◇◇
 真っ暗な小学校の玄関は、外からの様々な光を受け入れ、天井や壁に奇妙な模様を描いていた。ボクはなぜここにいるのだろう?まるで記憶喪失になったように、そんなことを考えていた。でもボクはそれを知っていたんだ。ボクがここにいる理由は、ボク自身がここを選んだからだ。
 ほんの十五分ほど前まで、ボクは由紀の後を尾けていた。少し前には考えられないことだった。ボクらはいつも一緒で隠し事も無かった筈なのに。大人になるということは、こういうことを指すのだろうか?とボクは少し寂しくなった。

 ずっと前から、たしか小学校に上がった時からボクと由紀は毎日、一緒に下校していたんだ。それはボクらが血の繋がらないとはいえ、兄妹だったから、そして他のみんなは塾に通っていたが、ボクらの家は貧しかったから塾に通うことが出来なかったから、ボクらはずっと二人でいるしか無かったんだ。幸いだったのは、ボクらは互いにお互いの存在を疎ましく思うことが無かった。ボクはお互いを空気のように思っていた。煩わしさを感じるほどの存在感もなく、しかしいないと息苦しさを感じた。
 そんなボクらだからお互いのすべてを知っていた。朝起きてから学校に一緒に行き、下校する。狭い家だから勉強する時も近くだ。おばあちゃんの家に行く時も一緒。風呂に入る時も、寝る時も一緒だった。
 ところが数日前から由紀の様子がおかしくなったのだ。数日前と思うが、実際はもっと前だったのかもしれない。ここ一、二ヶ月というもの、ボクは父さんの古い友達が持ってきたゲーム機に夢中になっていた。その友達が開発したのだという。タダで貰える訳ではなかったので、ボクらの家ではとても買えなかったから、金持ちの淳司の家を紹介した。淳司の家は父親が不動産取引で大儲けしたから、ゲーム機など簡単に買ってくれた。ボクは授業が終わると真人、健太と毎日のように淳司の家に入り浸った。だから、一緒に帰る習慣を最初に破ったのはボクだったんだ。でも、ゲーム機に夢中だったボクはそれがそんなに大変なことだったとは、まったく気付かなかった。
 しばらくしてゲーム機に飽きが来た頃、ボクはまた元の生活に戻ろうとした。いつものように由紀と一緒に帰ると思ったのだ。ところが由紀は、ボクを待たずにさっさと校門から出て行ってしまった。
「おい、待てよう由紀ぃ」
と声を掛けても、素知らぬ振りをしてエントランスから階段の向こうへ消えて行った。ボクが靴を履いて、階段まで出た時には校門の向こうへ姿を消した後だった。よほどの早歩きで出て行ったに違いない。仕方無しにボクは一人で家まで歩いた。
 ゲーム機に飽きた友人達は、淳司の家に集まることもやめた。まっすぐ自分達の家に戻って塾へ行く支度をするのだ。だから放課後のボクは由紀がいなければ一人切りだった。一人で街並みを横切り、りんご畑を通り過ぎながら、なんで由紀はボクを置いて帰るんだろう?と考えてみたが思い付かない。ボクが、もうゲーム機に飽きてしまったことを知らないのかもしれない、とも考えたが、随分と早く歩くのが引っ掛かった。由紀とボクは、いつもゆっくりゆっくり道草をしながら帰ったのだ。なるべく時間を掛けて、遅い時間に家に着くように歩いた。あまり早く家に帰るとマサ兄がいることがあった。夜も来るくせにご苦労なことだ。町役場に勤めているくせに、昼間から義母のところへ来ることが何度もあった。水道課の修理係だから、どこかへ修理に出ると嘘を吐いて義母に会いにくるのだと、町の大人たちが噂していた。
 大人たちの噂は単なる噂に過ぎないが、ボクも由紀も早い時間に家に帰り義母に追い出されたことが何度かあった。それに懲りたボクらは、なるべく五時近辺まで家に帰らないようにした。どうやらマサ兄は、その時間に一度、役場に戻らなければならないらしいのだ。そこでボクらは、町の西外れの千曲川まで歩いて行ったり、東に壁のように立つ雁田山の縁沿いを散策したりした。そして切通しの向こうの、踏切を渡った先にある小山にも登った。上り口に門があって、自然石を使った石段が連なっていた。そこを登ると広場を、その奥に社が立っていた。ボクらは社の周りで鬼ごっこをしたものだった。そして夏には、虫取りをした。
 本来、クワガタやカブトムシは朝方でないと捕まらないが、こういう人のいない場所には間抜けな奴らがいるらしい。まだ明るい日差しの中で警戒もぜず木の汁を舐めているのだ。ボクらはそれを眺め、時に袋の中へ入れて持って帰った。もっとも義母は虫嫌いだったから、長屋の近くまで来たところで、逃がしてやるのだが。それから秋には茸を採った。もっとも毒茸と食用の区別がつかないので、適当に採っては社の階段に置いておいた。採ることに楽しみを感じていたのだ。冬は、麻袋を持ってきて雪の坂道を滑った。春には裏庭一面を黄色に染める菜の花を飽きもせず見詰めていた。
 マサ兄が家にいる、という不幸のお陰でボクらはよく遊んだ。毎日遊んでも飽きなかったものだ。
 ところが、まるでそんなことなど遠い昔の出来事だとても言うように、由紀はボクを無視するように一人で帰ってしまった。ボクがゲーム機に夢中になって、淳司の家に入り浸りになっていたことを怒っているのだろうか?家に着いたら謝ってみようと思いながらボクは足早に、次第に駆け出して、結局、途中から全力疾走で家に向った。
 長屋の中庭に着くと、恐る恐る家の引き戸に手を掛けた。耳を澄ませて中の様子を窺った。すると突然、誰かがボクの頭を抑えた。振り返るとおばあちゃんだった。
「たく、お帰り」
おばあちゃんは満面の笑みを浮かべていた。
「お菓子あるよ。おいで」
ボクの肩を抱くと半ば強引に、自分の部屋に向った。子供心にボクはマサ兄が着ていることを悟った。だから、おばあちゃんに逆らわなかった。
 でも、ボクは先に帰った由紀のことが気に掛かった。
「ねえ、由紀は?」
しかし、おばあちゃんは首を傾げながら
「由紀ちゃん?はて、見てないよ」
と答えた。
「そんな筈無いよ。だって、ボクより先に帰ったんだ」
「ん?一緒じゃ無かったのかい?」
「うん。ボクは一緒に帰ろうと思ったんだけど、由紀が早歩きで行っちゃったんだ」
おばあちゃんは首を傾げ、何かが得ている様子だったが、すぐにまた笑顔を浮かべ
「きっと、お友だちのとこへ寄ってるんだよ」
とボクの背を押し
「ほら、お上がり。お菓子食べて行きな」
とか
「コーヒー牛乳もあるよ」
と言った。
 でもボクは由紀のことが気になって、お菓子どころではなかった。友だちはみんな塾に行っている時間だったから、由紀が誰かの家に寄っているということは考え難かったのだ。
「ボク、由紀のこと探してくるね」
おばあちゃんが台所からコーヒー牛乳の瓶を盆に乗せて来た。それを振り切るようにボクは駆け出した。

 けれど、幾ら町の中を走り回っても由紀は見付からなかった。よく遊びに行くとすれば西の外れの千曲川か、東の外れにある雁田山だった。
 千曲川は北の外れの篠井川との合流地点から、上流の松川との合流地点まで走ってみたけど、由紀らしい姿は見付けられなかった。そのまま松川を東に歩き、雁田山に突き当たったところから、麓に沿って走る農道をずっと下った。よく遊んだ滑り山には誰の姿も無かった。そのまま北に歩くと長野電鉄線見えてきた。切通しの向こう、踏切がある辺りでちょっとした小山に登った。入り口に古い門があり、登り切ると簡単な社があるのだ。もうそこまで行くと隣りの中野市だったが、ボクらは時々そこへも遊びにいったのだ。
 でも、由紀はいなかった。
 夕陽が西の空を赤々を染めていた。この辺りはひどくカラスが多くて、夕方になると童謡さながらに啼き喚くのだ。本当に帰れ、帰れと促しているように聞こえた。仕方なしにボクは帰路に着いた。不思議なもので、帰りはとてつもなく長く感じた。行きは、町の縁にそってぐるりと一周回ったから大変な走ったことになる。でも夢中で走ったせいか、あまり疲れなかった。でもその何分の一かの距離だというのに、帰り道は長い。疲れがどっと肩に乗ってきて、思い荷物を背負っているような感じだった。ボクは歩き疲れて道端の大きな石に腰を降ろした。もうだいぶ歩いたから、長屋まではもう少しというところだったが、足が棒のようになっていたのだ。
 石は、畑の間を通る農道の脇に転がっていたものだ。畑を耕した時に出てきて、野良仕事に邪魔にならぬよう避けられたものだろう。この畑を横切れば長屋まではすぐだった。少し前はそうしたものだが、一昨年くらいから巨峰という葡萄の畑に転作されて、どこも針金製の網が掛けられていた。だから道なりに、すこし遠回りして帰らなければならないのだ。
 疲れていると、ほんの少しの遠回りも億劫になるものだ。ボクは誰に当るべきかも分からない不満をブツブツ言ってみたが、誰も聞いてくれる筈も無かった。仕方なく顔を上げてみると、辺りはすっかり暗くなっているのに空だけはまだ赤かった。星が幾つか見え始めたと思ったら、最近、畑を潰して造られた団地の光だった。その時、突然、車の走る音が近付いてきた。暗闇の向こうでライトが瞬いた。ライトはすぐにボクの目の前を通過した。軽トラックだった。見覚えがあるような気がしたが、農家の多いこの辺りでは、軽トラックなんてほとんどの家にあるのだ。
 軽トラックはボクの前を通り過ぎると、百メートルくらい行ったところで急に停まった。
 ドアが開くと小声で二、三会話が交わされ、それからまたドアに閉まると軽トラック発進した。誰かを降ろしたようにも思えたが、それらしき人影は見えなかった。
 でもボクはそれをきっかけに石から腰を上げた。そして帰り道を歩き始めた。葡萄畑が終わりりんご畑がちょっとあって、すぐに砂山が見えた。時々、ダンプカーが砂を積み下ろしに来る場所だ。地元の大きな建設会社が所有する敷地らしい。ここまで来れば長屋から歩いて五分ちょっとの場所だった。小学校2、3年の頃、よくこの砂山で由紀と遊んだ。ダンプカーはたまにしか来ないので、ボクらは大きな砂場代わりに使っていた。二階建ての家の屋根ほどもある大きな砂山だったから、一番上まで登って、そのまま砂が崩れるのに任せて滑り降りてくるのは楽しかった。だが、大人に見付かると、とても怒られた。そのせいでいつの間にか遊ぶのをやめた場所だった。
 ボクは辺りを見回した。当然、こんな時間だから誰もいなかった。もう真っ暗なのだ。にも関わらず、砂が崩れる音がした。それは
ザザーッ、ザザーッ
と波が打つような音がした。ダンプカーが来て積み下ろしの作業をしているにしては、音が小さ過ぎる。普段は、エンジン音や機械の音で耳が劈けそうになるのだ。でも今聞こえる音は、耳を澄まさなければ聞こえないほどのかすかなものだった。ボクはもう少し砂山に近付いてみた。近付くほどに音は鮮明になった。それにつれボクはその音に聞き覚えがあることに気付いた。それはボクらが砂場で遊んでいた時によく聞いた音だ。砂山の頂上から砂が崩れるのに任せて滑り降りる音だった。でもこんな真っ暗な中、遊んでいるなんで、どこの子供だろう?不思議に思ったボクは立ち止まった。
 音の出所を探してボクは砂山の周りをグルリと回ってみた。どうやらボクが立つ場所の反対側から音が出ているらしいのだ。やがて砂山影から人の姿が現れた。真っ暗な闇の中、そこだけ電灯に照らし出されていた。砂泥棒なんて居ないだろうけど、夜間の警備用の電灯だった。その光の中には由紀がいた。
「由紀!どうしたの?」
何してるの?と言うボクの顔を見て、由紀は驚いたようだ。目を丸くしてボクを見詰めていた。それから
「なんでいるの?」
と問い返してきた。
「え?なんでって、心配だから探しに行ったんだよ。だって一人で帰っちゃうし」
「一人で?」
「うん、いつもみたいに一緒に帰ろうと思ったのに」
「いつもみたいにって、毎日、淳司の家に行ってたじゃない」
「うーん、でももう飽きて来ちゃったから」
「飽きたからまた私と遊ぶって訳?」
「いや、そういう意味じゃないけど。みんなも毎日、塾に遅刻して怒られてたし」
「ふーん」
由紀は大きな溜息を吐くと
「勝手なものね」
と言いながら、また砂山の頂上に向って登り始めた。ボクは慌てて
「もう真っ暗だよ」
と声を掛けたが、由紀は知らん振りしたまま登って行った。
「だから何よ?」
「こんな時間になんで遊んでんだよ?」
「遊んで?」
ああ、と何かに合点がいったというように由紀は頷いた。それから
「ははは、たしかにね。いつの間にか昔みたいに遊んでた」
言いながらまた
ザザーッ、ザザーッ
と波が打つような音を立てながら滑り降りてきた。

「猫がいたのよ」
長屋の明かりを見詰めながら、ボクらは歩いていた。もうすぐ家に着く。
「猫?」とボクが問うと、由紀は大きく頷いた。
「うん、子猫」
「どこに?」
「今日じゃない。昨日いたの」
「なんだ、もう誰かに拾われたんじゃないか」
由紀は、そうかなあ、と言いながら砂山を振り返った。それから
「助けて上げるべきだったな」
と呟いた。
「助けるって?」
「埋まってたのよ」
「埋まって?どういうこと?」
「知らない。昨日の同じ時間、あそこを通り掛ったら声がしたの。それで探したら砂山の天辺に埋められてたわ」
「え?生きたまま?」
「そう」
「え?もしかして由紀、それを助けなかったの?」
「そう」
「なんで?死んじゃうかもしれないじゃん。昼間、ダンプが来て砂を積む時、気が付かなかったかもしれないよ」
「そう」
「え、ちょっと」
由紀ひどいよ、と言ってからボクははっとした。由紀は泣いていたんだ。
「ひどいよね。なんであんなひどいことしたんだろ。助けないなんて、わたしも埋めた人と同じ。ひどいことしちゃった」
由紀は涙を拭いもせず、真っ直ぐに前を見たまま歩き続けた。ボクはそんな由紀に何も言えぬまま、長屋に着いてしまった。
 「ただいま」と言ってから、義母の不愉快そうな顔をチラリを見て、貧しい食事を口にし、食器を片付けると外へ出た。すぐに手招きしているおばあちゃんを見付けると、吸い込まれるようにおばあちゃんの部屋に入った。少しして、由紀も着た。相変わらず由紀はおかずを半分、紙で包んで持ってきた。
「由紀ちゃん、もういいよ持って来なくって。こっちで食べるものはおばあちゃんが作るからね」
毎晩のようにおばあちゃんはそう言うが、由紀は毎日毎日、持って来るのだった。なぜそうするのかはボクには分からなかったけど、おばあちゃんはそれ以上、何も言わなかった。
 いつもと変わらぬ日常がそこにあった。でも、ほんのちょっとした綻びに気付かなかったのはボクだけだったのかもしれない。
「由紀ちゃん、どうしたんい?」
おばあちゃんが厳しい顔で由紀を見詰めた。由紀は身を固くして首を左右に振っていた。ボクはおばあちゃんのこんなに怖い顔を初めて見た。
 おばあちゃんは由紀の前に膝を進めると、由紀の手を取った。由紀は、それを拒否するように首を横に向けた。でも、おばあちゃんは許さなかった。ボクには、おばあちゃんが由紀を苛めようとしているように見えたんだ。
「ねえ、どうしたの?」
知らぬ間にボクの声が震えていた。ボクらの身の回りで、唯一優しいと思っていたおばあちゃんが突然、怖くなったことがボクにはショックだったのだ。
「やめてよ、おばあちゃん」
由紀を苛めないで、と言おうとするボクを遮るようにおばあちゃんは大きな溜息を吐いた。
「もう片方の手も見せてご覧」
由紀は横を向いたまま、首を左右に振った。するとおばあちゃんは、大きな声でもう一度言った。
「見せなさい!」
ボクは怖くてもう、何も言えなかったんだ。由紀が泣いていた。悪戯を見付かった子供みたいに泣いていた。その時のボクにはそのようにしか見えなかった。
 おばあちゃんは由紀の両手をしっかりと握ると、左右を見比べると
「何があったんだい?」
囁くように由紀に訊いた。やさしい口調に戻っていた。でも由紀はいやいやをするように小さく首を左右に振るだけだった。おばあちゃんはそれ以上、聞こうとはしなかった。その代わり片手で由紀の両手を握り締め、もう一方の手で長いこと手首の部分を摩っていた。ボクが覗き込むとおばあちゃんはそれを遮るように両手で由紀の手全体を包み込んだ。
 二人はずっとそのままの姿勢でいた。ボクの知らないところで、握り締めた手と握られた手を通して二人は何かの会話をしているようにも見えた。でも何を話しているのかボクには検討も付かなかったんだ。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中

 わたしの記憶の中でさしたる地位を占めていなかった角の婆さんが、わたしの母方の祖母だったらしい。そしてそれは多分、正しいのだろう。心の中でガチャリッと大きな音が響いた。何かの鍵が開いた気がした。そして、押し込められていた記憶の数々が、頭の中で巡った。
 淳司の家を出て、わたしは淳司の母が言った公営団地、わたしたちが住んでいた長屋に急でいた。そこは、わたしの今のねぐらでもある。だが、今は早くそれ確かめたい気持ちがわたしの足を急かしていた。
 ふいに頭痛の予感がした。しかしあっという間に去っていった。きっとこうして頭痛は止んで行くのだろうと思った。頭痛は心の中で過去の記憶に掛けられた鍵を開けるための苦しみだったに違いない。
 長屋の屋根が見え始めた。それが近付くにつれ、押し込められていた記憶が鮮明に蘇り始めた。
『おばあちゃん』
そうわたしは呼んでいた。引っ込み思案だったわたしは、なかなか継母に馴染めなかった。芳江という継母の方も、それを感じていたのだろう。わたしはあまり良くはして貰えなかった。
 小学校から家に帰ると、時々芳江の機嫌が悪い日があった。そういう日は、まともな夕食が貰えなかった。夜遅くまで働いている父が、夕食時にはいなかったこともある。芳江はこれ見よがしに、実子である由紀とボクの食事に差を付けた。それは小学生にとって辛いほど大きな差だった。
 そんな時、ボクはコの字型に建つ長屋の真ん中に設置されたブランコで時間を過ごした。ボクの分は一口で済んでしまうから、継母や由紀が食べているのを見ているのが辛かった。そして、そんなボクを見ながら食事をするのが由紀には辛いようだったから。
 それからもう一つ、そうやってブランコに乗っていると、必ずおばちゃんが声を掛けてくれたんだ。
「たくみや、こっちおいで。おばあちゃんのとこへな」
ボクは継母が見ていないのを確認すると足早におばあちゃんの部屋に入った。前妻の母親が隣りに住んでいることを継母は激しく嫌がっていたから、ボクは継母の前ではおばあちゃんと仲良くしなかった。
「ほらたくみ、コロッケ揚げたよ」
おばあちゃんの料理といえば、決まってコロッケかカレーだった。
「今日は挽き肉が安かったからね。いつもより沢山入れたよ」
おばあちゃんの作ってくれるコロッケは、いつも暖かくて優しい味がした。きっと母も同じコロッケを作ってくれたに違いない。ボクはそれを食べるたび、亡くなった母のことを思い出してしまうのだ。でもボクは涙が出そうになるのを堪えるのが上手だったから、
「とってもおいしい!」
って笑顔をおばあちゃんに向けた。おばあちゃんも嬉しそうに「そうかそうか、沢山お食べ」と笑っていた。
「あれ、由紀ちゃんだよ」
窓から外を覗きながらおばあちゃんが言った。夕食を終えたらしい由紀が、ブランコの周りできょろきょろしていた。それからこっちへ向って歩いてきた。おばあちゃんは窓から由紀に向って「おいで、おいで」と手を振った。それに気付いて由紀は継母が、いや由紀にとっては実の母親が、見ていないのを確認すると由紀もおばあちゃんの部屋に入って来るのだ。
「たくみに、これ」
いつも由紀は母に見付からぬよう、自分のおかずを残しては広告紙に包んで持って来てくれた。芳江はそもそも料理があまり好きでなかったらしい。だから由紀の分ですら、十分な量だとは言い難かったのだ。それでも由紀は、ボクのためにこっそり残してくれていた。
「由紀ちゃんの分も揚げてあるよ。そうだ、二人ともご飯も食べなさい。今、よそって来て上げるからね」
おばあちゃんは小さな台所に立つと、盆にコロッケとご飯を盛った茶碗を二つ持って来てくれた。こうしておばあちゃんの部屋で、三人で夕食を取るのが日課のようになっていた。
 そんな幸せな時間をぶち壊すように
ガラッ、ガチャン
という乱暴に戸を開ける大きな音が聞こえた。マサ兄が来たのだ。
 そうやって毎夕のように、マサ兄がやって来るようになってから、3年あるいは4年くらい経つだろうか?ボクらは、マサ兄が家のドアノブを乱暴に扱う音を聞く度に彼が来るようになった頃のことを思い出した。

 ボクらはマサ兄が来るたび、継母に真っ暗な夜の闇の中へ追い出された。まだ二年生だったボクらに暗闇の中で何をすれば良いのか思い付かなかった。初め長屋の中庭にあるブランコに乗ったが、すぐに飽きてしまった。何しろマサ兄が来ると三時間は帰らないのだ。由紀は勉強道具を持って出たこともあったが、暗い街灯の下では子供の目でも字が読めなかった。薄暗い長屋の中庭で、ボクらは二人、ブランコに座ったマサ兄が帰るのを待ち続けた。
 帰る時、マサ兄は決まって酒に酔っていた。呂律が回らないくらい酔って、ブランコに佇むボクらを見付けるとニヤニヤしながら近寄ってきた。
「はは!揃いも揃って親に似てらあ!」
吐き捨てるような口振りだった。
「おい!たく。おめえは本当に気の小さそうなツラしてやがんなあ。兄貴と、おめえの親父とソックリだぜ」
ははははは!!と高笑いしてから、
「親父と一緒でつまんねえ人生が待ってんだろうなあ」
言いながらわたしの頬を小さく平手で叩いた。
「ユキはいい女になりそうだな」
子供心にマサ兄に吐き気を催した。由紀は、マサ兄を必死に睨み付けていた。
「ふん!なんて目で見やがる。大人になりゃ、どうせ母ちゃんと一緒さ。何人も男を咥え込むような女になるに違いねえや」
由紀は震えた。まるで雪の日でもあるかのように。しかし寒さから震えたのでは無かった。恐怖と怒りに震えていたのだ。
 マサ兄の来訪は毎夜のように続いた。そして、マサ兄が帰り際、ボクらを捕まえてはさんざんに口汚く罵っていくのだ。ボクらは辟易として、彼が帰る時間には暗闇に隠れるようになった。それでもマサ兄はボクらを執拗に探した。
「やい、どこにいる!糞ガキども!どうせロクな大人にならねえんだ。オレが折檻してやるよ!」
しかし物置や土管の影に小さな身を竦めて隠れるボクらを見付けるのは容易なことではなかった。
「け!勝手にしろ!」
マサ兄は諦めて帰るのだ。
 ボクらは二人、手を握り合っていつも小さくなって隠れていた。そうしてマサ叔父さんが帰るのをじっと待っていたのだ。ところが、そんな日々が続いたある日、ボクは
「たくみ」
と呼びかけられた。振り向くとおばあちゃんだった。
 おばあちゃんとは三年ぶりだっただった。母さんが死んでから、会わせて貰えなかったんだ。継母がそれを嫌がった。
「久しぶりだね、たく。大きくなったねえ」
おばあちゃんは母さんにそっくりな目をしてボクに微笑んだ。

 それからボクらはマサ兄が来ても外の暗がりで何時間も待つ必用は無くなった。継母に与えられる貧しい夕食はそこそこに、中庭の暗がりの中へ身を潜めると、おばあちゃんがボクを呼んでくれた。それから少し遅れて由紀が来た。そのまま毎晩、マサ兄が帰るまでおばあちゃんの部屋で過ごした。由紀は、継母に知られぬようこっそりと勉強道具を持ち出し、おばあちゃんの部屋に持ってきていたりした。
 ここならマサ兄に見付かる心配も無かった。そして何より、おばあちゃんはボクらにお腹いっぱいご飯を食べさせてくれた。芳江の作る貧しい食卓に比べると、おばあちゃんの作るコロッケやカレーはボクらにとってご馳走だった。ボクらはおばあちゃんに育ててもらったようなものだ。

 今にして思えば、おばあちゃんはボクを救う為に引っ越してきたのかもしれない。もともとおばあちゃんは、亡くなったおじいちゃんと暮らした家に住んでいた。そうした色んなものを捨てておばあちゃんはボクの傍に越して来てくれたに違いない。
 そんな大切なおばあちゃんのことを、わたしはなぜ忘れていたんだろう。わたしの記憶の中で、彼女は単なる隣人だった。隣りの部屋に住む気味の悪い老婆だった。だからつい三日前に長屋を訪れた時の彼女の歓待を、わたしは奇異に思ったものだ。もっと言えば、彼女がなぜ、まだあの長屋に住んでいるのかが理解出来なかった。しかし今、その理由が分かった気がした。おばあちゃんはわたしを待っていてくれたのだ。
 長屋のトタン屋根が見えてきた。太陽熱温水器の残骸も見えた。役場の斡旋でおばあちゃんが設置したものだ。そこから風呂場にホースが伸びていて、夏場には熱湯とまではいかないが、熱い湯が流れ出たものだ。わたしと由紀は、風呂場でホースから溢れる湯を「熱い熱い」とはしゃぎながら浴びた。それを見ておばあちゃんも笑っていた。
 おばあちゃんとの思い出が止め処なく溢れ出た。わたしの頭の中は溢れ出たそれらでいっぱいになった。パノラマのように次々に景色を替えるそれらで、目の前も見えぬほどだった。記憶は時間を遡っているらしい。おばあちゃんが長屋に現れた数年前、彼女の娘であるわたしの母がまだ生きている時代の風景で、それは停止した。当時としてはモダンな家の中に、父と母と祖父、祖母がいた。四人は豊かさを現すようなソファに座っていた。そこへ幼い少年が駆けて来た。途端に、その空間に幸せが満ち溢れた。
 わたしが忘れ去っていた幸福な時間がそこにあった。そしてその幸福が、予期せぬタイミングで瓦解したのだ。そしてわたしは思いも寄らぬ苦難の中に放り込まれた。
 そこまで考えた時、目の前に引き戸があった。いつの間にかおばあちゃんの部屋の前まで来ていたのだ。わたしは取っ手に手を掛け、引き戸を開いた。そこには少年の頃と変わらず、おばあちゃんが座ってテレビを観ている筈だった。ところが部屋の中に彼女の姿は無かった。
 買い物にでも出ているのだろうか?そう思った。特別な予感など微塵も沸かなかったのだ。それより「ようやく思い出したよ」と告白した時、彼女がどんな顔をするだろうということばかりを想像した。取り合えずわたしは自分の部屋、わたしたちが以前住んでいた部屋で待つことにした。若干の荷物もあるし、三日目に来た時、置いていった荷物の確認もしなければ、と思ったのだ。
 しかし、部屋に入ったわたしは唖然とした。部屋の中は泥棒が掻き回したとでもいうように、滅茶苦茶にされていたのだ。引き出しを全て開けられ、タンスは倒されていた。わたしが置いていった大き目のカバンはファスナーを開けられ、中のものが畳の上に散乱していた。幸いだったのは、部屋の中に大したものが無かったということだ。他には布団くらいしかなかった。もっとも布団も投げ捨てられたとでもいうように、部屋の隅でまるまっていた。
 誰の仕業か?なんのためにこんなことをしたのか?考えてみたが、何も思い当たらなかった。それもその筈、わたしがこの町に帰ってきたのは二十年ぶり、いやそれ以上なのだ。帰って来たと言っても、まだおばあちゃん、淳司の母親、淳司の三人くらいとしか交わりが無かった。その三人がこんなことをするとは想像出来なかった。そしてそれ以外の人間など名前すら思い出せなかった。
 なんの予兆も無く、こういうことが起きるのだ、と自分を納得させた。恐らくくだらない物盗りだろう、と思った。わたしが出入りするのをどこかで見ていたのだろう。それで、しばらく姿が見えない間に侵入したに違いない。だが、残念なことに盗るべき何も無かった。
 わたしは仕方なく、散らかった部屋を片付け始めた。細かいものはほとんどわたしの荷物だ。会社から預かった社会保険関係の書類や、証明書の束が散乱していた。ところがその時、奥の台所から見知らぬ男が姿を現した。男はサングラスを掛け、毛糸の帽子を被っていた。暗い色のジャンバーにジーンズと、明らかに自分の正体が知られないための服装だった。
「誰だ?」
わたしの問いに答えず、男は台所の向こう側にある勝手口へ向って走った。閉まっている筈のドアを軽く蹴った。すると、思いのほか簡単に開き、男はやすやすと逃げ出した。わたしも勝手口から外へ躍り出て、男の姿を追った。夕闇が辺りの景色を覆い隠していた。しかし、男の姿は街灯に照らし出されはっきりと見えた。男はやすやすと逃げ出した割りにそう遠くへ行っていなかった。更に、逃げやすいからだろうか、道路の真ん中を走っていくので、その姿は等間隔で立つ街灯の明かりが照らされ続けた。
 お陰でわたしはやすやすと追跡できた。しかし、こちらが全力で走ると男もスピードを上げるのでなかなか距離が縮まらない。かといってこちらが疲れて歩くと、男も歩くといった具合で、逃げられてしまうということは無かった。男とわたしは等間隔を保ちながら家並みから少し外れたりんご畑の間を抜け、観光客用の栗菓子屋が数件群れる辺りを通り過ぎた。宿泊施設の無い町なので、夜が早いのだ。ついさっき暗くなったばかりというのに町はもう眠ったように静かだった。そうして昼間は繁華な街並みを抜けると駅へ向う広い道へ出た。広い道だが、既にこの時間は誰も通っていなかった。
 わたしはふと男はこのまま駅に向うつもりだろうか、と思った。だが、地方の小駅は夕刻過ぎでは三十分に一本くらいの感覚なのだ。到底、泥棒が逃げる足には使えなかった。 そこで突然、男は90度向きを変えた。クルリと身を翻し、道から逸れたのだ。そこは小学校だった。懐かしい校門が目の前に広がっていた。ここへ来るのはおおよそ三十年ぶりといったところか。しばらく校舎の佇まいに目を奪われた。多少の手直しは施されているが、わたしが小学生の頃とさほど変わっていない。その間に男の姿を見失ってしまった。だが、中二階にあるガラス張りの玄関の向こうで何かが光るのが見えた。
 男に違いない。そう確信しわたしはコンクリートの階段を上がった。屋外の横に広い階段は、同時に何百人という生徒の昇降りを容易く受け止めるだろう。それはそのまま玄関前のエントランスに繋がっていた。登り切ると、背の高い厚いガラスのドアが幾つも並んでいた。わたしが通っていた当時と変わらない。あるいは、厚ガラスを入れ替えたのかもしれないが、素人目には分からなかった。
 ドアの取っ手の一つに手を掛けてみた。開かない。鍵が掛けられているのだ。当然だ。既に下校時間はとうに過ぎ、宿直の教師が残っているのみだろう。今時の学校は夜間の管理を警備会社に委託しているので宿直すらいないかもしれない。それでもわたしは隣の取っ手も引っ張ってみた。やはり開かなかった。
 わたしは、さきほどの情景を思い出してみた。たしか一番奥、それより少し手前で光が見えたのだ。わたしはエントランスの一番奥まで進むと、奥から順に取っ手を引いてみた。一つ目、開かない。二つ目、も開かない。三つ目、やはり開かなかった。やや諦めの気持ちとともに、先ほどの光が男とは無関係な別のものであろう、という考えが浮かんで来た。それでももう一つ、取っ手を引くと、まるでわたしを誘うように軽くそれは開いた。何かを予感させるのに十分な感触。だが、あまり良い予感では無いような気がした。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中

◇真実◇
 長い廊下を大きな足音が向かってくるのが聞こえた。くぐもった音ではあったが、それが男の足音であることは容易に分かった。
「あら!淳司かしら?」
時計を見るとまだ五時前だった。淳司の母はドアを開け、その向こうを覗き込んだ。ドアに半身が隠れた格好で、近付いてくる誰かに声を掛けようとしていた。
「早かったのね。びっくりするわよ、たくみちゃんが来てるの」
彼女の声の狭間から、見知らぬ中年の男が顔を出した。痩せて、白髪交じりの男だった。「ほらね、ほんとにたくみちゃんでしょ?」という母の言葉が聞こえていないのか、淳司はわたしの顔を長い間見詰めていた。
 記憶の中と、目の前の姿の折り合いを付けるのに時間が掛かったのはわたしの方だった。子供時代の淳司は太ってはいなかったが丸顔で童顔だった。何ごとにも鷹揚な性格が顔に表れていたと言っていい。簡単に言えば、いかにも豊な家庭の子供という感じだったのだ。ところが目の前の淳司は貧相とまではいかないまでも、ひどく痩せて神経質に見えた。
「俺にはおやじのような商才は無かったからな。親父が財産として建てたアパートの経営で暮らしているんだよ」
不労所得さ、と自虐気味に言った。父の経営していたIT会社は、実質的に社員達が運営し、淳司は単なる大株主だという。
「ま、他人から見れば金と時間があり余ってるように思えるかもしれないが、これがどうして大変なんだ。財産って奴は増やす以上に、減らさないのには手間が掛かる」
それが彼の自慢らしい。急に昔と変わらぬ屈託の無い表情になったように見えた。
「お前も、苦労したな。随分、痩せた」
しかしわたしがそう声を掛けると、ふいに淳司は怪訝そうな表情をして見せた。

「それより由紀ちゃんには会ったのか?」
突然、由紀の名を出され、わたしはどう反応して良いのか戸惑った。由紀がああいう病院に入っていることを淳司は知っているのだろうか?わたしには見当もつかなかったからだ。しかしそんなわたしの戸惑いなど無意味だったらしい。
「病院に行ってみたのか?」
と言って淳司はわたしを見た。それはわたしの表情を覗き込もうとしているように見えた。淳司はすべてを知っているようだ。そしてどうやら何も知らないのはわたしだけらしかった。
 この町の誰もが由紀のことを知っているようだった。
「なあ、淳司。由紀はなんであんな病院に入ってるんだ?」
思い切ってわたしは訊ねてみた。
「20年ぶりだから何もかもが知らないことだらけなんだ。まず父さんに会いに来たのに、入院してる筈の病院に行ったら『そんな人はいない』なんて言われたんだ」
淳司の顔が微妙に歪むのが見えた。
「で、驚いたことに同じ病院に由紀がいた。それも精神病棟だ。びっくりしたよ」
淳司は黙ったままわたしを睨み付けていた。
「まるで子供の頃のままなんだ。聞いたら二十歳より少し前に入院したらしいんだが、当時担当した医者が引退してしまったらしい。だからなんで由紀があんな風になってしまったのか、病院としては分からないっていうんだ」
淳司が「コホンッ」と一つ咳払いをした。
「お前、噂は本当だったのか?」
「噂?」
「お前が記憶を失ってしまったという噂だ」
「オレが?記憶を?なぜ?」
「いや、あれだけの事件に巻き込まれたんだ。俺がお前の立場だってまともじゃいられない。それどころか、単にお前の友達だっていうだけで、俺たちは――俺も、真人も、健太も、裕二も、みんな一時はおかしくなりそうだったよ」
淳司は、壁に貼られた思い出の写真を見詰めていた。
「もっとも俺たち子供に知らされたことと言えば、お前と由紀が転校するってことだけだ。それ以外のことは噂で耳にした。でもクラスのみんながひどく興奮していた。今にして思えば子供らしからぬ興奮だった。黒い興奮と言えばいいのかな、嫌な感じだったな」
わたしには淳司の言わんとすることが何ひとつ分からなかった。淳司はそれと察したらしい。
「そうか、お前まだ記憶が戻ってないんだな。何があったか知らないが、それで戻ってきたんだな。でなければ、俺なら一生ここには戻ってこないよ」
心の中に黒いものが渦巻くのを感じた。粘性のあるそれは、わたしの心の扉を引き剥がし始めた。見たことも無い光景が、頭の中に幾つも瞬いて、混乱を極めた。しかしそれらは”見たことも無い光景”などではなく、忘れ去った光景らしかった。
「なあ、淳司」
わたしの問い掛けに淳司はこちらを見た。まるで奇異なものを見るような淳司の視線に苦痛を感じた。
「なんていうか・・・ちょっと戸惑っているんだ。会社を辞めた途端、妻に離婚を切り出されて、それからおかしなことばかりなんだ・・・どうなってるのか自分でも良く分からない。それで偶然、お前のお袋さんと遭って、この家に来れば何か分かるかもしれないと思ったんだが、そうしたらまたお前まで変なことを言いだすから・・・」
「変なこと?」
「ああ、そうだ。例えばだ。さっきも言ったように退社と離婚を済ませたオレは、久しぶりに親父の見舞いをしようかと思って20年ぶりに長野へ帰って来た。前にまだ小さかった娘を連れて見舞いに来て以来だからな。しかし入院先の栗木病院に行ってみたら、親父は入院していないと言われた」
「ちょっと待て」
「ん?何が?」
「たくみ、何言ってるんだ?」
「何って?」
「たくみの言ってること、辻褄が合わないんじゃないか?」
「辻褄?」
わたしは自分の言葉を反芻してみたが、特に不自然さは感じなかった。
「どこが?」
「どこがって。娘は幾つになるんだ?もう成人してるのか?」
「とんでもない。まだ小学校5年生だ」
「というと10歳?」
「そう、10歳になったばかりだ」
「その娘を連れて見舞いに来たのはいつだ?」
「いつだったかな?娘がまだ小学校に入る前だったと思う」
「ほう、じゃ5歳くらいか」
「あ、ああ。そうかな」
「で、その時はどこへ見舞いに来たんだ?」
「どこへ?」
まるで淳司の口調は警察の取調官のようだった。こちらの意図を汲みもせず、ずけずけと機械的に質問を畳み掛けてくる。わたしは次第に腹が立って来た。
「なんなんだ?淳司?まるでオレを犯罪者扱いじゃないか?オレはただ、こっちに帰ってきてからおかしなことばかりだ、ってお前に相談してるだけだぞ!」
わたしは自分でも驚くほど激しい口調になっていた。自分が思う以上に興奮してしまったらしい。
 しかし淳司は、至って冷静にわたしの言葉を聞いていた。そしてわたしが一通り叫び終わると、わたしから視線を逸らし何か独り言を言った。わたしには「・・ざいしゃか・・」というあたりしか聞こえなかった。
 淳司はわたしから視線を外したまま呟いた。
「なあ、たくみ。また怒るかも知れんが、教えてくれ。その見舞いに行ったのはどこなんだ?」
「まだそんなこと言ってるのか?!」
「ああ、済まんな。ちょっと聞きたくなったんだ」
「ふん!馬鹿馬鹿しい。栗木病院に決まってるじゃないか。ほかにどこがあるんだ」
「くりき、びょういん、か。それは長野の栗木病院だな」
「おい!いい加減にしてくれ。オレをからかってるのか?」
わたしは激昂していた。そんなわたしに、わたし自身が一番驚いていた。なぜ、淳司のその程度の質問に、わたしをこれほど腹を立てるというのだ?
 淳司は、大きく溜息を吐いた。そしてしばらく考え込むように黙っていたが、再び顔を上げると意を決したように言った。しかし、何を決意したのはわたしにはまったく分からなかった。
「なあたくみ。自分の言葉をもう一度思い出してみないか?」
「言葉?」
「娘を連れて栗木病院へ見舞いに来たのはいつだ?」
「そうだな。今10歳で、その頃5歳だったとすれば5年前か。もっとも1、2年の誤差はあるかもしれないが」
「1、2年なんて関係ないさ。それで今回、お前が長野に帰ったのは何年ぶりなんだ?」
「何言ってるんだ。さっきから言ってるように20年、いや、20年とちょっとかな。高校出て以来だから」
ほう高校ね、と含み笑いを浮かべながら淳司は顔を上げた。
「何かおかしいか?」
「ははは、弱ったな。帰省したのは20年ぶりだという。しかし5年前に見舞ったのだという」
淳司は、犯罪者の嘘を見破った刑事のごとき視線でわたしを見詰めていた。
 わたしはすぐさま言い返そうとした。しかし、言い返す言葉を失っていた。
「たくみ、この話はもう良しとしようぜ」
淳司に言われ、わたしは自分が懸命に拳を握っていることに気付いた。お陰で全身が汗まみれだ。淳司の、安っぽい謎解きのような指摘に、また同級生のくせにすべてを見抜いているとでもいうような高邁な口調が腹立たしかった。そしてそれ以上に、反論が思い浮かばない、自分に憤りを感じたのだ。
 それにしても、なぜ自分はこれほど苛付いているのだろう?と不思議に思った。淳司の指摘は、的を射ているじゃないか、とも思った。見事に的を射られただけに、腹立たしかったのか?実のところ、そうとも思えない。わたしは心のどこかでこういう場面を期待したいたように思えた。予期していたと言っても良いのかも知れない。
 期待に近付いてきたことで、単に興奮しただけかも知れなかった。それに、とわたしは思った。こうやって誰かにわたしの中の誤りを、ひとつひとつ訂正してもらうことでしか、知るべきことを知る方法が無いだろう、と。
「ところでたくみ、さっき俺のことを変な風に言ってたな」
「淳司のことを?変な風に?」
「ああ、『痩せた』とか」
「痩せたじゃないか?」
淳司は「ふうん」と表情も変えず相槌を打ってから
「じゃ、昔の俺はどうだったんだ?」
と問うてきた。
「もっと丸顔だったか?」
「そうだな。どちらかと言えば丸顔だった。金持ちの坊ちゃんにありがちな顔と言ったらいいのかな?」
「ははは、金持ちの坊ちゃんな」
納得したように笑いながら、しかし淳司は小さな反論をした。
「金持ちではあったが坊ちゃんとは言えないな。俺の親父は評判悪かったからな」
「え?そうかあ?若くしてIT企業を立ち上げたインテリってイメージだったぜ」
「そうだな、たしかにさっきお前は『おやじさんのIT企業』って言ったな。それを今は従業員達に渡して俺は悠々自適なオーナー生活だと」
「悠々自適とまでは言ってない。お前もそれなりに苦労して来たんだろ。それは顔を見れば分かるよ」
弁解するようにわたしは両手を上げた。しかし淳司にとって、そんな話はどうでも良かったらしい。
 淳司は、まるで別のことを考えているようだった。
「ところでたくみ。『IT企業』なんて当時あったのか?」
言われて見ればそのとおりだった。ITなどという言葉はここ10年の間に普及したものだ。しかし、たしかにわたしの記憶の中では、淳司の父親はコンピュータの仕事をしていた筈だったのだ。しかし淳司は、そんなわたしの記憶など簡単に否定した。
「俺の親父は不動産屋だ。それも地元では誰もが知ってる悪徳業者だったな。うちの苗字が『後藤』だから『強盗』なんて言われたものさ」
「なんだって?」
「子供の頃から痩せっぽち俺には、悪徳不動産屋なんて柄じゃあない。だから親父が死んだところで”それらしい”社員達にくれてやったんだ。もっとも未だに筆頭株主ではあるが。そのせいか連中、毎月律儀に俺の給料払い込んできやがる」
やくざもの特有の義理と人情って奴かな?と言って淳司は笑った。
「親父さんの会社、コンピュータ関係じゃなかったのか?なぜ、そんな風に思ってたんだろ?」
わたしは淳司の説明を聞いても、釈然としなかった。そんなわたしを見詰めていた淳司は、わたしに意外なことを言った。しかしそれはわたし以外の人間にとって、当時のことを知っているこの町の人々にとって、さして意外なことではなかったらしい。誰もが当然のこととして知ってることだった。
「コンピュータ会社を経営してたのは、お前の親父さんだろ。正確に言えばプリント基板というのかな?」
淳司が何を話しているのか、わたしには全く理解できなかった。記憶のどこを探しても、そんな出来事は見付からなかったのだ。
須坂市に大手の電子メーカーが大工場を作った。たくみの親父さんの会社はその下請工場だったが、もともと東京の研究所から独立したんだ。だから特殊な技術を提供する工場だったって聞いてる」
「済まんが、なんの話か分からない」
「そうか。ただ、それが事実だ。親父さんは優秀な技術者だった。大手の電子メーカーが須坂市に巨大な工場を造ったのも、親父さんの会社がここにあったからだって言う人もいたくらいだ」
「オレの親父は、駄目人間を画に描いたような男だった・・・定職に着けず、年がら年中、職を変えていた・・・それも、夜中専門の警備員ばかり・・・朝方、家に帰ってくれば昼間から酒を飲んで義母さんに暴力ばかり奮っていた。あんなだから義母さんにも由紀にも逃げられたんだ」
「逃げられた?」
淳司は腕組みし、じっとわたしを睨み付けた。しかし、ふいに何かを諦めたようにフッと肩の力を抜いた。
「倒産したんだ。ドルショックって知ってるだろ?」
もちろん、と思った。が同時に、最近どこかでその名を見かけた気がした。それもごく最近の話だ。思い出そうとしてみたが、なかなか思い出せなかった。
「あの時の不況で、輸出に頼っていた初期の電子産業は大打撃を受けた。たくみの親父さんの会社もそれで倒れたと聞いている」
馬鹿な、と思った。そもそもあの人が会社を経営してたなんて、まして優秀な技術者だったなんて・・・。わたしは歯ぎしりしていた。父に対するわたしのイメージとは掛け離れていたからだ。
「それと”酒”だが・・・たくみの親父さんは下戸だった筈だ。何回か家に遊びに行ったが、酒を飲んでるとこなんて見たこと無いよ」
わたしは淳司を睨み付けた。まるで記憶を否定されたようだった。誰か別の人の話を聞いているようだと思った。父は、夜勤明けの朝から酒を煽り、母に暴力を奮うような男だった。ところが今、淳司は父を下戸だったという。
 しかし、とわたしは思った。淳司が父を下戸だという理由は、何度かわたしたちの家に遊びに来た際、父が酒を飲んでいるところなど見たことが無い、ということだ。さすがに小学生だったわたしたちの前で酒を飲むことも無かっただけだろう。淳司が気付かなかっただけに違いない、とわたしは思った。
「しかし、お前の叔父さんは酷かったな。子供ながらに眉を顰めたよ」
「叔父さんだと?」
誰のことだろう、と考えてみたが思い当たらなかった。そもそもわたしにとって叔父といえばマサ兄しかいなかったのだ。
「たくみの親父さんはいつも、たしなめていた方だったぞ」
わたしは左右に首を振った。
「何のことか分からない」と淳司に言った。
「なあ、淳司。お前は何の話をしてるんだ?さっぱり分からない。父を下戸だとか、オレに叔父さんがいるとか。オレには叔父といえばマサ兄という男しかいないんだ」
自分でも驚くほど声が上ずっていた。金切り声に近い、聞きようによっては悲鳴に聞こえたかもしれない。わたしはそんな自分に驚愕しながら、なお自分の記憶の正当性を確かめたいと思っていた。
「なあ、淳司。お前どうかしてるんじゃないか?」
わたしの問いに淳司は呆然とした。半ば開いた口は、言葉を失ったように動かなかった。しかしそれもそう長い時間は続かなかった。淳司はすぐ気を取り直し溜息をともに呟いた。
「そうだ、正夫さんだ。彼が全ての元凶だったって大人たちは言ってたな」
「元凶?」
淳司は「ああ」と相槌を打ちながら立ち上がった。そして
「だが俺はそうは思わない。仕方が無かったのかもしれない、とも思うんだ」
とまた謎掛けのような言葉を吐くと、壁に近付いた。

「淳司。いい加減にしてくれ。もっとはっきりものを言ってくれないか?そう奥歯に物の挟まったような言い方をされても、何が言いたいのかさっぱり分からない」
わたしの言葉にまた淳司は「ああ」と気の無い返事をしながら、壁に貼られた古い写真を覗き込んでいた。
「なあ、たくみ」
写真を覗き込んだまま、ふいに淳司は言葉を発した。だから初め、わたしに対しての言葉と気付かなかった。わたしはそんな淳司の態度も気に障った。自分だけが真実を知っている、という態度。それならわたしに教えてくれれば良いのに、まるでからかうように小出しにしているように思えたからだ。
 わたしは憤りを感じながらも
「なんだ?」
となるべく声を荒げずに聞き返した。
「たくみ。さっき、親父さんが義母さんに暴力を振るったって言ってたな」
「ああ、そのとおりだ」
「それは無いぞ。親父さんはそんな人ではなかった」
抑え切れぬほどの憤りが湧き上がってきた。自分でも抑え切れぬほどのものであると同時に、心のどこかでここまで興奮する自分が怖くなっていた。
 しかし、わたしの口は勝手に興奮し、淳司を罵倒するような暴力的な口調になっていた。
「そんな家庭内のことを、なぜお前が分かるんだ!お前のような他人が遊びに来ている時は大人しくしてたんだよ!いくらあの悪辣な親父でも、他人様に見せたくないものはあるさ!」
「悪辣な親父?だと」
淳司とわたしはしばらく睨み合った。先に視線を離したのは淳司だった。淳司はまた壁に飾られた写真に目をやった。
「話は変わるが、たくみ。これを見ろ」
壁に貼られた写真の一枚を指差した。
「これは誰だ?」
淳司の問いにわたしは写真を覗き込んだ。深緑に囲まれた小公園といった場所。小学生が二人、並んでカメラに向ってポーズしていた。二人ともリュックサックを背負っているところを見ると、遠足の時の写真だ。
 遠目では細かいところまで見えないが、淳司と誰か、そう、わたしか真人、健太、裕二の誰かだろう。しかし先ほどから淳司が発する質問はことごとくわたしの足元を掬うようなものばかりなのだ。わたしの些細な記憶違いを指摘しては愉しんでいるように思えた。
 わたしには淳司の質問の意図が分からなかった。今度は何を指摘しようというのだろう?そしてまた追い詰められるような気分を味わうと思うとわたしは容易には答えられなくなっていた。
「近くで見ていいか?」
というわたしの要望に、淳司は無表情のまま「ああ」と承諾してくれた。まるで犯人を訊問する検察官のような態度に思えた。
 しかし壁に近付き、淳司が指し示す写真を間近に見たわたしは「これは・」と口走ったまま、それ以上の言葉が見付からなかった。淳司の『これは誰だ?』という質問を奇妙に思ったが、奇妙なのは写真の方だった。
「誰だ?これは」
そこに写っていたのは見たことも無い二人の少年だった。痩せた貧相な少年と、もう一人は・・・もう一人はどこかで見たことがあるような気もしたが、思い出せない。隣りのクラスの生徒だったかもしれない?だが、淳司の家の壁に、淳司以外の少年達が写った写真が飾ってある、というのも妙だった。
「誰なんだ?」
わたしの質問に、淳司は静かに
「俺たちだよ」
と答えた。
「俺とたくみ、お前さ」
そう言われてもう一度、写真を見た。だが、わたしの記憶の中にある淳司の顔はそこには無かった。少年達は、育ちの良いお坊ちゃん顔とは程遠い、痩せた顔をしていた。
「右側がたくみだ。ははは、貧乏を画に描いたような顔してやがるな」
その頃はもう、親父さんの会社は潰れていたんだ、と淳司は言った。
「左側が俺だ」
より痩せた少年、少しひねた顔付きをした少年だ淳司だという。
「俺に”スネオ”なんて格好悪い渾名付けたのは、たしかたくみ、お前だったぞ」
淳司は口の端をひしゃげた。それは笑っているようにも見えたが、ひどく皮肉っぽくも見えた。
「たくみ、お前さっき俺を見て『痩せたな』って言ったろ。俺は昔から痩せてる。だから子供の頃、お前ら悪友達は俺をそういう渾名で呼んでたんだろう」

 淳司は、わたしの記憶をことごとく否定してみせた。それがいったい、どんな意味があるのかわたしにはまるで分からなかった。実感が湧かなかったと言った方が良いのかもしれない。だからわたしは、何十年ぶりかで再会したというのに、このような非礼を働く淳司の真意が理解出来なかった。
「なあ、淳司。教えてくれないか?」
「なんだ?」
「久しぶりに会ったというのに、なぜこんな話ばかりするんだい?」
「こんな?話ばかり?」
「そうさ、たしかにオレの記憶違いはあろうさ。だって30年ぶりなんだからな。その間に記憶なんて幾らでも変化する。お前はずっとこの町にいたからさして変わってないのかもしれんが、高校を卒業した以来ずっと別の土地で暮らしてきたオレにしてみれば、ここは異郷の地に等しい。また、子供の頃の記憶なんて、実のところこれまであまり思い出したことがなかったんだ」
「思い出したことがなかった、か」
「そうさ、ずっと思い出さなかった。毎日が慌しくてね。思い出してる暇なんて無かったさ。東京のサラリーマンなんて多分、みんな似たようなものだろう」
淳司は「そうかもな」と呟いてから
「ところで『高校を卒業してから』と言ったが・・・・」
と、わたしの顔を見詰めた。だが次の瞬間
「いや、やめておこう」
そう言って俯いた。
 わたしたちは淳司の母が運んできてくれた茶を、一口ずつ啜った。互いの啜る音に耳をそばだてるようにして、相手が次に発する言葉を待った。だか淳司は黙ったまま、溜息とも取れぬ深い呼吸を繰り返していた。そんな淳司を見詰めながら、わたしは先ほど淳司が発した言葉を思い出していた。
 淳司は
『お前が記憶を失ってしまったという噂だ』
と言った。それから
『あれだけの事件に巻き込まれたんだ』
とも。そしてこうも言った。
『俺たちに知らされたことと言えば、お前と由紀が転校するってことだけだ』
 わたしは胸騒ぎを感じた。わたしが何か、とてつもない事件に巻き込まれたような気がしてきたのだ。とてつもない、という言い方は適切では無いかも知れない。むしろ淳司の言った『黒い興奮と言えばいいのかな、嫌な感じだ』という言葉が当て嵌まる気がした。
「淳司。さっきお前が言った”事件”についてだが」
ふいに淳司は顔を上げた。喉元がゴクリと動くのが見えた。ずっと冷静だった筈の淳司が、緊張し始めたのだ。
「ストレートに教えてくれ。その”事件”とは何だ?」
「ああ、それか。それもそうだな。たくみは忘れてしまったんだろうな」
「そうなんだ。ずっと東京に居たから、忘れてしまったらしい」
わたしは、ははは、と声を上げて笑って見せた。しかし淳司はますます緊張し、蒼褪めていった。
「そう硬くならないで、簡単に教えてくれればいい。そうすればオレも思い出すかもしれん」
な、淳司、と促すわたしに淳司は大きく首を左右に振った。そしてわたしにとってまた、意味不明なことを言い出した。
「いいや、俺が話したところできっと思い出さないだろう。それで良いのかも知れない。だからたくみは普通に暮らして来れたのかもしれない」
「頼む、淳司。そう訳の分からんことを言わないでくれ。単純に何があったか?どんな事件があったのか?そしてオレがそれにどう関わっていたのか?それを教えてくれればいいんだ」
淳司は大きく頷いた。そしてわたしに向き直ると、わたしの目をジッと見詰め
「たくみ」
とわたしの名を呼んだ。
「なあ、たくみ。これが本当のことかどうか、実のところ大人たちにも分からないんだ。結局、警察にも分からなかったんだからな。ただ、みんながそう思っている」
「ああ、分かった分かった。そう回りくどいこと言わないで、早く教えてくれ」
「あの日、たくみと由紀ちゃんのどちらかが、親父さんを殺した」
淳司の言葉が飲み込めなかった。
 淳司は、まるでわたしを記憶喪失者のような物言いをしてきた。そして彼の話に取り込まれ、わたし自身がわたしの記憶に疑問を感じてしまっていた。しかし今わたしの中は淳司には悪意があるのではないか?という疑問が湧き上がってきた。それは怒りを伴っていた。
「おい淳司!ふざけるなよ!」
わたしの怒りに淳司は気圧されたらしい。
「だから言ったろ。大人たちから聞いた話だって!」
まるで言い訳するように反論した。
「俺だって信じたくは無かった。だが、大人たちがみんなそう噂してたんだ」
「いい加減な話だな」
わたしは吐き捨てるように言った。淳司の話を根底から否定したつもりだった。
「まったく他人なんていい加減なものだ。面白おかしく伝わる間にどんどん出鱈目になっていくものさ!」
「それはそうだが・・・」
「第一、親父は生きている。長野市の栗木病院という所に入院してるんだ」
そこで淳司は押し黙った。黙ったまま、機会を窺っているように見えた。それはまたわたしの細かい記憶違いを指摘するためだろう。
「今度は何だ?淳司。オレと由紀を人殺し、それも親殺しに仕立て上げるだけじゃ、気が済まんのか?」
「いや、そうじゃなくて」
また淳司は黙り込んだ。言うべきか否かを悩んでいるように見えた。しかし一度目を瞑ると決意したように言った。
「親父さんは死んでいる」
わたしは、込み上げてくる怒りに震えながら淳司を睨み付けた。しかし淳司は決然としてわたしを見詰めていた。
「役場に行って調べてみたらどうだ。亡くなったのは俺たちが小学校6年の時だ」
「何言ってるんだ?だって毎月のように親父から手紙が来ていたんだぞ!」
手紙?そんなものは知らん、と淳司は首を振った。
「家に沢山ある、山のようにな。見たければ見せてやる!そうだ、今度上京した時、持って帰って来るよ。それを見ればお前だって信用する筈だ」
淳司は首を左右に振った。
「何故だ?何故信用しない?親父が死んでる筈無いだろ。だって、何度も見舞いに来たんだぞ!」
「たくみ、お前は『長野は30年ぶりだ』と言ったな。その一方で『娘を連れて見舞いに来て以来だ』とも。辻褄が合わないよ」
「またその話か!もう屁理屈はやめてくれ」
「しかしその病院に親父さんはいない」
わたしは最初に栗木病院を訪れた時のことを思い出していた。受付嬢の事務的な応対、困惑した表情、彼女は父の入所を否定した。
『そのような方はいません』
冷たい表情が思い出された。
「ようし」
知らぬ間にわたしはそう口にしていた。それから携帯電話を取り出すと、
「妻に電話する。そして、家に親父から送られてきた手紙があることを証明してもらう」
山ほどあるんだ、と呟きながらアドレス帳を捲る自分が意識のどこかで、異常者のように思えてきた。目の端に俯いたまま嫌々をするように首を振る淳司が見えた。さっきから淳司はずっと首を左右に振っているような気がした。久しぶりの再会というのに、なぜ淳司はこうもわたしを不愉快な思いにするのだろう?溜息が湧き上がって来たが、それを付こうと思うと同時に、電話が繋がった。
「パパ?」
有希だった。
「パパ、久しぶり。といっても一昨日話したばっかりよね」
「ああ、元気にしてたか?」
「ぜんぜん元気よ。パパこそ元気?あれ?走ったの?なんだかゼイゼイ言ってるよ」
「あ?ああなんでもない」
言いながらわたしは息を止め、呼吸を整えた。
「ところでママはいるかい?」
「ううん。パート」
「え?まだパートしてるの?」
「うん。なんか正社員になれそうだって言ってた」
「なに?なんだそれ」
妻は、金持ちの男の愛人になった筈だ。
「え?なんか変?」
という有希の声が聞こえた。慌ててわたしは気を取り直した。
「いいや。そうか、じゃあその携帯は?」
「今日、忘れてったって。さっきそう電話があったわ」
「そうか」
妻が居ないのでは手紙のことが分からない。仕方なく諦めかけていると
「何の御用?」
という有希の声がした。わたしは試しに、有希に聞いてみようと思った。
「なあ有希、手紙入れって分かるか?」
「てがみいれ?」
「そう。手紙が沢山刺してあるんだ。封筒とか葉書とかだ」
「さあ、分からない」
やはり、子供には無理だったらしい。しかし有希が思いがけない事を言った。
「でもお手紙なら分かるよ」
「お手紙?」
「うん、いっぱいあるの」
「いっぱい?」
「そう、みんな封筒に入ってるお手紙」
わたしにはそれが父からの手紙だとピンと来た。封筒に入ってる手紙など、それ以外に考えられなかった。
「それはどこにある?」
「ママの部屋。机の上に置いてある」
「机の上?ママの?」
なぜ妻が父からわたしに届いた手紙を机の上に置いているのかまったく思い当たらなかった。もっとも、それはわたしの荷物だから、そのうち小包にでもして送って寄越すつもりかもしれない。
「毎晩、ママはそのお手紙を読んでるの」
「え?」
どうやら、送って寄越すつもりではないらしい。
「有希、今すぐママの部屋に言ってくれないか?」
「うん、いいよ」
電話の向こうで、有希が移動する音がした。
「あったよ」
「ありがとう。それは何の手紙だい?」
「うーん、漢字ばっかりでよく分からないよ」
「誰から来た手紙かな?封筒の裏に書いてある筈だ」
「あるよ」
「なんて書いてある?北原・・・」
「うん、うちと同じ苗字だ。きたはら」
「健介だね?」
わたしは確信を得た。やはり父は生きているのだ。淳司はどういうつもりで嘘を付いているのだろう?
「ううん違うよ」
「なに?」
「違う。そんな名前じゃないよ」
「え?有希、そうか漢字が読めないんだな。どんな字かな?まず、健康の健だよね」
「違う」
「そんなことないだろ、にんべんを書いて・・・」
「違うよ。女の人の名前だよ」
女?そう言われてわたしは誰の名も思い当たらなかった。
「ええーっと。ユウ・・・なんだっけ?」
「ユウ?」
「そう。その下の字が何だっけ・・・読めない」
わたしは『ユウ』とつく女性の名前を思い浮かべてみたが、見付からなかった。
「ところで有希、手紙は何通くらいあるんだ?」
「沢山。机の上いっぱい」
「それがみんなその『ユウ』とかいう女性からなのか?」
「そう」
そんな馬鹿な、と呟きながら
「北原健介と書いてある手紙はないか?」
「ちょっと待ってね」
電話の向こうでがさごそと紙が擦れる音がした。
「うーん、無いよ。みんな同じ女の人」
「そうか、おかしいな」
わたしは頭を掻いた。妙に熱くなって来たのだ。顔にも熱があるようだった。汗が額から零れ落ち、まるで運動でもした後のようになった。
「ところで、その『ユウ』下の字は読めんのか?」
「今、辞書調べるね」
電話の向こうで何かを操る音がした。電子辞書で調べているらしい。
 わたしは今か今かと待ちわびながら、目の前の淳司を見た。淳司は壁に背を預けたまま放心したように、目を見開いていた。わたしの電話の結果など、まるで気にならないようだった。
「なあ、たくみ」
見開いた目はあらぬ方向を見詰めたまま、ふいに淳司はわたしに話し掛けてきた。
「ごめんな、たくみ。傷付けるつもりは無かったんだ」
まるで淳司は人形のように無表情のまま、動かなかった。ただ声だけが静かな居間の中に、ひどく明確に響いた。
「頼まれたんだ。あの時の刑事に。たしか、刑事だったと思う。お前に、こういう話をしてくれって」
「誰だ?あの時の刑事って?」
「あの時の刑事さ・・・ああ、そうかたくみは憶えてないんだな。まあいいさ、忘れたままの方がいい。さっき俺が言った全てのことを忘れてくれ。今のお前には必要の無いことだ。いや、不要な、害悪にしかならない記憶だ。今すぐ忘れろ。忘れて、これまで思い込んでいたことを思い出せ」
随分、勝手な言い草だ、と思った。人の記憶をさんざん引っ掻き回しておいて、今更忘れろと言う。
『オレはもはや、何が真実で、何が虚構か分からなくなったんだ!』
と叫びたかった。だが、人形のごとく感情を失った淳司にそんなことを言っても仕方がない、そう思った。そんなことより今は、父の手紙だ。父の生存を証明する父が栗木病院から送ってくれた何通もの手紙。それがなければ、わたしの記憶はすべて否定されたも同然だ。
 記憶の齟齬は、父を見舞いに行った栗木病院から始まった。あの日、わたしは父の入所する病院内の高齢者施設を訪問したつもりだった。しかし父の入所は否定された。だが、手紙は来ていた筈だ。ならば父は栗木病院の介護棟で生きている筈だった。それを証明するための手紙。しかし有希もまた、差出人は女だという。
「分かったよ・・・あれ?わたしと同じ名前だね」
「同じ?」
「そう、ユキさん」
「ユキ?」
字は違う、自由の『由』に紀元前の『紀』よ、と有希がしてくれた説明をわたしは黙って聞いていた。
「なあ有希、差出人の由紀さんの住所はなんて書いてある?」
住所?と電話の向こうで有希が小首を傾げたのが感じられた。それからまたごそごそと手紙を弄る音が聞こえた。
長野市栗木大字東だって」
れは病院の住所に違いない。
 また、電話する、といい電話を切った。有希が名残惜しそうにしてくれたのが、せめてもの救いに思えた。

 どうやら淳司の言うように父は死んでいるらしい。わたしが父の手紙と思っていた病院からの手紙の数々は、宛名が由紀になっているという。妻の悪戯だろうか?とも思ったが、離婚する夫婦の間にそのような余裕は無い。また、由紀が父に代わって代筆してくれたものかもしれない、とも考えてみた。しかし、昨日病院で遭った由紀は、
『たくみに手紙書いてるんだよ』
と言っていた。
「淳司の勝ちだ。親父は死んでるらしい。信じられないことだが、親父からの手紙なんて存在しないらしい」
父からの手紙は別の場所にあるかも知れない、という考えが一瞬浮かんだ。だが、そんな悪足掻きをしたところであっさり否定されてしまう気がした。その否定は、わたしが生きてきたこの30年、いや40年余りの記憶を完全否定するものだった。首の皮一枚繋がった状態で、手探りで記憶を手繰りたいと思った。そうしなければわたしは、自分の過去をすべて失ってしまうように思えたのだ。
「勝ち負けの問題じゃない」と淳司が言った。
「そんなことより、あの刑事、いや元刑事は知りたがっているんだ。たくみが殺したのか、由紀が殺したのかを」
淳司の言葉に、頭の中が混乱した。父を殺したのはわたしか由紀?もしその通りだとすれば、それはいつのことなんだ?淳司はさっき『あの日』としか言わなかった。あの日とはいつを指しているのだろう?わたしはこの30年の日々を思い出そうとした。しかし、東京での日々、会社で過ごした平凡な日々以外、思い出すことは出来なかった。そして父がわたしの思い出に現れることは無かった。それはまた淳司の言葉の正当性を証明した。何ども父を見舞った、と思っていたのに、その思い出は記憶のどこにも存在しないのだ。
「おかしなことばっかりだ。義母さんの見舞いに行った。そしたらさ、ネームプレートに記された名は『芳子』だってさ。オレの義母さんは『美和』だった筈だ」
「たくみ、残念だが美和さんは、お前の実の母親の名だ。おふくろが仲が良かったらしい。今でも時々、思い出話をするんだ。決まって、蟹を貰ったっていう話さ。親子三人で鯨波に海水浴に行った帰りに、お土産として買ってきてくれたんだそうだ。『あの家は、あの頃が一番幸せだったのよ』って途中から必ず涙を流すんだ」
もう四十年以上前の話なのにな、と淳司は言いながら自身も涙を拭った。
「それから、俺たちが小学校に上がった頃、美和さんが死んだそうだ。親父さんの会社が倒産して一年くらい経ってのことらしい。すべてを失った家族のために美和さんは必死に働いたそうだ。昼は工場に勤め、夜は工事現場で旗振りをして、とにかく一日中働き詰めだったって。死んだのは過労だそうだ。そこから先は・・・憶えてないか?たくみ。それからの六年間を本当に忘れてしまったのか?」
「昨日、いや一昨日だったか、夢を見たんだ。嫌な夢だ。義母さんが、ひどく冷たい女だった。オレが初めて夢精した日、布団の中で汚れた下半身に呆然とするオレを、酷い口調で罵っていた。現実は、義母さんは、美和は、とても優しい女性だった。オレの憧れの人だったんだ。真っ黒な顔をした、男の子のように勝気な由紀の母親とは思えなかった。そんな義母さんを、酷い女のように夢に見てしまうなんて、オレはどうかしてるよな」
だから美和さんは実のお母さんの方なんだ!、と淳司が叫ぶのが聞こえた。しかし淳司はすぐに押し黙った。それから
「それでいいのかも知れないな。あんな日々を思い出すのは、何の意味も無い」
「しかしオレの過去の記憶は間違っているんだろ?」
わたしの問いに淳司は少し躊躇するように押し黙ってから、再び顔を上げた。それから
「仕方ないよ。あんなことがあれば、誰も思い出したくなくなる」
と言った。
「『あんなこと』とはオレと由紀が親父を殺したって話か?」
「それは分からない。刑事がそう言ってただけだ。いや『かもしれない』とな。だが、お前たちの二人の目の前で殺されたのは間違いない。それも全身を刺されて、遺体は見られたもんじゃ無かったらしい」
「それはいつのことだ?」
「俺たちが小学校6年の、そう夏の終わり、運動会の後だ」
「運動会の・・・」
壁に貼られた修学旅行の写真を確認した。運動会の翌月、修学旅行が行われたのだ。もう一度、そこに写った子供らの表情を確認すると、笑みを浮かべてはいるがどこか悲し気に見えた。
「しかし小学生のオレや由紀に殺人なんて出来ただろうか?」
「俺もそう思うんだ。何しろ死体は身体の一部が切り取られたという」
「死体の一部?」
聞きながらわたしは吐き気が催してきた。
「きっと、当時も刑事たちが変な噂を流したんだろう。もっともそのつもりじゃなくても、聞き込みをする過程で噂は一人歩きしてしまう」
淳司が言い終えた時、ガチャリと大きな音を立ててドアが開いた。淳司の母親だった。
「そうよ、そのとおり。誰もあなたたちがお父さんを殺したなんて思ってやしなかったわ。だってあなたと由紀ちゃんは、本当に可愛い子供だったんだもの・・」
淳司の母は、言葉を詰まらせた。右手で目尻を拭いながら小さく呟いた。それはたしかに「可哀想なくらい」と聞こえた。
 彼女は涙を飲み込むとこう言った。
「知ってるかどうか分からないけど、あなたが居なくなってから叔父さまが逮捕されたの。でも証拠が無くてすぐに釈放された。それからしばらくしてからよ。誰が言い出したのか知らないけど、あなたたちのどちらかがお父さんを殺したらしいって噂が流れた」
「叔父?」
わたしは、誰のことか分からなかった。それに気付いたらしい、淳司が補足してくれた。
「たくみたちが『マサ兄』と呼んでいた人のことだよ」
さっき『正夫さんが全ての元凶だったって大人たちは言ってた』と言っていたことを思い出した。
「彼が、あの家庭を滅茶苦茶にしたようなものだわ。私は今でも彼が殺したと思ってる」
「マサ兄が?」
「ええ、もっとも本人が死んでしまってるから、今となっては分からないけど」
死んだ?マサ兄が。父も死に、マサ兄も死んでいるという。頭の中に、廃墟となっていた父の実家が浮かんだ。それはほんの二時間ほど前、淳司の母と遭った場所だ。
 わたしがそれを考えていることに気付いたのか、廃墟となった理由を教えてくれた。
「お父さまが亡くなって二年後に、あの家に住んでいたお祖父さまとお祖母さまも亡くなったわ。それから正夫さんが後を継ぐってことで、芳子さんと由紀ちゃんを連れて帰って来て三人で暮らしてたのよ・・・」
突然、言葉に詰まった。込み上げてくる何かを必死で堪えているように見えた。
「何年か、そう由紀ちゃんが中学から高校を卒業する間際まで三人で住んでた。その間、由紀ちゃんに辛いことが・・・」
堪えかねたらしく、吐き出すように嗚咽を漏らした。
「辛い、本当に辛いことがあったって・・・」
「母さん!余計な話をするなよ!」
淳司が言葉を遮った。淳司の母が、小さな手を力いっぱい握るのが見えた。嗚咽を呑み込む為に違いない。
「ごめんなさいね。それで、由紀ちゃんが高校三年生の時、突然、火事になったの。芳子さんは出掛けてたらしい。正夫さんは逃げ遅れたの」
ふいにわたしは「由紀は?」と訊いていた。由紀がいないのはおかしい、と思ったからだ。
「由紀ちゃんは、分からない。ただ・・・」
淳司が、余計なことを言うなって言っただろ!、と話を遮るように叫ぶのが聞こえた。

「おばさん、由紀が辛い目に遭ったって、どんなことです?」
淳司と母親は顔を見合わせた。答えたのは母親ではなく淳司の方だった。
「たくみ、あまり気にしないでくれ。母さんも久しぶりにお前にあったもんだから、ちょっと感情が昂ぶってしまった。根拠の無い噂話をあったことのように話してしまっただけだ」
「その根拠の無い噂話というのが、聞きたいんだ。オレは何ひとつ自分のことを、自分の家族のことを知らない。父親は今でも生きていると本気で思ってた。それが小学校の時に殺されていた?その犯人がオレか由紀だと?」
「だからたくみ、それは根も葉もない噂だ。刑事たちが勝手に広めたんだろ?」
「マサ兄が、元凶だという。そして火事で逃げ遅れて死んだ、というのは分かった。でもそれまでの何年間か、マサ兄と母を一緒に住んでいた由紀が辛い思いをしたという」
淳司は大きく首を振り、その母は両手で顔を覆った。彼らはもう何一つ答えたくない、というように身を固くしていた。
「ところで、オレはどうなったんですか?」
淳司と、母親は顔を見合わせた。
「父が死んだ後、オレはどうなったんですか?さっきから聞いていると、オレだけがどこかへ消えたというような言い方ですが」
淳司が「それも憶えてないのか?」と驚いた表情で言った。
「ああ、ずっと高校を卒業するまでこの町に住んでたと思っていた。義母と由紀は離婚して出て行ったから父と二人でね。しかし、幾ら思い出してみても中学生の記憶も、高校生の記憶もまったく無い」
わたしは記憶の断片を幾つも捲ってみた。
「いや、わずかに校舎の記憶がある。だが、コンクリートに遮られた都会の校舎だ」
「そうさ。たくみは事件の直後に消えた。俺たちの前からいなくなったんだ」
淳司が答えるのを補足するように、母親が説明してくれた。
「お父さまが殺されて、あなたは酷いショックを受けてたの。由紀ちゃんもそう。まともな精神状態じゃなかったって聞いてる。二人とも蝋人形のようになって、目を開いたまま死んでるんじゃないかって思うくらいだったそうよ。すぐ病院に入院して、落ち着いたところで由紀ちゃんはお母さんも元へ返されたわ。でも、あなたは、芳江さんの元へは返せなかった。酷い虐待が確認されてたから。それで美和さんのお母さまが、あなたを遠くの施設に送ったの」
「美和?実の母方の?」
「そうお祖母さま。私はその方から聞きました」
まるで記憶に無い。わたしの記憶の中で母方の祖母など登場したことは無かった。
「今でも生きてるわ。ずーっとあなたを待ってた。いつか帰ってくるに違いないって。その時、あなたに全てを話すまで死ねないって」
「どこにいるんです?」
「どこ?って、あなたたちが住んでた公営団地よ。あの頃と変わらない、角の部屋よ」
『角の部屋』という言葉が心に響いた。心の中で何かが溶け始めるのを感じた。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中


『どうして来たのよ?』
由紀は問い詰めるような口調だった。
『ねえ!どうして!?』
口調は次第に激し、何かを堪えるように唇を噛むのが分かった。
『どうしてよ。たくには絶対分からないように、毎日巻いてきたのに。どうして来ちゃったの?』
由紀が一緒に帰ってくれないから、と言うと
『馬鹿!もう6年生でしょ!来年はもう中学生なんだよ!いつまでもままごとしてるんじゃないわよ!』
と由紀は叫んだ。うなだれて由紀の足元を見ると由紀は靴下を履いていなかった。藁の中に沈んでいたのだ。そんなボクの視線がなぜか由紀の神経を逆撫でしたんだ。由紀は逆上してボクの襟を掴むと、息が止まるほどに捻り上げた。
『もう!二度と付回さないで!あなたとなんか、好き好んで兄妹になった訳じゃない。ノロマで、馬鹿で、無神経なあんたなんかと一緒にされるのが嫌なのよ!もう兄妹なんて思われたくないの!だからもう、近寄らないで!』
由紀は力いっぱいボクの身体を押した。ボクはしたたかに板戸に叩き付けられた。
『もう、顔も見たくない』
由紀が叫んだ。ボクはズボンに付いた土埃を払いながら上目遣いに由紀の顔を見た。由紀は怒りに震えながら、涙を堪えていた。ボクは一人で帰ることを由紀に告げ、納屋の出口に向った。
 その時、ボクは変なものを見た。街の中古ゲームショップのビニール袋だった。ビニール袋からはボクが欲しがったゲームソフトのパッケージが顔を覗かせていた。ゲーム機も無いくせにそんなもの欲しがってどうするんだ、と母に何度も叱られた。見かねた父が、こっそりボクに買ってくれることを約束してくれたのだ。
 そんなことを考えながらボクはそのビニール袋を見詰めていた。由紀はそれと気付くと慌てて作業代の上のそれを取り上げ、自分の身体の影に隠した。
『誰が忘れてったんだろうね。近所の馬鹿な子供だね、きっと。後で届けてあげなきゃ』

「おぶせー、おぶせー、どちらさまもお忘れ物ございませんようお気を付けて・・・・」
 駅舎を出たところでわたしは立ち止まった。良く知った顔がそこにあったからだ。
「あんたか」
わたしの目の前に立ち塞がるように佇む男は、三田だった。わたしが勤務していた会社の目の前のビルに居を構える興信所の所長。なぜここに?と考えてわたしは思いなおした。わたしには予感があった。彼がここにいる予感だ。かつて知り合ったばかりの頃、それは酒の席だったが、彼がわたしの出身地をしきりに聞きたがったのを思い出した。わたしが「信州の小布施という小さな町だ」と言うと「奇遇だな?自分もそこの出身だ」とわざとらしい驚きの表情を作って見せ「世間は狭いものだね」とおどけて見せた。
 それらは全てが嘘だったのだろう。
「何か分かったかね?」
その声は、都会の片隅で浮気調査に精を出すいかがわしい興信所の所長とは別人だった。巨大な権力、愚直なまでに正義と信じる権力を背に抱えた重々しい響きがあった。わたしは
「新幹線の中で新聞をくれた男はあんたの仲間か?」
と問うてみた。三田はあっさりと頷いた。
「昨日、この駅に着いた時、わたしの後を付けて来た男もあんたの仲間だろう?」
先刻と同じように三田はコクリと頷いた。
「なぜ付回す?二十年も」
というわたしの質問に、三田は首を大きく左右に振った。
「そんなもんじゃない。もう三十二年だ。いい加減、疲れた」
三田の言いたいことが全て真実に違いない。しかし、何をいいたいのか理解できなかった。わたしは
「まだ、駄目なんだ」
と答えた。首を傾げる三田に
「まだ、何も分からない。全てが夢の出来事のようにも思えるし、そうでないようにも思える」
と問い掛けるように言った。三田が何かを教えてくれるような気がしたからだ。
「自分の知らないことばかりなんだ。義母が入所しているという施設に行った。義母らしき女性のベッドまでは分かったんだ。でも名前が芳江という。芳江とは誰だ?わたしの義母は美和という名の筈なのに。それに、本当の母親はわたしが幼い頃にどうやら死んでしまったらしい。ずっと、わたしと父を捨てた母がどこかで生きているのだと思っていたのに。それから、これはついさっき由紀から聞いたことなんだが、義母は由紀にわたしと会うことを禁じていたらしい。禁じるといっても、あの親子の方から家を出て行ったんじゃないか。わたしはその後、彼女達がどこに住んでいたのか知らない。だから、逢いたくても会うことなんて出来なかったじゃないか?」
三田は、何かを憐れむような表情でわたしを見詰めていた。それから大きな溜息を付いた。
「もうとっくに時効は成立してるんだ。それにわれわれもすっかり歳を取ってしまった。これ以上、長い道のりは耐えられん。だから早く、真実を明らかにしてくれ・・・」
それはこちらの台詞だ、という言葉をわたしは下を向いて噛み締めた。そのまま顔を上げず、三田を見ないまま街の中へ歩を進めた。
 駅の正面から街中へ真っ直ぐ伸びた道は、途中右に大きくカーブしていた。その先に繁華街があるのだ。わたしはカーブの手前まで歩いたところで駅の方へ振り返った。そこに三田の姿は無かった。しかし、案の定だ、とわたしは思った。わたしの中で、別の過去の記憶が蘇っては消えた。柴崎さんの葬儀を前後して現れた現実離れした夢の数々が、幾つかの点となって繋がり始めていた。それはわたしが長年持ち続けていた記憶より鮮烈で、生々しいものに思えたのだ。
『義母さんにさえ会えれば、全てがはっきりする筈だ』
それは明らかだったが、義母は明日まで面会できない。しかし今のわたしには、明日まで座して待つほどの忍耐力もまた失われていた。マサ兄を訪ねてみようか、と思った。義母と由紀を連れて出て行ったのは、紛れもなくマサ兄の筈だった。しかし、不思議なことに義母の入所する施設にも、由紀のいた病院にもマサ兄のにおいはまったく感じられなかった。
 もっとも大人の話だから、義母とマサ兄はその後分かれたのかもしれない。

 ふと、父の実家に行ってみようと思った。そこには父の両親、わたしの祖父、祖母が住んでいる筈だ。マサ兄もそこに居るかも知れないと思った。東町と呼ばれる区域で、わたしたちが子どもの頃に住んでいた長屋立ての町営住宅と同じ自治区だった。駅から歩けば長屋までの道程の途中ということになるから都合が良かった。
 十分ほどで、父の実家のある地籍に着いた。入り口が隣家の大きな土蔵の影になり見えないが、典型的な農家の奥に敷地が広い家だった。マサ兄は農業を継いでいるのだろうか?それともまだ役場に勤めているのだろうか?
 土蔵を表に回りこんで、入り口の正面に立った。そこには、倒壊した古い家屋の残骸があった。わたしは予想外の光景に、息が詰まった。道路から、冬というのに雑草が張り付いた庭に足を踏み入れた。手入れなどしたことの無いような地面を恐る恐る歩き、残骸に近付いてみた。残骸は、もう大分時間を経たものだった。残骸となってより何年、いや何十年という歳月を経たに違いない。中途半端に骨組みを残した柱や梁が真っ黒に焦げた様を見せていることで、家事による倒壊だと推察できた。祖父たちの家で、そのような事故があったなどわたしは全く知らなかった。記憶の隅々まで探ってみたが、それに関連するものは何も見付からなかった。わたしはこの事故を知らない。なぜ誰も教えてくれなかったのだろう?祖父や祖母、マサ兄はこの事故の後、どうなったのだろう?
「たくみ、ちゃん?」
誰かがわたしの名を呼んだ。振り返ると今しがた歩いてきた道路に、誰かが自転車を止めたままこちらを見ている。既に地平線に向って傾いた冬の西日は尾が長く、その”誰か”の姿を光の影に隠していた。
「やっぱりたくみちゃんよね。驚いたわ。いつ帰って来たの?」
それは初老の女性の声だった。わたしは残骸に心を残しながらも声の主に向って歩いた。大切な何かを思い出しそうな気がしたのだ。

「たくみちゃん、よね」
「ご無沙汰しています」
声の主は淳司の母親だった。老いた今も昔と変わらず品があった。夫は、つまり淳司の父だが、当時流行り始めたゲームソフトの開発で成功し、若くして大きな富を得た人だ。金持ちの妻だから品があるというもの一理あるが、もともと夫の会社の元請会社の役員令嬢だったという。
 わたしは子供の頃、彼女を見るたび心に浮かんだ感情を思い出した。生まれ付き幸運な人は一生幸運なのだ、ということだ。豊かさに恵まれ、恵まれた人はまた不思議なほど美しかった。人間は恵まれた人を美しいと感じるのだろうか?とさえ考えたこともあった。
 そんな彼女は昔と変わらぬ穏やかさを湛えていた。幸福な人間しか持ち得ない穏やかさに、あの頃どれだけ憧れただろう。しかし今のわたしにとっては、かつてと同じように羨ましい。彼女は穏やかさを湛えながら自転車に両手を掛け、夕陽の中に立っていた。背筋のピンと伸びた姿勢が美しかった。何ひとつ満たされぬものが無い者は、立ち姿さえ満たされているように思えた。
「ご無沙汰も何も、もう何十年ぶりじゃない」
「ええ、高校を出てから一度も帰省しなかったもので」
高校?と彼女は少し意外な顔をしてみせてから
「まあ、でも随分貫禄が付いたわねえ」
とおどけるように言った。
「ただ歳を取っただけです」
「まあ、歳だなんて。私はどうなるの?もう七十よ」
「でもおばさんはいつまで経っても奇麗です」
「まあ、上手になったわねえ」
ほほほと右手を口に当てて笑った。昔と変わらぬ上品な笑い声。そういえば近所の主婦達は彼女を奥さんとは呼ばず「夫人」と呼んでいたのを思い出した。勿論、本人の前ではなかったが。
「ところでたくみちゃん。ここへ戻ってたんならうちへも連絡くれれば良かったのに・・・」
言いかけて彼女は、口をつぐんだ。それから
「時々ね、淳司を二人で話すのよ。たくみちゃんはあれからどうしたんだろうって・・・」
と何かを思い出している風だった。
「でも良かった。元気で。ご家族は?」
「ええ、妻と娘が」
「まあ!それは幸せねえ」
つい数日前、離婚したばかりです、と言い掛けてやめた。話を面倒にしても仕方が無いと思ったのだ。それに、彼女なら知っているだろう、とわたしは思った。この残骸の意味をだ。ずっとこの町に住み続けた者なら、この有様を誰もが説明できる筈だ。
「ところでおばさん、ちょっと伺ってもいいですか?」
「なにかしら?」
「この廃墟なんですが、これはどういうことですか?」
彼女の顔が一瞬引き攣ったように見えた。しかし、すぐさま話を変えた。
「たくみちゃん、久しぶりにうちへ遊びに来ない?忙しいなら仕方ないけど・・・」
話を変えられたわたしは釈然としない気持ちで彼女を見詰めた。彼女は、きっとわたしの問いに答えたく無いのだろう、と思ったのだ。つまり、この廃墟は、父の家があまり良い最後では無かったことを示しているのに違いない。
「奥さんと娘さんが待ってるのかしら?」
「いいえ、ボク一人で来たんです」
彼女は「まあ!」と小さく声を上げてから
「ならうちでお夕飯を食べてって。ね」
とわたしの腕を軽く掴むと左右に揺すった。
「たくみちゃんの元気な顔を見れば、淳司も喜ぶわ」
何故、喜ぶんだ?ふいにそんな疑問が頭を横切った。頭痛の予感がしたが、それは一瞬の小さな痛みで済んだ。しかし痛みの中に数多くの写真がパノラマのように現れた気がする。その中の一枚が、僅かに動きを停止した。ロープの向こう側で、淳司が手を伸ばしていた。こちらに向って、何かを掴むように。しかし淳司の前には何も無い。むしろ淳司の後ろに夥しい数の大人たちが犇いていた。それを交通整理しているのはヘルメットを被った警備員だろうか?
「ね、いいでしょ?」
「え、ええ」
淳司の家に行けば、何かが分かるかもしれない、と思った。少なくともわたしがこの町を離れて以降のことを淳司も、淳司の母も知っているのだ。それらの話を聞くだけでも、この頭の中でもやもやと湧き上がる記憶の断片たちの正体が見極められるかもしれない、と思った。
 わたしは淳司の母と連れ立って、淳司の家に向った。ほんの数百メートル先に建つ、資産家らしい豪奢な家は棟が二つに増えていた。淳司家族が同じ敷地内に建てたのだろう。二棟を廊下が繋いでいた。
「もう三十分もすれば淳司が帰ってくるわ。それまでお茶でも飲んでてね。甘精堂の羊羹があるわ。たくみちゃん大好きだったものね」
長く、甘いものなど口にしたことが無かった。しかし彼女の言葉を聞いた瞬間、羊羹の懐かしい甘みが蘇った。そうだったわたしは甘い菓子が好きだったのだ。

 居間の通され「そちらへどうぞ」と指されるままソファに腰を降ろすと、淳司の母は家の奥へ消えた。奥で小さな話し声が聞こえた。家の防音性能が高いのだろう。声はくぐもって何を話してるのかまでは聞こえなかった。
 やがて盆を持った淳司の母が現れた。
「もう30分もすれば帰ってくるそうよ」
淳司の母は急須で茶を注ぎながらそう言った。どうやら先ほど聞こえた話し声の相手は淳司の妻らしい。
 わたしは勧められるまま茶に口を付けた。それから部屋を見回した。少年の頃、何ども遊んだ部屋だった。しかし模様替えしているらしく、記憶にある部屋とは大分様子が違った。同じとすれば壁に貼られた淳司の写真だ。当時から、この居間には淳司の写真が多く飾られていたものだがそれは今も変わらない。
 淳司は一人っ子だった。両親にしてみれば彼の成長がこの家の歴史なのに違いない。
「これは運動会の時ですね。六年生だ」
そこには淳司を真ん中にわたしと真人の三人で並んでいた。白い運動着に赤い帽子。六年生の運動会では赤組だった。どうやら壁の左から右へ向って時代が流れているらしい。運動会の写真を左に追って行くと、すぐ隣りは音楽会の写真だ。五年生の終わりのものだろう。淳司、真人、わたしのほか健太や裕二もいた。それからまた運動会があって、登山の写真があった。五年生の頃、米子大滝まで歩いて上がったものだ。滝を背にクラスのみんなでVサインをしていた。そこには由紀の姿もあった。
 ふと右へ視線を移すと六年生の運動会の隣りは修学旅行の写真だった。淳司、真人、健太、裕二、瞳、武男、涼子、のぞみ・・・わたしが、いないな?と思った。無意識に由紀の姿も探したがやはりいない。もっとも淳司の写真すべてにわたしが写っている訳は無いのだ。もう一度、左側へ視線を送ってみた。四年生の頃、三年生の頃の写真があった。それらは淳司一人のものや、健太と二人で写っているものもあった。なんだかわたしはほっとした。
 突然、視線に気付いて振り返った。わたしはギョッとした。いつも明るい淳司の母が暗い目でわたしを見詰めていたからだ。彼女はわたしの顔を見て、慌てふためいたように表情を変えた。いつもの明るい顔がそこにあった。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中


 以前は藪に覆われた荒地だったのに、いつの間にか住宅が立ち並ぶ団地となり、しかしそれらの住宅もはや色褪せ始めていた。家々の庭には古ぼけたエクステリアが朽ち果て、親子の関係が次の世代に引き継がれようとしているのを現しているようだった。わたしがこの街を去った後生まれた少年たちは既に大人になり、もうこの庭で遊ぶことは永遠に無い。この地は、わたしの知らぬ間に、少なくとも二つの時代が過ぎ去ったらしい。
 婆さんに茶をもらってから、少し躊躇し、出来もしない想定をして、家を出た。わたしたちの家、婆さんたちの家と屋根を一にするその長屋から「おぶせ荘」までは歩いて五分といったところだ。30余年を経て再会するには五分の距離は短過ぎた。わたしはまるで初恋の人に会いに行くような気持でいた。切れ長で大きな二重なのに、いつも眠たげな目をしていた。鼻はしっかりと大きいのに一向に威圧感が無かった。何よりいつでも少し開いた口にわたしはどぎまぎしたものだ。
 義母さんも、既に70だ。だから当時の面影をどれだけ見ることが出来るかは、あまり期待してはいけないというものだろう。しかし、義母さんに限って歳を取る筈が無いような気がした。
 ふいに由紀を思い出した。病院で見た由紀。石田医師が案内してくれた病室の、ベッドに寝ていた。目を覚まさない由紀は若い頃、恐らくは彼女が一番美しかった頃、と変わらなかった。石田医師もそう言っていた。こういう場合、眠ったままの由紀は「眠り姫」と表現するのだろうが、わたしは別の印象を持った。まるで蝋人形のようだと。彼女が生きていた、というわたしの記憶はまったくの間違いで初めから生きた人間では無かったのではないか?彼女の作り物のような美しさからそんな印象を受けたのだ。だがかつて彼女は間違いなくぼくの目の前で生きていて、今とは違う真っ黒な顔があの頃のボクの生活の大半に関与していたんだ。
 そんなことを考えているうち、団地の中を通り過ぎてしまった。目の前には新生病院の駐車場が広がり、その向こうに五階建ての病院が見えた。その建物の向こう側におぶせ荘はあるという。わたしはあっという間に駐車場を通り過ぎ、病院の敷地に入り、五階建ての建物を越えた。平屋の建物が見えた。年季の入ったコンクリート造りだった。ガラス製の幅の広い自動ドアの脇に「おぶせ荘」と書かれていた。病院もそうだが入り口が北側にあるのだ。これは敷地の南側が松川という大きな河川が流れており、道路が北側に位置することと、もう一つは南側に広い中庭があり、療養の為の散歩の場となっているためだ。
 自動ドアから中に入ったが、受付のようなものは無かった。施設を何らかの関係を持つ者以外の来訪がほとんど無いためだろう。仕方なくわたしは
「ごめん下さーい」
そう大きな声を出し、建物の奥に呼び掛けてみた。しかし奥からは沢山のざわめきが聞こえてくるだけで、誰も応対に出てくる気配は無かった。そのざわめきに掻き消されているのかもしれない、と思い、空いているスリッパを穿き廊下を奥に向って歩いた。
「どちらへご用でしょう?」
突然、女性の声に呼び止められた。50代前半の看護士用の白衣を着た女性だった。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
「あ、はい。あの、母の見舞いに来たのです」
「お母様の?どちらの?」
「はあ、ちょっと苗字が分からないのですが・・・」
看護士は怪訝そうな顔をして「お母様なんですよね?なんで苗字が分からないのですか?」という予想通りの質問をしてきた。だが「子どもの頃に父と母が離婚して、それ以来なのだ」と話すと納得してくれた。
「でも苗字が分からないとちょっと、入所者数が結構多いですからねえ」
そう言われてから由紀の苗字が変わっていなかったことを思い出した。
「ええっと『北原』という方はいらっしゃいますか?どうでしょう?」
「ああ、北原さん。それならいらっしゃいますよ」
やはり苗字は変わってなかった。看護士も、同じ事を言いながらわたしを手招きした。
「こちらへどうぞ」
看護士に通されたのは広い食堂だった。食事時でもないのに沢山の老人がいた。きっと孤独にならぬよう、日中はここに集まっているに違いない。
「あれ?」
看護士は食堂を見回しながら首を傾げた。どうやら見当たらないらしい。
「北原さん、どこ行った?」
食堂にいた仲間の看護士を捉まえて訊ねていた。
 二人の看護士の会話の中で「息子さん」という言葉が何ども出てきた。どうやら言葉のニュアンスからすると義母に家族がいたことに驚いているらしい。話が一段落すると食堂にいた方の看護士がわたしに近寄ってきた。
「北原さんの息子さんですね。離婚後、お父様に引き取られた?」
「そうです。もっとも血は繋がっていません。父と母は再婚同士で、わたしは父の連れ子でした。それでまた父と母は離婚した訳です」
説明すると看護士は、一度目を丸くしてから同情するような表情をしてみせた。
「分かりました。事情は飲み込めました。でも済みません。北原さん、今日はここに居ないのです。定期的に病院の方で検査をしているんですが、今日はその日なんです」
「その検査は何時頃終わりますか?待っていようかと思いますが」
「そうですねえ、いつもだいたい朝から始めて夕方過ぎまで帰ってきません」
「そんなに時間が掛かるんですか?」
「もうお歳ですからゆっくり検査してるんだと思います。それに・・・」
「それに?」
看護士はそう訊ねるわたしの顔をしばらく覗き込むように見詰めた後、
「いえ、ですから待って頂くのはちょっと・・・」
わたしは諦めようとも思ったが、懐かしい義母の様子を少しでも知りたいと思い看護士に提案した。
「母の部屋を見せてもらえませんか?」
看護士は虚を突かれたというように、驚いた表情でわたしを見た。
「すぐ帰ります。お時間は取らせませんから」
続けてそう懇願するように言うと看護士は少し考えてから、
「そうですね、どうぞ」
とわたしを食堂の更に奥へと案内してくれた。
 病院の大部屋のように、六つのベッドが整然と並んでいた。誰もいなかった。皆、先ほどの食堂にいるらしい。あるいは、今日は天気が良いので中庭で散歩している者もいるのかもしれない。
「ここです」
看護士が指し示したのは、入り口のすぐ右手のベッドだった。
「特に何も無いんですよ」
看護士は申し訳無さそうにした。言うようにベッド脇の小さな棚に、タオルや手ぬぐいの他、薬物を飲んだり吸引したりする為の道具と思われるものが置かれているだけだった。わたしは、確かめるように訊ねた。
「母はもう、長いんですよね?」
「え?」
「ここはかなり前からいるんですよね?」
「ああ、はい・・・」
「お見舞いに来られる方もいらっしゃらなくて。娘さんも、ずっと長野で入院されてるって・・・」
由紀のことを言っているのだろう。わたしはそれを知っていることを示すように頷いた。
「明日なら朝からいると思いますが・・・」
早く帰るように促されているように思えた。看護士はまだわたしを信じ切ってはいないらしい。そもそも息子がいることなど知らなかった様子だ。もっともこれ以上、ここにいても意味が無かった。看護士に従うようにわたしは帰ることにした。
「ではまた明日来ます」
そう言うと看護士を残し部屋を出た。出たところで壁に貼り付けられた名簿を確認した。よく病室にあるように、名札を差し込むプラスチック製のパネルが貼られていた。ベッド配置と差し込む場所が一致しているのだ。入り口の右手だから、一番右下に義母の名札がある筈だった。そこには「北原」と書かれていた。しかし続いて表記されていたのは「芳江」だった。
「どうかしましたか?」
帰ると言ったわたしがまだ廊下にいるので、不審に思ったらしい。名札を見詰めているわたしの隣に来て、一緒に覗き込んだ。
「名札がなにか?」
「いえ、この名前」
「名前?」
「ええ、これは誰の名前ですか?」
看護士はますますわたしに不信感を募らせたらしい。大きく溜息を付くとわたしの肩を押した。
「済みませんが、短時間だというのでお連れしたんです。基本的にご家族の方以外、こちらに入れませんので」
咄嗟に、幾つかいい訳を考えたがどれも看護士を納得させられるものでは無さそうだった。それより義母の名前が違っていることをどう理解すべきか、それを考えるので精一杯だった。
 すぐにここを出よう、でて婆さんに確認してみよう、と思った。看護士に背を押されるままにおぶせ荘を後にすると、さっき来た道を早足に歩いた。団地の中ほどまで来ると急く気を押させられず走った。そう遠くはないから、すぐに長屋が見えた。わたしは婆さんの部屋の前に立つと、引き戸を勢い良く開けた。引き戸を開けたそこはいきなり居間である。しかしそこに老婆の姿は無かった。肩から力が抜け落ち、畳の端に膝を着いた。
 答えがなかなか見付からない、この数日、そんな思いを何ども繰り返してきた気がした。これまでは、サラリーマンだった頃、家族の一員だった頃は、答えはすぐに帰って来たのに。だが良く考えると、少し違うかもしれない。ここ数日、繰り返してきたのは幾つもの疑問に気付いたことだ。それ以上のことは何もしていない。そう考えると、答えを見付けようとしたのは今が初めてだった。
 幾つもの疑問が蘇ってきた。その一つ一つが全て繋がっているように思えてきた。
 ふと、誰かが後ろに立っている気がした。振り返ってみたが既に誰もいなかった。しかし気配だけは漂っていた。そしてそれは婆さんのものではない。長野電鉄小布施駅で降りた時、わたしを付けるように降りてきた乗客のことを思い出した。そして新幹線で向き合いの席になった男。わたしに一年近く前のスポーツ新聞を譲ってくれた後、軽井沢で降りた男だ。それから、なぜか所長を思い出した。会社の向かいのビルに事務所を構える探偵事務所の三田所長。彼もたしかこの街の出身だった。なぜ三人の男たちのことを同時に思い出したのか?理由は分からない。ただわたしの中では、同じにおいのようなものがしたのだ。
 婆さんがどこへ行ったのか分からない。単に近所へ用が出来て出かけただけかもしれない。しかし婆さんを探している気持の余裕が無かった。由紀に会いに行こうと思ったのだ。由紀に会えば、わたしが感じている疑問を解いてくれる気がした。立ち上がり、駅に向って歩き始めた。次第に足早になるのを抑えながら、それでもこの寒い時期に汗が沸くほど早く歩いた。小さな街は、すぐに目的地が現れた。小布施駅が目の前にあった。


「今日は朝から調子が良いようですよ」
面会を求めたところ前回と同様、石田医師の診察室に通されたのだ。
「そういえば」
と医師は言った。
「由紀さんに電話か何かされましたか?」
「電話?いいえ」
「そうですか。おかしいな」
「なにか?」
「ええ、前回、お兄さんが来られたことを知っているらしいのです。私も看護士たちも、それを伝えて無いのですがね」
医師は、にこやかな表情をわたしに向けた。
「いや、お気になさらぬよう。ああいう患者様は感受性が鋭いので、ちょっとしたことから私たちが感じないようなことを感じる能力があったりするんです」
そして席を立つと
「こちらへ」
とわたしを促した。前回と同様わたしは医師の後ろに付いて由紀の病室に向った。
「そういえばもう一つ」
医師は歩きながら振り返った。
「女性が訪ねて来たのですがご存知ですか?」
「女性?」
「ええ、年の頃は、そう、四十代前半といったところでしょうか?」
「誰でしょう?」
「それが、私どもも分からなくて。ただ古い友人だと言われたのです」
「古い友人?」
「ただね、面会の後、由紀さんに訊ねてみたところ『知らない人だ』と言ってました。それに・・・」
「それに?」
「女性の方も、初めて由紀さんを見た時、随分戸惑っておられました」
「戸惑った?そりゃ、由紀が年齢の割りにひどく若く見えるからじゃないでしょうか?」
「それもあるでしょう。ただそれだけじゃないような・・・なんというか・・・予想外の相手と会ったとでも言うような感じでしょうか・・・」
「予想外の相手?つまり先生はその女性は由紀と初対面だった、とお考えなのですか?」
「え、ええ、まあ・・・推測の域を出ませんが、なんとなくそう感じたのです」
わたしは記憶を探ってみたが、皆目検討も付かなかった。わたしは三十年以上、由紀と音信普通だったのだ。その間、由紀がどのような人生を歩み、どのような人々と関わってきたのか全く知らないのだ。
「いつ頃、来たのです?その女性は。昨日?」
医師はわたしの質問に大きく被りを振った。とんでもない、と言わんばかりだった。
「あなたと同じ日です。ほとんど入れ違い、とったくらいでしょうか」
それでは余計に分かる筈が無かった。わたし自身、由紀がここに入院していることを知ったのはつい三日前のことなのだから。
「その女性はその後も来られるのですか?」
「いいえ、それ一回きりです」
また新たな謎を見付けた思いだったが、どうやらこれはわたしには関係の無いことらしい。
「ところで由紀は目覚めてますか?この前みたいに眠ってはいませんか?」
「まだ午前中ですから大丈夫だと思いますよ。通常は一日起きています。時々、体調が優れない時、昼寝をするくらいですから」
話が終わらぬ間に由紀の病室の前に着いた。
「むしろ先日のようなことは初めてだったのです。わたしも少々驚きました」
それから石田医師はげんこつを作ると壁を二度ほど叩いた。引き戸は開け放たれたままだったから、ノックの代わりだろう。すぐに
「はーい」
という明るい声が返って来た。
「やあ、今日は調子が良いみたいですね。ん?」
医師は部屋の奥に進みながら話し掛けた。話し掛けた相手は、窓際で円椅子に座ったまま上半身をうつ伏せていた。良く見ると、病院のベッドでよく見かける可動式のテーブル、食事の時などに使うアレだ、それを窓際に持ち出しそこに向ってうつ伏せていた。入り口に立つわたしからは背中しか見えなかった。
「また手紙だね?」
医師の言葉から、手紙を書くのに夢中になっていることが分かった。
 それにしても、子どもが字を書く時のような姿だ、と思った。字を書くにしても、大人になると自然と姿勢が上がるものだが子どもの頃は顔がテーブルに付きそうなくらい屈む子が多い。こちらに背中を向けた女性も、身体は大人だったが、子どもと同じ姿勢で手紙を書いていた。
「今日はお客さんを連れてきたよ。誰か分かるかな?」
医師の言葉に女性は、振り向いた。その仕草の幼さは、彼女の実年齢からは違和感を覚えるほどだった。
「さあ、誰でしょう?」
という医師に女性は首を傾げた。わたしが分からないのだろう、と思ったが、驚いたことに別の意味で首を傾げたのだった。
「何言ってんの先生?たくでしょ」
由紀は憮然とした表情で言うと、またわたしたちに背を向け手紙を書くのに没頭し始めた。医師はわたしの顔を見ると小声で
「たく?」
とわたしに確認した。わたしが無言で大きく頷くと石田医師は再び由紀に語り掛けた。
「やあ、良く分かったねえ。憶えてたんだ」
途端に由紀は
「え?」
と声を上げた。由紀は背を向けた姿勢のまま、状態を伸ばし小首を傾げた。
「変な先生。たくを忘れる筈無いでしょ。昨日だって一緒に遊んだんだから。裏山に上ってね・・・」
そこから先はぶつぶつと独り言のようになって聞こえなかったが、間違いなく懐かしい由紀の声だった。わたしは思わず
「由紀」
と大きな声で呼んだ。
 由紀はくるりとこちらを向き直った。驚いた顔をしていた。ちょっと怯えた表情にも見えた。
「なに?たく」
不安そうな声にわたしは答える言葉を失った。しかし尚も不思議そうな表情でわたしを見詰める由紀に
「ううん、なんでもないよ」
とだけ答えた。
「なーんだ。おかしなたく。先生がさっきから変なことばっかり言うからたくに伝染しちゃったんだよ」
由紀は石田医師を睨んだ。医師は両手を拡げながら大きな声で笑って見せた。
「そうだね。先生、ちょっとおかしなこと言っちゃったね」
「そうよ。まるでわたしがたくを知らないみたいに言ったりして」
「ごめんごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど。そんな風に聞こえちゃったかな?」
「ますます変な先生!わたしをからかってるの?」
石田医師は「そうそう、冗談言っちゃってゴメンね」と更に大きなジェスチャーで由紀に謝った。
 それで由紀は安心したらしい。またテーブルに向って上半身を伏せた。なにやら熱心に手紙を書いているのだ。わたしは石田医師に視線で確認と取った。医師は微笑みながら了解してくれたので、由紀に話し掛けた。
「なに書いてるの?由紀」
由紀は手の動きを休め、大きく溜息を付いた。しかし何も答えなかった。仕方なく質問を繰り返した。
「ねえ、手紙?誰に書いてるの?」
「もう、なに言ってるの?さっきから変なことばっかり」
由紀は少し怒った調子で声を上げた。そして、こちらは振り返らずまたペンを走らせ始めた。
「たくに書いてるんだよ」
「え?」
「だってたくったら、どこかへお出掛けしたまんま、ぜんぜん帰って来ないの。だからたくとお話しするには手紙を出すしかないんだよ」
医師は首を左右に振り、唇の前で人差し指を立てた。わたしに、彼女の言葉に逆らってはいけない、と伝えようとしているらしい。
「ねえたくー、どこへ行っちゃったの?手紙読んでるんでしょ?なんで返事くれないの?」
「?手紙?出してくれたのかな?」
「またそんなこと言って。なんども出したじゃない。毎日のように書いてるわ。ただ、文がまとまらなくって、たくが読んでも意味が分からないと思うから、分かるようになんども書き直してるの。だから看護士さんに送ってもらうのは週に一度くらいかなあ」
「そうだったんだ。気付かなくてごめん」
「気付かなくて?何言ってるの?何度も返事をくれたじゃない」
「返事?」
「忘れちゃったの?頭大丈夫?」
突然、由紀はこちらを振り返ると立ち上がった。それからベッドの脇に立つ書棚まで早足で歩き、本の間から紙袋を取り出した。
「ほら、これみんなたくが送ってくれた手紙だよ。全部、取ってあるよ」
由紀はその一つを取り上げると、わたしに手渡した。封筒の表を見ると『北原由紀 様』と宛名が書かれている。住所はこの栗木病院内だ。裏返すと、そこにはわたしの名前が記されていた。わたしは石田医師の顔を見た。しかし医師は両手を拡げ小さく首を振るだけだった。小声で「患者のプライバシーには極力関知しないのです」と釈明するように囁いた。
 わたしはもう一度、自分の名前を見た。だが、よく見るとそれはわたしが書いたものでは無かった。わたしの筆跡に似せて書いてあるが、明らかに違う。では誰が書いたのか?病院が由紀のために贋の返事を書いた、と考えるのが普通だが、筆跡を似せてあるのはおかしい。病院がわたしの存在を知ったのはほんの三日前、わたしが由紀を訪ねて来た時なのだ。手に取ってみた手紙の消印の日付は3年以上前になっていた。
「えっと、一番最近のやつはこれだよ」
由紀が差し出した手紙の消印は、二ヶ月前だった。わたしは由紀を見詰めた。由紀は子どものように小首を傾げわたしが何か言うのを待っていた。
「開けていいかい?」
というわたしの言葉に大きく頷いた。
「当たり前じゃない。だってたくが書いたものだもの」
記憶に無い手紙、わたしに似せた筆跡、しかし石田医師は知らないという。出し主の手掛かりは手紙の内容にしかなかった。綺麗に縦に四つ折りにされた手紙を抜き出し、開いた。やはりわたしの筆跡を模して書かれた字の数々。しかし途中から飽きたのか、あるいは面倒臭くなったのか、いずれにせよ辛抱が切れたようにわたしのものとな似てもに付かぬ筆跡になっていた。
『久しぶりだね、ゆき。今日は少し辛い話を書かなきゃいけない』
そう始まっていた。わたしには皆目検討も付かない内容だった。
『しばらく手紙を送れなくなってしまうんだ。もしかしたら、ずっと送れなくなるかもしれない。ぼくの人生の曲がり角なんだよ。ぼくの人生はとても大きく変わってしまうんだ。だから今までみたいに自由に手紙を送ることも出来なくなってしまう』
わたしはもう一度、その手紙の入っていた封筒の消印を確認した。しかし何度見直しても三ヶ月前のものだ。
『ぼくは色んなものを失ってしまう』
会社を辞めるという話が出たのが二ヶ月前。妻から離婚の話を切り出されたのはその直後だ。にも関わらず、この手紙はわたしの未来を言い当てているように思えた。
『だからもう君とは会えないかもしれない』
会えない?この手紙の主は、由紀と何度か会っているのか?わたしは手紙を石田医師に見せた。しかし、その行(くだり)を見せても見当も付かないようだった。わたしに小声で
「さっき言った女性が来るまで、何十年も由紀さんに見舞い客は来ていないんです」
と耳打ちしてくれた。
「ねえ、どうしたの?」
由紀が怪訝そうな顔で立ち上がった。わたしの手の上の手紙を覗き込みながら
「変なこと書いてあったっけ?」
と首を傾げた。その仕草はあまりに幼かった。
「二人ともどうかしたの?さっきからこそこそお話したりして」
由紀はわたしと石田医師の顔を交互に見比べた。
「私の知らないお話しちゃあ嫌よ」
まるで少女のようなあどけなさで、由紀は目をいっぱいに開いていた。それは自分の知らない何かを探そうと懸命になっているように見えた。
「なんでもありませんよ」
石田医師が由紀の肩に手を掛け、座らせた。由紀は素直に座るとまた窓の方を向いて手紙を書き始めた。由紀が再び身体を伏し、夢中になり始めたのを確認するとわたしは石田医師に問い掛けた。
「どういうことなのでしょう?」
どれに対する質問なのか?という顔をされたが、わたし自身、分からなかった。それぞれでもあり全部でもあるとしか言いようが無かった。しかし石田医師はそれと理解したらしく全部に対する適格な答えを提示してくれた。
「彼女の記憶はすべて、ある時期で停止しているようです」
「それはいつですか?」
「分かりません。ここに連れて来られた時、もうこの状態だったそうです。それから二十年余りが経過しています」
「二十年・・・」
呟きながら年齢を遡ってみた。ちょうど二十歳の頃だ。その時期、彼女に何かあったのだろうか?
「分かりません。当時の担当医が催眠療法などで調べたようですが、結局分からずじまいだったそうです」
「当時の担当医の方は?」
「高齢でしたので、既に亡くなっています」
医師は首を左右に振ってから、言い訳するように付け加えた。
「何しろ一緒に住んでいた母親もまともでは無かったようです」
「まともではなかった?」
「ええ、病ではなかったようですが、心を閉ざしていた、というような記録があります」
「心を閉ざす?何も答えなかったということでしょうか?」
「私は記録を読んだだけなのでなんとも言えませんが。ただ興味深いのは催眠による診察の結果です」
「というと?」
「『何かを隠している』とあるのです。そして『記憶の一部に鍵が掛かっている』とも」
わたしは由紀を見た。一瞬、由紀の動きが止まったかに見えたのだ。
「なにか思い当たることはありませんか?」
「え?」
「いえね、お義兄さんなら何かご存知かなと思って。お話によれば小学校を卒業するまでは一緒に住んでおられたということですよね」
それはその通りだったが、わたしの知る由紀は快活で、優秀な少女だった。隠し事などしよう筈も無かった。
 そこまで考えた時、
『なんで来たの!?』
という由紀の怒声が蘇った。あれはいつだったか?なぜ、由紀はそんな風に怒ったのだったか?
『なんで来たのよう!?』
由紀の怒声はわたしの頭の中に何度も、繰り返し現れた。
「ねえ、なんで来たの?」
ふいに聞こえてきた現実の声にわたしは我に返った。
「ねえ、たく。今日は何で来たの?」
由紀はつい先ほどまで熱心に手紙を書いていた筈だった。わたしに送るための手紙。でも一度としてわたしの手元に届いたことの無い手紙。わたし以外の誰かが、可愛そうな由紀の為に返事を代筆してくれていた手紙。そんな手紙を書いていた由紀が、上半身を捻じ曲げるようにしてわたしの顔を凝視していた。
「何でって、由紀に会いに来たんだよ」
由紀は、少し考えるようにした。それからひそひそ声で言った。
「嘘仰い。もうわたしたちはずっと会っちゃダメ、って言われたでしょ」
「え?誰に?」
「誰にって?何言ってるの、たくったら」
「いや、本当に分からないんだ。誰だっけ?」
「しょうがないたくだなあもう。おかあさん」
「え?」
「おかあさんでしょ」
突然、肩を掴まれた。石田医師だった。医師の手は半ば強引にわたしを出口まで引き摺った。
「由紀ちゃん。また来るね」
医師は明るい調子で由紀に声を掛けた。
「たくも連れてっちゃうの?」
「あー、ああ、ちょっとお話があるんだ。また連れて来るよ」
「えー、いつ?」
「すぐだよ」
「ほんとにすぐ?」
「あー、すぐだ」
「絶対だよ。約束」
「ああ、約束だ」
「絶対、絶対だからね」
医師は由紀に手を振ると、わたしを部屋の外に押し出した。そのままわたしの背を押すように廊下を歩くと最初の角を曲がったところで大きな溜息を付いた。
「ありがちなんですよ。気を付けて」
「何を、です?」
「患者の家族がです。患者に話を合わせているうちに、患者の話に引き込まれてしまう。家族だから、真面目に聞いて上げたくなってしまうんですな」
「それがなにか?」
「いや、それはとても危険なことです」
「危険?」
「患者の世界に引き込まれてしまい、現実を見失ってしまうことがあります」
「わたしが?まさか」
わたしは石田医師の心配を一生に伏したつもりだった。しかし医師はわたしの顔を見詰めたまま視線を外さなかった。
「なんだって言うんです?わたしもおかしくなったとか?」
「そうはいいません。ただ、お義兄さん、何かを思い出しませんでしたか?」
医師の質問は的を射ていた。たしかにわたしは、なぜ来たのか?、とわたしに罵声を浴びせる少女の由紀を思い出したのだ。
「ご家族というのは、患者が普通であると願いたいものです。ですから何か鍵となる言葉を聞くと、それを現実の出来事と勝手に結び付けてしまう」
あまりの厳しい調子にわたしは驚いていた。それと気付いたのか石田医師は言葉を切ると、一度微笑んだ。
「まあ、面会も最初は短い時間からにしましょう。こういう病気は難しいところがあって、波長が合い過ぎるのも、勿論合わないのも上手くないのす」
由紀さんの様子を見ながら少しずつ面会時間を長くしていきましょう、という医師の言葉を他所に、ある言葉が頭の中に繰り返し現れた。『鍵』だ。由紀と会話した時、医師が耳打ちしたその言葉が、わたしの過去の記憶を呼び覚ました。しかし思い出したそれを、わたしは医師には言わなかった。言ったらまた、医師から根掘り葉掘り訊かれて面倒だと思ったのだ。
 それよりわたしは、由紀がその罵声を吐いた時のことを思い出そうとした。しかし、どんなに思い出そうとしても思い出せなかった。
「どうしたんですか?」
石田医師が心配そうな顔でわたしを覗き込んできた。久しぶりの頭痛が襲ってきたのだ。しかし既にわたしはそれをコントロールすることに成功していた。痛む頭を少しよこに振ってから、何ごとも無かったように医師に言った。
「今日はこれで帰ります。また来ます」
由紀をお願いします、と言って頭を下げた。身体を起こすと同時に医師に背を向けた。また新生病院の時のように入院させられては大変だと思ったのだ。それに、仮に入院しても新生病院で行った検査を繰り返すだけで、結果は火を見るより明らかなのだ。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中


 内海と外海の境にはテトラポット群が”島”のように浮かんでいた。ボクはそこに沢山の蟹がいたり、貝がコンクリートの側面にへばり付いているのを知っていた。そこから泳いで戻ってきた小学生らの会話を聞いていたからだ。でも、まだ幼かったボクにはまで泳いで行けなかった。ボクは恨めしそうに父の顔を見詰めた。すると父はボクを浮き輪の真名に入れ、テトラポット群まで押しながら泳いだ。
 無数のテトラポットが積み上げられた”島”には、蟹や貝目当ての子どもらでいっぱいだった。とても食べられるものではないから、みんな観賞用に捕まえるのだ。ボクもその一人だった。でも蟹を捕まえるにはボクはまだ幼過ぎた。ようやく追い詰めた蟹に逆襲に遇い、指を思い切り挟まれた。父の笑い声がして、ボクは泣きべそを掻きながら再び浮き輪の真ん中に入り、父に押されて砂浜まで戻ったのだ。母が用意してくれた握り飯と麦茶を飲み、気付くと日傘の下で眠っていた。
 購入したてのサニーに乗り込み帰路に着いた頃、まだ陽は高かったけれど窓を開け放つと涼しい風が車内に吹き込んできた。海岸線を北上し、直江津の手前で長野方面へ曲がったところで魚市場に入った。そこは見覚えがあった。たしか昨年も海水浴の帰りにここへ寄ったと思う。もしかしたら一昨年も寄ったのかもしれないが、まだボクは幼過ぎて記憶に残っていないのだ。
 市場の中へ入ると、人でごった返していた。近所の魚屋や、最近ちらほらと建ち始めたスーパーマーケットで買うより新鮮で安い魚を買えるという事で海水浴客に人気らしい。ボクら家族もそんな客の一人だった。まだ幼いボクはやっと棚の上に顔が出るくらいだから、魚と同じ目線になってしまうのだ。棚に寝そべった魚たちは皆、ボクを恨めしそうに睨んでいた。魚たちは海水浴場の近海で獲れた奴らばかりらしくて、普段、母が焼いてくれる魚とは似ても似付かなかった。みんなグロテスクな姿をしてて、魚というより爬虫類と魚の中間のような奴らだった。そんな奴らの憎憎しげな視線に晒され、ボクはお化け屋敷にでも入った気分だった。
「これ美味そうだな」
父がそう言って棚から取り上げたのは既に切り身になったものだった。そうして白身と、白身に赤い色の入った切り身、鮮やかなオレンジ色の少し太った魚を母が手に提げた買い物籠に入れた。それから出口で蟹を
「三匹」
と注文した。注文された老女は
「おまけしとくね」
と言ってもう三匹入れてくれた。父はそれを手に取ると
「おまけが二匹だったらもう一匹買おうかと思ったけど、これでマサの分もあるな」
とボクと母にだけ聞こえる声で囁いた。
 夕食は祖父と祖母の家で食べた。父の弟、つまりボクの叔父も一緒だった。叔父といったもまだ高校生だ。ボクらは蟹を一人一匹ずつ、それから皿に盛った焼き魚と刺し身、祖母が畑から採って来たキュウリとトマトを食べた。ボクは蟹を食べるのがひどく下手糞で、顔中を蟹の汁と肉とにまみれさせていた。そのたび母は濡れタオルでボクの顔をぬぐってくれたんだ。


 新幹線は長野駅に到着した。東京のそれと違い、地方都市の駅の照明はどこか薄暗い。
 眠っていたのか、考え事をしていたのか分からない気分だったが、とても疲れた気がする。新幹線が駅に滑り込み、薄暗い照明の中に入っても身体を動かす気になれなかった。それでも他の乗客が降り始めるのを見ると立ち上がらない訳にはいかない。わたしは心を奮い立たせて頭の上の荷物棚からバッグを降ろした。
 わたしは一つの間違いに気付いて愕然としていたのだ。何十年もそんな間違いを繰り返してきたことは、とても不思議なことだった。なぜそんなことになったのか良く分からない。もしかしたら幼かったわたしは、想像を超えた悲しみに耐えられず、事実を異なった記憶とすり替えてしまったのかもしれない。それ以外には理由が考えられなかった。海水浴はあれが最後だった。翌年は行く機会が無かった。なぜなら翌年の夏、母が死んだからだ。
 幸せだったわたしたち家族は、ある日を境に不幸な家族へと転落していった。
 わたしたち家族にはそれまで不幸の種など何一つ見当たらなかった筈だった。勤勉で実直な父母に不幸が訪れる隙間も無かった筈だ。にも関わらず不幸は一番、思いも寄らぬ形で訪れたのだ。それは貧困という形だった。当時、幼かったわたしのその理由は分からない。父は家族が生活に困らないだけの給料を貰っていたし、母は無駄遣いするようなことは無かった。何より二人は家族の将来、取り分けわたしの未来のことをいつも考えてくれていた、と思う。そんな二人には、貧困など訪れようも無い筈だった。
 その日いつもより早めに帰宅した父を見て蒼ざめる母の顔、母の視線の先で呆然と立ち竦む父の灰色の顔。それがわたしが憶えている全てのことだ。それから二人は台所で小さな声でずっと話し合っていた。子供心に答えの出ない難題に父母が苦しんでいるらしいことが分かった。寝付けなかったわたしは寝返りを打ち、溜息を吐いた。
「たく」
寝返りの音に気付いたのか、母が襖を開けて入ってきた。台所の明かりを背にした母はシルエットしか見えなかった。
「眠れないの?」
いつも穏やかな母だったが、この時は普段に増して静かな口調だった。それがわたしに何かを悟られぬための心配りに思えて、わたしは母の問いに答えられなかった。
「お熱でもあるのかな?」
母はわたしの額に額を押し当てて来た。その温もりがあまりに頼りなくて、わたしは泣き出してしまった。その時わたしはそう遠くない未来に母を失うことを予感したのかもしれない。わたしはなぜかこう叫んでいた。
「どこにも行かないでね」
と。それが聞こえたのか父も現れた。父はわたしを抱きすくめる母の上からわたしたちを抱き
「大丈夫だ。頑張るから大丈夫だから」
とわたしたちに言い聞かせるように言った。
 それから母が働きに出るようになった。わたしは毎日、一番最後まで保育園で母を待つようになった。母はいつも家に居るものだと思っていたわたしには、少なからずショックだったが、同じ学年にも二人ばかりそういう境遇の子どもがいた。一人は共稼ぎの子で、もう一人は父を亡くした子だった。わたしたち三人は毎夕、三人には広過ぎる遊戯室の隅で、静かに遊んでいた。が、三人とも心の中では毎日、呪文を唱えていたように思う。「今日は早く迎えに来ますように」と。しかしわたしの願いは通じなかったらしく、母の迎えは日を増して遅くなった。帰り際、母は園の職員に毎日、頭を下げて詫びるようになった。
 夏から秋を越え、冬に向うと母が迎えに来るのはあたりが真っ暗になってからだった。でも、凍えるような寒さの中で母のコートの中は暖かく、もうそれ以上余計な願いをする気が失せていた。慣れもあったと思う。また子どもだから飽きてしまったのかもしれない。いつの間にか呪文を唱えるのはやめていた。そうして冬を越え、春になってまた夏が来た頃、梅雨の雨が晴れ上がった日、祖母が保育園に迎えに来たのだ。まだ昼を過ぎたばかりなのに。わたしは首を傾げながら、不思議なことに心はある予感に満ちていた。幸福な家族の日々が完全に終わった、という予感に。そして残酷なくらい悪い予感は的中するものだった。
 祖母に連れられて行った場所は、薄汚れた診療所だった。一つしかない固いベッドの上で母は眠っていた。
「おかあさん」
わたしは期待などしていなかった。ただ確かめただけだった。予感が本当に当ったのか。母が確実に死んだのか、について。母は灰色の作業着を着たまま、目を閉じていた。わたしはもう一度、確かめた。
「おかあさん」
予感どおり母が答えることは無かった。

 わたしは母の死をずっと忘れていたんだ。
「終点ですよ、お客さん」
背後で声がした。駅員だった。わたしが酒でも飲んで”降り忘れている”と思ったらしい。わたしは手に持ったバッグを確認すると駅員に片手を挙げ、了解したという合図をした。
 新幹線のホームから階段を上がり、改札を出た。長野電鉄までは遠い。わたしは母の死を思い出したことで、すっかり気持が萎え歩く力も失っていた。それでも、改札から出て南北通路を善光寺口に向って歩いた。階段を降り、ローカル線の改札前を横切り、ぺデストリアンデッキに出ると、左右に地上へ降りる急な階段があった。長野電鉄の改札は右に降りるのだ。階段を一段一段降りるごとに動悸がしてくる気がした。特に心臓が悪い訳ではなかったが、わたしの中ではまるで今日、母が死んだような気分だったのだ。手摺りに掴まりながらやっとの思いで階段を降りた。そこからまだ50メートルは歩かなければならなかった。一度、休憩しようと思ったが、地方都市の夜は早く、それらしい店は既に閉まっていた。仕方なく足を引きずるように歩いて長野電鉄線のホーム入り口に向った。ようやく辿り着いたそこは、更に地下へ潜る階段を降りねばならなかった。
ばたんっ
という大きな音がしてドアが閉まった。気付くとわたしは座席に座っていた。なんとか電車に乗り込んだらしい。一息吐く間に電車はゆっくりと走り出した。急行に乗ったらしく席は対面式の四人掛けだった。しかし車内は空いていたからわたしの前には一人しか座っていなかった。壮年のサラリーマンらしい。新聞を大きく拡げているので姿は良く分からなかった。
 わたしは窓の外をチラと見た。しかし善光寺下までは地下鉄なのだ。窓の外には何も見えなかった。わたしは目を閉じてもう一度、心を整理した。単に父と離婚したと思っていた母が、実は死んでいたのだ。それをわたしは知っていた筈なのにすっかり忘れていたのだ。
 あの日以来、何度同じことを繰り返せばいいのだろう?とわたしは溜息混じりに思った。心と記憶を何度整理すれば真実に落ち着くというのか?だが、そういう問題では無いような気がして来た。あの日、それは会社を辞め、妻と離婚した日だ。リストラや離婚なんて世間にはよくある話じゃないか。にも関わらず、それらはわたしの過去にも大きな影響を及ぼしたらしい。わたしの知っていたわたしの人生は、どうやら塗り替えられてしまったらしいのだ。
 誰がそんなことをしたのだろう、と思った。先ほどわたしに一年も日付の狂ったスポーツ新聞を渡した男がとても怪しい気がした。そもそも男は何の為に日付の狂った新聞を手にしていたのだろう。そして、そんなものを見ず知らずの他人のわたしになぜ渡したのか。
 たしか男はわたしに
「興味があるのか?」
と訊いて来た。そこには貴明のインタビュー記事が載っていたのだ。わたしは大きく頷いた。すると男は気前良く新聞を提供してくれたのだ。そのすべてが出来過ぎた芝居のように思えてきた。しかし、男は軽井沢駅で消えてしまった。だからそれを確認する術は無い。
 窓の外に、星のように小さな光が見え始めた。善光寺下駅を過ぎ、地上へ出たらしい。光は街の明かりだった。田舎の私鉄の車両は、とても古びていた。経費節減のため都会の鉄道会社から中古車両を譲り受けているらしい。そのせいか街中の路線にも関わらず少し揺れが大きかった。疲れも手伝って再び睡魔が襲ってきた。しかし首を左右に振ってそれに抗った。また、新たな夢を見てしまいそうな気がしたからだ。単なる夢というのに、わたしはすっかり混乱させられてしまった。わたしの過去は、どれが正しいのか分からなくなってしまった。
 突然、車両が大きな悲鳴を上げた。鉄橋を渡り始めたのだ。今では珍しいトラス橋だ。隣りに巨大な橋影が見えた。夥しい光に囲まれ輝いて見えた。工事中の新橋らしい。新橋が完成すればこの懐かしい鉄橋ともお別れだ。そうやって時代は移り変わり、この鉄橋の記憶も消え去っていくに違いない。最先端の新橋が出来た時、この鉄橋は撤去される。どこかの博物館に展示された写真が鉄橋の記憶となるのだ。そしてその記憶は、新橋に勝るほどの美しい記憶として残る。時代遅れになったこの橋が、軋んだり歪んだりして悲鳴のような不快な音を発していたことなど、誰もが忘れてしまうのだ。
 過去など、そんなものかもしれない、と思った。誰もが自分の過去をきちんと憶えているような気がしているが、実際は単に現在の生活を投影しただけのものなのだ。現在の生活が幸福なら、幸福な過去が、不幸ならば不幸な過去が存在する。結局、会社や家族といった拠り所を失った今、その不安が過去の記憶を様々な形に変化させているだけなのだ。

 須坂駅を発車すると田園の風景が拡がってきた。夜目にもそれと分かるほど、車窓の外は人の気配が感じられない。電車が、わたしを乗せて過去の時代へと駆け戻っているように感じられた。もうすぐ、一昨日ひどい頭痛に襲われた小布施駅に到着する。また同じようなことになる予感がしたが、一方で頭痛は日を追って改善しているような、改善というより質が変わったような気がする。新幹線の中で感じた頭痛も、すぐに眠りに変わってしまった。それは”何かがほどけていく”時に感ずる苦痛のように思えた。
「おぶせー、おぶせー、お忘れ物の無いよう・・・」
場内アナウンスが聞こえた。わたしが座席を立とうとした瞬間、対面に座っていた男が拡げていた新聞を閉じた。目が合った。意味ありげな視線に思えたが、思い過ごしだろう。見たことも無い男だった。それにここで因縁を付けられるようなことは何も無い。
 座席を立ち上がると、男も立ち上がった。夜の小布施駅に降りたのは、どうやら私たち二人だけらしい。電車が北へ去った後、真っ黒なホームに、わたしたち二人だけが残された。
「なにか?」
とわたしは男に訊ねた。降車したというのに、男は改札へ向う様子が無かった。男は無言でわたしとは別の方向を見ていたが、わたしから離れようとする様子も無かった。それはまるでわたしを監視するような行動だった。
「わたしに御用でしょうか?」
もう一度、訊ねてみたが何も答えなかった。仕方なくわたしは彼を無視して改札に向って歩き出した。すると突然、男はわたしの背に語り掛けてきた。
「なにか思い出しましたか?」
慌ててわたしは振り返ったが、男はそ知らぬ顔をしていた。今の声は自分のものでは無いとでも言いたげだった。
「どういう意味でしょう?」
そうわたしが問い返しても、男は無反応だった。もう一度、
「”思い出した”とは、どういう意味でしょう?」
と言って男の顔を凝視してみたが、男はあらぬ方向を見詰めたまま素知らぬ顔をしていた。
 この男もまた、わたしを混乱させる為に現れたのか?そう思うと腹立たしくなってきた。記憶の混乱の後、今度は大勢の人間がわたしを弄ぼうとしているように感じられた。理由は分からないが、みんなわたしの過去の断片を少しずつ知っていて、それをわたしに突き付けてはからかっているように思えた。
「あんたは、軽井沢で降りた男と知り合いなのか?」
目の前の男は、わたしの問いには答えようとしなかった。
「わたしに日付が1年もずれた新聞を渡した男だよ。グルなのか?」
ふいに男はわたしの横をすり抜け、改札を出て行った。
「おい!待て。待てよ!」
男の背中に向って呼び掛けたが、夜の闇の中へ消えて行った。
「そろそろ閉めますが」
初老の駅員が迷惑そうな顔で言った。わたしが乗ってきた電車は最終で、それが発車してから既に何分も経過していたのだ。
「もう駅を閉めたいんですが」
「申し訳ない。すぐ出ます」
そんな会話を交わした後、駅舎を出ると右手にある筈のタクシー乗り場を眺めた。しかし待機しているタクシーは一台も無い。その向こう側にあるタクシー会社の平屋の社屋も灯かりが消えていた。仕方なくわたしは正面に伸びた道路を歩いた。狭い街だから歩いてもそう時間は掛かるまい、と思い歩き出した。

 考え事ばかりしていたせいか、あっという間に長屋に着いた。角の婆さんの部屋は電気が消えていた。眠ってしまったようだ。わたしはかつてのわたしたちの家の戸に手を掛けた。案の定、鍵は開いたままだ。そのまま中に侵入した。
 蛍光灯のスイッチを引っ張ると灯かりがともった。電源が長屋全体で一つなのだ。婆さんがいるお陰でこちらの部屋も電気が通じていた。テレビも点くかもしれないと思いスイッチを入れてみたがこちらはテレビが古過ぎるらしい。音一つ、光一つの反応も無かった。
 畳の部屋の隅に布団が畳まれていた。それを引っ張り出して敷いた。懐かしさが込み上げると思ったが、不思議なほど何の感慨も湧かなかった。疲れ果てているに違いない。布団の上にごろりと横になると、すぐに眠気が襲ってきた。抗う間もなく眠りに落ちていった。

 
 夢、は見なかった。見そうな予感はした。しかし見なかった、と思う。正面に見える天井の模様を見詰めながら、頭の片隅まで記憶を探ってみたが昨夜、夢を見ていた形跡が見当たらなかった。ここ数日、悩まされるほど見ていた夢が突然、現れなかった理由を考えてみたが、すぐにそれを考える無意味さを悟った。単に疲れていただけなのだ。
 天井板はあの頃と変わらない。わたしがまだこの家に住んでいた小学生の頃だ。朝、目覚めた時、いや夜寝る時の方が多かったか、こうして布団の上に身体を横たえたまま年輪を引き伸ばしたような天井板の模様を数えたものだ。
『何見てんの?』
由紀が毎日のように訊ねてきた。そのたび
『模様の数を数えてるだけだよ』
と答えるのに、翌日また同じように訊いてくるのだ。そして
『なーんだ、てっきり私の見えない世界を見てるのかと思ったよ』
なんて物語の主人公のような台詞を言った。そういえば由紀はなかなかの文学少女だったような気がする。授業が終わって帰るまでの一時間ほど、由紀はよく図書館にいた。活発で、勉強が出来て、スポーツ万能で、どこか大人びていた由紀は、いつも真っ黒に日焼けした男の子のような顔をしていたが、いつか美しい娘になるに違いないと思っていた気がする。そして誰からも羨まれる充実した人生を送るに違いないとも、思っていたんだ。しかし、どうやらその半分は実現し、半分は実現しなかったらしい。一昨日、病院で見た由紀は、美しい女性に成長していた。しかし彼女に、その後の人生は存在しなかったらしい。一番美しい姿に成長したままだった。そこから先の、人生の年輪とても言おうか、老いや崩れといったものが見受けられなかった。由紀はわたしと同じ歳だから、もう40を越えているというのに。
 ふと、窓の外に人影が見えた。屈んだように背の低い人影。玄関を開け、表に出てみると小柄な老女が掃き掃除をしていた。角の家の婆さんだ。
「朝飯でも喰うか?」
昨夜、わたしがここへ訪れたことを知っていた、とでもいうような物言いだった。

「ワカメの味噌汁しか無いが勘弁してくれ」
婆さんは卓袱台に味噌汁の入った椀を置きながら、今度は茶碗に飯を盛り付けた。
「ババアの一人暮らしだからな。佃煮くらいしかねえんだ」
そう言いながら皿を差し出してきた。目玉焼きだった。わたしは「ありがとう」と言いながら受け取った。
「オレだってもうすっかり中年オヤジだからな。これだけあれば十分さ」
婆さんは「そっかい?」と首を傾けながら茶碗を差し出して来た。
「ところでさ、母さんの居場所、教えてくれないか?」
白米に佃煮を乗せて、それを口に運びながら横目で婆さんを見た。わたしの質問に婆さんは答えてくれなかったのだ。もう一度、
「母さんって今、どこに住んでるのかな?」
今度は婆さんの顔を真正面に見た。しかし婆さんは顔を背けた。それからまるでわたしの質問が聞こえなかったというように、リモコンを手に取りテレビのスイッチを入れた。
 既に8時を回っていた。番組は7時台のニュースが終了し、バラエティになっていた。よく見る文化人がコメンテーターとして登場し、司会者とともに好き勝手なことを言うというものだ。井戸端会議のようなもので、主婦層には受けるのかもしれない。
「はははは」
唐突に婆さんが笑い出した。明らかに間を外したタイミングだった。そもそも出演者のコメントは男のわたしには面白くもなんとも無いのだが、そこが笑いどころで無いことはよく分かった。
 それでも婆さんは笑い続けた。笑う間に飯を口に掻き込み、また笑う、そしてまた味噌汁を口に注ぎ込んだ。それはわたしとの会話を拒絶する意思表示のように思えた。
「なんだって言うんだ?」
わたしが、怒りに任せて大きな声を出すと婆さんは突然、黙り込んだ。
「オレは何か変なことを言ったかな?」
「ん?何か言ったかえ?」
「とぼけないでくれよ。さっき訊いただろ」
「はて?なんだったかの」
「お袋のことさ。今、どこに住んでるのか教えてくれって言ったんだ」
「お袋?」
「そうさ。オレのお袋だ」
「お前のお袋さんは、お前が小学校に上がる一年以上前に亡くなってしもうたよ」
「それは本当のお袋だろ。そんなことは知っている。知りたいのはオレが小学校に上がる時に来たお袋の方だ。由紀の母親だ」
婆さんは
「ああ」
と言ったまま、またテレビの方を向き直り「はははは」と笑って見せた。
「なぜだ?」
わたしは卓袱台に茶碗を置いた。古い卓袱台は、あの頃から使っているものだ。よく見ると色々な落書きがしてある。固いもの、例えばスプーンの柄などで傷付けるようにして描いてあった。当時、人気のあったアニメの主人公の名前が描いてあるところを見ると、それはわたしが彫ったものに違いない。

◇覚醒◇
「なあ、婆さん。知ってるんだろ?義母さんの居場所を」
婆さんはふいに黙り込み、卓袱台を見詰めた。その仕草は何かを探しているようにも見えた。しかし本当に探していたらしい。
「ああ、あった、あった」
とはしゃぎながらわたしの顔を見た。
「ほれ、懐かしいだろ」
婆さんが指し示したの卓袱台の上、婆さんの湯飲みが置かれた場所の近くだった。
「エリックがの、来日した時じゃあ」
「エリック?」
「あーあ、フリッツ・フォン・エリックじゃ。あいつはほんとに恐ろしい奴じゃったあ。ストマック・ホールドってな。肉の上から馬場の胃袋を掴み寄って、身体ごと持ち上げちまったあ」
「ああ、プロレスか」
「ほんとに残酷な奴だった。後にも先にもあんなに恐ろしい技を使う奴は見たこと無いわ」
「はは、プロレスなんて、ちゃんと筋書きがあるんだよ」
「分かった風を抜かすな。筋書きなんつーものは、あろうと無かろうと関係ない」
「いや、だから、恐ろしいとかなんとか・・・・」
とわたしが説明し始めると、婆さんは首を大きく左右に振った。そして
「お前は駄目な大人になったのー。これ見てみい」
と卓袱台の上を指した。婆さんの湯飲みの横には、何かを掴もうとする手と指が描かれていた。
「あの頃のお前は、ちゃーんと知っていた。何が嘘で何がほんとかな。それに比べ今のお前はなーんにも分かってねえわ」
「そんなことはどうでもいい。義母さんの居場所を知ってるんだろ。だったら教えてくれよ!」
わたしは、つい怒りに任せてしまった。婆さんにはぐらかされている気がして苛立ってしまったのだ。
「頼む。教えてくれ。いろいろ調べたいことがあるんだ」
卓袱台に手を付き、頭を下げた。婆さんは苦しそうな顔で、わたしを見た。
「実はわしもよく知らねんだ。どこかの施設に入ってるって話は聞くがな。それ以上は」
「施設?どこか身体でも悪いのかい?」
「いや、住む場所が無くってな。それに年だから働き口もねえわ。ま、あんなことがあってからずっとまともに働いたことはねかったがな」
「あんなこと?」
婆さんは突然、手早に動き始めると急須に湯を注いだ。それからしばらくテレビに向って黙りこくった。
「あんなことってなんだい?実はさ、三日、いや今日で四日目だ、ずっと変なことばかり続いてる。おかしな夢を見たり、それが初めはオレの小学生の頃の思い出だったんだが、それが一昨日くらいから変な夢ばかりで、事実と違うんだ。義母さんが悪い人になって出てきたり。あんなに荒れてた父さんが真面目だったり。事実と違うことばかり出てきて、夢だけじゃない。由紀だって。そうだ。婆さんに言われて一昨日、由紀に会ったんだ。それが由紀は寝てたんだが、おかしなことにまるで二十歳くらいの姿のままなんだ。それと、会社に寄ったんだが、帰りに昔馴染みの探偵事務所の所長を再会した。会社に入った頃、仲良くしてた人だから、何十年か振りだったんだ。ところが所長の奴、途中から変なことばっかり言い出して。気付くと電車の中まで追い掛けて来た。それで『本当は誰が殺した?』なんて言うんだ。おかしいだろ?病院へ行った方が良いんじゃないかな?」
「はい、お茶」
婆さんの声で我に返った。どうやらおかしいのはわたしの方かもしれない、と思った。だが、わたしは自分を止められなかった。
「昨日、変なことを思い出したんだ。ずっと昔のことだ。まだオレが小学校に上がる前、本当の母さんが生きてた頃、人並みに裕福だった。幼いオレは優しい父さんと母さんに囲まれ幸せだった」
ズズズっと婆さんが茶を啜る音がした。見ると婆さんは死人のような目をしていた。
「あれは本当なのかい?」
「本当って何が?」
「ずっと本当の母さんはオレを捨てて出て行ったものだと思い込んでたんだ。それどころか、オレの記憶の中では、本当の母さんは今でも生きていることになっている」
「そりゃそう思いたかったんだろ」
「でも、オレは本当の母さんを愛していないことになってるんだ。オレが愛してるのは美和という義母さんだと」
婆さんは湯飲みに口を付けたまま目を瞑った。
「『美和』さん、か。おまえ、お義母さんの居場所を知りてえって言ったな。会いに行くんか?」
「勿論、そのつもりだ」
「なら教えてやろう。すぐそこだ。三日ばかり前、ここに来る前に半日ばっか入院した病院があるだろう。新生病院って奴。あの敷地内におぶせ荘って老人ホームだ。いろいろあって歳の割りに呆けとるが、おまえの知りたいことにゃ十分答えてくれろう」
救われた思いがした。義母に会えばすべてが明確になるだろう。この数日間の違和感から開放されるに違いない。
「ところで義母さんの苗字は何だったかな?」
「苗字?」
「ああ、離婚したから苗字が変わっているだろ」
婆さんは少し考えて、また茶を啜った。さっきからわたしの顔を一度も見ようとしない。
「苗字は”北原”のまんまだわ。聞きたいことはいろいろあるじゃろ。だがぜーんぶ本人に聞いてみれや」
そう言うと、盆に茶碗や味噌汁の椀、残った漬物や目玉焼きが乗っていた皿などを手際良く乗せ始めた。まるでわたしに催促するように。催促の意味は勿論、義母に会いに行け、ということだろう。
 義母にさえ会えば、美和にさえ会えばすべてが解決する、そう思った。会社を辞めたこと、離婚したこと、そうした人生の大きな変化がわたしに様々な影響を及ぼしているのだと思った。ほんのわずかな記憶違いが、それらによって大きくクローズアップされているのだと。それらを義母がすべて明らかにしてくれるに違いない。もう一度、真実の記憶を確認させてくれる筈なのだ。
「エリックの写真じゃ」
ふいに婆さんは古いスクラップブックを開いて見せた。スクラップブックにはプロレスの記事の切り抜きがびっしりと貼ってあった。
「ほれ、これがそのストマッ・・・」
「ストマック・ホールド。『胃袋掴み』って技だな。それにしても凄い脚色の名前だな。本当にそんなことしたら死んじゃうよ」
「は!まだ分かっとらんの。東京人は夢が無くていかんわ」
わたしは笑いを口に含んだまま、懐かしいスクラップ記事の数々を眺めた。ページを捲ると時折、下手糞な平仮名でレスラーの名前が書いてあった。
「これはお前の字じゃ」
婆さんはおどけるように言ってから笑った。
「こっちは由紀じゃ」
大人びた文字は由紀の知性と早熟を表しているようだった。
「由紀はほんとに大人びてた。小学校6年の頃なんかは、背も高かったこともあって高校生くらいに見えたもんじゃ」
「そう、だったかな?」
わたしには、それほど大人びた由紀の記憶が無い。
「これは?」
ページの最後の方に、ミミズのような線が幾つか引かれていたのだ。婆さんは口を曲げて笑いながら
「お前の字じゃで」
と答えた。
「小学校に上がる前のの。お前の字じゃ」
たしかに、記事は一番古いらしい。活字が、一世代前のものに見えた。
 ふとプロレスの記事の縁に、隣りに掲載された記事の見出しが残っていた。切り取った際に残されたのだろう。『ドルショック、プロレス界にも衝撃!』などと当時では作成に苦労したであろう網掛けの派手な文字だった。当時は、過去に経験した事の無い国際的な経済破綻だったから、今では想像出来ないほどの衝撃だったのだろう。しかしその後も社会は幾度と無く同じことを繰り返すことになった。今、わたしがこんなところにいるのも、それがそう遠くない遠因であるのだ。
 自己嫌悪とも、アイロニーとも取れぬ笑いが込み上げてくるのが分かった。心が変に醒めて来たのを感じた。その時、婆さんがスクラップブックを覗き込み、同じ見出しを見ているのに気付いた。
「どうしようも無いわな。うん。こういうことはわしらにはどうしようも無いんじゃ」
婆さんの溜息を聞きながらわたしはスクラップブックを閉じた。

=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中


 偽りの夢を見た。葬儀の為に東京へ戻って以来、ずっとこんな夢を見る。事実とまるで反対の、嫌な夢だ。
 小学校時代の夢ばかりを見るのは、ボクが小学校時代の6年間が一番幸せだったからだろう。実母に捨てられた幼年期を経て、小学校に上がると、ボクの前に新しい母が現れた。新しい母はボクから実母の記憶を消し去ってくれた。それほど魅力的な母に、ボクは夢中になったのだ。ボクは毎日、幸福な気分で家に帰った。家にあの人がいると思うだけで幸せだったのだ。
 ところが夢に出てくる母は、まるで違う。事実とは正反対だ。偽りの母は、ボクを苦しめ、辛い思いにさせるようだ。つい今しがた見た夢の中で、精通を迎えたボクは母にひどく辱められていた。由紀に手を差し伸べて貰えなければ、ボクは不幸な少年そのものだったに違いない。少年にとって、性の問題で親から辱めを受けることくらい辛いことは無いからだ。
 幸いなことに、偽りの夢の中の出来事は、目覚める同時にボクの目の前から消え失せた。事実は、ボクを辱めたのは妹だった。由紀は、生意気な妹で、ボクと母の間を邪魔ばかりしていたんだ。ボクはいつも勝気な由紀の我侭に振り回され、友達とゲームをする時間を奪われていた。
 でも、一方で由紀は聡明で、活発で、いつも前向きで、弱気なボクを励ましてくれた。まるで二人の由紀がいるようでもあるし、どちらもあの頃の由紀だった気もする。もう30年も前のことだから、はっきりと思い出せないんだ。
 ボクは病院で見た由紀のことを思い出した。由紀は、あの真っ黒に日焼けして男の子のように見えた由紀が、美しい女性に成長していた。しかし不思議なことに、由紀は一番美しい姿に成長したまま、だった。医師は「そこから加齢が止まっている」と言っていた。

 新幹線には珍しく「ガタンッ!」という大きな音を立てて止まった。窓の外を見たが何も無かった。駅名を知りたくて、あちこち見回してみたが窓の開かぬ新幹線の車窓から覗ける範囲は限られていた。仕方なく背凭れに身体を預けた。同時に新幹線は動き出した。眩しい夕陽がホームの様子を照らし出していた。やがて駅名を表示した看板の前を通り過ぎた。「安中榛名駅」と書かれていた。
 葬儀が一通り終わったのが午後3時だった。そこから東京駅に出て、新幹線に乗ったからちょうど日が暮れようとしている時間なのだ。わたしは首を左右に捻った。次第に、意識がはっきりしてきた。どこまでが夢で、どこから目覚めていたのか良く分からなかった。ずっと夢を見ていたような気もするし、起きていたような気もする。この三日というもの、ずっと夢に振り回されているような気もした。
 しかし、考えてみるとまだ三日だった。会社を辞め、離婚してからようやく三日目が終わろうとしているだけなのだ。なのにもう何年も前からこんな状態だったような気がする。逆に、ほんの数日前まで毎日、繰り返していたサラリーマンの頃の生活が思い出せなかった。
 夕刻の車両はほぼ満席だった。東京駅で2シートの窓際の席を確保した時は、隣りは空席だったが、眠りから醒めてみると見知らぬ男が座っていた。中年のサラリーマン風の男は新聞を開いていた。駅の売店で買ったスポーツ新聞らしく、下世話な話題ばかりが並んでいた。しかし男が開いた1ページに、わたしは目を奪われた。それは中小企業の経営者を直撃インタビューする、というコーナーだった。内容を読むまでもなく、提灯記事の臭いがぷんぷんしていて、恐らくはパブリシティ広告のようなもので、記事に載せる代償に掲載料を支払う、といった類に違いない。わたしが関心を持ったのは、今回インタビューされているのが貴明だったからだ。「第34回」と書いてあるところを見ると、掲載するのは34人目の経営者ということらしい。
 目立ちたがり屋の貴明らしい、と思った。でなければ法令印刷を主たる業務とする会社の社長が、このような下世話なメディアに登場する必要がないのだ。相変わらず呆れたものだ、と思いながらも、既に無関係となったという思いから目を背けた。
「あんた、この会社と何か関係あるの?」
男が突然、訊ねてきた。
「いやさ、さっきから俺が読んでる新聞をね、あんまり熱心に覗き込んでくるからさあ。気になちゃってさ」
「それは失礼しました」
「ああ、それでもしかしたら知ってる会社なのかな?って思った訳よ」
男の親切心に頭が下がる思いがした。それでつい、正直に事の成り行きを話してしまった。
「そっかあ。なるほどな。会社の為に頑張ったのにな。それが認められねえ。不条理な話だよ。同じサラリーマンとしちゃあ身に積まされるなあ」
そう言うと男は新聞を差し出してきた。
「読みな。俺は次の軽井沢で降りるから、進呈するよ」
わたしは男の親切に例を言い、新聞を受け取った。男と二、三雑談をするうち、軽井沢駅に到着する旨のアナウンスが響いた。男は立ち上がり、荷物を下ろしながら微笑みかけてきた。
「じゃあな。まあ、お互い元気でやろうや」
中年男の精一杯の爽やかな笑顔だった。ショルダーバックを担ぐと、男は出口に振り向いた。そこで何か思い付いた様にもう一度わたしを見ると顔を寄せてきた。
「こういうひどい不景気の時期ってなあ、やっぱり弱いものから切られてくんだよ。でも、それは自然の摂理だからしょうがねえんだ」
わたしは『リストラされたのでは無く、自分から辞めたのだ』と言い掛けたところで男が人差し指でそれを静止した。新幹線の速度がゆっくりを落ちていくのが分かった。もうすぐにも停車するのだろう。男は、もう何も言わず身を翻し出口に向った。わたしはその背中を凝視したが、わたしの期待に反して男は二度とこちらを振り返らなかった。その背が暗にわたしの主張を否定しているように思えて、わたしは奥歯を噛んだ。
 軽井沢駅を発った頃、夕陽は闇の中に埋没しようとしていた。佐久駅に着くまでには夜が訪れるに違いない。わたしは男から譲り受けた新聞を開いた。すぐさま貴明のインタビューが載るページを見付けた。スポーツ紙特有の提灯記事は、歯の浮くような煽(おだ)て文句で始まっていた。予想されたことだが、ここまで露骨だと不快に感じる。写真の貴明は満面の笑みを湛えるが、実際、ここまでお世辞で凝り固まった記事をどんな気持で読んだのだろう?しかし、どれほどあからさまに煽てられても、どこまでも好意的に受け入れてしまう才能が貴明にはあった。二代目特有の世間知らず、と取ってしまえばそれまでだが、今のわたしには羨ましい限りだ。
 意味の無い文面を読み進むと、写真に対して文の少なさに呆れ帰った。写真と見出しばかりで中身が何も無いのだ。もっとも娯楽紙だからもっともな事かも知れない。しかし、一番目立たぬ場所にあった文の一群にわたしの目が吸い寄せられた。
「法令印刷市場の曲がり角」
とあった。会社の不調の理由を説明しているのだ。出版業、印刷業の構造的な不況とともにデジタル化の進展に伴って法令印刷という業が消えつつある、と書かれている。貴明にしてはまともなことを答えているじゃないか、と感心した。しかしすぐさまそれらが柴崎さんやわたしの受け売りだと気付いた。
「不況の中でどう生き残るか?そのためには血を流すことも必要です。昨年から今年に掛け、ベテランを含め数名の社員に辞めてもらいました。この雇用不安の時期に非常だと思われるかもしれないが、致し方ない。こういう時期に会社を守るということは、そういうことなのです」
もっともな話だ。だが、リストラされるべきは柴崎さんとわたしでは無かった筈だった。どこでどう間違ったのか、守るべき役割の者が会社を去ったのだ。そして、わたしたちは自ら去ったのだ。貴明が紙上で言うように「辞めさせられた」訳ではない。
「退社してもらった社員たちは気の毒だと思います。この不況の中、再就職は非常に厳しいでしょう。いずれもベテランですから年齢的にもハンデがある。でも致し方ない。会社とはそういうものだからです。常に古い皮を脱ぎ捨て新陳代謝していかなければ生き続けられない。そのためには犠牲も必要だということです」
犠牲か、とわたしは溜息を吐いた。『弱いものから切られてくんだよ』先ほどの男の声が蘇った。男はこの記事を読んだのかもしれない。記事を読んだ者なら誰もが、わたしに哀れみを感じるだろう。こんな娯楽紙でも、こうして公表されてしまえば、わたしは憐れなリストラ社員だ。
 しかし、とわたしは思った。昨日、会社を訪問した時の記憶が蘇ってきた。佐藤も、留美子も、木下も、山本も、みんなわたしを親の仇でも見るような目付きをしていた。わたしは背凭れに身体を預けたまま絶句した。自ら辞めた気になっていたが、本当のところ会社から捨てられたらしい。貴明から捨てられたのではなく、会社から捨てられたのだ。なんとなく、実感としてそう思えてきた。
 急に社会的な地位と収入を失ったことに気付いた気がした。不思議なもので、有希の顔を思い出した。少し前まで、休日には妻と三人で色々なところへ出掛けた。有希は無口な娘だったが、いつも笑みを浮かべていた。
「パパ、何がいい?」
有希の声が聞こえた気がしてわたしは振り返って辺りを探した。しかし、その声は現実のものでは無かったらしい。外で昼食を取る時、いつも有希はそうして訊いて来た。子供のくせに、自分の好みよりわたしの好みを優先させた。わたしはいつも有希に気を遣わせていたように思った。有希は子供心にわたしの危うさを予見していたのかもしれない。そうして子どもらしくない気を遣い続けてきた。思い出してみると、有希が子どもらしい我侭を言ったのをついぞ聞いたことが無かった。
 しかし、もはや有希がわがままを言ってくれる機会も無いだろう。聡明な有希は、わたしがわがままを受け入れられる器で無いことを承知しているに違いない。まだ小学生の子どもにそういう気を遣わせてしまう情けなさに胸が痛くなった。今や妻の愛人が経済的に豊だということが救いといえる。
 人間が堕ちるなど不思議なくらい簡単なことなのだ。そう思いながら車窓を見た。既にどこもかしこも暗がりに支配され、風景など見えない。代わりに、暗がりを背景にしたガラスに自分の顔が写っていた。少し老けたようにも見えた。皺が増えたのかもしれない。この三日間、日常とは異なることに振り回され疲れが出たのかも知れない。だが、もう日常に戻ることは無いのだろう。わたしは、職場も家族も失ってしまったのだ。良く考えれば、これから先どのように生きていけば良いのか、何を目的に生きていくのか皆目検討も付かなかった。その意味では父の方が幸せだったかもしれない。父は、あれほど自分勝手で、駄目な人生だったが、家族はいたのだ。
 そう思った時、目の前のガラスに写った顔が父のものであることに気付いた。子供心に情けなかった父と、いつしか瓜二つになっていたのだ。父のようにだけはなりたくないと思って来たのに、気付くとそっくりになってしまった。まるでわたしの人生の破綻が、最初から予定されていたように思え、胸が苦しくなった。
 少し気を紛らわせようと、新聞を捲った。面白おかしく描かれたスポーツ記事、経済紙の株式欄のように整然と一覧にされた競馬や競輪など公営ギャンブルの予想、性風俗の話題、いつもと変わらぬそれらは人間の低俗な欲求を満たす目的で、敢えて品の無い編集となっていた。
 最終面にいく途中、社会面があった。スポーツ紙の社会面だから社会、政治、経済がごちゃ混ぜに掲載されている。要するにスポーツ新聞らしい記事以外を載せていると考えた方がいい。差し障りの無い記事が、これまた面白おかしく描かれていた。最終の3ページほどを割いた芸能面も見る気にならず読むべき内容が見当たらなかったわたしは紙面を閉じようとした。次の瞬間、慌てて紙面を開き直した。社会面の下部にある囲み記事が目に入ったのだ。そこには「長野県○○○郡」と書かれていた。顔を近づけて確認してみると○○○の部分は「上高井郡」だった。わたしの故郷だった。
 記事は、犯罪史の連載物で過去に発生した特異な犯罪を検証する、というものだ。この紙面では昭和52年に長野県上高井郡で発生した未解決の殺人事件を取り上げていた。
円高不況が深刻化し、企業倒産が相次ぐ昭和52年。日本赤軍による日航機ハイジャックという戦後日本の象徴的な事件が発生する反面、東京・高輪において青酸コーラ殺人という病める現代日本を示唆するような事件が起こった。』
 昭和52年というと、わたしがたしか小学校6年生の頃だ。つい最近のことのように思えたが、この記事の出だしを読むと、随分古い時代に思える。記事には同時代の主な出来事が表になっていた。

『1977年の主な出来事:
日本赤軍による日航ハイジャック事件,ボンベイ−バンコック間で乗っ取られ,ダッカ空港に強制着陸
○北海道有珠山爆発,32年ぶり7回目
○東京・高輪で青酸コーラ殺人事件
円高不況が深刻化し,倒産相次ぐ
○愛知医大不正入学事件
○日本も 200カイリ宣言
参議院選挙で、 自民党過半数を占める
東京地裁で、ロッキード事件初公判開かれる』

 あまりピンと来なかったが、その下に書かれた記述で心の中で手を打った。

『○王貞治巨人軍選手、対ヤクルト戦でホームラン世界記録 756号を達成し、国民栄誉賞を受ける』

 あの時、誰だったか、クラスの誰か、そう袈裟男だ。袈裟男が記念ボールだと言って学校にサイン入りボールを持ってきたんだ。今にして思えば本物だったかどうか怪しいものだが、当時は触れるだけで感動したものだ。そんなことを思い出しながら事件の内容を走り読みしてみた。

『長野県上高井郡の山林内に設置された作業小屋において中年男性の死体が発見された。死体の腹部に包丁が刺さっていた為、警察は殺人事件と断定、捜査を進めた・・・・容疑者として男性の妻と弟が上がったが・・・・警察はなぜか男性の妻、弟ともに逮捕を見送った。当時の会見の記録によれば、執拗な記者の質問に対し捜査本部長は口を閉ざすのみだったという・・・・』

 子供というのはつくづく幸福に出来ているらしい。こんな殺人事件がすぐ身近で起きていたのに、当時のわたしはまるで気付かなかった。どうやら犯人は捕まっていないらしいから、そうなるとかなり長い間、地元では話題になっていたことだろう。にも関わらずわたしはまったく知らなかったのだ。何十年も経った今になって初めて知るというのも妙な気持だった。
 既に時効が成立している事件だろうから、今更、犯人探しもあるまいが、マスコミというものはつくづく粗探しが好きだ。なんの具体的な関与も無いという無責任な立場も手伝って、記事には小説さながらの文章が展開されているようだ。どうせ時間を持て余しているのだから、と思い、今度は一文字ずつ読み始めた。

『山林内は滅多に人が来ない小山の上にあった』
『被害者の男性は、妻から生活費をせがまれ困っていた』
『二人の子どもが悲惨な殺人現場にいた』

典型的な悲惨な家庭が、そこに描かれていた。記事によれば被害者の男性は、それより5年ほど前に勤務していた会社から解雇されたという。現在でいうリストラに遇ったらしい。記事には昭和46年のニクソン・ショックに端を発した円高不況という時代背景が描かれていた。この時、解雇され、長期にわたった不況のために再就職できなかったらしい。そして不況は事件のあった昭和52年にもまで続いていた。
 ふと、自分もこれから長きにわたって再就職など出来ないのだろうか?という不安が湧いてきた。40代も半ばの年齢で、法令出版社の企画部門にいた人間など必要としてくれる会社があるのだろうか?木田は、声を掛けてみる、と言ってくれたが既に一通り声を掛けてくれたのだ。その結果、どこも難しい状況だったというから、あまり期待してはいけないだろう。そうなると長い忍耐の時間が必要なのかもしれない。あるいはこのまま老いさらばえるまで、ずっと無職のままかもしれない。
 そんな暗い気分を忘れ去る為に、記事を読み進めた。しかし『妻が弟と密通していた、との噂もあった』など、ますます気が滅入るような内容だった。だが、その先まで読んだ時、一つの単語に心を囚われた。
『鍵』
という単語だ。

『小屋には鍵が掛かっていた。だがこの日、何者かによって鍵は開けられていた。被害者自身が開けたという情報もあるが、真実は定かではない・・・』

 鍵、という単語に、なぜ心が囚われたのかは分からない。ただ、なぜかわたしはその文字から目を離せなくなっていた。
 突然、息苦しさが襲ってきた。窓の外を見たが、暗黒に支配されたそこには、現在地を示すものは何も無かった。たしか新聞を持っていた男が降りたのが佐久駅だから、もう上田駅に着く頃かもしれない。息苦しさがどんどん悪化し、わたしは呼吸することさえ苦痛を伴うようになってきた。額から汗が噴出してきたのが分かった。取り合えず背凭れに身体を預け、新聞を閉じた。閉じた新聞を畳もうとして、初めて気付いた。新聞の一面は大相撲の話題だったが、なんと朝昇竜が名古屋場所で優勝した、という記事だ。既に引退に追い込まれた力士だ。新聞の日付を凝視すると、新聞は一昨年のものだった。
 わたしは辺りを見回した。しかし佐久駅で降りた筈の男が、この車両にいる筈が無かった。彼がなぜこんな古い新聞を持っていて、わたしに手渡したのか?一見、偶然に思えたその行為が、何らかの意図があったように思えてきたのだ。
 やがて心臓の動悸が、冷静さを奪うのが分かった。それでもわたしは目を閉じて苦痛に抗った。息苦しさを堪えていると、再び頭痛が襲ってきた。激しい痛みを堪えていると、ある瞬間、不思議なくらい簡単に痛みが遠のいた。代わりに意識が遠のいて行くのを感じた。遠のく意識の中で、わたしは海を見た。それはわたしの脳内の海だ。わたしの視線が海面に近付くと、一気に海中に潜った。凄い速度で海中をまっ逆さまに進んだ。やがて海中の奥底に砂地が見えた。砂地の中には木箱が埋まっていた。それは鍵が掛かっていた。箱は見る間に砂地から浮き上がった。それは枷となっていた砂地から解放されたようにも見えた。すっかり海中に浮き上がった木箱は、海面に向って浮上していった。やがて木箱は海面に顔を出すと、堅く閉ざされた鍵が自然に開いた。同時に蓋も勝手に開いた。
 幾つかの記憶の断片が、葉書大の写真として入っていた。そこにはきちんとスーツを着た父と幼いわたしがいた。場所はキッチンだ。見たことの無いキッチンだったが、間違いなく、わたしはその家を知っている。見たことが無いのではなく忘れてしまっているのだ。だからもう少し時間があれば、きっとわたしはその家のことを思い出すに違いない。そして台所には、顔の無い母がいた。それは美和ではなく、わたしの実母だ。
 それらのポートレートは、父がまだサラリーマンをしていた頃の日常だと、わたしは思い出した。そんな日常が存在していたことをわたしはすっかり忘れていたのだ。わたしの記憶の始まりといえば、美和が由紀を連れて来た時だ。しかしそれは小学校に上がる時の話で、人生はそれ以前に六年間もあったのだ。普通に考えて、物心付いてから3〜4年は経っている筈だった。なぜその頃の記憶を忘れていたのだろう?
 父と母とわたしの三人の家族は幸せだった。サラリーマンだった父は裕福では無かったが貧しくも無かった。いわゆる中流の家庭だ。一戸建ての家に住み、毎週土日、父の勤める会社は休日だった。平日、パートに出ている母と三人で、よくデパートに買い物に出かけた。ゴールデンウイークには、父の実家の田植えを手伝い、梅雨明けの週には鯨波海岸に海水浴に行った。


=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中