中山は小学校三年生でサッカーを始めた。テレビでアレッサンドロ・デル・ピエロを見、すっかり魅了されてしまったのだ。その日のうちにサッカークラブに入ることを両親に許可して貰った。次の日曜日には少年サッカーチームのユニホームを着ていた。中山の脳裏には憧れのアレッサンドロ・デル・ピエロのイメージが満ち満ちていた。しかし、ボールに触れた瞬間、身体は硬直した。ボールは思ったより固く足に振れた瞬間、見知らぬ生き物のように中山の元から離れて行った。それだけはない。中山は二年生の子等より下手な自分を発見した。いや、一年生より下手だった。つまり、誰より自分が一番下手であることに気付いたのだ。
 普通はそれで挫けてしまう。いや挫けてしまった方が幸せなのだ。挫折はより自分に向いた道を探すきっかけになるのだから。ところが中山は挫けなかった。むしろ運命に逆らうように才能の欠片も見当たらない棘の道を歩き始めたのだ。それから中山は、毎朝一時間のリフティングを欠かしたことが無かった。本当は「百回続けられたら終わり」という決まりにしたいのだが、生憎才能の無い中山は小学校三年以来、高校三年に到るまでの九年間に二十回以上続けられた試しが無かった。だから百回などといえば永遠に終了できないのだ。
 そんな中山だから小、中、高と一貫してサッカー部に所属した。当然、レギュラーにはなれなかった。控えどころか、ベンチに入れてもらえたことすらなかった。そんな中山にも、幸運は巡ってくるものだ。高校生活最後の年にそれは訪れた。幸か不幸か星雲高校はサッカーが弱かった、だから毎年入部も少なかった。今年はそれが更に少なく、ついに部員数は十一人ちょうどになってしまったのだ。部にとっては残念なことだが中山にとっては初のベンチ入り、いやレギュラー取りが叶ったといえる。しかし、好事魔多しのことわざのごとく、中山のレギュラー取りは大会直前になってにわかに雲行きが怪しくなってきたのだ。同級生や後輩である選手達こそ露骨に口には出さなかったが、数学の教諭も兼ねる監督が
「誰か中山の代わりいねえかなあー。サッカーなんかやったことなくたっていい。人間なら誰でもいいや」
などという中山にとって屈辱的な言葉を口にしたのだ。しかしサッカーを愛する中山は、それがチーム全員の総意であると納得した。なにしろ中山が試合に出るようになってからというもの、相手チームは中山がいるサイドを大穴の開いたザルをくぐるようにやすやすと突破し得点を重ねるのだった。
「誰もいないほうがマシ」
というチームメイトの無言の呟きが中山の耳にも聞こえるようだった。
 それから今日まで、中山は全力でメンバー探しを行った。既に三年生が出場する大会を終えた運動部の選手からあたり、ついには文化部にまで対象を広げた。市太郎に声を掛けたのもこの時である。しかし残念ながら、否、幸運にも誰も参加してくれなかったのである。
 そしてついに中山は出場機会を得、あろうことかフォワード、それもワントップとして起用されたのである。相手が強過ぎるので、中山が守りにいたら邪魔というのが真相だったが、そんなことはどうでもいい。花形のポジションでピッチに立っているだけで眩暈がするほど嬉しかった。きっとこの日のことを自分は一生忘れないだろう、とまで中山は思った。そんな中山に思いもよらぬチャンスが訪れたのだ。おそらく今後一生訪れないほどのチャンス。強豪・国立浜川を相手に得点を取るチャンスが訪れたのだ。
 亀のように守りに徹する星雲高校を責めあぐね、強豪・国立浜川はデフェンス・ラインを上げ過ぎたらしい。一瞬の隙を突いて星雲高校のデフェンダーがクリアしたボールは国立浜川のデフェンス・ラインの頭上を軽々と超え、しかしゴールキーパーがゴールから飛び出してクリアするには危険過ぎるほどの位置、つまり攻撃側にとっては絶好の位置にボールが転がったのだ。更に、攻撃に気を取られた国立浜川デフェンダー等より、はるかに早いタイミングで中山は飛び出していた。国立浜川デフェンダー等が、中山に気付いた時には既にボールまであと一歩というところまで迫っていた。中山は走るスピードを下げず、しかし慎重にボールを迎えに行った。その時、中山は驚きに心臓が停止しそうになった。おそるおそる出した足は、まるで別人の足のようにボールを吸い寄せたのだ。アレッサンドロ・デル・ピエロが自分に乗り移ったのだ、咄嗟に中山はそう思った。これまでの自分の努力を神様が見ていてくれて人生の中で一度だけヒーローにしてやろうと考えたに違いない、とさえ思った。それほどボールは中山の足にふわりと乗り、歩を進める毎に中山の足に馴染んで行った。ふと顔を上げると国立浜川のキーパーが見えた。彼には、既にJリーグの三クラブほどが獲得に名乗りを上げている。将来の和製カーンなどと持てはやされている男だ。昨年は二年生にして五十試合無失点記録を達成した。しかし今日の中山には、そんなビッグネームのキーパーの表情さえ窺う余裕があった。何しろアレッサンドロ・デル・ピエロが乗り移った足を持ったのだ。キーパーも中山の足が尋常で無いことに気付いているらしい、どこかしら不安げな表情をしている。そんなことを考えているうち、ゴールエリアが見えてきた。いよいよシュートレンジに入ったのだ。シュートってこんなに楽なんだ、などと中山は心の中でほくそえんだ。サッカーを始めた小学校三年生の頃から中山はついぞシュートというものを放ったことが無かった。中山が振りかぶった瞬間、ボールはそこにない。相手に軽々と奪われてしまうのだ。しかし、今日の中山は違った。自分でもゆっくり過ぎるくらいゆっくりと、いや、ゆったりと振りかぶっているいるというのに、誰にも邪魔されない。いつもこんな風に打てば良かったのだ、などと中山は反省した。これはアレッサンドロ・デル・ピエロが乗り移っているからに違いないのだが。
 その時、思い掛けない声が耳に入ってきた。
「馬鹿野郎!早く打て!」