また妙な夢を見た。そう思った次の瞬間、わたしは慌てて車窓の外を確認した。京浜東北線は今、どこを走っているのだろう?どうやらぐっすり眠ってしまったらしい。川崎はとっくに過ぎてしまっただろうか?
「今、大森を出たところだ」
目の前で誰かがわたしに話し掛けた。この列車の中に知人がいた記憶は無い。誰かが偶然乗り合わせたのだろうか?
「ち、まだ寝惚けてやがな」
声の主はわたしに覆い被さるように顔を近付けて来た。近過ぎて、見えない距離だった。だが、鼻や唇といった顔のパーツを眺めているうち、それが誰かが分かった。
「三田さんか!」
「ふふふ、やっと『所長』なんて呼ばなくなったな」
三田の指摘にわたしは戸惑い、混乱した。何故急にそう呼んだのだろうか?
「どうだ、思い出したか?」
追い討ちを掛けるように三田が意味不明な言葉を投げ掛けてきた。わたしは
「何を?」
と答えるのが精一杯だった。そんなわたしに三田はそっぽを向いたまま呟くように言った。
「俺達はあんたが子どもの頃からの付き合いじゃないか。ずーっとな。ずーっと一緒だった」
「何を言ってるんだ?今日、再会したのは20年ぶりじゃないか」
「30年間、わしはずーっとお前を見ていた。お前が思い出すのを待っていたんだ」
「だから何の話だ」
「あの日、殺したのは誰なんだ?」

◇混乱◇
 列車は蒲田駅に留まり、ドアが開いて何人かの乗客が降り、また何人かの乗客が乗って、再びドアが閉まると動き出した。その間、ボクらは黙りこくっていた。また『ボク』などと言っている自分がおかしかった。昨日、一昨日と故郷に帰って依頼、時として少年だった頃の口調が蘇る。
「あー、思い出したんかなあ・・・、どう?なんだろうねえ」
三田はいつの間にか隣りに座っていた。
「かれこれ30年になるもんなあ、ずーっとこうして君のね、横にいるのはさ」
「30、年?」
「ああ、そうだよ。だって君、まだ、な。全然子どもだったから」
「子ども?」
まったく意味が分からないのだ。「30年」、「子ども」、キーワードらしいそれらの言葉を何度か口の中で繰り返してみたが、何も思い出せない。だが、不思議なのは、三田のそんな奇妙な話が出鱈目には思えないのだ。
「かわさきー、かわさきー、お忘れ物の無いよう・・・・」
アナウンスが聞こえた。
「川崎に着いちゃったか」
三田はさも残念そうな口振りをしたが、その表情は淡々としたものだった。
「じゃ、俺はこのまま乗ってくから。あー、落ち着き先が決まったら、必ず連絡してくれよな」
「なぜ、わたしのことを知りたいのか?」
「ん?んー、もうなんだかんだで30年も経っちまったからな。ライフワークよライフワーク。一生かかって一つの真実を探し当てるってのも乙なもんじゃあねえかい?」
「わたしには何を言われているのかさっぱり分からない」
「ああ、そっかいまだ駄目なんだなー。まあ、いいや。とにかくこれからもよろしく頼まあ」
三田は「ははははは」と声を上げて笑った。
 それを合図にしたようにドアが開いた。わたしは軽く会釈して席を立った。去り際三田が
「落ち着き先は必ず連絡してくれよ」
と繰り返した。
「ええ、いいですよ。ただ、東京ではないかもしれない。郷里に戻ろうかと考えているんです」
三田の目が小さく輝いた気がした。しかし錯覚だったらしい。突然、三田はわたしの背を叩き
「早く降りろよ!ドアが閉まっちまう」
と叫んだ。
 わたしが降りると同時にドアが閉まった。ホームから三田の背が窓越しに見えた。しかし三田はこちらを見ようとはしなかった。意図的に無視している、というより何か考え事をしているようにも見えた。
 柴崎さんの家まで歩いて行くことにした。歩くと20分ほど掛かるが急ぐ必要はなかった。それにここ数日の様々な出来事を頭の中で整理したかったのだ。
 会社を辞め、妻に離婚されたわたしは父の見舞いに郷里に戻ったのだ。退社と離婚を報告するつもりは無かった。老いた父に、息子の心配をさせても仕方が無い。しかし入所している筈の介護施設では会うこ出来なかった。施設を運営する病院の窓口で
「そのような方は入所していない」
と告げられたのだ。不思議なのは、その同じ病院に由紀が入院していた。担当の医師が驚きを持って語るほど若いままの姿で。

 20分という時間は驚くくらい、短かった。車の通りが少ない道に入り、古いモルタル塀を右に曲がると提灯が目に入った。住宅街は駅前とは異なり夜の暗さに満ちていた。控えめな提灯だったが、その光が異様なくらい際立って見えた。あまり人の出入りは無い。来訪者は身内に限られる通夜だから、人間関係の希薄な都会ではこんなものだろう。
 昨日、
『ところで何回忌だ?』
と角の婆さんは言った。誰の?という問いに対し明らかに父を指した。
『三十三回忌じゃなかったか』
とも言った。婆さんはわたしに何を伝えたかったのだろう?それともわたしが勝手に父のことを言われている、と勘違いしただけで、本当は別の人間の死のことを話していたのだろうか?わたしはもう一度、婆さんの言葉の幾つかを思い出してみた。
『父ちゃんも、母ちゃんもみんな許してやれ』
何を許せというのだろうか?幸せだったボクらが二人の離婚で離れ離れになってしまったことだろうか?しかし婆さんは
『あんな死に方しちまった』
とも言った。誰がだ?誰も死んでない筈だが。
『あの日、殺したのは誰なんだ?』
三田も言った。誰が殺されたというのだ?ボクの知らないところで誰かが死んでいたとして、そんなことを今更訊かれても何も分からないじゃないか。
「北原さん、よく来て下さいました」
柴崎さんの奥さんが迎えに出てきた。少し会わなかった間に痩せたのか、随分と小さく見えた。まだ老け込む歳では無いだろうに老婆のように思えた。奥さんのそんな姿は柴崎さんの苦悩を表しているようで、胸が痛くなった。
 和室に通された。普段は夫妻の寝室に使っていたのかもしれない。入り口は客間には不向きな片開きの襖だった。居間では通夜の客を迎えるのに狭かったのだろう。また仏となった遺体を寝せるにも畳の間の方が好ましかったのだ。
 和室には柴崎さんや奥さんの親類縁者と思われる人々が十名ほど、テーブルを囲んで座り込み遠慮がちに夕食を摘んでいた。テーブルは一つでは足りないということで二つを繋げていた。高さが若干違うため、段差が出来ていた。
「主人の会社の方」
奥さんが声を掛けると皆がわたしを見た。軽く会釈を返しながら複雑な気持ちだった。
「部長さん?」
言ったのは一番、年長の男だった。顔が既に真っ赤で、ちょうど良く酔っているらしい。
「えっと、それとも課長さんかな?」
一面がピンク色に染まった剥げ頭を掻きながらわたしを見詰めてきた。そんな男を制するように、隣りの老女が小声で「失礼でしょ!いきなりそんなこと聞いちゃ」と言った。男の妻、か姉妹と言ったところか。「てっちゃんはずっと前に辞めてたんだから」とも。「てっちゃん」とは柴崎さんの呼び名だろう。
「わたしもね、辞めたんです。つい三日ほど前に」
わたしのちょっとした宣言に一同は静まり返った。こちらが驚いてしまうくらい視線が集まった。
「いや、思うところありましてね。今時はよくあることですから」
苦笑いして視線を逃れようとしたが、そうはいかなかったようだ。彼らの間では、死の原因は退社と考えているらしい。
「てっちゃんもね、頑張ってたのよ。『俺も営業を40年もやってきた。その経験を生かした仕事に就きたい』なんて張り切ってたのにね。あの歳でしょ。とっても仕事なんて見付からなくて。でもやっちゃんやくにちゃんの学費だってあるでしょう。夜中にコンビニのバイトなんかまでやってたのだけど、とっても間に合わなくって・・・」
先ほどの老女の溜息を吐くように呟いた。
 柴崎夫妻には二人の息子がいた。遅くに出来た子で、まだ長男が大学生、次男が高校生だ。一番お金が掛かる年頃なのだ。父親としてはお金にだけは不自由させたくないというのが人情というものだ。しかしアルバイトの費用でそれを稼ぎ出すのは至難の業だったろう。
「時代が悪かったのね。てっちゃんみたいな真面目な人が働き口が無いなんて・・・」
たしかに今の時代、60間際の男が再就職する先など無かったのかもしれない。普通ならサラリーマン時代に取り引きのあった会社に移るものだが、下請も納品業者もリストラを進めている最中だから、発注元の役員を受け入れる余裕は無いのだ。
「これは内緒にしておこうと思ったんだけど」
と老女は前置きした。連れ合いと思われる年長の男が「おい、やめろ」と小さな声で叱ったが、老女は無視した。
「半年くらい前、てっちゃんが来たのよ。何の前触れも無く、ふらっと。でね、古い知り合いが保険会社に勤めてて、その方に連絡して大きい額の保険に入ったっていうの。ワタシが『何の為に』って訊いたら『勿論、俺に万が一の場合があっても息子達が無事学校を卒業出来るようにだ』って。『まあ、縁起でもないわね』って言ったら『うん、問題は自殺の場合は半年は駄目なんだそうだ。だから半年は死ぬ訳にはいかん』なんてね。今思えば・・・」
と老婆がそこまで話したところで年長の男が怒り出した。
「だから『やめろ』と言ってるだろう!」
場が白けた雰囲気になり、しかし誰もが嫌な疑いを抱いてしまった。一番若い女性――おそらく一番上の兄の娘だろう――などは「さてとっ」などと小さく呟くと空いた皿を3枚ばかり重ねると襖の向こうに消えてしまった。台所に立ったのだろう。
 だが、兄の息子と思われる若い男は、老女に先を聞きたがった。
「てつ叔父さんは、保険金目当ての自殺だったのかな?」
老女は年長の男の顔色を伺った。男は相変わらず酒で真っ赤になった顔を、苦々しい表情のまま伏せていた。
「金の為に死んだなんて嫌だな」
「それは分からないけど、何か期するものはあったみたいに感じたわ。『ハローワークに何ヶ月も通ってみたけど面接を受けさせてくれる会社すら無い』って悩んでたわ」
「自分の命以外、金になるものが無かったってことか」
今度は別の男が「ひろし!」と、小さく叫んだ。若い男の父親なのだろう。年の頃は柴崎さんの兄と思われる。言われて若い男は首を竦めた。
「ま、湿っぽい話はここまでにして、皆さん箸の方も進めて下さんし。冷めちまう」
柴崎さんの弟くらいの歳の男は、そう言いながらわたしに
「いや、同僚だった方も、一つどうぞ」
とビールを勧めてきた。わたしは差し出されたグラスで受けた。
「ところであなたも会社を辞めたそうだが、何をなさる?」
注ぎながら男は訊ねてきた。興味があって、というより社交辞令に近い質問に違いない。だから適当にあしらえば良いのだが、わたしは答えに窮してしまった。何も無いのだ。
「今時は後先も考えずに辞めるんだねえ」
と今まで黙っていた別の老女が呟くように言った。さきほど「ひろし」と呼ばれた若い男が
「辞めたくて辞めるんじゃねえよ。辞めさせられるんだ」
と答えた。またすぐさま「ひろし!」と叱る声が響いた。
 辞めたくて辞めた、とわたしは思っていた。ついさっきまで。しかし、辞めさせられた、というのが本当のところかもしれない。さきほど会社に寄った時のことを思い出した。既にわたしは厄介者だった。誰もわたしを惜しんではいなかった。辞めたくて辞めたのかもしれないが、結果として捨てられたのはわたしの方だったのだ。
 座の向こうに布団が敷かれていた。柴崎専務が寝ているのだ。なぜ今まで気付かなかったのか不思議なくらいだ。この部屋に入ったら最初に遺体に向かうのが礼儀というものだったろう。それだけわたしは自分を見失っているのかもしれない。
「ちょっと」
と皆に声を掛け、わたしは座から立ち上がった。柴崎さんの亡骸に挨拶するためだ。亡骸を寝かせた上に十名が入っては少し狭い部屋だったから、何人かの背中の間を通らねばならなかった。そうして布団の横に辿り着いた時、柴崎さんの姉と思われる女性が顔を覆った白布を捲り上げてくれた。
 まるで生きているような顔。しかし生きている顔としては美し過ぎる。化粧を施された蝋人形の顔だ。わたしはふと、柴崎さんの死因が飛び降りだったことを思い出した。落下して地面に叩き付けられ内臓が破裂したことが直接の死因だった。そんなわたしの心中を察したのか、女性は
「顔はね、大丈夫だったんですよ。まったく無傷で」
と説明してくれた。
「手とか足とかは骨が折れて反対側に曲がったりして・・・わたしたちが見た時はまだ直してなくて、蜘蛛みたいな身体になってて・・・」
女性は息を詰まらせた。夕食の箸が進まない理由がこういうところにあったらしい。
「でも顔だけは無事でほんと、良かった」
「良かったですね」
言葉を返すと、わたしは柴崎さんの顔をもう一度覗き込んだ。その様を見て女性は気を遣い、テーブルに戻った。わたしが柴崎さんの亡骸と二人きりになるのを望んでいることが分かったのだろう。
 わたしは、柴崎さんに語り掛けた。しかし何を語れば良いのか分からなかった。改めて『何故死んだのか?』なんて訊くのも野暮な話だ。まして彼は既に答えを語れないのだ。
『最近、変な夢を見ます』
そんな言葉が勝手に心の中に浮かんできた。
『子どもの頃の記憶が夢になって現れるらしいのです。が、どうも内容が事実とは異なる』
こんなことを柴崎さんの亡骸に言っても仕方ないのに、何故か心の中に浮かび上がる。
『帰郷した時、行きの新幹線の中で見た夢は事実の通りだった。それが帰りの新幹線やさっき京浜東北線で見た夢は、ボクの記憶と違う』
また『ボク』か、とわたしは思った。
『もっとも夢だから、その時の気分によって幾らでも変質しますよね』
柴崎さんに別れの言葉を言わねばならない筈なのに、余計なことばかりが頭に浮かんで来るのだ。
『記憶と違う夢の中では、父は良い人だった。代わりに母が冷たい人だった』
自分でも可笑しくなり、わたしはひっそりと微笑んだ。
『父が事故で大怪我をして、その犯人がマサ兄。まったく夢というのは小説のように面白い』
突然、柴崎さんの瞼が開いたように見えた。元々眼光の鋭い人であったが、まるで怒りの表情のように一度天井を睨み付け、それからギョロリとわたしを横目で見た。
 呆気に取られたわたしは声を上げようとしたが、声が出なかった。しかしすぐに「シューッ」という音がすると瞼が閉じ、身体も沈み込んでいった。死体の中にガスが溜まっていたのかも知れない。しかし、たしかにわたしは聞いた、気がする。
『北原、調べろ』
という声が聞こえたのだ。
『真実を』
と。
『真実?』
『そう。心の底に封印した真実だ。認めたくない真実』
 わたしは柴崎さんの顔を凝視した。
「どうかしましたか?」
背中から老女に声を掛けられ、わたしは我に返った。
「大丈夫ですか?顔が汗びっしょり」
言われて指で額に触れるた。霧吹きで水を吹いたように水滴が付いていた。老女がタオルを持って来てくれた。
「これ、どうぞ。お加減でも悪いんじゃ?」
「いえ、大丈夫です」
わたしは額の汗を拭うと立ち上がった。
「少し外を散歩してきます」
そういい残し、襖を開けた。
 玄関を出る間際、台所から奥さんが歩み寄ってきた。
「北原さん、大丈夫?」
と心配そうに見詰めてきた。
「どこか具合が悪いのならすぐ近くに行き付けの病院があります」
「いえ、そんなんじゃありません。実は昨日、一昨日と郷里に帰ってまして、すこし疲れたみたいです」
「それならいいんだけど」
奥さんはわたしの顔を下から覗くように見上げてきた。
「二階が空いてますから、そこでお休みになります?」
「大丈夫。少し外の空気を吸ってきます」
そう答えてからふとあることを思い付いた。
「ところで奥さん、通夜の日にこんなことを伺うのは失礼かと思うのですが」
「何かしら?」
「柴崎専務はわたしについて何か言ってましたか?」
「北原さんについて?さあ、北原さんの話はよく話してましたけど、特別な話は無かったわねえ」
わたしは残念な気がした。先ほどの幻聴が、実は本当に柴崎さんの声だった、と思いたかったのだ。ここのところの不可解な夢や、幾つかの出来事について、少しでも答えが見付かればと思ったのだ。
「ああ、でも・・・」
「でも?」
「あ、いえ、最近の話では無いわ。ずっと昔の話だから関係ないわよね」
「なんです?」
「ずっと前に聞いた話だから」
「それでいいですから教えて頂けませんか?」
「でも、いいのかしら」
「お願いします」
奥さんは少し考え込んでから、意を決したように口を開いた。
「もう20年近く前のことだから、柴崎がまだ係長だったかしら。遅くに帰宅した柴崎が珍しく会社の話をしたの。ちょっと変わったことがあったって」
「それはわたしのことで?」
「そうね。柴崎はこう言いました。新入社員のことで夕方、刑事が来た。それで深夜まで粘られてしまった。てっきり、その新入社員が学生時代にやった悪さでも見付かったのかと思ったらそういう訳でも無いらしい。刑事はその新人の言動を事細かに聞いていただけで、でもそれがひどく細かくて、ほとほってしまった、って」
「その『新入社員』がわたしのことですね」
「たしかそうだったわ。それと、」
「それと?」
「こうも言ってました。でも変なんだ、って。帰りの電車の中で刑事の名刺を見直してみたら長野県警って書いてあるんだよ、って。そう言ってわたしに名刺を見せてくれましたから間違いありません」
「名刺、ですか」
わたしは一通り思いを巡らせてみたが何一つ分からないことばかりだった。ふと、奥さんを見ると何か言いたげだった。
「その刑事の名前、憶えてますか?」
「ええ、今思い出しました。『簡単な苗字なのに、地方によって変な読み方をするもんだなあ』って柴崎が言ってました」
「変な読み方?」
「ええ、みたと書いてさんたと読むんだそうです」
「さんた?」
「そう三に田です」
すぐさま所長の顔を浮かんだ。いや、間違いなく所長だ。たしか彼はわたしと同じ町の出で三田と書いて「サンタ」と読む。そして彼は元刑事だ。その彼が、わたしが会社に入った当時、わたしのことを調べに来ている。
 一瞬、稲妻のように彼に呼び止められた光景が脳裏に浮かび上がった。タバコを指に挟んだ手で、乱れた髪を押さえながらわたしに何か話しかけていた。反対の手はポケットの中に入っていた。薄汚れたコートのポケットだ。わたしはというと、まだ若々しく新調の、しかし身体にフィットしない背広を身に付けていた。
 恐らくは20年前のある日の記憶だろう。
 わたしは奥さんに「ありがとうございます」と頭を下げると玄関の戸を開いた。奥さんはまだ心配らしく、何か物言いたげだったが敢えて無視した。外に出てドアが閉まると静寂に包まれた。空気が冷たい。信州に比べると昼間は暖かいが、夜の寒さは変わらない。わたしはコートのポケットに手を入れ、歩き出した。しばらく歩いてから、先ほどの幻聴を思い出した。
 幻聴は『認めたくない真実』と言った。会社のことを言っているのかと思ったが、どこか違和感があったのだ。たった今、奥さんから聞いた話で、わたしはある予感を得た。柴崎さんはわたしの秘密を知っていたのではないか?ということだ。長い間、何かと気に掛けてくれていたのはそれが原因じゃないか?そして柴崎さんは、天国に登る前にわたしにそれを伝えようとしたのかもしれない。
 わたしはまた夢のことを思い出した。夢は変節している。昨日までの夢と、今日始まった夢は明らかに内容が合致しない。
『真実を調べろ』
と柴崎さんは言った。真実は一つだ。昨日まで見た夢が真実そのものだ。わたしの幸福な子ども時代と、その終焉。しかし、現実と合致しないのも事実だ。角の婆さんの話、父の不在、そして三田の登場、幾つもの事実が昨日までの夢に疑問符を付け始めていた。
 何をどう調べれば良いのか皆目検討が付かなかった。だが、わたしは再び郷里に向かうことを思い立った。


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