それは街中に聞こえるんじゃないか、と思うほどの大きな泣き声だった。だが、顔を出したのは角の家のばあさんだけだった。それも窓越に老眼鏡を下げ、ちょっと見てみたというだけ。すぐにその姿は消えた。
 突然、僕に色んな音が襲い掛かって来た。犬はもう吠えていなかったけど、代わりに畑を耕すガーデンのエンジン音が聞こえた。軽トラックが走る音。自転車が走る音。大人が立ち話するひそひそ声。羊羹工場が缶詰にブリキの蓋をする音。蝉が鳴く声。何十匹、何百匹という蝉がけたたましく鳴いていた。それら全ての音が僕の耳の中に大挙して侵入してきた。ときどき鳥の啼く声も聞こえた。それらは僕の耳を塞ぎ、由紀の泣き声を遮断した。僕には音もなく顔を顰め続ける由紀が見えた。かろうじてその目から流れる涙によって由紀が泣いていることを理解できた。
「たくのばかあ!」
由紀は米搗きバッタのように跳び起きると、長屋の僕らの住む家に向かって駆け出した。僕はその姿を見て、由紀の身体が無事だったことに安堵した。
 由紀に続いて玄関の中に入った。明るい屋外からいきなり部屋の中へ入ったので、目が慣れなくてよく見えなかった。ほどなく暗がりに目が慣れた僕が見たのは、母の膝に埋まるようにすがりつく由紀の姿だった。由紀はさきほどとは打って変わって小さな声ですすり泣いていた。
「えんえん」
という赤ん坊のような声が聞こえた。
 僕が玄関のドアを閉める時、いつもの軋むような音が響いた。由紀の泣き声しか聞こえない小さな部屋に、その音は大きく響いた。途端に由紀の泣き声が止んだ。
「おかあちゃん、怒って!」
由紀は母の膝から顔を上げると、両腕を母の首に巻き付けた。それからそう叫んだんだ。いつの間にか由紀はその小さな尻を母の膝の上に乗せていた。まるで猿の親子のようにくっついたまま、母子は玄関で立ち竦む僕を見詰めていた。
「たくが強く押すからブランコから落ちたんだよ!」
半袖から剥き出しの腕を母の顔の前に突き出した。そこにはブランコから落ちた時に出来た小さな傷が無数にあった。
「痛いよう、おかあちゃん
えーん、と由紀は母の胸に顔を埋めて泣いた。
 ふと視線をずらすと母が僕を見詰めていた。無表情なその視線は、僕を見ている筈なのに僕を見ていないようだった。まるで僕の身体を透過して僕の身体の向こう側の風景を見詰めているように思えた。
 美和がこの家に来て以来、美和に疑いを抱いたのはこの時初めてだった。あの日に僕の心をすべて奪った美和だったから、僕は美和のすべてを肯定し、受け入れてきた。だから僕は美和がすることに疑いなど抱かなかった。でも、まだ幼かった僕にとって、母子の繋がりを否定することなど出来なかったんだ。
 突然、美和の焦点が僕に合った気がした。僕は身体を硬くして、これから来る失望に絶える準備をした。
「たくと由紀は仲良しねえ」
美和の口から思いがけない言葉が出た。
「ふふふ、良かった。もうすっかりほんとの兄妹になったんねえ」
いつもの柔らかい笑みが美和の顔一面に広まって行った。
「怒らないの?たくを。怒らないの?」
由紀が顔を上げ、抗議するように言った。目には怒りさえ浮かんでいた。
「何を怒るの?そんなことより赤チン持っておいで。背中まで擦り剥いて」
なんで、なんで、と由紀は美和の首に手を巻き付け、前後に身体を揺すった。それを横目に見ながら、僕は靴を脱ぎ家に上がった。それから台所に行くと座卓が丸い腰掛を入り口まで運んだ。その上に乗ると、背の高い和箪笥の上から木製の箱を手に取った。箱は両手で持たなければならないくらい大きかった。だからそれを落とさないように腰掛から降りのは少し難しかった。手を使えないからだ。僕は慎重に降りると、腰掛をそのままに母と由紀のいる居間に向かった。
「ありがとね。たくちゃん」
母は僕が持つ薬箱は後回しにし、僕の頭を抱き寄せた。僕は由紀のすぐ横に抱き締められた。それに気付いた由紀は僕を押しのけようと、手や足で押したり挙句に叩いて来たりした。
「やめな、由紀」
母が軽く叱ると由紀はまた泣き始めた。
「しょうがない子ねえ。お兄ちゃんが赤チン持って来てくれたよ」
僕は気を回し、木製の薬箱の蓋を開けた。由紀は全身でいやいやをしながら「お兄ちゃんじゃないもん!ばかたくだもん!」などと悪態を付いていた。母は僕の頭を軽く撫でると赤チンを取り出し、由紀のTシャツの背中を捲くり上げ、血が滲む何箇所かにそれを押し当てた。由紀は「痛い、痛い!」と叫んで泣いた。そして「なんでえ、たくがやったのにい」とか「痛いよう」などと叫んだ。母は笑いながら赤チンを塗り続けた。
 由紀の悪態はそれからずっと続いた。「お夕飯を作らなきゃ」と何度か母が、由紀の腕を振り解こうとしたが、由紀は聞かなかった。母の首にしっかり細長い腕を巻き付け、僕の非を訴えた。そのほとんど、ほぼ全部は僕にしてみればまるで出鱈目な作り話で、由紀は僕を陥れようとしているのは明らかだった。
「困ったねえ。ねえたくちゃん。今日はお夕飯、ちょっと遅くなっちゃう」
僕がコクリと頷くと、母は嬉しそうに笑った。それから僕の頭に手を回し、僕をしっかり抱き寄せた。僕は母の胸に顔を押し付けた形だったから、母の顔は見えなかったけれど母が時折笑っているのが分かった。
 夏の日の長い夕方が終わり、ようやく暗がりが辺りを満たした頃、由紀は泣き疲れたらしい。呆然と宙を見たまま、畳の上に大の字になった。
 今にして思えば、由紀はこの時、僕を家族として受け入れようとしたのだ。不条理なほどの罵詈雑言を吐き、七転八倒することがその儀式だった。血の繋がらぬ僕らが本当の兄妹になるには、こんな激しい時間を過ごさねばならぬことを由紀は知っていたに違いない。
 母の遅い夕食を作る音がした。油で揚げる音がジャーっと響いた。僕はその音が好きだった。僕は、放心したまま大の字になった由紀の隣りで母が立てる音を聞いていた。


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