「どうしたん?」
母の美和が由紀と、由紀の隣りに立ち竦む僕を見て首を傾げたんだ。由紀と美和の親子が僕の家に来た年の夏のことだ。僕にとっては小学校の入学と新しい母親が出来たことで毎日が楽しい日々の筈だった。そんな日々に冷や水を浴びせるような出来事があった。

 小学校の同級生たちは単純な奴らが多かったから僕は気楽に過ごせた。そして僕が見たこともない漫画やゲームを持っている奴もいたりした。だから僕は毎日、飽きることが無かった。
 それ以上に僕が楽しみにしていたのは、自分の家に帰ることだった。僕は家に帰ると毎日、どきどきしていた。新しい母の美和に、僕の心はそのほとんどを埋め尽くされてしまっていた。僕は美和の美しい顔が好きだったし、柔らかな身体も好きだった。その身体や髪が発する甘い臭いも、すこしのろまな話し方も、のんびりとした動きもすべてが僕の理想の母親像を満たしてくれた。更に美和は僕の身体を抱き締めるのが好きだった。
「わたし、男の子が欲しかったんよ」
と言っては日に何度も僕を抱き締めてくれたものだ。
 僕は家に帰るといつ美和が僕を抱き締めてくれることかと、胸を躍らせながら待ち構えていたものだ。そして抱き締められるたび、僕は夢見心地になり、眠ってしまいそうになった。でも大抵、お尻に鋭い痛みを感じて目を覚ました。痛みの発信源に目を向けると、由紀が真っ黒な顔で睨み付けていた。お知りを抓っているのは由紀だった。
 だから僕は、すっかり美和と母子になっていると思っていた。そう信じ込んでいたんだ。でも、物事はそうやすやすと夢のような結果はもたらさない。その時の僕は、そんな風に自分を否定する思いでいっぱいだった。

 まだ一年生だった僕らは、街を歩いて回るようなことはしなかった。一年生の地理感覚では、大した行動範囲は持てなかったのだ。友達の家に寄る以外は真っ直ぐ帰って来た。だから遊び場は家の中かその周辺が多かった。
 美和が家の掃除をしている間など、僕らは彼女の邪魔にならないよう家の外で遊んだ。
 その日、長屋がコの字に連なる小さな庭で遊んだ。いつものことだった。長屋に住む子供たちの為に砂場とブランコがあったのだ。由紀はブランコに乗るのが好きだった。ブランコを大きく漕いでは、一番高いところで軽やかにジャンプした。クラスでも抜きん出た運動神経を持っている由紀のジャンプはまるでテレビの中の体操選手のようだった。由紀は納得できるジャンプを成功させると決まって腰に手を置き、僕に向かって不適な笑いを浮かべた。
「たくもやってご覧!」
命令口調で言った。でも僕はとても張り合う自身は無かった。だから僕は、俯いてどう対処しようか迷うのだ。こんな時、僕がもっと優秀な人間だったら、と思う。真正面から勝負を受け止めて、躊躇無くブランコからジャンプし、仮に大転倒したにしても見事なほどの心意気を見せ付けたことだろう。そうであれば由紀も僕を侮ったりしなかったに違いない。そんな僕であることは、由紀が一番望んでいたことでもある。そう僕は思っていたし、そういう思いが、由紀と相対する時はいつも重荷として圧し掛かっていたんだ。
 現実の僕は、由紀が望むような兄では無かった。ブランコからジャンプする恐怖に震え、失敗を恐れ、由紀の軽蔑の眼差しに自分を卑下するだけの人間だったんだ。だから僕は迷っているだけでブランコに乗ろうとしなかった。
「意気地なしね!」
由紀は「ふー」っと深い溜息を吐き出すと、ブランコに座った。そうしてしばらく鼻歌交じりに漕いでいたが、ふいにブランコを止めた。
「いいこと思い付いちゃった!」
由紀が思い付く”良いこと”は、僕にとって良かった験しが無かった。
「ねえねえ」
「な、なんだよお」
「たくさあ、自分が乗っても面白く無いみたいだからあ」
ブランコに乗って面白くない筈が無い。ただ、由紀の要求が厳し過ぎるのだ。
「押して」
「え?」
「押してよ」
「何を?」
「あたしをよ」
そう言って由紀は視線で自分の背中を指し示した。
「さあ、早く!」
僕は嫌な予感がした。由紀の目的が分からなかったからだ。こういうパターンの時はいつも、僕がひどいことになる。今日もそんなニオイがぷんぷんした。
「わたしね。ぐるりんって一周してみたいの」
「一周?どこを?」
「地球」
「はあ?」
間抜けに口を開けた僕の顔を見て、由紀は指を指して大笑いした。
「な、なんだよう?変なのは由紀だろう」
「ばか、ばかねえ地球一周なんてする筈無いじゃない。そうじゃなくって、このブランコが一周するのよ」
「ブランコが一周って?」
「このブランコがぶら下げてる鉄の棒を中心に一周するの。そうすればあたしが見てる景色が一周するでしょ」
まったく無謀なことを考えるものだ、と僕は半ば呆れた。小学1年生とはいえ、そのブランコの構造はぐるりと一周回るように出来ていないのは明らかだった。そんなことをしてブランコから投げ出されたら大怪我をしてしまう。躊躇する僕を促すように由紀は
「やって」
と言った。僕は、由紀にその危険性をどう伝えようかと悩んでいた。でもその悩んでる姿は、ただボーっと突っ立ってるだけに見えたことだろう。由紀は次第に苛立ち始め
「なにグズグズしてんのよ!」
と怒り出した。
「でも、危ないよ」
「はあ?どこが?」
「だって、ほら。ブランコの鎖はここで留まってるんだよ。一周したらここに突っかかって由紀が吹っ飛ばされちゃうよ」
「馬鹿ねえ、その前にジャンプして降りるから大丈夫よ」
無理だよそんなの、という僕の言葉を無視して由紀はブランコを漕ぎ始めた。
「意気地無し!自分でやるわ」
由紀は膝を曲げたり伸ばしたりしながら次第にブランコの揺れを大きくしていった。
「たくが押してくれないから中途半端な勢いにしかならなくって、鉄棒に頭ぶつけちゃうかも!」
大声で叫ぶ由紀に僕は根負けし、仕方なく由紀の後ろに回った。既にブランコは大きく前後に動いていたが、僕はタイミングを合わせて由紀のお尻を押した。二度、三度と押すうち、由紀はブランコを吊るす鉄の棒より高く舞い上がった。しかし、まだ鉄の棒は超えない。それから由紀は宙に舞う木の葉のように不安定に揺らぎながら、再び僕の前へ勢い良く舞い戻ってきた。僕は嫌な予感がしてもうここでお仕舞いにしようと思った。でもその時、由紀が叫んだんだ。
「もう一回!」
もう一回僕がその背中を押せば、由紀が望むとおりブランコは鉄の棒の周りを一周するに違いない。そんなことして大丈夫なのだろうか?僕は不安に思ったが既に由紀のお尻は僕の手の中にあった。僕は由紀に抗えず、力いっぱいそれを押した。
 タイミング良く押された由紀は、軽やかに舞い上がった。僕は見ているだけで背筋が凍り付いた。由紀を乗せたブランコは天を突くまで上がり切ると、その勢いのまま鉄の棒の方向へと回り込んだ。とうとう由紀が望んだとおり、ブランコは鉄の棒を中心に回転した。それに乗った由紀は喚起の声を上げた。
 でも、やっぱり無理だったんだ。ブランコを吊るす鎖は鉄の棒の下部に固定されていた。当然のことながら、ブランコは一周するようには出来ていないのだ。一周したところで鎖は鉄の棒に巻き付き、その長さは半分になり、同時に由紀は投げ出された。スローモーションのように宙を舞う由紀の身体は、あっという間に地面に叩き付けられた。由紀は仰向けに地面に転がったまま、しばらく動かなかった。僕は、慌てて近付こうとしたが、足が竦んで動けなかった。
 しばらく全てが凍り付いたように時間が止まった気がした。その静寂を破ったのはどこからともなく聞こえてきた犬が吠える声だった。犬は僕らと何も関係ないところで郵便配達員にでも吠え付いているに違いない。それでもその声が僕らの意識を覚まさせたのは確かだった。突然、由紀が大声を上げた。
「わーっ!」
というその声は、初め叫びに聞こえたが、泣き声だった。



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