「言い訳がましい言い方はしないでくれよ」
「そう言わずに聞け。まずな、おめえの言う通り最初に会ったあの日、おめえに声を掛けたのは、おめえが美久ちゃんの子供だったからだ。おめえは忘れちまっただろうが、おれはおめえをもっと小せえ頃から知ってる。でな、おめえが今にも自殺しそうな顔してたから放って置けなかったんだ。で、聞いてみれば足が遅いの何のって、それなら俺が教えてやりゃあ少しは速くなるんじゃねえかってな。相撲取りはみんな足が速えんだよ。でな、教えた訳よ」
「やっぱりな、母さん目当てか。そうしておいらと仲良くなれば母に取り入れるとか思ったんだろ」
「そうだ。その通りだ。でもな、ここからが肝心なんだ。それで教えているうち、おめえの走りがみるみる見違えるのが分かった。どころか日本最高のランニングバックって言われたおめえの父親にそっくり走り方になってくるじゃねえか」
父がラグビーの選手だったって話は以前、酔った親方から聞いたことが合った。親方が母を諦めた理由が父なのだそうだ。
『学校出るまで喧嘩じゃ負けたことがねえ力自慢の俺が、大物新人として名門赤砂部屋に入門し、意気揚揚としてたころだ。肩で風切って歩いてた俺様が、道端で擦れ違った男に一捻りにされちまった。「てめえ!俺様を誰だと思ってやがる!」なんて素人相手にぶちかました俺を、見事なほどに腰を落としがっしりと受け止めやがった。その上「この野郎!」と叫びながら押しまくる俺を、簡単にいなしやがった。それがおめえの父親。大学一年坊主にして初の全日本代表ラガーメン。パワーは相撲取りだけの専売特許じゃねえ、って思い知らされた。以来、俺は技の研究にいそしんだのだ』
『それで親方は小技専門だったんですね』
『小技とは何て言い草だ!テクニシャンと呼んでくれ』
『でも立会いで変化し過ぎて協会からクレームが出たって』
『そんなこたあいいんだ。それより俺は、その時点でこの男には叶わねえ、って悟ったんだ。人生とは不思議なもので、そいつが俺の一等大切な美久ちゃんと恋に落ちちまったんだよ。泣いたなあ、あの時は、朝まで泣き明かした。生まれてこの方あんなに泣いたのは初めてだ。でも、あんな凄い奴と結婚すれば、美久ちゃんは間違い無く幸せになるって、そう思って身を引いたんだ』
などという会話を思い出した。
「でさ、たった三年でクラスで一番速くなって陸上部からも誘われたろ」
「だって初めから『俺の言う通りにすれば一番速くなれる』って言ったじゃないか」
「馬鹿言うねえ。相撲取りだって魔術師じゃねえんだ。才能の限界を超えることは簡単じゃねえ。第一、おめえ以外の生徒だって野球やったりサッカーやったり、毎日鍛えてんだからよお」
「じゃ、嘘だったってこと?」
「励ます為に言ったのさ。嘘も方便って言うだろ」
「酷すぎる」
「でもさ、中学を卒業する頃のおめえは、すっかり見違えるような走りをしやがった。ただ早えだけじゃねえ、父親譲りの力強え走りだ。相手のデフェンダーを三人くれえは楽に引き摺ってトライしたあの走りにそっくりになりやがった。俺じゃなくてもスカウトしてるよ。間違えねえ」
親方は禿頭の頂きに乗せた手拭いを取ると「ちょっくら絞ってくらあ」と言い、再び水のみ場の水で手拭いを濡らした。戻りながら丁寧にたたむ。図体がでかい割に几帳面なのだ。きちんと四ッ折にされた手拭いをさっきと同じように頭に乗せると「よっこらしょ」と言ってベンチの一太郎の隣に座った。
「おめえの親父が突然、くたばった時には、本当に驚いた。だけじゃねえ、俺はおめえの親父を憎んだ。だってそうだろ。結婚してまだ三年だぞ。そんなんで死ぬなら初めから結婚するな、ってんだ。その時、美久ちゃんはまだ二十五だぜ。あと何十年、未亡人として生きるってんだ。今だから言うが、おれは本気で美久ちゃんと再婚しようと考えたんだ。だがな、美久ちゃんは俺なんざ相手にしてくれなかった。『馬鹿言わないで。あなたには清美さんがいるじゃない』って、貰ったばかりの女房の名前を出されちまったんだ。『あれは間違いだったんだ!俺が本当に添い遂げてえのは美久ちゃんなんだ』って言ったら『やめて!それ以上言ったら寛さんのとこ嫌いになってしまうよ』だとよ。おれは完全にふられちまったのさ」