『どうして来たのよ?』
由紀は問い詰めるような口調だった。
『ねえ!どうして!?』
口調は次第に激し、何かを堪えるように唇を噛むのが分かった。
『どうしてよ。たくには絶対分からないように、毎日巻いてきたのに。どうして来ちゃったの?』
由紀が一緒に帰ってくれないから、と言うと
『馬鹿!もう6年生でしょ!来年はもう中学生なんだよ!いつまでもままごとしてるんじゃないわよ!』
と由紀は叫んだ。うなだれて由紀の足元を見ると由紀は靴下を履いていなかった。藁の中に沈んでいたのだ。そんなボクの視線がなぜか由紀の神経を逆撫でしたんだ。由紀は逆上してボクの襟を掴むと、息が止まるほどに捻り上げた。
『もう!二度と付回さないで!あなたとなんか、好き好んで兄妹になった訳じゃない。ノロマで、馬鹿で、無神経なあんたなんかと一緒にされるのが嫌なのよ!もう兄妹なんて思われたくないの!だからもう、近寄らないで!』
由紀は力いっぱいボクの身体を押した。ボクはしたたかに板戸に叩き付けられた。
『もう、顔も見たくない』
由紀が叫んだ。ボクはズボンに付いた土埃を払いながら上目遣いに由紀の顔を見た。由紀は怒りに震えながら、涙を堪えていた。ボクは一人で帰ることを由紀に告げ、納屋の出口に向った。
 その時、ボクは変なものを見た。街の中古ゲームショップのビニール袋だった。ビニール袋からはボクが欲しがったゲームソフトのパッケージが顔を覗かせていた。ゲーム機も無いくせにそんなもの欲しがってどうするんだ、と母に何度も叱られた。見かねた父が、こっそりボクに買ってくれることを約束してくれたのだ。
 そんなことを考えながらボクはそのビニール袋を見詰めていた。由紀はそれと気付くと慌てて作業代の上のそれを取り上げ、自分の身体の影に隠した。
『誰が忘れてったんだろうね。近所の馬鹿な子供だね、きっと。後で届けてあげなきゃ』

「おぶせー、おぶせー、どちらさまもお忘れ物ございませんようお気を付けて・・・・」
 駅舎を出たところでわたしは立ち止まった。良く知った顔がそこにあったからだ。
「あんたか」
わたしの目の前に立ち塞がるように佇む男は、三田だった。わたしが勤務していた会社の目の前のビルに居を構える興信所の所長。なぜここに?と考えてわたしは思いなおした。わたしには予感があった。彼がここにいる予感だ。かつて知り合ったばかりの頃、それは酒の席だったが、彼がわたしの出身地をしきりに聞きたがったのを思い出した。わたしが「信州の小布施という小さな町だ」と言うと「奇遇だな?自分もそこの出身だ」とわざとらしい驚きの表情を作って見せ「世間は狭いものだね」とおどけて見せた。
 それらは全てが嘘だったのだろう。
「何か分かったかね?」
その声は、都会の片隅で浮気調査に精を出すいかがわしい興信所の所長とは別人だった。巨大な権力、愚直なまでに正義と信じる権力を背に抱えた重々しい響きがあった。わたしは
「新幹線の中で新聞をくれた男はあんたの仲間か?」
と問うてみた。三田はあっさりと頷いた。
「昨日、この駅に着いた時、わたしの後を付けて来た男もあんたの仲間だろう?」
先刻と同じように三田はコクリと頷いた。
「なぜ付回す?二十年も」
というわたしの質問に、三田は首を大きく左右に振った。
「そんなもんじゃない。もう三十二年だ。いい加減、疲れた」
三田の言いたいことが全て真実に違いない。しかし、何をいいたいのか理解できなかった。わたしは
「まだ、駄目なんだ」
と答えた。首を傾げる三田に
「まだ、何も分からない。全てが夢の出来事のようにも思えるし、そうでないようにも思える」
と問い掛けるように言った。三田が何かを教えてくれるような気がしたからだ。
「自分の知らないことばかりなんだ。義母が入所しているという施設に行った。義母らしき女性のベッドまでは分かったんだ。でも名前が芳江という。芳江とは誰だ?わたしの義母は美和という名の筈なのに。それに、本当の母親はわたしが幼い頃にどうやら死んでしまったらしい。ずっと、わたしと父を捨てた母がどこかで生きているのだと思っていたのに。それから、これはついさっき由紀から聞いたことなんだが、義母は由紀にわたしと会うことを禁じていたらしい。禁じるといっても、あの親子の方から家を出て行ったんじゃないか。わたしはその後、彼女達がどこに住んでいたのか知らない。だから、逢いたくても会うことなんて出来なかったじゃないか?」
三田は、何かを憐れむような表情でわたしを見詰めていた。それから大きな溜息を付いた。
「もうとっくに時効は成立してるんだ。それにわれわれもすっかり歳を取ってしまった。これ以上、長い道のりは耐えられん。だから早く、真実を明らかにしてくれ・・・」
それはこちらの台詞だ、という言葉をわたしは下を向いて噛み締めた。そのまま顔を上げず、三田を見ないまま街の中へ歩を進めた。
 駅の正面から街中へ真っ直ぐ伸びた道は、途中右に大きくカーブしていた。その先に繁華街があるのだ。わたしはカーブの手前まで歩いたところで駅の方へ振り返った。そこに三田の姿は無かった。しかし、案の定だ、とわたしは思った。わたしの中で、別の過去の記憶が蘇っては消えた。柴崎さんの葬儀を前後して現れた現実離れした夢の数々が、幾つかの点となって繋がり始めていた。それはわたしが長年持ち続けていた記憶より鮮烈で、生々しいものに思えたのだ。
『義母さんにさえ会えれば、全てがはっきりする筈だ』
それは明らかだったが、義母は明日まで面会できない。しかし今のわたしには、明日まで座して待つほどの忍耐力もまた失われていた。マサ兄を訪ねてみようか、と思った。義母と由紀を連れて出て行ったのは、紛れもなくマサ兄の筈だった。しかし、不思議なことに義母の入所する施設にも、由紀のいた病院にもマサ兄のにおいはまったく感じられなかった。
 もっとも大人の話だから、義母とマサ兄はその後分かれたのかもしれない。

 ふと、父の実家に行ってみようと思った。そこには父の両親、わたしの祖父、祖母が住んでいる筈だ。マサ兄もそこに居るかも知れないと思った。東町と呼ばれる区域で、わたしたちが子どもの頃に住んでいた長屋立ての町営住宅と同じ自治区だった。駅から歩けば長屋までの道程の途中ということになるから都合が良かった。
 十分ほどで、父の実家のある地籍に着いた。入り口が隣家の大きな土蔵の影になり見えないが、典型的な農家の奥に敷地が広い家だった。マサ兄は農業を継いでいるのだろうか?それともまだ役場に勤めているのだろうか?
 土蔵を表に回りこんで、入り口の正面に立った。そこには、倒壊した古い家屋の残骸があった。わたしは予想外の光景に、息が詰まった。道路から、冬というのに雑草が張り付いた庭に足を踏み入れた。手入れなどしたことの無いような地面を恐る恐る歩き、残骸に近付いてみた。残骸は、もう大分時間を経たものだった。残骸となってより何年、いや何十年という歳月を経たに違いない。中途半端に骨組みを残した柱や梁が真っ黒に焦げた様を見せていることで、家事による倒壊だと推察できた。祖父たちの家で、そのような事故があったなどわたしは全く知らなかった。記憶の隅々まで探ってみたが、それに関連するものは何も見付からなかった。わたしはこの事故を知らない。なぜ誰も教えてくれなかったのだろう?祖父や祖母、マサ兄はこの事故の後、どうなったのだろう?
「たくみ、ちゃん?」
誰かがわたしの名を呼んだ。振り返ると今しがた歩いてきた道路に、誰かが自転車を止めたままこちらを見ている。既に地平線に向って傾いた冬の西日は尾が長く、その”誰か”の姿を光の影に隠していた。
「やっぱりたくみちゃんよね。驚いたわ。いつ帰って来たの?」
それは初老の女性の声だった。わたしは残骸に心を残しながらも声の主に向って歩いた。大切な何かを思い出しそうな気がしたのだ。

「たくみちゃん、よね」
「ご無沙汰しています」
声の主は淳司の母親だった。老いた今も昔と変わらず品があった。夫は、つまり淳司の父だが、当時流行り始めたゲームソフトの開発で成功し、若くして大きな富を得た人だ。金持ちの妻だから品があるというもの一理あるが、もともと夫の会社の元請会社の役員令嬢だったという。
 わたしは子供の頃、彼女を見るたび心に浮かんだ感情を思い出した。生まれ付き幸運な人は一生幸運なのだ、ということだ。豊かさに恵まれ、恵まれた人はまた不思議なほど美しかった。人間は恵まれた人を美しいと感じるのだろうか?とさえ考えたこともあった。
 そんな彼女は昔と変わらぬ穏やかさを湛えていた。幸福な人間しか持ち得ない穏やかさに、あの頃どれだけ憧れただろう。しかし今のわたしにとっては、かつてと同じように羨ましい。彼女は穏やかさを湛えながら自転車に両手を掛け、夕陽の中に立っていた。背筋のピンと伸びた姿勢が美しかった。何ひとつ満たされぬものが無い者は、立ち姿さえ満たされているように思えた。
「ご無沙汰も何も、もう何十年ぶりじゃない」
「ええ、高校を出てから一度も帰省しなかったもので」
高校?と彼女は少し意外な顔をしてみせてから
「まあ、でも随分貫禄が付いたわねえ」
とおどけるように言った。
「ただ歳を取っただけです」
「まあ、歳だなんて。私はどうなるの?もう七十よ」
「でもおばさんはいつまで経っても奇麗です」
「まあ、上手になったわねえ」
ほほほと右手を口に当てて笑った。昔と変わらぬ上品な笑い声。そういえば近所の主婦達は彼女を奥さんとは呼ばず「夫人」と呼んでいたのを思い出した。勿論、本人の前ではなかったが。
「ところでたくみちゃん。ここへ戻ってたんならうちへも連絡くれれば良かったのに・・・」
言いかけて彼女は、口をつぐんだ。それから
「時々ね、淳司を二人で話すのよ。たくみちゃんはあれからどうしたんだろうって・・・」
と何かを思い出している風だった。
「でも良かった。元気で。ご家族は?」
「ええ、妻と娘が」
「まあ!それは幸せねえ」
つい数日前、離婚したばかりです、と言い掛けてやめた。話を面倒にしても仕方が無いと思ったのだ。それに、彼女なら知っているだろう、とわたしは思った。この残骸の意味をだ。ずっとこの町に住み続けた者なら、この有様を誰もが説明できる筈だ。
「ところでおばさん、ちょっと伺ってもいいですか?」
「なにかしら?」
「この廃墟なんですが、これはどういうことですか?」
彼女の顔が一瞬引き攣ったように見えた。しかし、すぐさま話を変えた。
「たくみちゃん、久しぶりにうちへ遊びに来ない?忙しいなら仕方ないけど・・・」
話を変えられたわたしは釈然としない気持ちで彼女を見詰めた。彼女は、きっとわたしの問いに答えたく無いのだろう、と思ったのだ。つまり、この廃墟は、父の家があまり良い最後では無かったことを示しているのに違いない。
「奥さんと娘さんが待ってるのかしら?」
「いいえ、ボク一人で来たんです」
彼女は「まあ!」と小さく声を上げてから
「ならうちでお夕飯を食べてって。ね」
とわたしの腕を軽く掴むと左右に揺すった。
「たくみちゃんの元気な顔を見れば、淳司も喜ぶわ」
何故、喜ぶんだ?ふいにそんな疑問が頭を横切った。頭痛の予感がしたが、それは一瞬の小さな痛みで済んだ。しかし痛みの中に数多くの写真がパノラマのように現れた気がする。その中の一枚が、僅かに動きを停止した。ロープの向こう側で、淳司が手を伸ばしていた。こちらに向って、何かを掴むように。しかし淳司の前には何も無い。むしろ淳司の後ろに夥しい数の大人たちが犇いていた。それを交通整理しているのはヘルメットを被った警備員だろうか?
「ね、いいでしょ?」
「え、ええ」
淳司の家に行けば、何かが分かるかもしれない、と思った。少なくともわたしがこの町を離れて以降のことを淳司も、淳司の母も知っているのだ。それらの話を聞くだけでも、この頭の中でもやもやと湧き上がる記憶の断片たちの正体が見極められるかもしれない、と思った。
 わたしは淳司の母と連れ立って、淳司の家に向った。ほんの数百メートル先に建つ、資産家らしい豪奢な家は棟が二つに増えていた。淳司家族が同じ敷地内に建てたのだろう。二棟を廊下が繋いでいた。
「もう三十分もすれば淳司が帰ってくるわ。それまでお茶でも飲んでてね。甘精堂の羊羹があるわ。たくみちゃん大好きだったものね」
長く、甘いものなど口にしたことが無かった。しかし彼女の言葉を聞いた瞬間、羊羹の懐かしい甘みが蘇った。そうだったわたしは甘い菓子が好きだったのだ。

 居間の通され「そちらへどうぞ」と指されるままソファに腰を降ろすと、淳司の母は家の奥へ消えた。奥で小さな話し声が聞こえた。家の防音性能が高いのだろう。声はくぐもって何を話してるのかまでは聞こえなかった。
 やがて盆を持った淳司の母が現れた。
「もう30分もすれば帰ってくるそうよ」
淳司の母は急須で茶を注ぎながらそう言った。どうやら先ほど聞こえた話し声の相手は淳司の妻らしい。
 わたしは勧められるまま茶に口を付けた。それから部屋を見回した。少年の頃、何ども遊んだ部屋だった。しかし模様替えしているらしく、記憶にある部屋とは大分様子が違った。同じとすれば壁に貼られた淳司の写真だ。当時から、この居間には淳司の写真が多く飾られていたものだがそれは今も変わらない。
 淳司は一人っ子だった。両親にしてみれば彼の成長がこの家の歴史なのに違いない。
「これは運動会の時ですね。六年生だ」
そこには淳司を真ん中にわたしと真人の三人で並んでいた。白い運動着に赤い帽子。六年生の運動会では赤組だった。どうやら壁の左から右へ向って時代が流れているらしい。運動会の写真を左に追って行くと、すぐ隣りは音楽会の写真だ。五年生の終わりのものだろう。淳司、真人、わたしのほか健太や裕二もいた。それからまた運動会があって、登山の写真があった。五年生の頃、米子大滝まで歩いて上がったものだ。滝を背にクラスのみんなでVサインをしていた。そこには由紀の姿もあった。
 ふと右へ視線を移すと六年生の運動会の隣りは修学旅行の写真だった。淳司、真人、健太、裕二、瞳、武男、涼子、のぞみ・・・わたしが、いないな?と思った。無意識に由紀の姿も探したがやはりいない。もっとも淳司の写真すべてにわたしが写っている訳は無いのだ。もう一度、左側へ視線を送ってみた。四年生の頃、三年生の頃の写真があった。それらは淳司一人のものや、健太と二人で写っているものもあった。なんだかわたしはほっとした。
 突然、視線に気付いて振り返った。わたしはギョッとした。いつも明るい淳司の母が暗い目でわたしを見詰めていたからだ。彼女はわたしの顔を見て、慌てふためいたように表情を変えた。いつもの明るい顔がそこにあった。

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