すっかり母の引っ掻き傷だらけになった親方とともに市太郎は帰路に着いた。歩くほどに太陽に照らされ親方の禿頭には脂汗が滲んだ。まだ春とはいえ今年は日差しが強い。まるで夏まっさかりのようなきつい日差しが照っている。おかげで親方の禿頭からは止め処無く脂汗が湧いて出た。その上、親方の脂汗はとても濃くて塩気の強いらしい。
「い、つつつつ、痛!」
案の定、母に引っ掻かれた傷口に濃い脂汗が沁みるらしい。腰のベルトから下げた手拭いを手に取り静かに、軽く叩くように慎重に汗を拭き取ったが、それでも痛いらしい。
「おいイチ!走って帰るぞ」
と親方は言った。痛みに耐えかねたのだろう。親方と市太郎はマラソンの練習でもするように恐ろしい早さで走った。実家から部屋まではわずかに一キロ。しかし、走るほどに親方の禿頭は塩っ辛い脂汗を噴出すらしく、見る間に禿頭は幾重にも蚯蚓腫れが浮き出た。
「ああー!もう駄目だ!」
「親方!公園に水飲み場がある。そこで洗ったらいい」
「ナイスだ!」
二人は道路脇に見えた公園に一目散に掛けこんだ。親方は水のみ場の蛇口を捻り思い切り水をじゃあじゃあ流すと引っ掻いた線上に幾重にも火脹れした頭をその中に突っ込んだ。豊富な水が親方の腫れ上がった頭を覆うと、真っ赤なみみず腫れが次第に引いてくるのが分かった。
「はふー。生き返るー」
「良かった。親方の頭、どうかなっちゃうかと思いましたよ」
「まったくだ。拷問みてえだったぜ」
親方は蛇口から迸り出る水に頭を晒したまま答えた。
「それにしてもおめえのおっかあは爪が長過ぎるぜ!」
「本当。相撲の親方っていうよりデスマッチ専門のレスラーみてーです」
まったくだ、と親方は呟きながら手拭いを水で洗い出した。頭の腫れはなんとか収まったようだ。不思議なもので、さっきまであれほど凪いで直射日光が親方の頭から塩っ辛い脂汗をたっぷり噴出させていたというのに、それが収まると同時に緩やかな風が吹いてきた。親方は水に濡らした手拭いを丁寧に畳むと、銭湯にでも入っているような調子で、その禿頭の上に乗せた。そうして水のみ場の近くのベンチに座った。市太郎も隣に座った。二人のほかには人っ子一人いなかった。
「まったく今時の子供らは公園で遊ぶより家の中でゲームやってる方が好きときてる」
ふーっと親方は大きな溜息を付いた。
「戦争にでもなったら日本は終わりだぜ。みんな脳味噌ばっかり発達して身体が出来てねえ。おっと俺は戦争がいいって言ってる訳じゃあねえ。戦争は無いに越したことはねえ。ものの例えだよ」
親方が何かを言おうとしていることは市太郎にも分かった。しかし何を言おうとしているのかは分からなかった。市太郎は親方につられて遠くを見たが、何も見えなかった。公園の向こう側の住宅街の背が見えるだけだった。
「ここを卒業してから何年になるかな?」
この市太郎の家の近くの公園で、三年間、親方に百メートル走の練習をしてもらったのだった。ここを卒業してからと言えばイコール入門してからの年数となる。市太郎は二年と一ヶ月と答えようとして口をつぐんだ。それを言ってしまえば、親方がとんでもないことを言いそうだったからだ。しかし親方は市太郎の返事を待たず「二年と一ヶ月か」などと呟くように言った。