「なんでえユニホームなんて無くったっていいじゃねえか。なんならパンツ一丁で走ればいい。相撲取りなんてパンツより小せえものしか付けていねえ」
「まあ、相撲取りはまわしだけだもんね。よく考えるとあれ、恥かしいなあ。だってお尻丸出しだよ」
「鍛え抜くとな、見せたくなるもんさ。毎日鍛えてバーンとこうでかくて張り切った尻って奴は、見せられた方も惚れ惚れするってもんだ」
「なんか理解に苦しむけど。おじさんが言うんだから本当なんだろうね。そうだな、僕。中学卒業したらおじさんの言うとおり相撲取りになろうかな」
「やっとその気になってくれたか」
と言って親方はその時、初めて僕に名刺を見せてくれたんだ。僕は驚き、少し騙されたような気になったけど、それ以上に親方についていこう、って思った。毎度ビリっけつが指定席の僕が、クラスで一番にしてくれたんだから。

「イーチ!テメエもう終ワリカ!まったくニホンノ若エーノハ根性ネーナー」
言うなり魁座亜皇関はうつ伏せに倒れた市太郎の髪を掴み上げた。怪力に掴み上げられた市太郎の身体は宙に浮いた。魁座亜皇関はそのまま反対側の壁に市太郎を投げ付けた。木か骨か、とにかく硬い何かが折れた音がした。一太郎は壁を背に逆立ちするように倒れた。もはや稽古どころではなかった。ところが、魁座亜皇関の責めはそれでは終わらないのだ。のっしのっしと巨躯を揺らしながら市太郎に近づいていく。その顔には薄っすらと微笑すら浮かべていた。
「イチ!コレでグッバイね」
市太郎は薄れ行く意識の中で、親方とした百メートル走の練習を思い出していた。来る日も来る日も公園で、必死に走った。周りの人々は奇異に思い陰口を囁き、蔑んだ笑いを浮かべていた。でも二人は気にせず必死で練習したのだ。
 そういえば、スタートダッシュがどうしても上手く行かなかった。体重があるので、一度スピードに乗ってしまえばいいのだが、スピードに乗せるまでに時間が掛かったのだ。
「デブなんだからしょうがないよ」
と諦めかける市太郎に、親方は
「阿呆!お前みたいなあんこ型のデブはな、速筋が発達してるって昔から決まってるんだ。つまり、持久力は無いが爆発力はあるんだよ。その爆発力が生かされてねえんだ」
「どうすればいいの?」
「馬鹿の一つ覚えみてえに歯食いしばっても駄目なんだ。もっと心静かに、無理に後ろへ蹴ろうとするな。前に倒れる力に逆らわず、自然に膝を前に出せ」
「こう?」
「違う。お前、田植えしたことねえだろ」
「田植え?ありっこないよ」
「しょうがねえなあ今の若いのは。田植えってのはなあ、こうだ」
「こう?」
「そう。そしてそれを連続する」
すると市太郎の身体は滑り出すように前に進んだ。
「そうだ!立会いはそうやるんだ。心静かに、倒れるに身を任せる」
気付くと、市太郎は魁座亜皇関の正面に仁王立ちしていた。
「ナンダ?マダ立ち上ガル元気がアッタノカ」
市太郎は答えなかった。しかし先ほどまでの怯えは消え、木像のごとく静かに佇んでいた。そして魁座亜皇関が
「コノヤロウ!」
と叫び、襲い掛かってくるやユラリと前に倒れるように、しかし力強い姿勢を保ったまま魁座亜皇関の懐に入っていった。
「オオット!簡単にフトコロに飛び込マレチャッタゼ」
と魁座亜皇関が独り言のように呟いた次の瞬間、魁座亜皇関の身体は宙を舞い、反対側の壁に叩き付けられた。ドスンと大きな音がし、魁座亜皇関はその場に倒れこんだ。
「ああ!魁座亜皇関の首が曲がってる!」
兄弟子の一人が叫び、市太郎は我に帰った。親方が、周りの兄弟子達が大関・魁座亜皇関に駆け寄る。
「こりゃあ大変だ」
「まさか首が折れたんじゃ?」
早く救急車を!と誰かが叫び、ほどなく救急車が現れた。魁座亜皇関は失神したまま担架で運ばれて行った。