「毎朝早起きしちゃあ稽古して、それから高校に行って、帰ってきてからまた稽古、それから全員の飯を作って、後片付けをしたら勉強だ。よくやったよ」
「勉強は親方がやれって言ったんだよ」
「そうだ。今時、馬鹿じゃあ相撲は取れねえ。それにしてもよくやった」
親方は市太郎の頭に手を置いた。それは父親が息子に対するような力強さを伴っていた。
「おめえの成績なら、そこそこの大学なら楽に受かるだろう」
それから親方は恐れていた言葉を口にした。
「イチ。一度お母さんのところへ帰れ」
市太郎は自分の予感が正解だったことを確認してから、親方の言うところを理解した。それから親方に質問した。
「魁座亜皇関に怪我をさせてしまったから?」
「そんなんじゃねえ。怪我をした方が未熟なんだ」
「じゃ、僕に才能が無いから?」
「何言ってる!おめえの立会いはいつ見ても惚れ惚れするぜ。カイザーを吹っ飛ばした時なんざ全盛期の千代の富士と見紛ったぜ。あのぶちかましで吹き飛ばねえ奴はいねえ」
「じゃ、何で?」
聞かれた親方は少し方をすぼませると、叱られた子供のように小さな声で答えた。
「美久ちゃんはな、想像を絶する苦労をして、仕事が大成功してみたらおめえはいねえ。一人ぼっちだったって気付いちまったんだ。それで突然、返せ、と言ってきた。息子を相撲取りなんぞにする気は無いともな。監禁だなんて言って警察連れて来たり、弁護士立てて裁判に訴えるなんて言ってきたりした。が、おめえがあんまり熱心だったもんで、全部撥ね付けてやったんだが・・・」
「だったら何で今ごろ?」
親方は急に泣きそうな顔になると両手の平を市太郎の顔の前で拝むように合わせた。
「済まねえ!」
地面に着きそうなほど頭を下げた。
「美久ちゃんは寂しいんだよ。そんな美久ちゃんからおめえを引き離せねえんだ。情けねえ俺を許してくれ」
親方はもう一度頭を下げた。その拍子で乗せておいた手拭いが落ち、禿頭が露になった。さっきまで鞭打たれたような蚯蚓腫れが幾重にも折り重なり、奇妙な絵を描いたようであったにも関わらず、すっかり引き、僅かに赤い線が現れているだけだった。その様を見ながら市太郎は自分の心が凍り付いていくのを感じていた。すると、ずっと感じていた疑問が顔を出してきた。それは何年もかけて心の底に追いやったものだった。しかし一度顔を出すやたちまちに市太郎の心に広がり、あっというまにいっぱいに満たしてしまった。そしてそれは悪魔のように市太郎の耳元で囁いたのだ。市太郎は囁かれるままを口にした。
「僕が母の子供だったから。親方は目を掛けてくれたんだ。これって縁故ですよね。実力の世界にはあってはならない」
「な、何言ってやがんだ!?」
「尊敬する親方を疑いたくないけど、あの日、親方は母に近付く為に僕に声を掛けたんでしょう」
「え!?そ、そ」
親方は慌てて市太郎を見た。が、市太郎の視線は憎しみで満ち満ちているかのごとく凍えるような冷たさを放っていた。その視線に親方は一瞬で気圧されてしまった。それでも勝負の世界で生きてきた親方である。一度目を外し小さく咳払いをして気持ちを取り直してから、
「あ、あのな、市太郎」
と、そこまで言いそれからもう一度腕組みをして十分に間合いを取ったところで市太郎に向き直った。
「お前の言うことは、一面では正しいが、また間違ってもいる」