「どうすればいい?」
「細かく動き回ることだ」
つまり、デフェンダーから逃げ回ればいいのだ、と市太郎は理解した。試合の再開を合図する主審の笛の音が響いた。中山がセンターサークルから一端ボールを自陣に戻した。市太郎は促されるまま国立浜川のゴール前に向った。鬼のような顔になった三人のデフェンダーが市太郎を待ち構えていた。基本的に気の弱い市太郎は、彼らの顔を見るだけで怖くなった。
『こりゃあ、大変なことになるぞー』
と心の中で呟きながら、なるべくデフェンダーと目を合わせないようにした。
 しかし、それがデフェンダーの仕事というものだろうが、国立浜川の最終ラインを守る三匹の鬼は、獲物を狙うハイエナの群れのごとく密かに市太郎に接近してきた。市太郎がセンターに陣取り睨みを利かせる二人に気を取られているうち、残る一匹に背後を取られていた。
「ひひひ」
耳元で笑い声がして、振り返ると彼がいた。中浦を叩きのめし退場に追い込んだ、あの目付きの鋭い男だった。こうして間近で見ると目付きが鋭いというより、目付きが悪いと言った方がいい。まるで手の付け様のない非行少年か暴走族のように怖れを知らぬ目をしていた。首を横に傾げ、市太郎を下から覗き上げて今にも噛み付いてきそうな勢いである。市太郎はサバンナを失踪するシマウマのごとく、目付きの悪いハイエナの追跡から逃れようと走った。しかし心臓が三つもあるのではないかと思われるほどにハイエナは疲れを知らず、追跡は執拗だった。
 相撲取りはスタミナが無いのだ。市太郎は中山の教えに従いピッチを駆け回ったが、重い肉袋を幾つも抱えて走っているようなものである。あっという間に汗だくになり、顔は真っ赤に上気し、息は上がった。対するハイエナ野郎は、走っても走っても平気な顔をしている。それどころか余裕の薄笑いすら浮かべているのだ。市太郎が振り返り、スタンドの中央席の背に立つ時計台を見ると、まだ残り時間はたっぷり三十分以上あった。
ぷぷーっ
市太郎は唇を伝い口の中に入り込んでくる汗を噴出した。もはや市太郎の体力が限界に来ている証拠である。国立浜川に一点取られて以来、市太郎はボールに触っていない。にも関わらず汗だくで体力は既にゼロなのだ。周囲を見渡すと、自陣で味方がボールをぐるぐると回していた。繰り返し人から人へボールが渡る。あんなにパスを回すことに何の意味があるのだろう?と首を傾げているうち、足と足が絡まって転びそうになった。
おっと
と呟き体勢を立て直す。幸い転ばずに澄んだ。が、顔を上げた時、ハイエナ野郎と目が合った。彼はにやりと口元だけで笑みを作った。無表情な冷たい目と対照的で、顔の上と下で別の人間の持ち物のような付す気味悪さを感じた。更に彼は下を出すと上唇をペロリと舐めた。市太郎は背筋に寒気が走り、慌てて目を逸らし、彼の入る方向とは反対に走り出した。しかし、ハイエナはいつの間にか市太郎にまとわり付き離れようとしない。次第に身体を擦り寄せ、腕を絡め、ユニホームに指を掛けてきた。絶体絶命のシマウマ、それが今の市太郎だった。
「湊君!ロングボールが来る。僕の方に落として!」
中山の声が耳に入った。慌てて市太郎は空を見た。ボールはまだはるか彼方の宙を舞っており、いつ、どの当たりに落下するのか見当も付かない。市太郎は困惑した。
 しかしハイエナはこの時を待ってましたとばかり、市太郎にしがみ付いて来た。右側からしがみ付かれ、市太郎は動こうにも身動きが取れない。すると残る二人のうち、もう一人が反対側からしがみ付いてきた。気付くとボールは徐々にこちらに迫り、どうやら今、市太郎がたち尽くす当たりに来そうだった。中山の位置を確認すると、相手ゴールを背に自陣を向いた市太郎の真正面にいた。
「そのまま真っ直ぐ返せばいい!」
中山が叫んだ。市太郎はヘディングの体制に入った。するとすかさず三人目が市太郎の背中から首根っこにしがみ付いて来た。市太郎は三人に羽交い絞めにされたのだ。
「ひひひ、このまま押し潰してやる!」
耳元で国立浜川デフェンダーの囁きが聞こえた。