「それとおいらを追い出すこととどんな関係があるんだい?」
「おれはあの日、自分に誓いを立てちまったんだ。一生結ばれなくても麗を幸せにするってな。だからおめえを・・・」
親方の言葉を遮るように市太郎は立ち上がった。その身体からは湯気が立ち上っているかに見えた。目、鼻、口、耳と身体の穴という穴から憤怒が蒸気となって噴出しているように見えた。
「い、イチ!落ち着け!この三年間、おめえはよく頑張った。今はすっかり角界の星だ。あの、無敵の魁座亜皇をぶっとばすなんて、おめえ以外の誰も出来ねえ。そんなおめえを手放す俺は本当に駄目な奴だ」
しかし市太郎は鬼のような形相で親方を睨み付けると「信じられねえよ」とだけ言った。
「もう親方の何もかもが信じられねえんだ!」
言うなり市太郎は走り出した。背中に親方の呼ぶ声が聞こえたが聞こえたが、両耳に手を当て聞こえないようにして走った。目は開いていたが何も見えなかった。見えてくるのは親方の部屋に入門してからの三年、その間の色々な思い出ばかりだった。父を知らず、母も物心付いた時には仕事の鬼となっており、家に帰っても誰も居ない毎日だった。暖かい家庭というものを知らなかった。そんな市太郎にとって親方と女将さんはまるで父母のように思えたのだ。毎日の練習は厳しかったけれど、何かと面倒を見てくれたり、お節介を焼いてくれたり、小言を言ったり、時には叱ってくれたり、そして何よりいつも家にいてくれることが嬉しかったのだ。そんな日々が全部嘘っぱちだったと思うと涙が溢れてきた。でも本当のところ嘘っぱちなんかじゃなかったと思うともっと涙が出てきた。聡明な市太郎は、そうした日々が嘘じゃないことくらい分かっていたのだ。
 一方で相撲部屋を出なければいけないことも事実だった。そしてそれは親方が母への愛に殉じた為なのだ。
「『誓い』ってさ。自分で勝手に誓っただけだろおい。昔だったら許されない話だよな」
市太郎は一人呟いた。何度も親方の話を頭の中で反芻しながら市太郎は夕闇が辺りを支配するまで歩き続けた。歩き続けた後、市太郎はなんだか馬鹿馬鹿しい話に付き合わされた気がしてきた。三年も、いや初めて公園で会った時から考えると六年もこんな話に突き合わされたのかと思うと損害賠償くらい請求したい気にもなったが、幸い部屋から高校に通わせてもらっていたのでここらで普通の高校生になるのもいいかもしれない、などとも考えた。
 気付くと市太郎は家の前にいた。何時の間にか建て替えられ、すっかり立派になった玄関のドアを開けた。
「ただいま」
と言って中に入ると
「おかえり」
という母の声がした。