しかし百戦錬磨の国立浜川守備陣は安易に飛び掛ったりはしない。勇み足こそ獲物を取り逃がす最大の原因であることを知り尽くしているのだ。彼らは指揮官・室井の指示に従い、慎重にフォワードを囲み始めた。それは真綿で包めるような繊細な動きで、その先に真綿で首を締めるような地獄を用意していようとは、見るものの誰も気付かなかった。
 ボールが遂に市太郎の頭に接触しようとしていた。というよりサッカーに関する技術をまるで持ち合わせていない市太郎だから、正しくは顔面にぶち当たろうとしていた、と言った方が正しい。味方からのロングボールが正確だったこともあるが、自分の周りにいる国立浜川の守備陣に押され、いつの間にかボールの真下に連れて来られたような気もした。いずれにせよ顔面のすぐ間近にボールはあった。市太郎は歯を食い縛った。顔のどこに当てようが中山のいる方向、右斜め前にボールを落とそうと考えていた。しかしその時、異様な感触に全身が包まれたのだ。それは生暖かい湯に入ったかのような一種異様な暖かさだった。更に神経をその感覚に向けると、強い触感もあった。ヌルヌルとした何物かが全身を覆い尽くしているようだ。まるで地獄から這い出た魔物が全身にまとわり付いている様である。慌てた市太郎は自分の身にまとわり付く異様な物を見極めようと俯いた。俯いた先には男達の顔が並んでいた。前に二つ、後ろに三つ。国立浜川のダブルボランチ&3バックらだった。全員が身体をべったりと市太郎の身体にくっ付けていたのだ。生暖かさは彼らの体温、そしてヌルヌルは、彼らの全身から噴出す汗だった。更に、汗臭い臭いも漂ってきた。
「ひいいーっ」
市太郎が悲鳴を上げた瞬間、ボールは市太郎の耳元をかすめて行った。そのまま国立浜川ゴールまで点々と転がって行ったボールをキーパーが楽々と拾い上げた。
「ミナトー!どうした!」
味方から声が掛かり市太郎は我に帰った。国立浜川のダブルボランチと3バックの5人は既に市太郎の周りから去っていた。
 去りながら室井は誰にもそれと分からないほど小さく微笑んだ。マシンのごとく冷静な彼にとって微笑むこと自体珍しかった。更に驚いたことに、彼は自賛気味に呟いたのだ。
『ふふふ、早く鹿工の大山、平久保のツートップにも味わって貰いたいものだ』
その小さな微笑に気付いたダブルボランチの相方、金村は小さく震えた。

「五人がかりじゃね、流石の湊君でも突破できないか」
中山に慰められ、市太郎は首を振った。
「違うんだ。あいつらが気持ち悪いことを・・・」
言いながら市太郎は、それは単なる言い訳であることに気が付いた。
 ふと市太郎は相撲部屋時代のことを思い出した。皆、汗っかきで体温が高かった。夏ともなれば互いの汗で手が滑って稽古にならないほどだった。先輩力士の体臭の強さと言ったら、組み合った瞬間、意識が飛んでしまいそうになるほどだった。しかし、相撲の世界でそれは常識。臭いから負けていいという理由にはならないのだ。
「あれに比べれば大したことではない」
と市太郎は気を取り直した。それに気付いた市太郎は、思わず四股を踏んだ。思いがけぬところで相撲部屋のあの感覚を思い出したのだ。
『そうだ。肝に力を入れて息を吐きながら、こうだ!』
目の前の空に向って、ぶちかましを一閃。それを見ていた国立浜川の守備陣が静まり返った。
『ふん!ふん!次は全員、弾き飛ばしてやる!』
市太郎は国立浜川守備陣を睨み付けながらにんまりと微笑んだ。