「遠慮しとくよ。みんなずっとサッカーをやってきた人たちばかりだろ。そんな中に俺みたいな素人が混じっても邪魔しちゃうだけだよ」
「そう言わずに練習に顔を出してみない?」
「いや、ちょっと」
「そっか。じゃ、三年生にとって最後の大会の一回戦が今度の日曜日にあるんだ。出来れば応援に来て欲しいな。弱いからさ、あんまり応援に来てくれ貰えないんだ」
そう言うと中山は美しく澄んだ目で市太郎を見つめた。今時、これほど一途な瞳に会った事は無かった。市太郎はその目に気圧され、思わず首を縦に振ってしまった。
「ありがとう」
中山は深々と頭を下げると、爽やかな一陣の風のように去って行った。
 その予選の日が今日である。開始時刻は一時だった。その時、突然声がした。
「おい、そろそろ用意しねえと中山の約束に間に合わねえぞ!」
いつの間にか窓拭き用のゴンドラが、再び市太郎の部屋の窓の外にあった。開いた窓から真奈美が顔を入れ、市太郎に叫んだのだ。
「なんでお前が知ってるんだよ!」
「だって、この間の昼休みに話してたろ。後ろで聞いてたんだよ」
「人の話を勝手に聞くなよ!」
今度は窓から妹の留美子が顔を出した。
「お兄ちゃん、そんなこといいから早く着替えなさいよ。間に合わなくなっちゃうよ!」
仕方なく市太郎は着替えることにした。
「ちょっと窓閉めて」
「なんで?」
「ズボンを履き替えるんだよ!」
「早く履き替えろよ」
「だから窓を閉めろよ」
「恥かしがるなよ。小学校の頃うんこ漏らしてみんなの前でパンツ脱いだじゃねえかよ」
それを聞いて留美子が「ええ!」と驚きの声を上げ、それから「ププッ」と噴出すのが聞こえた。間違い無く真奈美は自分の恥を妹の留美子に教えて悦んでいるのだ。相変わらずのいじめっ子だ、と市太郎は心の中で呟くと怒りで目に涙が浮かんで来るのが分かった。窓際まで行き、思い切り窓を閉めた。薄いカーテン越しに真奈美と留美子が一瞬、驚いた顔をしたのが見えた。それから二人は薄笑いを浮かべながら下がって行った。ゴンドラを降下させていったのだ。
 二人の姿がすっかり見えなくなったところで、市太郎は出来るだけ早く中山君の試合を見に行こう、と思った。早く、家から外へ出てあの二人のいないところへ行きたかったのだ。すっかり着替え終わって時計を見るとまだ十二時前だ。途中で昼食を食べて行けばちょうどいい。市太郎は巨体を揺らしながら家から駆け出した。

 ハンバーガーは三個だけにした。飲み物もコーラではなくウーロン茶。一応、市太郎はダイエットを心掛けていたのだ。しかし、そんな程度の量などブラックホールのごとき市太郎の腹の中にあっという間に消えていってしまった。まだ店に入って三分も立たないというのにだ。このまま店にいると追加注文したい欲求に負けてしまいそうだったので、早々に席を立った。出口に向う。しかし、ファーストフード店の出入り口は昼食時ということもあり混雑していた。市太郎の巨体は順番待ちする人々から迷惑そうな視線を向けられた。出掛けに、
「あ!や、やっぱりお持ち帰りにしてくれ!」
という声が順番待ちの列の一番先頭から聞こえた。どうやら注文品が揃った段階で、持ち帰り用に変更して欲しいと言っている迷惑な客がいるらしい。市太郎はその客の声に聞き覚えがあるような気もしたが、確認するのも面倒だったので、そのまま中山たちが試合をするグラウンドに向った。
 予選会場となった市営グラウンドには、応援団が大挙して駆け付けていた。といってもほとんど敵の応援団である。芝生を敷き詰めた観客席は片側だけ観衆に埋め尽くされたいた。相手は優勝候補に上げられる強豪校らしい。市太郎の通う青雲高校のように弱小チームは強豪校の噛ませ犬として扱われている訳だ。噛ませ犬という表現が悪いなら、練習相手とでも言おうか。いずれにせよ相手チームは監督はじめ選手達もリラックスしまくっている。
「やあ、来てくれたんだね」
ユニホーム姿の中山が、芝生席に立ち尽くして相手応援団の迫力に身を固くする市太郎に声を掛けてきた。声に気付いて市太郎が振り返ると、中山は華奢な身体に不釣合いな肩幅の広いユニホームを重そうに着ていた。まるで大人の服を無理矢理着させられた子供のようである。小柄な彼が普段以上に小柄に見えた。よく見ると中山の膝が震えていた。その為に膝が曲がり猫背になり、必要以上に小さく見えたらしい。
「ふふ、市立浜橋って凄く強いんだ。全国でも有名な高校さ。なんとか惨めな負け方だけはしないように頑張らなくっちゃ」
中山は笑顔を作って見せたらしいが、市太郎には泣き顔にしか見えなかった。