以前は藪に覆われた荒地だったのに、いつの間にか住宅が立ち並ぶ団地となり、しかしそれらの住宅もはや色褪せ始めていた。家々の庭には古ぼけたエクステリアが朽ち果て、親子の関係が次の世代に引き継がれようとしているのを現しているようだった。わたしがこの街を去った後生まれた少年たちは既に大人になり、もうこの庭で遊ぶことは永遠に無い。この地は、わたしの知らぬ間に、少なくとも二つの時代が過ぎ去ったらしい。
 婆さんに茶をもらってから、少し躊躇し、出来もしない想定をして、家を出た。わたしたちの家、婆さんたちの家と屋根を一にするその長屋から「おぶせ荘」までは歩いて五分といったところだ。30余年を経て再会するには五分の距離は短過ぎた。わたしはまるで初恋の人に会いに行くような気持でいた。切れ長で大きな二重なのに、いつも眠たげな目をしていた。鼻はしっかりと大きいのに一向に威圧感が無かった。何よりいつでも少し開いた口にわたしはどぎまぎしたものだ。
 義母さんも、既に70だ。だから当時の面影をどれだけ見ることが出来るかは、あまり期待してはいけないというものだろう。しかし、義母さんに限って歳を取る筈が無いような気がした。
 ふいに由紀を思い出した。病院で見た由紀。石田医師が案内してくれた病室の、ベッドに寝ていた。目を覚まさない由紀は若い頃、恐らくは彼女が一番美しかった頃、と変わらなかった。石田医師もそう言っていた。こういう場合、眠ったままの由紀は「眠り姫」と表現するのだろうが、わたしは別の印象を持った。まるで蝋人形のようだと。彼女が生きていた、というわたしの記憶はまったくの間違いで初めから生きた人間では無かったのではないか?彼女の作り物のような美しさからそんな印象を受けたのだ。だがかつて彼女は間違いなくぼくの目の前で生きていて、今とは違う真っ黒な顔があの頃のボクの生活の大半に関与していたんだ。
 そんなことを考えているうち、団地の中を通り過ぎてしまった。目の前には新生病院の駐車場が広がり、その向こうに五階建ての病院が見えた。その建物の向こう側におぶせ荘はあるという。わたしはあっという間に駐車場を通り過ぎ、病院の敷地に入り、五階建ての建物を越えた。平屋の建物が見えた。年季の入ったコンクリート造りだった。ガラス製の幅の広い自動ドアの脇に「おぶせ荘」と書かれていた。病院もそうだが入り口が北側にあるのだ。これは敷地の南側が松川という大きな河川が流れており、道路が北側に位置することと、もう一つは南側に広い中庭があり、療養の為の散歩の場となっているためだ。
 自動ドアから中に入ったが、受付のようなものは無かった。施設を何らかの関係を持つ者以外の来訪がほとんど無いためだろう。仕方なくわたしは
「ごめん下さーい」
そう大きな声を出し、建物の奥に呼び掛けてみた。しかし奥からは沢山のざわめきが聞こえてくるだけで、誰も応対に出てくる気配は無かった。そのざわめきに掻き消されているのかもしれない、と思い、空いているスリッパを穿き廊下を奥に向って歩いた。
「どちらへご用でしょう?」
突然、女性の声に呼び止められた。50代前半の看護士用の白衣を着た女性だった。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
「あ、はい。あの、母の見舞いに来たのです」
「お母様の?どちらの?」
「はあ、ちょっと苗字が分からないのですが・・・」
看護士は怪訝そうな顔をして「お母様なんですよね?なんで苗字が分からないのですか?」という予想通りの質問をしてきた。だが「子どもの頃に父と母が離婚して、それ以来なのだ」と話すと納得してくれた。
「でも苗字が分からないとちょっと、入所者数が結構多いですからねえ」
そう言われてから由紀の苗字が変わっていなかったことを思い出した。
「ええっと『北原』という方はいらっしゃいますか?どうでしょう?」
「ああ、北原さん。それならいらっしゃいますよ」
やはり苗字は変わってなかった。看護士も、同じ事を言いながらわたしを手招きした。
「こちらへどうぞ」
看護士に通されたのは広い食堂だった。食事時でもないのに沢山の老人がいた。きっと孤独にならぬよう、日中はここに集まっているに違いない。
「あれ?」
看護士は食堂を見回しながら首を傾げた。どうやら見当たらないらしい。
「北原さん、どこ行った?」
食堂にいた仲間の看護士を捉まえて訊ねていた。
 二人の看護士の会話の中で「息子さん」という言葉が何ども出てきた。どうやら言葉のニュアンスからすると義母に家族がいたことに驚いているらしい。話が一段落すると食堂にいた方の看護士がわたしに近寄ってきた。
「北原さんの息子さんですね。離婚後、お父様に引き取られた?」
「そうです。もっとも血は繋がっていません。父と母は再婚同士で、わたしは父の連れ子でした。それでまた父と母は離婚した訳です」
説明すると看護士は、一度目を丸くしてから同情するような表情をしてみせた。
「分かりました。事情は飲み込めました。でも済みません。北原さん、今日はここに居ないのです。定期的に病院の方で検査をしているんですが、今日はその日なんです」
「その検査は何時頃終わりますか?待っていようかと思いますが」
「そうですねえ、いつもだいたい朝から始めて夕方過ぎまで帰ってきません」
「そんなに時間が掛かるんですか?」
「もうお歳ですからゆっくり検査してるんだと思います。それに・・・」
「それに?」
看護士はそう訊ねるわたしの顔をしばらく覗き込むように見詰めた後、
「いえ、ですから待って頂くのはちょっと・・・」
わたしは諦めようとも思ったが、懐かしい義母の様子を少しでも知りたいと思い看護士に提案した。
「母の部屋を見せてもらえませんか?」
看護士は虚を突かれたというように、驚いた表情でわたしを見た。
「すぐ帰ります。お時間は取らせませんから」
続けてそう懇願するように言うと看護士は少し考えてから、
「そうですね、どうぞ」
とわたしを食堂の更に奥へと案内してくれた。
 病院の大部屋のように、六つのベッドが整然と並んでいた。誰もいなかった。皆、先ほどの食堂にいるらしい。あるいは、今日は天気が良いので中庭で散歩している者もいるのかもしれない。
「ここです」
看護士が指し示したのは、入り口のすぐ右手のベッドだった。
「特に何も無いんですよ」
看護士は申し訳無さそうにした。言うようにベッド脇の小さな棚に、タオルや手ぬぐいの他、薬物を飲んだり吸引したりする為の道具と思われるものが置かれているだけだった。わたしは、確かめるように訊ねた。
「母はもう、長いんですよね?」
「え?」
「ここはかなり前からいるんですよね?」
「ああ、はい・・・」
「お見舞いに来られる方もいらっしゃらなくて。娘さんも、ずっと長野で入院されてるって・・・」
由紀のことを言っているのだろう。わたしはそれを知っていることを示すように頷いた。
「明日なら朝からいると思いますが・・・」
早く帰るように促されているように思えた。看護士はまだわたしを信じ切ってはいないらしい。そもそも息子がいることなど知らなかった様子だ。もっともこれ以上、ここにいても意味が無かった。看護士に従うようにわたしは帰ることにした。
「ではまた明日来ます」
そう言うと看護士を残し部屋を出た。出たところで壁に貼り付けられた名簿を確認した。よく病室にあるように、名札を差し込むプラスチック製のパネルが貼られていた。ベッド配置と差し込む場所が一致しているのだ。入り口の右手だから、一番右下に義母の名札がある筈だった。そこには「北原」と書かれていた。しかし続いて表記されていたのは「芳江」だった。
「どうかしましたか?」
帰ると言ったわたしがまだ廊下にいるので、不審に思ったらしい。名札を見詰めているわたしの隣に来て、一緒に覗き込んだ。
「名札がなにか?」
「いえ、この名前」
「名前?」
「ええ、これは誰の名前ですか?」
看護士はますますわたしに不信感を募らせたらしい。大きく溜息を付くとわたしの肩を押した。
「済みませんが、短時間だというのでお連れしたんです。基本的にご家族の方以外、こちらに入れませんので」
咄嗟に、幾つかいい訳を考えたがどれも看護士を納得させられるものでは無さそうだった。それより義母の名前が違っていることをどう理解すべきか、それを考えるので精一杯だった。
 すぐにここを出よう、でて婆さんに確認してみよう、と思った。看護士に背を押されるままにおぶせ荘を後にすると、さっき来た道を早足に歩いた。団地の中ほどまで来ると急く気を押させられず走った。そう遠くはないから、すぐに長屋が見えた。わたしは婆さんの部屋の前に立つと、引き戸を勢い良く開けた。引き戸を開けたそこはいきなり居間である。しかしそこに老婆の姿は無かった。肩から力が抜け落ち、畳の端に膝を着いた。
 答えがなかなか見付からない、この数日、そんな思いを何ども繰り返してきた気がした。これまでは、サラリーマンだった頃、家族の一員だった頃は、答えはすぐに帰って来たのに。だが良く考えると、少し違うかもしれない。ここ数日、繰り返してきたのは幾つもの疑問に気付いたことだ。それ以上のことは何もしていない。そう考えると、答えを見付けようとしたのは今が初めてだった。
 幾つもの疑問が蘇ってきた。その一つ一つが全て繋がっているように思えてきた。
 ふと、誰かが後ろに立っている気がした。振り返ってみたが既に誰もいなかった。しかし気配だけは漂っていた。そしてそれは婆さんのものではない。長野電鉄小布施駅で降りた時、わたしを付けるように降りてきた乗客のことを思い出した。そして新幹線で向き合いの席になった男。わたしに一年近く前のスポーツ新聞を譲ってくれた後、軽井沢で降りた男だ。それから、なぜか所長を思い出した。会社の向かいのビルに事務所を構える探偵事務所の三田所長。彼もたしかこの街の出身だった。なぜ三人の男たちのことを同時に思い出したのか?理由は分からない。ただわたしの中では、同じにおいのようなものがしたのだ。
 婆さんがどこへ行ったのか分からない。単に近所へ用が出来て出かけただけかもしれない。しかし婆さんを探している気持の余裕が無かった。由紀に会いに行こうと思ったのだ。由紀に会えば、わたしが感じている疑問を解いてくれる気がした。立ち上がり、駅に向って歩き始めた。次第に足早になるのを抑えながら、それでもこの寒い時期に汗が沸くほど早く歩いた。小さな街は、すぐに目的地が現れた。小布施駅が目の前にあった。


「今日は朝から調子が良いようですよ」
面会を求めたところ前回と同様、石田医師の診察室に通されたのだ。
「そういえば」
と医師は言った。
「由紀さんに電話か何かされましたか?」
「電話?いいえ」
「そうですか。おかしいな」
「なにか?」
「ええ、前回、お兄さんが来られたことを知っているらしいのです。私も看護士たちも、それを伝えて無いのですがね」
医師は、にこやかな表情をわたしに向けた。
「いや、お気になさらぬよう。ああいう患者様は感受性が鋭いので、ちょっとしたことから私たちが感じないようなことを感じる能力があったりするんです」
そして席を立つと
「こちらへ」
とわたしを促した。前回と同様わたしは医師の後ろに付いて由紀の病室に向った。
「そういえばもう一つ」
医師は歩きながら振り返った。
「女性が訪ねて来たのですがご存知ですか?」
「女性?」
「ええ、年の頃は、そう、四十代前半といったところでしょうか?」
「誰でしょう?」
「それが、私どもも分からなくて。ただ古い友人だと言われたのです」
「古い友人?」
「ただね、面会の後、由紀さんに訊ねてみたところ『知らない人だ』と言ってました。それに・・・」
「それに?」
「女性の方も、初めて由紀さんを見た時、随分戸惑っておられました」
「戸惑った?そりゃ、由紀が年齢の割りにひどく若く見えるからじゃないでしょうか?」
「それもあるでしょう。ただそれだけじゃないような・・・なんというか・・・予想外の相手と会ったとでも言うような感じでしょうか・・・」
「予想外の相手?つまり先生はその女性は由紀と初対面だった、とお考えなのですか?」
「え、ええ、まあ・・・推測の域を出ませんが、なんとなくそう感じたのです」
わたしは記憶を探ってみたが、皆目検討も付かなかった。わたしは三十年以上、由紀と音信普通だったのだ。その間、由紀がどのような人生を歩み、どのような人々と関わってきたのか全く知らないのだ。
「いつ頃、来たのです?その女性は。昨日?」
医師はわたしの質問に大きく被りを振った。とんでもない、と言わんばかりだった。
「あなたと同じ日です。ほとんど入れ違い、とったくらいでしょうか」
それでは余計に分かる筈が無かった。わたし自身、由紀がここに入院していることを知ったのはつい三日前のことなのだから。
「その女性はその後も来られるのですか?」
「いいえ、それ一回きりです」
また新たな謎を見付けた思いだったが、どうやらこれはわたしには関係の無いことらしい。
「ところで由紀は目覚めてますか?この前みたいに眠ってはいませんか?」
「まだ午前中ですから大丈夫だと思いますよ。通常は一日起きています。時々、体調が優れない時、昼寝をするくらいですから」
話が終わらぬ間に由紀の病室の前に着いた。
「むしろ先日のようなことは初めてだったのです。わたしも少々驚きました」
それから石田医師はげんこつを作ると壁を二度ほど叩いた。引き戸は開け放たれたままだったから、ノックの代わりだろう。すぐに
「はーい」
という明るい声が返って来た。
「やあ、今日は調子が良いみたいですね。ん?」
医師は部屋の奥に進みながら話し掛けた。話し掛けた相手は、窓際で円椅子に座ったまま上半身をうつ伏せていた。良く見ると、病院のベッドでよく見かける可動式のテーブル、食事の時などに使うアレだ、それを窓際に持ち出しそこに向ってうつ伏せていた。入り口に立つわたしからは背中しか見えなかった。
「また手紙だね?」
医師の言葉から、手紙を書くのに夢中になっていることが分かった。
 それにしても、子どもが字を書く時のような姿だ、と思った。字を書くにしても、大人になると自然と姿勢が上がるものだが子どもの頃は顔がテーブルに付きそうなくらい屈む子が多い。こちらに背中を向けた女性も、身体は大人だったが、子どもと同じ姿勢で手紙を書いていた。
「今日はお客さんを連れてきたよ。誰か分かるかな?」
医師の言葉に女性は、振り向いた。その仕草の幼さは、彼女の実年齢からは違和感を覚えるほどだった。
「さあ、誰でしょう?」
という医師に女性は首を傾げた。わたしが分からないのだろう、と思ったが、驚いたことに別の意味で首を傾げたのだった。
「何言ってんの先生?たくでしょ」
由紀は憮然とした表情で言うと、またわたしたちに背を向け手紙を書くのに没頭し始めた。医師はわたしの顔を見ると小声で
「たく?」
とわたしに確認した。わたしが無言で大きく頷くと石田医師は再び由紀に語り掛けた。
「やあ、良く分かったねえ。憶えてたんだ」
途端に由紀は
「え?」
と声を上げた。由紀は背を向けた姿勢のまま、状態を伸ばし小首を傾げた。
「変な先生。たくを忘れる筈無いでしょ。昨日だって一緒に遊んだんだから。裏山に上ってね・・・」
そこから先はぶつぶつと独り言のようになって聞こえなかったが、間違いなく懐かしい由紀の声だった。わたしは思わず
「由紀」
と大きな声で呼んだ。
 由紀はくるりとこちらを向き直った。驚いた顔をしていた。ちょっと怯えた表情にも見えた。
「なに?たく」
不安そうな声にわたしは答える言葉を失った。しかし尚も不思議そうな表情でわたしを見詰める由紀に
「ううん、なんでもないよ」
とだけ答えた。
「なーんだ。おかしなたく。先生がさっきから変なことばっかり言うからたくに伝染しちゃったんだよ」
由紀は石田医師を睨んだ。医師は両手を拡げながら大きな声で笑って見せた。
「そうだね。先生、ちょっとおかしなこと言っちゃったね」
「そうよ。まるでわたしがたくを知らないみたいに言ったりして」
「ごめんごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど。そんな風に聞こえちゃったかな?」
「ますます変な先生!わたしをからかってるの?」
石田医師は「そうそう、冗談言っちゃってゴメンね」と更に大きなジェスチャーで由紀に謝った。
 それで由紀は安心したらしい。またテーブルに向って上半身を伏せた。なにやら熱心に手紙を書いているのだ。わたしは石田医師に視線で確認と取った。医師は微笑みながら了解してくれたので、由紀に話し掛けた。
「なに書いてるの?由紀」
由紀は手の動きを休め、大きく溜息を付いた。しかし何も答えなかった。仕方なく質問を繰り返した。
「ねえ、手紙?誰に書いてるの?」
「もう、なに言ってるの?さっきから変なことばっかり」
由紀は少し怒った調子で声を上げた。そして、こちらは振り返らずまたペンを走らせ始めた。
「たくに書いてるんだよ」
「え?」
「だってたくったら、どこかへお出掛けしたまんま、ぜんぜん帰って来ないの。だからたくとお話しするには手紙を出すしかないんだよ」
医師は首を左右に振り、唇の前で人差し指を立てた。わたしに、彼女の言葉に逆らってはいけない、と伝えようとしているらしい。
「ねえたくー、どこへ行っちゃったの?手紙読んでるんでしょ?なんで返事くれないの?」
「?手紙?出してくれたのかな?」
「またそんなこと言って。なんども出したじゃない。毎日のように書いてるわ。ただ、文がまとまらなくって、たくが読んでも意味が分からないと思うから、分かるようになんども書き直してるの。だから看護士さんに送ってもらうのは週に一度くらいかなあ」
「そうだったんだ。気付かなくてごめん」
「気付かなくて?何言ってるの?何度も返事をくれたじゃない」
「返事?」
「忘れちゃったの?頭大丈夫?」
突然、由紀はこちらを振り返ると立ち上がった。それからベッドの脇に立つ書棚まで早足で歩き、本の間から紙袋を取り出した。
「ほら、これみんなたくが送ってくれた手紙だよ。全部、取ってあるよ」
由紀はその一つを取り上げると、わたしに手渡した。封筒の表を見ると『北原由紀 様』と宛名が書かれている。住所はこの栗木病院内だ。裏返すと、そこにはわたしの名前が記されていた。わたしは石田医師の顔を見た。しかし医師は両手を拡げ小さく首を振るだけだった。小声で「患者のプライバシーには極力関知しないのです」と釈明するように囁いた。
 わたしはもう一度、自分の名前を見た。だが、よく見るとそれはわたしが書いたものでは無かった。わたしの筆跡に似せて書いてあるが、明らかに違う。では誰が書いたのか?病院が由紀のために贋の返事を書いた、と考えるのが普通だが、筆跡を似せてあるのはおかしい。病院がわたしの存在を知ったのはほんの三日前、わたしが由紀を訪ねて来た時なのだ。手に取ってみた手紙の消印の日付は3年以上前になっていた。
「えっと、一番最近のやつはこれだよ」
由紀が差し出した手紙の消印は、二ヶ月前だった。わたしは由紀を見詰めた。由紀は子どものように小首を傾げわたしが何か言うのを待っていた。
「開けていいかい?」
というわたしの言葉に大きく頷いた。
「当たり前じゃない。だってたくが書いたものだもの」
記憶に無い手紙、わたしに似せた筆跡、しかし石田医師は知らないという。出し主の手掛かりは手紙の内容にしかなかった。綺麗に縦に四つ折りにされた手紙を抜き出し、開いた。やはりわたしの筆跡を模して書かれた字の数々。しかし途中から飽きたのか、あるいは面倒臭くなったのか、いずれにせよ辛抱が切れたようにわたしのものとな似てもに付かぬ筆跡になっていた。
『久しぶりだね、ゆき。今日は少し辛い話を書かなきゃいけない』
そう始まっていた。わたしには皆目検討も付かない内容だった。
『しばらく手紙を送れなくなってしまうんだ。もしかしたら、ずっと送れなくなるかもしれない。ぼくの人生の曲がり角なんだよ。ぼくの人生はとても大きく変わってしまうんだ。だから今までみたいに自由に手紙を送ることも出来なくなってしまう』
わたしはもう一度、その手紙の入っていた封筒の消印を確認した。しかし何度見直しても三ヶ月前のものだ。
『ぼくは色んなものを失ってしまう』
会社を辞めるという話が出たのが二ヶ月前。妻から離婚の話を切り出されたのはその直後だ。にも関わらず、この手紙はわたしの未来を言い当てているように思えた。
『だからもう君とは会えないかもしれない』
会えない?この手紙の主は、由紀と何度か会っているのか?わたしは手紙を石田医師に見せた。しかし、その行(くだり)を見せても見当も付かないようだった。わたしに小声で
「さっき言った女性が来るまで、何十年も由紀さんに見舞い客は来ていないんです」
と耳打ちしてくれた。
「ねえ、どうしたの?」
由紀が怪訝そうな顔で立ち上がった。わたしの手の上の手紙を覗き込みながら
「変なこと書いてあったっけ?」
と首を傾げた。その仕草はあまりに幼かった。
「二人ともどうかしたの?さっきからこそこそお話したりして」
由紀はわたしと石田医師の顔を交互に見比べた。
「私の知らないお話しちゃあ嫌よ」
まるで少女のようなあどけなさで、由紀は目をいっぱいに開いていた。それは自分の知らない何かを探そうと懸命になっているように見えた。
「なんでもありませんよ」
石田医師が由紀の肩に手を掛け、座らせた。由紀は素直に座るとまた窓の方を向いて手紙を書き始めた。由紀が再び身体を伏し、夢中になり始めたのを確認するとわたしは石田医師に問い掛けた。
「どういうことなのでしょう?」
どれに対する質問なのか?という顔をされたが、わたし自身、分からなかった。それぞれでもあり全部でもあるとしか言いようが無かった。しかし石田医師はそれと理解したらしく全部に対する適格な答えを提示してくれた。
「彼女の記憶はすべて、ある時期で停止しているようです」
「それはいつですか?」
「分かりません。ここに連れて来られた時、もうこの状態だったそうです。それから二十年余りが経過しています」
「二十年・・・」
呟きながら年齢を遡ってみた。ちょうど二十歳の頃だ。その時期、彼女に何かあったのだろうか?
「分かりません。当時の担当医が催眠療法などで調べたようですが、結局分からずじまいだったそうです」
「当時の担当医の方は?」
「高齢でしたので、既に亡くなっています」
医師は首を左右に振ってから、言い訳するように付け加えた。
「何しろ一緒に住んでいた母親もまともでは無かったようです」
「まともではなかった?」
「ええ、病ではなかったようですが、心を閉ざしていた、というような記録があります」
「心を閉ざす?何も答えなかったということでしょうか?」
「私は記録を読んだだけなのでなんとも言えませんが。ただ興味深いのは催眠による診察の結果です」
「というと?」
「『何かを隠している』とあるのです。そして『記憶の一部に鍵が掛かっている』とも」
わたしは由紀を見た。一瞬、由紀の動きが止まったかに見えたのだ。
「なにか思い当たることはありませんか?」
「え?」
「いえね、お義兄さんなら何かご存知かなと思って。お話によれば小学校を卒業するまでは一緒に住んでおられたということですよね」
それはその通りだったが、わたしの知る由紀は快活で、優秀な少女だった。隠し事などしよう筈も無かった。
 そこまで考えた時、
『なんで来たの!?』
という由紀の怒声が蘇った。あれはいつだったか?なぜ、由紀はそんな風に怒ったのだったか?
『なんで来たのよう!?』
由紀の怒声はわたしの頭の中に何度も、繰り返し現れた。
「ねえ、なんで来たの?」
ふいに聞こえてきた現実の声にわたしは我に返った。
「ねえ、たく。今日は何で来たの?」
由紀はつい先ほどまで熱心に手紙を書いていた筈だった。わたしに送るための手紙。でも一度としてわたしの手元に届いたことの無い手紙。わたし以外の誰かが、可愛そうな由紀の為に返事を代筆してくれていた手紙。そんな手紙を書いていた由紀が、上半身を捻じ曲げるようにしてわたしの顔を凝視していた。
「何でって、由紀に会いに来たんだよ」
由紀は、少し考えるようにした。それからひそひそ声で言った。
「嘘仰い。もうわたしたちはずっと会っちゃダメ、って言われたでしょ」
「え?誰に?」
「誰にって?何言ってるの、たくったら」
「いや、本当に分からないんだ。誰だっけ?」
「しょうがないたくだなあもう。おかあさん」
「え?」
「おかあさんでしょ」
突然、肩を掴まれた。石田医師だった。医師の手は半ば強引にわたしを出口まで引き摺った。
「由紀ちゃん。また来るね」
医師は明るい調子で由紀に声を掛けた。
「たくも連れてっちゃうの?」
「あー、ああ、ちょっとお話があるんだ。また連れて来るよ」
「えー、いつ?」
「すぐだよ」
「ほんとにすぐ?」
「あー、すぐだ」
「絶対だよ。約束」
「ああ、約束だ」
「絶対、絶対だからね」
医師は由紀に手を振ると、わたしを部屋の外に押し出した。そのままわたしの背を押すように廊下を歩くと最初の角を曲がったところで大きな溜息を付いた。
「ありがちなんですよ。気を付けて」
「何を、です?」
「患者の家族がです。患者に話を合わせているうちに、患者の話に引き込まれてしまう。家族だから、真面目に聞いて上げたくなってしまうんですな」
「それがなにか?」
「いや、それはとても危険なことです」
「危険?」
「患者の世界に引き込まれてしまい、現実を見失ってしまうことがあります」
「わたしが?まさか」
わたしは石田医師の心配を一生に伏したつもりだった。しかし医師はわたしの顔を見詰めたまま視線を外さなかった。
「なんだって言うんです?わたしもおかしくなったとか?」
「そうはいいません。ただ、お義兄さん、何かを思い出しませんでしたか?」
医師の質問は的を射ていた。たしかにわたしは、なぜ来たのか?、とわたしに罵声を浴びせる少女の由紀を思い出したのだ。
「ご家族というのは、患者が普通であると願いたいものです。ですから何か鍵となる言葉を聞くと、それを現実の出来事と勝手に結び付けてしまう」
あまりの厳しい調子にわたしは驚いていた。それと気付いたのか石田医師は言葉を切ると、一度微笑んだ。
「まあ、面会も最初は短い時間からにしましょう。こういう病気は難しいところがあって、波長が合い過ぎるのも、勿論合わないのも上手くないのす」
由紀さんの様子を見ながら少しずつ面会時間を長くしていきましょう、という医師の言葉を他所に、ある言葉が頭の中に繰り返し現れた。『鍵』だ。由紀と会話した時、医師が耳打ちしたその言葉が、わたしの過去の記憶を呼び覚ました。しかし思い出したそれを、わたしは医師には言わなかった。言ったらまた、医師から根掘り葉掘り訊かれて面倒だと思ったのだ。
 それよりわたしは、由紀がその罵声を吐いた時のことを思い出そうとした。しかし、どんなに思い出そうとしても思い出せなかった。
「どうしたんですか?」
石田医師が心配そうな顔でわたしを覗き込んできた。久しぶりの頭痛が襲ってきたのだ。しかし既にわたしはそれをコントロールすることに成功していた。痛む頭を少しよこに振ってから、何ごとも無かったように医師に言った。
「今日はこれで帰ります。また来ます」
由紀をお願いします、と言って頭を下げた。身体を起こすと同時に医師に背を向けた。また新生病院の時のように入院させられては大変だと思ったのだ。それに、仮に入院しても新生病院で行った検査を繰り返すだけで、結果は火を見るより明らかなのだ。

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