「一番に?本当に?出来るの?」
「無理だ」
「なんだやっぱり。おじさん、俺をからかいに来たのかい?」
「たった一週間の努力で一番は無理さ。お前のクラスにだってもっと長い時間、何年も走る練習をしてる奴等だっている訳だからな。野球部とかサッカー部とか、毎日、走る練習をしてるだろう」
「そうだね」
「だから欲張らないでいこう。そう、真中辺りを狙おう。おい、クラスは何人だっけ?」
「三十人だよ」
「随分、少ないな。少子化による影響か。まあいい、じゃ十五位に入ろうぜ」
そんな馬鹿みたいな話をしたものだ。
 それから毎夕、そのオヤジは公園に現れた。その度、手を振れとか、後ろじゃなくて下に振るんだとか、身体を左右に回転させるな、とか色々と教えてくれた。そして翌週の記録測定で、僕は二十位になった。
「ご免な。おじさん約束守れなかったよ」
親方は背中をこれ以上ないほどに丸め、頭を下げた。
「いいよ。気にするなよおじさん。僕には十分なんだ。ううん、正直、驚いた。だってこの僕が二十位だぜ。生まれてこの方、保育園の時からずっとビリっケツだった僕がだぜ。おじさんは凄いよ。僕は十分満足なんだ」
その時、いきなりそのオヤジは僕の頬を平手打ちした。
「馬鹿野郎!もっと悔しがれ!一番になれなかったことをもっと悔しがれ。お前はな、並みの身体じゃない。今までは身体の大きさに子供の筋力が付いて来れなかっただけなんだ。これからどんどんお前の身体は強くなる。強く、早くなるんだ。プロの俺が言うんだ間違いねえ」
「プロ?おじさん、もしかして昔オリンピックの短距離選手だったとか?」
「オリンピック?おお、おおまあそうだな、それは出てないが。短距離のな、まあ超短距離、一・五メートル位なら陸上選手に負けねえ。実際、名横綱千代の富士の立会いのスピードは当時世界一のカールルイスとコンマ三桁まで変わらねえ」
「名横綱?また相撲の話しかよ。おじさん相撲が好きだねえ」
「お、おう、まあな、まあ、とにかく相撲は一時置いといて、取り合えず百メートル走だ。来年まで毎日、練習しようぜ。来年は一番だ」
それから僕らは来る日も来る日も公園で走る練習をした。そして、本当にクラスで一等賞になってしまった。もっとも一年後は七位。取れたのは中学三年、つまり二年後のことだった。そのオヤジは
「へへ、また嘘付いちまった」
などと頭を掻いていたが、僕はすっかり信頼していた。この人は魔法使いじゃないかとさえ思った程だ。それからしばらくして驚いたことに、陸上部から誘いが来た。僕は内心、歓喜した。僕が運動部から誘われるなんて。しかし僕の歓喜はすぐに絶望へと変わった。
「こんなに腹の出た短距離選手は初めてですよ。合うユニホームが無いです」
と出入りのスポーツショップの店員に言われたのだ。僕は足は速くなったがデブはまるで直っていなかったのだ。むしろもっとデブになった気がする。オヤジが指導してくれる『足の速くなる食事』メニューがかなり量が多い為じゃないか、って気がしていた。でも、もはやオヤジに心酔していた僕は彼を責める気にはなれず、むしろ僕をデブといった店員に腹が立った。すぐさま僕は陸上部を諦めた。
「おいおい、なんか落ち込んでるな」
夕方、またオヤジが来た時、僕は膝を抱えて公園の芝生の上に座り込んでいた。ユニホームが無くて陸上部に入れなかった、とオヤジに伝えた。