながら言った。
「気ぃちっちぇえなあ、よっく見てみろよ」
もう一度、覗いてみると、黒いのは腐った桃だった。
「うわあ、汚ねえ!」
箱の中は腐った桃でいっぱいだった。出来損ないの桃を木箱に入れておいたのだろう。腐って来たので隠す為にベニアで蓋をしたらしい。ボクはその気持ち悪さに目を背けた。集まってきた淳司や真人、健太、武男も口々に
「げげっ!」
とか
「おえ!」
なんて呻き声を上げた。
「お前ら、もっとよく見ろよ」
裕二が呆れた、という声で言った。仕方なくボクはもう一度、腐った桃でいっぱいの木箱の中を覗いてみた。腐乱し切った部分は真っ黒に、まだ途中の部分は白かったり桃色だったり、そのコントラストがまた気味悪かった。だがボクはもっと気色の悪い光景を見た。
「おわ!」
またボクは大声を上げてしまった。その叫び声にみんなも驚いて飛び退いた。
「どうした!たくみ」
健太が恐る恐る訊いてきた。
「やっぱ蛇?蛇がいるんでしょ?」
ボクは大きく横に首を振った。
「いや、違う。でも、気持ち悪い」
「え?じゃなんだよう」
真人がまた心細そうな声を出した。淳司も真人も健太も武男も、一度は覗き込んだのに、飛び退いたまま戻って来ない。
「大丈夫だよ、そんなに怖がらなくても。蛇なんかいないし。ただ・・・」
「ただ?」
「うん、汚いなあ、このクワガタ」
カブトムシもいた。虫たちは腐った桃を漁っていたのだ。淳司も真人も健太も武男も、木箱の前に戻ってきた。
「うわあ、汚ねえ!」
口々に言いながらも、今度は代わる代わるのぞき込んだ。
「これじゃ、捕まえたくないなあ」
「ほんと、汚過ぎる」
「それに臭いよ。桃が腐った臭いがする」
みんなが文句を言ってる目の前に、ヌッと手が伸びてきた。伸びた手は、腐乱した桃の中で蠢く虫たちのうち、一番大きな一匹を捕らえた。木箱から取り上げ、日に当てられたそれは、見たこともないくらい巨大なミヤマクワガタだった。
「お前らがさ、いらないって言うなら、全部おれがいただくよ」
裕二が巨大なそれを虫籠に入れながら言った。まるでボクらを見下しているようだった。


 ボクは橡の木の前に立って、そんなことを思い出していた。
 当時、『蛇がいるから切通しにはいくな』とは、どの子供も言われたことだ。でも、もともとこのあたりは蛇が多いから、特に切通しだけだ危険ということはない。第一、子供にしても蛇には慣れていたから不用意に噛まれたりはしない。
 結局、切通しへ行かせたくなかったための方便だったのだろう。切通しは、長野電鉄線の線路を造る為に山の斜面を刳り貫いたものだ。天井の無いトンネルと言っていい。つまり切通で虫取りをするということは、線路の上で虫取りをするということで、それに夢中になった子供が危うく電車に撥ねられそうになったという話もあった。真実かは分からないが、そういう噂には子供より親の方が敏感なものだ。
 でも、ボクらが切通へ虫取りに行ったのはその年、小学校三年生の夏が最後だった。工事が始まったのだ。その年の秋、切通しから山へ連なる斜面が丸坊主になった。それから大きなシャベルカーが現れ、木の根っ子を地面ごとひっくり返し始めた。気付いた時には斜面そのものがひっくり返されていた。斜面は、大きく削り取られ切通しの何倍も大きな穴が掘られた。雪の降る季節になると工事は一時中断されたが、翌年、雪解けの始まった春先にはまた大きな重機が何台も集まってきた。ダンプカーが砂や砂利を運んできた。帰りには斜面を切り取った土砂を運んで行った。
 そんなことを毎日、毎日繰り返していた。ボクと由紀は、毎日、近くまで来ては夕方まで眺めていた。そのうち、斜面だった場所はすっかり平らになった。道路が開けたのだ。
 道が開けた日、ボクらがそこへ来てみると、重機から立ち揚がる湯気の向こうに隣町が姿を現した。桜沢という集落だ。桜沢には見たことも無い銀色の建物が連なるように建っていた。真新しいそれらの建物に見入っていたボクらに、工事の休憩に入った作業員の一人が教えてくれた。
『ありゃ、きのこの工場だ。エノキ作ってる』
人の良さそうなそのおじさんは、胸のポケットからくしゃくしゃのタバコを取り出すとマッチで火を点けた。しばらくボクらの横で煙をくゆらすと
『景気が良くなってきたもんだから、きのこがえれえ売れるらしい。あすこの工場やってる百姓らは、昔の長者並に稼いでるそうだ』
そう言って、工場群のある平地から集落のある斜面に視線を移した。ボクらも同じように斜面を見た。
『どうだい、立派な家ばっかじゃねえか。キノコ御殿って呼ばれてるんだぜ』
ボクは桜沢の家並みから、切通しの残骸に目を移した。切通は、何故か残されていた。線路の両側の部分だけ、まるでトンネルの名残のように土が盛り上がっていた。そこだけ残すことにどんな意味があるのだろう、とボクは首を傾げた。
『なぜここだけ残してあるかって?そんなもの、道路を造るお役所にとっちゃあ、関係ねえからさ。すぐ隣とはいえ、その切通は私鉄のものだからな』
一番大きかった橡の木も残されていた。他の木は全て伐採されたというのにだ。それでも一本だけ残ったことを喜ぶべきなのか?でもボクは、それらを見ている何故かうち心が痛くなった。それらが取り残されたもののように見えたからだった。第一、一本だけ立った橡の木に虫が集まるとは思えなかった。
 
 道路が出来てから、ボクらはあまり切通しには来なくなった。ボクが今ここに来たのも、淳司や裕二たちと最後の虫取りをした小学校三年生の夏が過ぎ、冬間近になって由紀と二人で工事現場のおじさんの話を聞いて以来だった。少なくとも、ボクはそうだった。
 小学校の玄関で由紀を見失ったボクは、校門の向こうへ消える影を見たんだ。それが由紀かどうかは分からなかったけれど、ボクは一か八か追いかけてみることにした。影は確かに実体を持ってボクの前を歩いていた。校門を南に出た影は郵便局に突き当たると東に折れた。山の方へ向かったのだ。そこからの道は一直線だったのに、ボクがどんなに一生懸命走っても、どうにも追い付けなかったのだ。
 気付くとボクは、影に誘われるように切通しの残骸のある町境に来ていたんだ。町境から見える光景は、トタン屋根が波のように続く工場群。そこから右手、山の斜面にかけて大きくて新しい”キノコ御殿”ばかりが立ち並んでいた。あれから二年とちょっと過ぎたが、キノコ御殿の数は増えはしたも減ることはなかったらしい。
 ドルショックに端を発した不況の嵐は、中小企業の多くを呑み込み、倒産、大量の失業者という混乱を招いた。ボクが小学校に上がる直前の話しだ。それから五年も過ぎると、世の中は復興してしまうらしい。そして、世の中が復興に向っても、依然荒廃から脱することが出来ぬ者もいるらしい。ボクの父がそうだったのだ。
 1971年の冬、ボクら家族は忘れられぬ寒さを経験した。父の経営していた会社が倒産したのだ。新しい技術を大手メーカーに提供していた父の会社は、たしかに時代の寵児だった筈だった。でも、そんなたしかさは、大きな社会の中ではゴミ屑ほどの価値も無かったんだ。呆気なく、あっさりと倒産した父には何一つ残らなかった。そして何より辛かったのは、まだ幼いボクを抱えた夫婦にとって、日々の生活の糧が失われたことだ。倒産後も借金の清算に追われる父に代わり、母が働きに出た。しかし、育ちの良い、また結婚してからは家事以外したことのない母にとって、生活を支えることは許容範囲を大きく超えていたに違いない。たちまちに体調を崩した彼女は、あっという間に言葉も利けぬほどに痩せ衰え、病院のベッドで朽ち果てるように死んだ。
 それから5年、キノコ工場を見る限り、世の中はたしかに復興したらしい。しかし父はまだ、借金の返済に汲々としていたのだ。返すメドすら立たない膨大な借金。だが、後妻に入った芳子は、そんなことを気に留める様子も無かった。それどころか父の弟を家に引き込み、不貞の関係を隠そうともしなかった。それらは、間違いなく父の精神を蝕んでいった。
 思えば、父はなぜ芳子と再婚したのだろう?ボクの実母の美和が死んで、寂しかったのかもしれない。大人の事情などボクには分からなかった。
 でも、芳子なんかと結婚したから、父はあんなことをしたんだと思う。ボクは、父も許せなかったが、父をそこまで追い込んだ義母も、芳子も許せなかった。お陰でボクらの家族はバラバラになったんだ。そしてボクと由紀もまったく別の人生を歩むことになってしまった。

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