2006-01-01から1年間の記事一覧

「ああ、おかえり」 僕らが玄関から居間に入った時、初めて気付いたように母がそう言った。何か物思いに耽っていたようだった。でも僕らは特に気にもせずランドセルを片付けに行った。僕は部屋を横切る時、母の甘い匂いを感じた。母はいつも甘い香りがした。…

マサ兄は僕らを見て少し驚いたような顔をした。もっとも由紀と僕が髭じいと一緒に帰ってくるなんて確かに不自然だ。角の家の婆さんが見たら驚くだけじゃ済まなかったろう、下手をすれば誘拐だなどと騒ぎ立てたかもしれない。 「ちょっと髭じい。なんで頭掻い…

それから僕ら三人は裏山の神社から家まで一緒に帰った。昨日までは髭おじと三人連れで歩くなど考えられないことだった。しかし今日のことで僕らはずっと昔からの知り合いのようになっていた。遠慮なく話せるようになっていたし、一緒にいることにまるで違和…

「幾ら何でも仕掛けが単純過ぎだよ」 由紀が眉を顰めて笑った。髭おじは「あん?ああごめん」と言いながら頭を掻いていた。僕は社の裏手から歩き出し、二人のいる境内の真中まで行った。「ほら見ろ!天狗なんている訳無いじゃないか。髭じいだ」と由紀を責め…

淳司の家から全力疾走した僕は、そのままの勢いで山門を潜り抜けた。淳司の家に向う時、僕を睨み付けているように見えた仁王が、何故か笑っているように見えた。僕は仁王に馬鹿にされているような気がしたが、そのまま山道を駆け上がった。 境内に着いた時に…

「天狗ー?」 健太が高い声を上げ露骨に驚いて見せた。 「馬っ鹿じゃねえの」 健太の声に呼応して何人かが苦笑した。いや、嘲笑と言う方が正確だった。ゲームが一段落し、みんなが世間話を始めたところだった。僕が由紀に小山の神社に連れて行かれたこと、参…

犬川が待ち望んだシュチエーションは程無く到来した。味方が攻め込んでいた星雲ゴール前からクリアされたボールは、星雲の中盤を経由し鋭いロングボールがこちらに向って飛んできた。すかさず室井が指示を出した。一斉に星雲のデブを取り囲む。フォワードの…

途中交代で入ってきた星雲高校の太ったフォワードが只者ではないことを、犬川は身に沁みて分かっていた。そのデブが交代で入ってきた際、その身のこなしからズブの素人であることは容易に推察できた。犬川は軍用犬の如きデフェンダーの本能から、執拗に彼を…

しかし百戦錬磨の国立浜川守備陣は安易に飛び掛ったりはしない。勇み足こそ獲物を取り逃がす最大の原因であることを知り尽くしているのだ。彼らは指揮官・室井の指示に従い、慎重にフォワードを囲み始めた。それは真綿で包めるような繊細な動きで、その先に…

『交代で出てきた星雲のフォワードが只者ではないのはたしかだ。少なくともパワーでは、全国一の屈強さを誇る我が3バックを子ども扱いした。しかし、かといってあれを使わずとも十分星雲には勝てる。国松監督は何を考えているのか?』 室井の疑問はもっとも…

パラフスタン共和国は、人口一万人の小国である。前年、大国ソビエト連邦から独立したばかりだった。通常、ソ連は独立など認めないが資源も産業も無いこの地域からの税収は限りなくゼロに近い上、失業保険や年金などお金ばっかり掛かったのだ。そんな時、欧…

「ど、ど、どうしたんだよ。なんかまた視野の狭い面倒な話を始めるんじゃないだろうなあ」 「視野が狭くて悪かったなあ。俺は視野の狭いただの馬鹿かもしれんが、貴様はスポーツマンシップに悖る狡猾漢だ!」 「す、す、すぽーつまんしっぷ?」 「宿敵韓国と…

たしかにこれでは身動きが取れないどころか、ヘディングに乗じて三方から身体をぶつけてこられたら、ひとたまりも無い。絶体絶命だ!と市太郎は心の中で叫んだ。叫んだ直後にボールが頭に当たったのを感じた。叫んだ時、口を空けてしまった為に、ボールが当…

「どうすればいい?」 「細かく動き回ることだ」 つまり、デフェンダーから逃げ回ればいいのだ、と市太郎は理解した。試合の再開を合図する主審の笛の音が響いた。中山がセンターサークルから一端ボールを自陣に戻した。市太郎は促されるまま国立浜川のゴー…

「いいぞ!市太郎!なかなかやるじゃん!」 どこかの男の声援かと思ったら真奈美だった。 「お兄ちゃん、凄っごーい!」 とは留美子だった。いつも市太郎を馬鹿にしている二人に応援されるというのは薄気味悪いことだった。それに、自分としてはただ目が回っ…

皆が中山の顔を見た。一度消えかけた気力が再び沸き戻り始めていた。しかし監督が 「おいおい中山、いい加減なことを言うな。仮に誰か出てくれるって奴がいたってな。これは公式戦だ。登録してない選手は出場できないんだ。うちの登録選手は十一人。だから交…

国立浜川のキーパーが図ったように星雲デフェンダーの密集地に向ってボールを蹴った。まるで星雲側にパスするようなボールだ。実際そうなのだ。わざと星雲にボールを渡しているのだ。ボールを受けた星雲デフェンダーは、中央の中出に預ける。中出は尾乃江と…

後半終了から攻撃に転じた星雲高校の前に国立浜川は強大な壁として立ち塞がった。それはまるで少数のレジスタンスに対し、圧倒的な兵力差を誇示する帝国軍のごとき振る舞いだった。前半、一点をリードされた星雲に残された選択肢は名誉ある敗北か奇跡の逆転…

『馬鹿か!お前の前半のチャンスなんて、向こうに仕組まれたものなんだぞ!』という言葉が全員の胸に一瞬湧き上がった。しかし、それは一瞬にして消え去った。まるで燃え落ちる紙屑のように、言葉ごと真っ黒な燃え滓となってイレブンの心から消え去って行っ…

ほどなくして前半終了のホイッスルがグラウンドに鳴り響いた。両チームの表情はまるで対照的。というより別の競技をしてきたようにすら見えた。 星雲イレブンは、いかにも激しいスポーツをした後らしく汗だくで激しく肩で息をしていた。何人かはげっそりと頬…

監督の叫び声だ。まったく、アレッサンドロ・デル・ピエロの美しいシュートを台無しにするような品の無い物言いだ。そう思って中山が声の方を振り返ると、国立浜川の屈強なデフェンダー達が中山の後ろに迫っていた。中山は慌てて振り上げた足を降ろし、シュ…

中山は小学校三年生でサッカーを始めた。テレビでアレッサンドロ・デル・ピエロを見、すっかり魅了されてしまったのだ。その日のうちにサッカークラブに入ることを両親に許可して貰った。次の日曜日には少年サッカーチームのユニホームを着ていた。中山の脳…

ベンチに監督が現れ、選手が全員集合した。 「今日のメンバーを発表する。といっても十一人ぎりぎりしかいないからな。ま、ポジションを発表するから」 監督はゴールキーパーから始まりデフェンダー、ミッドフィルダー、フォワードの順番にポジションと名前…

「遠慮しとくよ。みんなずっとサッカーをやってきた人たちばかりだろ。そんな中に俺みたいな素人が混じっても邪魔しちゃうだけだよ」 「そう言わずに練習に顔を出してみない?」 「いや、ちょっと」 「そっか。じゃ、三年生にとって最後の大会の一回戦が今度…

こんな下品な女のどこがいいのだろうと思うのだが、留美子は真奈美と大の仲良しだ、それどころか尊敬している節すらある。最近は真奈美の下品な言葉遣いを真似したりする始末だ。 「おい、なんか部活でもやった方がいいんじゃねえのか?」 真奈美が薄ら笑い…

という訳で留美子と市太郎は異父兄妹だった。彼女が生まれた時、母は美容院を始めたばかりだった。成功の予感すら感じられないほど小さな店だったが、それでも家賃や、設備類の購入費は馬鹿にならなかった。借金の返済に四苦八苦していたのだ。思い返せば貧…

「あなた細かいわねえ。お相撲さんってもっと豪快だと思ってたわ」 「誤魔化すな!いったい留美子って誰だ?」 「あなたの血を分けた妹よ」 「じゃ!」 「お父さんは、別の人です」 市太郎は膝の力が抜け、その場にしゃがみこんだ。すると、頭上から母の声が…

普通の高校生活をエンジョイする為には、少し太り過ぎているような気がしていた。ダイエットしなければと思うのだが、相撲部屋に居た頃のドカ喰い癖はなかなか直らない。 「このデブ!少し動かないとますます太るよ」 妹の留美子が罵るように言った。勝手に…

「それとおいらを追い出すこととどんな関係があるんだい?」 「おれはあの日、自分に誓いを立てちまったんだ。一生結ばれなくても麗を幸せにするってな。だからおめえを・・・」 親方の言葉を遮るように市太郎は立ち上がった。その身体からは湯気が立ち上っ…

「言い訳がましい言い方はしないでくれよ」 「そう言わずに聞け。まずな、おめえの言う通り最初に会ったあの日、おめえに声を掛けたのは、おめえが美久ちゃんの子供だったからだ。おめえは忘れちまっただろうが、おれはおめえをもっと小せえ頃から知ってる。…