しかし、病院から北に出たわたしの目の前には、葦の藪など無かった。葦が生えていた筈の場所は病院の駐車場になっていた。機械で管理されたそれは、都会のものと変わり無かった。振り返ってみると、かつて木造だった病院は鉄筋コンクリートの建物に建て替えられていた。木造だった建物は、当時はあまり見ない洋風の建築様式で子供心に印象深いものだったのに。その面影は唯一、病院の隣りに移築されたと思われる医師用の住宅に見られるのみだった。
 駐車場を道沿いに歩くと住宅街が広がっていた。分譲された団地のようだが、家々の創りを見る限り、わたしがここを離れた直後に建てられたように見える。わたしがここを去った後、あっという間にこの街は変貌したようだ。
 団地内の道路を歩くが、まったく方向が分からなかった。まるで見知らぬ街を歩いているようだ。顔を上げ、薄暗がりの空を見上げた。住宅の群れの向こうに薄っすらと山が見えた。雁田山と呼ばれる小さな山だが、わたしはかつて毎日その山を見ていたのだ。風景の一部に溶け込み、記憶の片隅に隠れていた。そんな思い出すことも無かった山は、その大きさや角度といった記憶を呼び覚まし、わたしは今、自分が立つ場所を理解した。
 しばらく団地内を歩き回ると一番、西の端に立っていると思われる家の裏手に向かって進む道を見付けた。その道を進むと見慣れた川が流れていた。幅一メートルほどの小さな川だった。他の川はコンクリートで固められた側溝になっていたが、この川だけ団地の境界線を走っているせいか昔のまま手を付けられていなかった。かつてテニスコートを横切り、葦の林を抜け出た最後の関門のように横たわっていた川の小ささに驚いた。そして今はその川をアスファルトの道路が軽々と跨いでいた。
 わたしは川から顔を上げようとして躊躇した。そこにはわたしたちが住んでいた長屋が立ち拡がっている筈だった。しかしテニスコートや葦の林が駐車場や団地になっていたのと同様、そこにわたしの家は無くなっているのだろう。町営の住宅だったから、誰も住まなくなると同時に撤去されたに違いない。新たな団地として分譲されたか、町営住宅として近代的な団地に建て替えられたに違いない。
 しかし躊躇していても何も始まらない。わたしは溜息を付きながら顔を上げた。目の前に広がったのは、驚いたことにかつて見た長屋だった。セメントブロック作りの安普請な造り。平屋建ての長屋は、かつてコの字に三連あった筈だった。今、目の前にあるのは一連のみだ。しかしその1連は紛れも無くわたしたちが暮らした家のある棟だった。
 既に夕闇に包まれたそこは、まぼろしのように橙色の光を吹いていた。光はところどころにある窓から漏れているらしい。そして三軒ある筈の、一番奥の一軒から漏れているのみだった。わたしは吸い寄せられるように近付き、窓の外に立った。ふいに玄関の引き戸が開き、小さな影が現れた。小柄な老婆だった。老婆は目の前に立つわたしに驚いたように顔を上げた。
「あ?なんだ、たくじゃねえかあ」
ふいに名を呼ばれたわたしは戸惑ってしまった。老婆が誰なのか思い出せないのだ。


◇再会◇
「あの寝小便垂れが、立派になってのお」
老婆の濁声を聞いていて、思い出した。角の家の婆さんだ。かつて長屋がコの字に連なっていた頃、この老婆の家は角にあたった。
「知らんと思うが、今はうちだけになっちまった」
老婆は特に悲しみも伴わずに言った。幾つもの年月を経て、そうした感情から解放された者特有の乾いた響きがあった。
「飯でも喰って行くか?なんにも無いがなあ、こんな年寄りの一人暮らしだから、ろくに食べなくても生きてるからの。そうだ!たくが好きだったコロッケ作ってやるわ。肉コロッケ、な」
暗がりの中の老婆の顔を先ほどと打って変わって悲しげに見えた。そしてわたしもかつては憎まれ口を叩いたこの老婆の顔を明かりの下で確かめたいと思ったのだ。
「さあ、へえってけ」
角の家の婆さんに勧められるまま、玄関に足を掛けた。
その時、背後で「ギイ」という音がした。振り返るとまた
ギイ
と鳴った。
「ああ、ブランコだな」
と角の家の婆さんは暗闇に目を向けたまま言った。
「もう誰も使わなくなって、何十年にもなる。そうだよ、お前たちが居なくなってから誰も使ってない。でもな、鉄で出来てっからなかなか壊んなくてなあ」
婆さんは昔を思い出すように目を細めた。
「でも流石に錆びてしまうから、もう大分前から風が吹くとな、ああやって音を出すんだよ」
わたしは暗闇に向かって目を凝らしたが、ブランコの実体を確認することは出来なかった。
「なんだか泣き声みてえで、家なんだがな。撤去してくれって役所に言ったらこの長屋まで一緒に取り壊せれちゃあかなわねえから、そんまま放ってあるんよ」
また
ギイ
と泣いた。わたしはそれが僕を呼ぶ声に聞こえたのだ。由紀とよく遊んだブランコ。臆病な僕は、揺れるブランコから飛び上がることが出来なかった。それを軽々とやってのける由紀によく笑われたものだった。そして僕は由紀に命じられるまま由紀の背を押し、由紀に怪我をさせてしまった。由紀と美和が僕らの家に来た最初の夏のことだった。僕はあの日、こんな家の目の前で、どこへ帰って良いのか途方に暮れたものだった。


=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中