「三田さん、あんたたちの知りたかったのはこういうことだろう」
風向きが変わったのか、三田の燻らせるタバコの煙がわたしの鼻腔を刺激した。若い時期の一時、タバコを愛飲したこともあったがもう長いこと遠ざかっていた。わたしは不快感を露にするように激しく咳き込んだ。三田は
「失礼」
と言い、身体の向きを変えてみせたがわたしの元に煙が届くのは変わらなかった。
「それで、」
元刑事たちのうちの一人が、堪らず、といった調子で口を開いた。
「犯人は君だったということか」
溜息にも似たその口振りにわたしは言いようの無い不満が湧き上がった。その元刑事は小布施駅に着いた際にわたしに突っ掛かって来た男だ。
「そうさ。わたしが殺した。父親の醜い行為を見て我慢なら無かったんだ」
わたしの言葉に男は皮肉に満ちた笑みを湛え
「ありそうな話だ」
と呟いた。
「ありそうな話でいけないのか?殺人事件なんて、みんなありそうな話で出来てるだろ?それともひとつひとつが小説のように意外なものばかりだというのか?」
わたしは男の言い方に腹が立ち、つい喧嘩腰で言い返してしまった。それを遮るように
「そんな話をしてる訳じゃない」
と三田が言った。
「君が犯人かどうかなんて、もうどうでもいいことなんだ」
三田は根元まで吸ったタバコを足元に落とし、踏み付けて消した。それからポケットから吸殻入れを取り出すと地面にしゃがみ込み、今消えたばかりの吸殻とさっき踏み付けた吸殻を拾い上げた。
「もうあれから30年だ。とっくに時効だよ」
拾った吸殻を吸殻入れに放り込むことに夢中になっているとでもいうように、三田はわたしの顔を見ようとしなかった。足元の地面を舐めるように見回し、別の吸殻が無いか探しているようだった。
「見付からないな。見付からない」
三田は立ち上がるとわたしに視線を向けながら何度か呟いた。
「無い、のかもしれないな」
「なにが?吸殻?」
「まるでない」
「そりゃそうでしょう。さっきあなた二本拾ったじゃないですか。あれで全部ですよ。今日、あなたは二本しか吸ってないし、他の方々も吸ってないでしょう」
「そっか、そうだったか」
「そうですよ。最初から無い」
「最初っから無いものは、探してみても無いわな」
三田は意味ありげな言い方をした。
「ナイフはさ、なんど鑑識で調べてみても健介以外の指紋は出てこなかったんだわ」
まるでわたしの嘘を暴こうとしているかのようだった。
「自殺以外ありえない」
三田はそう断定した。それからまるで何かを思い出すように真っ暗な空に目をやると
「そんな当たり前のことがなあ、自分たちが当事者になってる時は分からねえもんなんだよ」
三田はポケットからタバコの箱を取り出して、しかし考え直したように元に戻した。
「つまりさ、北原さん。あんたはまだすべてを思い出しては無いってことだ」
「すべてを?」
「そう、すべてだ」
ふいに暗がりの中で男たちが動き始めた。正確に言うと、わたしから離れ始めた。今にもわたしを捕縛するかのごとく、わたしを取り囲んでいた彼らがその包囲を解いたのだ。
 明らかに彼らはこの場を立ち去ろうとしているのが分かった。彼らは、彼ら元・刑事たちはわたしを追い詰め、遠い過去の罪を贖罪させる為に集まったのではなかったのか?
「ちょっと待てよ!どこへ行く気だ?」
「私ら、今日はこれで帰ります。お時間を取らせて申し訳なかった」
わたしに背を向けながら三田がそう言った。既に歩き始めていた。途端にわたしは腹が立ってきた。
「待ってくれ!なんなんだこれはいったい。人を罠に嵌めるようなことをして、こんなところまで引っ張り出しておいて!勝手に帰るなよ」
「だから済まなかったと言っている」
「済まなかったで済むかよ!いったいこれは何なんだ?捜査なのか?おい、三田さん。あんたもうとっくに定年だろう。それどころか、もうとっくにあの事件は時効だろう。さっき自分達でそう言ってたじゃないか!だったらこれは何なんだ!わたしをどうしようとしてるんだ?」
「あんたをどうしようなんて、考えてないさ。さっきも言ったでしょう。もうとっくに時効だって」
「だったら何の為にわたしをここまで誘い出した?それに」
そう言って月明かりに照らし出された男たちの顔をひとりひとり見た。だが、どの顔もわたしの疑問に答えてくれようとはしてくれないようだった。
「すべてを思い出してないとはどういうことだ?」
三田が立ち止まった。そして何かを諦めたように首だけわたしに向き直った。
「あなたのお父上が自殺したところまでは分かっている。その後、起きた火事がお父上が放火したのか、それとも君らのどちらか、或いは二人でそうしたのかは分からず仕舞いだが。報告書では父上の放火ということになった」
それから三田はくるりと全身で振り返った。黒い上下を着ているせいか、月明かりに照らし出された生首が闇の中に浮いているように見えた。
「まあ、そんなことはどうでもいい。それより私らが知りたいのは、そこから先の記憶なんだ。そこから先のあんたの記憶を知りたかったんだ」
「知りたかった?」
わたしの問いには答えず三田は背を向けた。彼の声だけが闇の中を密やかに伝わって来た。
「或る意味、私らとあんたは共犯のようなもんだから、あんたとともに真実を確認したいと思ったまでのことだったんだが・・・」
共犯?わたしが首を傾げる間に三田は続けた。
「いや、これは我々の身勝手な希望的観測だったのかもしれない。身勝手な思い込みというべきか」
三田の言葉に、男たちから溜息が洩れた。
「それにしても長い長い思い込みだったな。”そうあってくれればいい”などと、刑事が考えるべきではなかったのだ。二十年以上も君を騙して悪かった」
「二十年以上も騙して?」
「ああ、探偵なんて真っ赤な嘘だ。向かいのビルに事務所があるっていうのもね。我々は誰かが東京へ出張に行くたびに、交代で君の様子を窺っていただけだ」
探偵社が嘘だった?しかし、やはり三田はわたしに質問の時間など与えてくれなかった。
「もう、いい。もう、やめにしよう。我々が間違っていたらしい。なんとなくそれが分かっただけでいいのだ」
それから三田は思い出したように言った。
「ああ、そうそう。さっきも誰かが言ったが、もう一度よく思い出してみた方がいい。細かいところで記憶の間違いがあるようだ。まだ思い出したばかりだからね。長い時間の封印が解けて、ようやく蘇った記憶だ。慌てずに、もう一度思い出してみるがいい」
三田と仲間の男たちは闇の中に消えて行った。消える際、こんな言葉が聞こえた。
「あの事件が無ければ、君の少年時代はそう悪いものではなかった」


 彼らは
『そこから先』
と言った。だが、わたしには本当にそこから先の記憶は無かった。
 というより、その時のことも本当のところよく憶えていなかった。ただあの日、由紀を追ってここへ来て、二人の行為を見たのだ。その場面だけは映画のワンシーンのように鮮明に思い出された。だがそこから先、父がどう死んだのかに関してはまるで記憶がない。三田たちにわたしが犯人だという作り話を話したのは、どうせもう時効なのだ、という計算もあった。だが、他の誰かに累が及ぶのが嫌だという考えが一瞬浮かんだからでもあった。他の誰か、と言っても由紀以外の誰も思い浮かばなかった。
 わたしたちの少年時代は、酷いものだったのだ。由紀がああして精神病院にいるのも、こんな過去が原因しているに違いない。もしかしたら父が死んだ直後から、由紀は入院していたのかもしれない。
 なぜ父は由紀にあんなことをしたのだろう?と考えた時、安っぽいストーリーが頭に浮かんだ。会社が倒産し、路頭に迷った家族、母が働きに出て、過労で死んだ、それから何かの縁があったのだろう、父は再婚した、しかし再婚相手の女はあろうことか父の弟と不倫を繰り返す、次第にそれは度を越し、父の弱さに付け込んで、一目を憚ろうともしなくなった、だが父はそれに抗うこともできなかったんだ。結果、父はその鬱憤を由紀に向けたのかもしれない。それは由紀が、不倫を繰り返す妻の連れ子だったからかもしれない。それが父のささやかな復讐だったのかもしれない。
 だが、生贄となった由紀はどうなるのだ?由紀には何の罪も無かったのに。
 突然、耳元で
キキィッ
と嫌な高音が響いた気がした。あの頭痛が蘇ったのだ。次第に収まっていた筈なのに。わたしはそれを記憶が蘇るとともに収束したと解釈していた。それがここに来て、一番酷かった時と同じだけの痛みが訪れたのだ。わたしはその場にしゃがみ込んだ。同時に、父の言葉が一斉に頭の中に流れ込んできた。それは、30年という時間を飛び越えて来たように思えた。

「なあ、たくみ。人間ってのはさ、ひどい生き物だよな」
父はなぜか穏やかに微笑んでいた。こんな醜い場面に似つかわしく無い、爽やかな微笑だった。
「お父さんがさ、大学時代からずーっと研究してたんだよ。アメリカに留学してさ。ゼファックス社っていう大きな会社の展示館で見付けたんだよ、それを。既に骨董品として扱われてた。まだ、何にも使ってないのにだ。どうやら開発した研究者にも、この会社にも使い道が分からなかったらしい。でも父さんには一目で分かった。その技術が何を意味して、どう使えば良いか、いや未来にどう使われるのか、それらのすべてが一気に頭の中に浮かんできたんだ。それは鮮明なSF映画みたいだったけど、父さんにとって確かな未来だった」
ボクには、父が何をいってるのかさっぱり分からなかった。
「会社に入っても、その研究の継続を申し出たんだ。その時、二つ返事でOKだったんだ、あれは嬉しかったなあ。それで、お礼に会社がすぐに儲けられる方法を考えたんだ。そう、子供が使える何か、を考えたんだ」
父は自慢げに微笑んだ。それから右手の人差し指を宙に向け、くるくると回し始めた。
「幸せだったなあ。あの頃、憶えてるか?母さんと海行っただろ。海の中にテトラポットを積んだ小島があって、お前はまだ幼かったのにそこまで泳いで行きたいって言い出したんだ。砂浜から100メートルはあるっていうのにさ。お前を浮き輪に入れて、なんとか泳いでそこまで辿り着いた。小島に上がったお前はテトラポットの隙間を行ったり来たりして、父さんが危ないというのも聞かずトンネルのような隙間を底の方まで降りて行ったんだ。そして古い箱を拾ってきたな。憶えてるか?外国製のそれは、宝箱のような形をしてた。幾ら開こうとしても、鍵が掛かってて開かなくて、家まで持って帰って器具でこじ開けようという話になった。ところが二人で浮き輪を取りに言ってる間に盗まれちまった。盗んだのは近くで遊んでいた子供らのグループに違いない。お前よりずっと大きな、そう小学校高学年くらいかな。大人を見かけなかったから、きっと地元の子供らだろう。奴らは盗んだ宝箱をどこかに隠したんだ。お前が浮き輪に乗り、父さんと二人で小島を離れるまでじっとこちらを見詰めていたから間違いない。なぜそんな話をするのかって?なんでだろうな?突然、そんなことを思い出したんだ。ああ、父さんもさ、同じことをされた経験があるんだよ。父さんにしてみれば宝箱だった。アメリカで見付けた時、それは形が無かったんだ。父さんが宝箱にした。でも、突然テレビで大騒ぎが始まった。アメリカの大統領の顔が一日中、テレビに映ってた。その日から、あっという間だったな。順調だった筈なのに、それを約束してくれたから会社を辞めて、自分で会社を作ったのに、会社はまるで父さんの会社のことなんか知らないとでもいうようだった。わたしの独立を後押ししてくれたかつての上司も、電話を掛けても出なかった、FAXを送っても答えてくれなかった、信越線で4時間も揺られて東京の本社まで行っても秘書から『出張でいません』『いつ帰るか分かりません』という答えばかりだった。そんなある日、会社の電話が鳴った。てっきりその上司が連絡をくれたのかと思った。それで慌てて出たんだ。ところが電話の主は銀行の担当者だった。返済のスケジュールを変更したい、ということだった。『変更?どういう意味でしょう?』という父さんの問いに担当者は『とにかく明日伺います』ということだった。翌日、支店長と担当者が二人で訪れた。彼らの話に父さんは愕然とした。だってさ、長期の約束で借りてた融資を来月返せって言うんだ。『なぜ?いくらなんでも突然すぎますよ』『本社の方針なんです』『そんな、約束が違う』『われわれに言われてもですね、例外は認められないんです』『ですが、来月返せって、そんなことしたら倒産してしまう』『今ね、どこの会社も厳しいんですよ、おたくだけじゃないんです』『もう三ヶ月も親会社から発注がないんです』支店長と融資担当者は顔を見合わせてこう言ったんだ『じゃ、どっちにしろ倒産ですね。そういうことに巻き込まれたくないから回収してるんです』ってな。翌月、父さんは全てを失った。事務所も工場も。でも、それだけじゃ銀行が要求する金額に足りなかったんだ。銀行が送ってきた書類には、びっくりするくらい沢山の0が並んでてさ、数える気にもならなかったんだ。そんな時さ。かつての上司が電話してきたのは。『北原君、大変なことになっちゃったなあ』拍子抜けするほど素っ気無い口振りだった。父さんは連絡が取れなかったことを恨みがましく言ってみたが、まるで無意味だった。『海外へさ、長期で出張に行かされたんだよ』って、軽くいなされてしまった。父さんは返す言葉も見付からず、ただ受話器を握り締めたまま、悔しさをどう表現していいのか分からずただ身体を震わせていた。『なあ北原君、まだ大分借金が残ってるらしいじゃないか』余計なお世話だと思う反面、助けてくれるのだろうか?という浅ましい気持ちが湧いた。でも、それが悪魔の誘いだと気付いた時には手遅れだった」
 父はボクの顔を真正面から見ると、手の甲を二三度こちらに振った。「行け」という合図だったように見えた。小屋の中は炎が天井まで達していた。燃え始めた大鋸屑が、真っ白な煙を発していた。ボクは由紀を抱きかかえた。由紀は意識を失っているのだ。まだ少年のボクが一人で抱えるには、由紀の身体は成長し過ぎていた。小屋を覆う炎から逃げ出すには、今すぐにも引き摺り出すしかなかった。でも、まだ父の話は終わっていなかった。
 父は必死でボクに何かを伝えようとしていた。普段、寡黙な父が始めて自分のことを話し始めたのだ。
「さあ、逃げろ、たくみ。いいんだ、父さんの話なんか聞かなくなって。どうせもう死んでしまうんだからな。ただな、お前が逃げ出す間、勝手に喋らせてくれ。そう勝手に喋ってるから、早く逃げろ。そうだ、それでいい。ああ、たくみ。人間という奴はなんでだろうな?なんで自分より弱い人間を虐めなければ生きていけないんだ?分かってるんだ。父さんには分かってる。正直言うと、あの時は分からなかったけれど、今ははっきり分かってる。あの時、会社はな、父さんが元いた大きな会社のことだ、その会社がな、苦しかったんだよ。倒産しそうだったんだ。それくらい酷い不景気だった。あの頃、大きな会社が沢山、倒産した。あの会社も危機的状況だったんだ。それでさ、考えたんだろう。危機を乗り切る可能性を。結果、父さんの開発した技術に目が留まった。あの頃はまだよちよち歩きの技術だったが、その可能性は専門家なら誰でも分かる。その可能性を売りにして、投資を集めることを考えたんだ。つまりさ、あの巨大な会社が、倒産の技術を再生の切り札だって考えたんだよ。父さんの技術はそれほど高く評価されたんだ。だが、そのためには父さんが不要だった。何しろ知的所有権の重要な部分を全て父さんが持っていたからね。だから父さんを罠に嵌めることにしたんだ。父さんの元上司を使ってね。ああ、銀行だってグルだったに違いない。それで父さんは会社から独立して作った自分の会社が行き詰まった時、元上司から『知的所有権の全てを買いたい』っていう提案をされたんだ。普通の状態ならもちろん考える余地も無い、お断りだ。だが、父さんは取引先や銀行から返済に迫られていたんだ。その額は、父さんが一生かけても払える金額じゃあ無かった。何しろあの技術には無限の可能性があると信じてて、独立する時、会社も全面的なバックアップを約束してれてたんだ。だから父さんは、自分の器を遥かに越える借金をしてしまった。銀行の取立てに苦しみ、いよいよ父さんのすべてを寄越せと銀行から迫られた時、元上司が提案してきた金額は、借金額と一円まで同じだった。でも不思議だったよ。父さんは悔しい気持ちとともに、なんだかホッとしたんだ。これで借金から解放されると思ったら、なんだから気が楽になった。それですぐに捺印してしまった。でもな、たくみ。父さんは馬鹿だった。借金はそれだけじゃなかったんだ。母さんがな、父さんの知らないところでお金を借りていたんだ。それもその筈さ。だって父さんの収入が無かったんだからな。三人で生活していくためのお金なんて無かったんだ。母さんは、美和は責任を感じて働き詰めに働いて、疲れ果てるまで働いてな。なあ、たくみ。人間ってさ疲れ果てると死んでしまうんだよ。美和はな、お前の母さんは、疲れ果てて死んでしまった。お金のために死んでしまったんだ」
既に父の姿は大鋸屑が燻された煙の中に消えかかっていた。ただ炎に照らし出されて真っ黒な人型の影だけが浮かんで見えた。だが、影だけになっても父は語り続けるのをやめなかった。まるで現世への憎しみを、わたしの心に刻んでいこうとでもするように。
「会社は、巨大な組織は父さんから取り上げた技術を使ってな新しい商品を開発した。お前も知ってるだろう。あのゲーム機がそうだ。お前たちが遊んでいるあのゲーム機だ。あれはな、父さんが考案したものなんだ。お前が小学校に上がる前にだ。まだ、あの頃は製品化が出来なかった。まだまだ周辺機器の開発が遅れていたんだ。それがさ、借金の方に取り上げられてから6年も経ったある日、父さんの前に氷川が現れたんだ。氷川って?元・上司の名前さ。もう呼び捨てしてもいいだろ。氷川は言った『君の考案したものが遂に形になった』と。父さんはな、なんだか嬉しかった。あの日、借金の代わりに取り上げられた技術が父さんの元に帰って来た気がした。大企業に捨てられたって思っていたけど、なんのことはない、父さんの技術を元に、父さんが考案した製品を開発していたんだ。そして、いよいよ商品化した今、父さんの元にそれは帰って来たのだって、そう思ったんだよ。だって氷川部長はこう言ったんだ。『ありがとう。君のお陰で我が社は再生した』ってな。あの切れ者の部長が、父さんに向って頭を下げたんだよ。そうして持ってきた試作品を見せてくれた。『まったくもって君の発想は凄い。恐れ入ったよ。社の役員も感心しきりだ』それは父さんがイメージしたものそのものだったんだ。父さんは、再び元の仕事に戻れることを確信した。だって父さんの技術は、巨大企業を再生させたんだからな。だが、次に氷川部長の口から発せられた言葉に、父さんは首を傾げた。意味が分からなかったんだ。氷川部長はこう言った。『実は会社から言われて確認に着たんだ』父さんは『何を?』と問い返した。『あの日、契約書を交わしたのを憶えているだろう?』『契約書?』『そうだ。君の技術に関する契約書だ。それには考案された製品イメージも含まれている』『それが何か?』『それをもう一度、確認したいんだが、いいかね?』『え?ええ、どうぞ』『うん、ここにだな、コピーがある。これをよく見てくれないか』『どこでしょう?』『ここだ、ここ。「今後、当該技術に関するに権利の一切は日電通社に帰属する」というところと』父さんは、ごくりと大きな唾を飲み込んだ。『「北原健介は技術と製品に関する一切の権利その他を放棄し、この開発に関わった事実も喪失する」といったところ』父さんは氷川部長の顔を穴が開くほど見詰めた。彼が次に言い出す言葉が信じられなかったのだ。『何かわたしの顔に付いているかね?』父さんの視線にさすがの氷川部長も驚いたらしい。部長は一つ咳払いしてからこう続けた。『日本も法治国家として先進国の仲間入りをした。こうして法律に則って交わした契約書は遵守しなければならないのだよ』氷川部長の視線が突然、冷たく輝いたようにが見えた。『つまりだ。この商品に関しては君は一切、関わりが無いということなんだ』そしてあろうことか、こんなことを言いだしたんだ。『ただ、それじゃああんまりだと思う。そこで第一号を記念に持ってきた。君に進呈するよ』当然のことながら、父さんはそれを拒否した。はっきり『いらない』とね。『だったら、そう。ええっと。君の友人がいたな。なんて言ったけな。あの不動産屋。彼はなかなか見込みのある男だ。これからの時代、彼のような男は伸びる。これも彼に渡しておく。その後は君らの好きにするがいい』そう言い残して氷川部長は去って行った。それから少ししてだ。たくみ、お前が市村の家に入り浸っているという」

 小屋の中は煙と炎で一杯だった。そこかしこで大鋸屑に火が移り、熱せられた大鋸屑は線香花火のように火花を放って燃え出した。まるで火の付いたマッチ箱の中にいるようだと思った。気を失ったままの由紀を抱えたままここにいるのももう限界だった。父の姿は既に炎と煙の中に消え失せ、生きているのかさえ分からなかった。けれど、ボクの耳には間違いなく父の言葉が聞こえていた。
「淳司君の家に入り浸っていると聞いた。ゲーム機に夢中だと。それは氷川部長が市村に渡したものだ。何の為にそんなことをしたのか?少なからず父さんに罪悪感を感じてのことか?それとも父さんへのあてつけか?それはよく分からなかったが、父さんはひどく動揺してしまった。だからどう出来るというものじゃあない。だが、知らず知らず、学校帰りのお前の後を尾けていた。ゲーム機のことが気になって仕方なかったのだ。なんどかお前に声を掛けて、見せてもらおうと思ったこともあったが、それが何の意味も持たないことも理解していた。だが、父さんはいつまでも市村の家から出てこないお前をずっと外で待っていたんだ。そんなある日『お義父さん?』と呼ぶ声がした。振り返ると由紀だったんだ。由紀は父さんが何度もお前の後を尾けていたことを知っていた。『誰にも言わないよ』と由紀は言ったが、その言葉は逆に父さんの心に不安の種を植え付けてしまった」
 父の声は炎が上げる悲鳴のような音に掻き消され、途切れ途切れとなった。父の命も、何度も終わりを向え、それでもボクにその話を聞かせたい一心でなんとか繋ぎとめているだけに過ぎないのだろう。炎と煙で姿の見えぬ父は、ボクの想像の中で、既に顔は焼け落ち、肉は溶け出していた。しかしボクの耳に聞こえる父の声はひどくはっきりとしていた。
「そう、あの日のことだ。たくみ、お前が市村の、淳司君の家に行ってあのゲーム機に夢中になって、由紀の存在すら忘れていた頃、父さんの不安はいよいよ頂点に達していたんだ。お前の後を尾けていたことを、由紀に見られたから?違う。わたしがなぜたくみの後を尾けていたかの理由など、由紀には想像も出来なかっただろう。父さんの不安とは、そのゲーム機が成功を収めるのではないか?ということだ。不当な手段であの会社は父さんから奪い取った技術を元にあの機械を作ったんだ。ドルショックを発端とするあの不景気の中では、会社から独立したばかりの中小企業など一たまりも無かった。そんな父さんの小さな会社を助けようとするどころか、父さんが研究してきた技術を掠め取ったんだ。あの技術は、父さんの全てといって良かった。父さんが会社から独立して小さな会社を作ったのも、あの技術を一日も早く実用化したからだったんだ。たしかに、あんなひどい不景気の中じゃ自分が生き残るのが精一杯で、他人を助ける余裕なんて無い、という理屈は分かる。だが、父さんには、会社が、銀行や、その他もろもろの取引先に裏で手を回し、父さんからあの技術を取り上げたんじゃないかと、そう思ってしまうんだ。そのために母さんが、美和が死んでしまったんじゃないかって。そう思えば思うほど、お前があのゲーム機に夢中になるのが疎ましく思えた。お前が夢中になるほどに、あのゲーム機の成功が近づいてい行くような気がしたんだ。あのゲーム機の成功は、本当は父さんのものだというのに、それを指を咥えて見ていろというのか!?父さんは、何度もお前に市村の家にもう行かないよう言おうと思った。だが、そのたびに躊躇した。お前に『なぜか?』と問われたくなかったからだ。だが、画面は限界を超え、父さんは市村の家から帰ってくる道の途中でお前を待った。砂山の影で、しかし日が暮れてもお前は帰ってこなかった。父さんは、夢中でゲーム機に没頭するお前を想像すると怒りが込み上げてきた。突然、砂が落ちて来た。ふと見上げると砂山の中腹に子猫がいた。子猫は上に登ろうとしているらしいが、足元の砂が崩れて登れない。それでも必死でもがいていた。『助けてあげよう』父さんの心の中で誰かが呟いた。それが父さんの最後の良心だったのかもしれない。しかしそんなことには気付かず父さんは砂山を登っていった。砂山といっても三階建てくらいの高さしかないのだ。すぐさま子猫の場所まで辿り着いた。子猫は振り向きざま父さんの姿を見ると、更に激しくもがき始めた。せっかく助けに来たというのに、まるで父さんから逃げようとしているように見えた。実際、逃げようとしていたのだろう。それが本能なのか?親から教えられたことなのか?それとも短い生の間に人間の怖さを知っていたのかは分からない。ただ言えるのは、父さんはひどく不愉快な気持ちになったということだ。せっかく助けに登ってきたのに、この態度はなんだ?父さんが自分の足を見ると、靴は砂に埋もれ靴下の中まで砂でいっぱいだった。いっそ、この猫も砂まみれにしてやろうか?などという残酷な感情が沸き起こるのを感じた。それを敏感に感じ取ったのか、子猫は横方向へ移動した。明らかに父さんから逃げようというのだ。小さな身体を機械仕掛けの玩具のように小刻みに動かしていた。よく見ると恐怖からか、激しく震えていた。残酷な感情というものは、そうした事象の積み重ねにより、より増幅するらしい。父さんの中にはこの小さな命を慈しむ心より、それを切り刻む爽快感の方により魅力を感じ始めていたのだ。そう認識するや、まるで血に飢えた捕食者のごとく、命を奪うことの喜びが身体中に沸き起こった。『やめて!』振り向くと砂山の下に由紀が立っていた。暗闇の中、砂山を照らす街灯の輝きが、由紀の表情をいやにはっきり映し出していた。『そんなことしたら死んじゃう!』初めてだった。由紀が父さんの娘になってから、初めて父さんに反抗したのだ。『早く助けて上げて!』由紀の声にわたしは我に返った。手元を見ると子猫が砂に埋まっていた。どうやら砂を大量に吸い込んだらしい。苦しそうにむせ返っていた。だが、やがて呼吸は小さくなり、砂を吐き出す力も弱くなっていった。そして眠るように大人しくなると、そのまま砂の上に横たわった。子猫は死んだのだ。『なんで?義父さん。なんでそんなことしたの!?』由紀の叫び声が間近で聞こえた。いつの間にか由紀は砂山を登ってきていたのだ。由紀はぐったりと横たわった子猫を抱き上げ、父さんを睨み付けてきた」
嗚咽にも似た唸り声が聞こえた。獣の咆哮にも聞こえたそれは、父の悔悟の呻きであることがボクには理解できた。
「これまで見たことも無いような敵意に満ちた目をしていたんだ。由紀は、たくみ、お前も知っているとおり明るくて、よく笑って、父さんのことも、本当の父さんのように慕ってくれていたじゃないか。だがその時の由紀は、まるでそれらが全て嘘だったとでも言うように、憎しみに満ちた目を父さんを見詰めていたんだ。父さんは、父さんの知らない由紀を見た気がした。そして父さんは、由紀が問うているように思えた。猫に対する残虐さの訳を。会社に対する怨み、憤り、騙された自分の愚かさへの悔悟、取り返しの付かない妻・美和の死、それらもろもろの父さんの失態のすべてをさらけ出せと由紀が問うているように思えたんだ。『違うんだ、由紀』と振り絞った言葉は、父さんにも意味不明だった。なぜそんな言葉が出たのか、父さんにも分からない。ただ、父さんはこれ以上、由紀の責めに耐えられなかったんだ。『違う、違う』と父さんの口は勝手に喋り続け、両手は暗闇の中をまさぐり続けた。街灯に照らし出されていた筈の砂山は、いつしか光を失い真っ暗闇になっていた。気付くと、砂山の裏手にある、小屋の中にいた。父さんはズボンが降りているのに気付いた。同時に、由紀を穢したことにも。由紀はまるで叱られた少女がぬいぐるみを抱くように、子猫の屍を胸に抱いていた」
それから父は、なんどとなく由紀を呼び出し、陵辱したのだろう。そうすることで、ゲーム機に夢中になるボクを忘れることが出来たに違いない。それとともに、抵抗する力も無く、巨大企業という腕力に奪われた、自分の人生を忘れることが出来たに違いない。
 やがてボクの目の前で、小屋が崩れ始めた。父の声は燃え盛る炎に掻き消され、生きているのか死んでいるのかすら分からなかった。だが、いずれ数秒後には父は燃え尽きてしまうのだ。ボクは父の影が見えなくなったのを確認すると、由紀を抱え小屋を出た。小屋の外も煙が巻いていた。煙が目に沁みた。ボクは目を瞑ったまま煙から逃れようと由紀を抱えたまま必死で歩いた。誰かが助けに来てくれている筈だという期待は、外れたらしい。人の気配は無かった。どうやら、既に夜の闇が辺りを支配し、きのこ工場で働いていた人々はとっくに帰ってしまったらしい。人家から離れたここで起きた火事に、まだ誰も気付いていないようだった。
がらがら
と大きな音がして、小屋が崩れた。同時に中で燃え盛っていた炎が屋外に吹き出た。真っ暗な夜の闇を切り裂くように、真紅の炎が立ち昇った。
 どこかで
「おーい!火事だぞー!」
と叫ぶ声が聞こえた。どうやらようやく火事に気付いてくれたらしい。ボクらも、ようやく煙から逃れた。由紀を地面に寝かせ、ボクは膝を付いた。小学生のボクにとって、炎の中から由紀を抱えてここまで逃げてくるのは簡単なことではなかった。身体が軋むような気がした。煙のせいか、息が上がっていた。心臓がドキドキして呼吸が苦しかった。そのまま仰向けに寝た。目を開くと星空が見えるだろうと思ったのに、目の前には何かが立っていた。門だった。どうやら工場団地の入り口まで、由紀を抱えて走ってきたらしい。それにしても大きな門だと関心しながら眺めているうち、ふと由紀の嘘を思い出した。由紀は、髭おじさんという架空の人物から、満月の夜くぐると願いが叶うという門の話を聞き、それを見に行くのだなどとボクに嘘を付いたんだ。それはボクと離れ離れに下校して、父の待つここへ来るために付いた嘘だった。だが、目を少し横に向けると満月が見えた。由紀の話が嘘でも構わない。ボクは由紀に騙されて、この門に向って願いを掛けることにした。くぐってはいないが、ちょうど門の真下にいるのだ。
 さて、何をお願いしようかと考えて、ボクは戸惑った。昨日までなら「ゲーム機が欲しい」と願っていただろう。だが、父のあんな話を聞かされたら、そんなことはお願いできない。というより、ボクはこれから父のいない子供として生きていかなければならないのだ。そして、警察は父が由紀に犯した罪も暴くかもしれない。そうなればボクには恥ずべき人生しか待っていないのじゃないか?
 いろいろ悩んだ挙句、ボクが願ったのは、今日起きた全てのことを忘れてしまいますように、ということだった。願い終わった時、遠くから人の声が聞こえた。何人もの声と、半鐘を鳴らす音。火事の消火に来たのだ。ボクはなんだがホッとして目を瞑った。そのまま意識が薄れていった。薄れる意識の中で、煙を沢山吸い込んだからか、ひどい頭痛を感じた。この頭痛を感じる度に嫌な思い出を思い出さなければいいが、と少し心配になったものだった。

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