魁座亜皇関は幸いむち打ち症で済んだが最低、二場所の休業は免れぬ状態だった。生意気な魁座亜皇関のことを悪く言っていた親方も、看板力士の休業とあって塞ぎこんでしまった。また、あれほど思い上がっていた魁座亜皇関も、この一件で借りてきた猫のように大人しくなり、毎日親方が見舞いに行くたびに
「パパ、タスケテ」
などと甘える始末だった。そうなると犬猿の仲だった親方と魁座亜皇関も、すっかり普通の子弟の関係に戻った。二、三日入院しただけで気弱になり
「ボク、モウ駄目」
などと言う魁座亜皇関に、
「おまえは俺の息子も同然だ。ぜってえ元の身体に戻してやる。で、横綱取ろうぜ。横綱とって、いずれ俺の部屋を継いでくれ」
と言って励ますようになった。
 そうなると居心地が悪いのは市太郎であった。部屋の看板力士に大怪我をさせたのである。稽古中だから仕方ないにしても、いたたまれなくなった。いたたまれなくなっても歯を食いしばって頑張れるほど市太郎は根性が出来ていなかった。それに、親方の申し入れを母親が拒否したのだ。
「今時、ちょんまげは無いでしょ。街を歩いても見たこと無いわ」
「美久ちゃんよ。市太郎は相撲取りなんだぜ。相撲取りはみんなちょんまげだって昔から決まってんだ!」
入門してから知ったことだが親方と市太郎の母は歳は七つ違いだが、同じ町内の生まれでよく知った中だった。おかみさんが教えてくれた。ついでに
「親方はね、随分と長い間、イチのお母さんにご執心だったのよ。お母さんがあなたのお父様と結婚して諦めたの。それで私と結婚したんだけど、それからすぐお父さん死んじゃったでしょ。随分と後悔したみたい。今でも想ってるような気がするわ」
などという聞かなくても良いことまで聞いてしまった。
 市太郎がそんなことを思い出している横で、親方と母の口論は続いていた。
「時代錯誤も甚だしいわ!」
「て、いうより美久ちゃん。相撲見たこと無いのかよ?」
「あ?ああ私ああいう野蛮なスポーツに興味ありませんの。男同士がふんどしで一丁で抱き合うなんて裸族じゃないんですから。私、テニスとか、そういうファッショナブルな競技の方が好みなんです。最近、ゴルフもいいわねえ」
「まあお上品なご職業柄分からないでも無い。美容業界あまたのカリスマの中でもカリスマ中のカリスマ。カリスマ美容師達すらも憧れるカリスマ美容師・伊集院遥先生の一人息子がちょんまげでは格好付かないかもしれねえなー」
「よくお分かりじゃないの。だったら話しは早いわ。ちょんまげは許しません」
「ちょっと待って下さいお母さん。これは息子さんの職業に関わることなんです」
「職業で髪型を勝手に決めるなんて労働基準法違反じゃございませんの?なんて封建的なのかしら!」
「いや、封建的って言われると、まあ、それが相撲の売りなんだがね。とにかく茶髪は困るんだよ」
「ちょんまげなんてもっと困るわ。あの子はね。不憫なことに生まれた時からデブだったの。だからね、人一倍ファッションに気を使ってあげないと人前に出れないのよ。それをこともあろうにちょんまげ?うちの子を引き篭もりにする気?」
幾ら説明しても理解してくれない母親に親方はほとほと業を煮やした。つい小声で「まったく訳の分からねえ糞ばばあだな!」と呟いてしまった。それは音にもならないほどとっても小さな声で、自分の口の中だけで響く程度のものであった、と親方は思った。しかし髪一本すら切り分けると言われる美容師のカリスマ・伊集院美容院院長伊集院遥は聴覚すらも研ぎ澄まされているらしい。その小声を明確に聞き取っていた。「ん、まあ!何ですってー!」という金切り声に始まった母親の狼藉を市太郎は隣室で聞いていた。母は芸術家だけあって、神経質でもあり、ヒステリックでもある。ヒステリーに火が点くとまるで猫科の動物のごとく暴れ回るのだった。