「ああ、おかえり」
僕らが玄関から居間に入った時、初めて気付いたように母がそう言った。何か物思いに耽っていたようだった。でも僕らは特に気にもせずランドセルを片付けに行った。僕は部屋を横切る時、母の甘い匂いを感じた。母はいつも甘い香りがした。僕はその香りを嗅ぐと心から落ち着いたのだ。
 母の美和は、僕の実母では無かった。僕が小学校に上がる歳に僕の父と再婚し、由紀を連れてこの家に来た。
 新しい母が来ると父から聞かされた時、万事に恐がり屋の僕はとても不安だった。ちょうど保育園でシンデレラのお話を保母さんが朗読してくれたばかりだったのだ。意地悪な継母が新しい母のイメージと重なったのだ。だから明日、新しい母が来るという夜は、震えが止まらなくてなかなか寝付けなかったのを憶えている。
その頃の僕は擦り切れたタオルケットを握り締めて眠るのが常だった。それは三歳を少し過ぎた時、父と僕を捨てて若い男と出て行った母の匂い残る唯一の品だったのだ。本当にそうだっか定かではないが、少なくとも僕はそう思っていた。だから、そのタオルケットを握って寝ると顔も思い出せない母の柔らかい感触や甘い匂いに包まれる気がしていたのだ。その夜も僕はタオルケットに顔を埋め母親の匂いを探しながら一人布団の中で震えていた。隣で父が鼾を立て始めても眠れなかった。僕は暗がりの中で一人、僕を置いて去った母を怨んだものだ。そして、まるで一睡もせぬ内に朝が訪れた気がした。
 しかし、朝日がすっかり天に昇り昼に近付いた頃、家に現れた美和はシンデレラの継母とは似ても似付かなかった。シンデレラに登場する茨のような継母とは対照的に、柔らかい餅のようにふっくらとした肌をしていた。長い手足は見たこともない美しい動物のようにしなやかに動いた。父と並ぶと変わらぬほどの背丈であるのに、華奢な体付きが可愛らしくさえあった。
「たくちゃんよろしくね」
美和の口から漏れ出た声は、僕には天使の囁きにも聞こえた。こんな優しい声を僕は聞いたことがなかったのだ。次に僕が驚いたのは、何の戸惑いも無く美和が僕を抱き締めたことだ。初めて顔を合わせて一分と経っていないというのに、美和は僕を優しく包み込んだ。美和の身体からはとても甘い匂いがした。
「今日から『お母ちゃん』て呼んでね」
美和の声がした。その瞬間僕は涙が零れ落ちるのを感じた。痛い訳でも怖い訳でも無いのに涙が次から次から溢れ出した。
「あれ!どうしたん?おばちゃん嫌いか?急なことで驚いたん?」
僕は首を左右に振った。その涙が何故流れるのか僕にはよく分からなかった。ただ、あの瞬間、僕は僕を捨てた実母の匂いを忘れたのだ。もしかしたらこれで実母と永遠に別れることになると思って涙したのかもしれない。大人になって気付いたことだが、僕はこの時、自分の実母を忘れるほど彼女を愛してしまったのかもしれない。実際、大学を卒業し就職してから数年が経った頃、実母が僕を訪ねてきたことがある。彼女は僕に
「ご免なさい」
とか
「寂しい思いをさせた」
などと懸命に侘びを言った。でも、そのどれもが僕には陳腐でありふれた言葉にしか聞こえなかった。僕は、今は僕の知らない男の妻になり、その男の子供を何人か産んでいるらしいこの女性に懐かしさを感じることが出来なかった。かといって僕は彼女を憎んでいた訳では無く、正確に言うなら彼女は僕にとって特別な存在では無かった。僕は初めて会った瞬間から、僕の母は美和だけだと思ってしまったし、美和以外の母を必要としなかったのだ。


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