京浜急行は、帰宅ラッシュ前の一瞬の空白時間なのだろうか、空いていた。疲れ果てたわたしには、幸いだったといえる。柴崎さんの家がある川崎まで、座って行けるのだ。目を瞑るとつい先刻、告げられた言葉が浮かんできた。それは所長がわたしに言った。
 貴明に荷物の入ったダンボールを委ねたわたしは、会社のあるビルを出た。まっすぐに駅へ向かって歩いた。そんなわたしに声を掛ける者がいた。
「よう!久しぶりだなあ」
振り向いたわたしは目を疑った。蓮向かいのビルに居を構える探偵社の社長兼所長だった。変わらず看板が掛かっていることから、探偵社があるだろうことは推察できたがこの所長がまだいたというのは驚きだ。何しろわたしがまだ入社したての頃、既に初老だったから。
「生きてたか?」
相変わらず変わり者らしい挨拶だった。
「あんたまだ辞めてなかったんだなあ。あんな馬鹿息子の下で働いててもロクなこたあねえから、早く辞めなって忠告したろうと思ってたが、なかなか顔見えなくってなあ。いいそびれたまま今まで来ちまった」
いったい何年前からそう思っていたというのだ?わたしが最後に彼と話したのは、かれこれ20年も前のことだ。これだけ近くに居たというのに、人間の縁とは不思議なもので、縁の無い時にはすれ違いばかりなのだろう、まったく会うことが無い。それが今日、わたしがここへ来る最後の日、偶然わたしは屋上から探偵社の看板を見付け、所長との会話を思い出したのだ。そのちょうど同じ日に再会するとは。
「あんたあんな会社早く辞めちまった方がいいぞ。駄目な親分の下にいる子分は、どんなに頑張ったって駄目なものは駄目なんだ。親分子分ってのはそういうもんなんだ。だからな、早く・・・」
「辞めたんだよ」
所長の言葉を遮るように言った。所長はわたしの言葉に一瞬、あっけに取られたらしい。ぽかんと口を開けたまま、言葉を発しなかった。
「つい3日ばかり前に辞表を出してね。辞めました。所長とは20年ぶりだよね。ここへ来る最後の日に会えたというのも縁というものかな?」
わたしの言葉を聞いているのか、聞いていないのか、所長はわたしの顔をジロジロ見詰めていた。それから相変わらず真っ白な顎鬚に指を当てると
「辞めたってあんた、どうやって喰ってくつもりだ?」
わたしは、この所長の物言いに少々腹が立った。たった今、自分から「辞めた方がいい」と言っておきながら、「実は辞めたのだ」と答えた途端に逆のことを言い出した。それも20年ぶりだというのにずけずけと。
「喰う宛はあるのかい?」
「話が滅茶苦茶だな。たった今『あんな会社辞めちまえ』って言ったばかりじゃないか?」
「いや滅茶苦茶じゃない。辞めるという話と、これから喰っていくという話はまったく別ものだ」
「そりゃそうだが・・・まあいい。それより所長は変わらないな」
「ん?まあな。代わり映えせんことやっとるからな」
「そうは言ってもかれこれ20年は経ってる。その割りに老けてないよ」
たしかに老人は初老のまま、ただ年月だけを経ているように見えた。
「或る意味、若いよ。どうしたら若いままでいられるのかな?」
「ん?んんー、まあわしの場合、やるべきことがあるからなあ」
やるべきこと?探偵なんだから探偵の仕事がやるべきことだろうに、しかし今の言い方は別に何かある、というニュアンスを感じた。そんなわたしの疑問に答えるように彼は続けた。
「探偵なんて喰うためにやってるだけなんだ。警備会社でも良かったんだが・・・時間が自由にならなかったからな」
へえ、とわたしは思いを巡らせた。この老探偵が、自由な時間をどう過ごしているのか?その時間に「やるべきこと」とは何なのか?
「ところであんた、これからどこへ行く?」
「これから?ああ、今夜は川崎で通夜なんだ。会社時代の上司が死んだんだ。飛び降り自殺さ。そのビルの向こう側へ飛び降りた」
「それは知っている。パトカーや救急車で大変だったんだ。にしても、何が原因だったんだ?ノイローゼか?」
「ふん。会社に捨てられた途端に、世の中から必要無くなったんだろ。柴崎さんはそれに気付いただけだ」
「必要が無い」
「そうさ。サラリーマンなんてそんなもんだ。会社があっての自分。会社から追い出されれば何も残りはしない」
所長は突然、黙り込んでわたしの顔を覗き込んだ。
「な、なんだよ。どうかしたかい?顔に何か付いてるかな?」
「いいや。そんなことよりあんたはどう思うんだ?会社を辞めて、自分が社会から不要な人間になったと?」
「さあね、まだ分からない。わたしは柴崎専務と違って鈍感なんだ。正直、辞めた実感も湧かない。実を言うと妻に離婚された。それで家を追い出されたんだ。だが、それすらも実感が無い。本当は今夜だって寝床が無いんだ。これから探さなきゃいけない。なのに、なんだか実感が無いんだ」
「何故かな?」と所長が訊いてきた。
「何故かな?って、そんなことに興味があるの?」
「いや、ちょっと不思議に思って」
「不思議でもなんでもないよ。さっきも言ったように鈍感なんだ。それは若い頃からそうだった。すぐ忘れちゃうんだ。嫌なことはすぐ忘れる。ただ残念なことに良いことも忘れちゃうんだ。どうも記憶力が悪いらしい」
所長が苦虫を噛んだような顔をした。何か気に障ることがあったのだろうか?
「ということで、これから川崎までいかなきゃならない。いままで色々お世話になりました。といっても所長に世話になったのは20年も前だがな。それでもありがとう。もう会うことも無いかもしれないから、今礼を言っとくよ」
所長は困ったように顔を顰(しか)めた。それからしばらく何事か考え、不思議なことをわたしに言った。
「落ち着き先が決まったら教えてくれ。な、きっとだぞ」
何故か懇願するような調子だった。所長は名刺をくれたが、そこには携帯の電話番号とメールアドレスも記載されていた。

 所長と別れ、わたしは駅に向かった。
 歩きながら所長のことが頭に浮かんだ。
『落ち着き先が決まったら教えてくれ』
彼はそう言った。何の為に?社交辞令だろうか?とも思ったが、そんな余計な縁を作る社交辞令も今時無かろう、と思った。それに、とわたしはその時の所長の顔を思い出した。普段と少し異なる雰囲気を感じたのだ。
 もっとも「普段」などと言っても彼とはほぼ20年ぶりだから、その間に彼がどのように変節したかは知らない。だから今の彼にすればあれが普通だったのかもしれない。
 如何せんこの20年間、わたしの人生に何の関与もして来なかった人間が、人生の曲がり角にひょっこり顔を出すと言うのは気になるものだ。もしかするとこれからのわたしの人生に何らかの関係を持つのかもしれないな、などと考えると自然に苦笑いが込み上げてきた。
 どうやらここから先の人生に、わたしはひどく怯えているようだ。それも仕方がない。わたしは20年余を過ごした会社に捨てられた。社長の貴明に捨てられたのでは無かった。部下達に見捨てられたのだ。それに気付いたのはつい先ほどだ。自分の鈍感さに呆れながら、それ以上に途方に暮れたのだ。何しろわたしは三日前に妻と娘にも捨てられたのだから。わたしはこの20余年の人とのつながりを一気に失ってしまったのだ。今のわたしは行く宛が無い。今夜の宿さえ決まっていない。さっき会社から生活のための荷物を送ってもらうにも、20数年帰っていないどころか今や誰も住んでいない過去の実家を宛先としなければならなかった。それ以上に交わる人も無い、そういう状況がわたしを不安にしていたのだ。
 誰でも良いから交わる人間が欲しかったのかも知れない。だから、たまたま偶然に路で出会った古い知人に、親しみを憶えてしまったのだ。客観的に考えれば探偵事務所の所長などと、今後どんな親交を持って行くというのだ?
 目の前に有楽町駅の姿が現れた時、わたしは振り返った。無数の人の群れの中に何かを探した。所長の姿を見付けようとしているらしい。馬鹿馬鹿しい、と思いすぐさまやめた。彼に何を頼りたいというのだろう?貧乏探偵事務所の経営者などに頼れる何ものもある筈が無い。
 ふと、所長が同郷だったことを思い出した。若い頃、一緒に飲みに行った先で、酒飲み話にそんなことを聞いたことがあった。たしか所長の名は三田だった。三田と書いて「サンタ」と読む。これは信州でもわたしの暮らす地域だけの読み方だから間違い無い。
『退官してね、田舎じゃやることがないもんだから、いい歳して都会へ出てきたんだ』
と言っていた。退官、そうだった。彼は田舎では刑事をやっていた、と言っていた。それにしても定年後、都会に出てきて探偵をやろうなんて?わたしは首を傾げた。幾ら元刑事でも無謀な話じゃないのか?もっとも今のわたしの状況に比べれば、これ以上、無謀ということもあるまい。
『他人の心配をする前に自分をなんとかしろよ』
わたしは自分に言い聞かせ、改札を潜った。ホームへ向かう階段を上がった。階段の段数が妙に気になった。頭の中に数字が次々に現れたのだ。
 それが階段の数字では無いことに気付いたのは、京浜東北線のドアが閉まった時だった。走り出す列車の窓から、向かいに建つガラズ張りのビルが見えた。客が蟻のように無数に動いている。わたしはその中に三田が居るような気持ちになった。こちらを凝視しているのではないか?と思ったのだ。窓に顔を近付け、ビルの窓を見渡した。それらしい影は無かった。だがわたしは激しく胸の中で鼓動を打ち続ける心臓を押させることが出来なかった。どうやらわたしは計算を間違えていたらしい。三田所長が、もし定年後にあそこに出てきたのなら、既に80歳を超えている筈だった。しかし、さっき見た彼は到底80歳の老人には見えなかった。
 嫌な胸騒ぎがした。こんな気持ちは今回が初めてでは無かった。父の見舞いに行った病院で、不思議な気持ちが胸の中を通り抜けた。かつて住んだ家で、角の婆さんの話を聞きながら、胸の中が冷たい空気でいっぱいになった。病院で由紀の死体のような寝顔を見た時、胸が揺さぶられた。
 有楽町の駅ビルが見えなくなった時、わたしはふと車内で視線を感じた。視線の方をなんども見詰め直したが、心当たりのある顔は見付からなかった。黒衣を詰めたバッグを胸に抱くと、眠気が襲ってきた。川崎まではそう遠くは無い。ここで眠ってしまっては拙い、と思い必死で目を凝らしてみたが天井がいよいよ回り始めた。唇を噛んでみたが、もはやその程度の痛みでは抗えないらしい。薄れてゆく意識の中で、目の前に誰かの顔が現れたのを見た、ような気がする。しかし、次の瞬間には意識が跳んでいた。


 天井がぐるぐる回っていた。ボクは風邪を引いていた。熱があって、咳も出た。なのに、なんでこんなとこにいるんだ?そう由紀になんども問い質したのだけど、由紀はまったく取り合ってくれなかった。
 ボクは六時間目が終わると、そそくさと家路に向かった。もう具合が悪くて、すぐにも布団に潜り込みたかったからだ。そんなボクを由紀が呼び止めたんだ。
「たく、どこ行くの?」
「え?どこって、家だよ。決まってるじゃん」
「ちょっと、駄目!」
「なんで?」
「駄目ったら駄目!」
「えー、おれ風邪引いてんだよ。こんな日くらい家に帰らせてよ」
「とにかく駄目」
「なんでだよー、熱があって頭が痛んだよ」
「だったら保健室で寝てれば良かったのに」
「もう放課後だもの、一人で寝てる訳にいかないよ」
「そんなことないわ。6時くらいまでならいつも保健の先生いるわよ」
「でもさ、風邪引いたら早く家に帰るって当たり前でしょ?」
「もう、たくったらうるさい!とにかく家に帰っちゃ駄目なの」
なんでだよう、と不満を漏らす僕の腕を由紀はガッチリと掴んだ。
「さ、こっち来なさい!」
ボクはこの時、風邪で身体ふらふらして、ボクより身体が大きい由紀に到底逆らえる状態じゃなかった。
 由紀はボクの手を引き、家から遠い方へどんどん進んでいった。
「もう堪忍して、ふらふらで、死んじゃうよ」
そんなボクを無視して由紀はズンズン進んだ。街の外れを越え、線路沿いに走る道路を歩き、踏切を渡ると山門を潜った。そこから山の上に伸びる参道は、沢山の木々に囲まれていた。普段ならちょうど良い涼しさだろうが、この時のボクは突然訪れた寒気に身を震わせていた。
「由紀い、寒いよお」
「何、情け無い声出してんのよ!男でしょ、しっかりしなさい」
由紀はボクの体調なんてまるで無視して参道を登り始めた。普段ならなんでも無い坂道だろうけど、この時のボクにしてみれば苦行に近かった。なんども石に躓き、急な坂に息を切らしならが、しかし由紀から強引に腕を引かれ、上へ上へと登っていったんだ。
 この参道は、随分前のことだが、図工の時間に登った事のあった。境内で社や狛犬の石仏を写生したのだ。その時はこの参道がこれほど長いとは思わなかった。でも多分、今だって本当はそんなに長くは無いのだろう。風邪からくる熱のせいでボクの身体があんまりふらふらしてるから、必要以上に長く感じるんだ。
 なんとか参道を上がりきったボクは小さな境内の入り口を縁取るように生えている草むらに腰を降ろした。
「ああ、もう駄目。目が回る」
実際、ボクの額からは湯気が立ち昇っていた。汗も沢山出ていた。
「なんだか寒いよう」
「もう、男の子なんだからしっかりしなさい!」
「男の子って言っても病気には勝てないよ」
「病気?ただの風邪でしょ?大袈裟ねえ」
「でも寒い、身体がだるい」
由紀は「ちょっと待ってて」というと少しの時間、姿を消した。戻ってくると、ボクの腕を掴み、また立たせようとした。
「待って!無理、これ以上歩けないよ」
「寒いんでしょ。これ以上熱が出ちゃいけない。だから、もうしばらく辛抱して」
由紀はボクを抱えるようにしてぼろぼろの鳥居をくぐると、境内の石畳の上を歩き出した。誰もいない境内は静まり返っていた。境内を覆い隠すようにして背の高い木々が立ち並んでいた。一番背の高い木々は杉。人が植えたのだろう。整列するように綺麗に立ち並んでいた。その周りに、雑然と枝を伸ばしているのだ橡だ。深い緑の葉の間から太陽の光が顔を覗かせていた。葉が時々揺れるとボクらを追い立てるように光が閃き、その度ボクらを脅かした。
 ボクらは途中から石畳を逸れ、境内の隅に向かった。由紀がそうボクを誘導したのだ。どうやら社の裏へ向かうらしい。ボクとしてはてっきり社のどこかで休むのかと思ったけど違うらしい。もっとも社って言っても、まさか中に入るのは拙いし、きっと埃だらけで汚いと思うから嫌だけど・・・でもとにかく早く座りたい、できれば横になりたかった。
 そんなボクの思いなんてお構い無しに由紀はずんずん進んで行った。進んだ先に見えてきたのは小さな小屋だった。ひどく安普請な小屋でそんなに古くないのに少し傾いていた。素人が建てたみたいだった。由紀はその小屋の入り口で立ち止まった。
「鍵が掛かってるよ」
ボクらの目の高さに、これ見よがしに大きな南京錠がぶら下がっていた。
「もう歩けないよ」
ボクはその場にへたり込んだ。地面が少し湿ってて冷たかった。そんなボクを他所に由紀は南京錠に手を掛けた。
「開きっこ無いよ。そんな大きな鍵」
「大丈夫よ」
由紀は南京錠を上げたり下げたりしていた。
「無理だよお」
とボクが言ったと同時に、ガチャリと鍵が開いた。ボクが呆気に取られている間に由紀は南京錠を取り去り、僕の上を掴んだ。
「すっげー」
「凄くないよ。初めから壊れてるんだもん」
「壊れてる?知ってたの?」
「まあね。それより早く。中に入りなさいよ」
「え、汚くない?」
由紀に押し込まれるように入ってみると、室内は藁でいっぱいだった。
「何これ?」
「棚田のね、藁を入れとく倉庫」
「それでこんなになってるんだ」
藁の山が幾つも出来ていた。ボクはなんだか嬉しくなって、靴を脱ぐと藁の上に飛び乗った。転がりながら一番高い藁の山に登った。
「ああ、気持ちいい」
藁に顔を埋めると太陽の匂いがした気がする。秋に干され時、吸収した陽光をずっとその中に溜め込んでいるらしい。その匂いを吸い込んでいるだけで、ボクは風邪のバイ菌が死んでしまうように思えた。実際、先ほどまでの苦しさはどこかへ消えた。替わりに眠気が訪れた。このままこの匂いに包まれて眠ってしまえば、起きた時にはすっかり風邪も治り、元気になっている気がした。
「あの刑事、父ちゃんの怪我のこと訊きに来たのかな?」
ボクが眠りの世界に入る直前、由紀の声がした。ボクはたちどころに現実に引き戻された。
 由紀にしては珍しく、小さな声だった。不安を隠し切れないらしい。今週の月曜日の出来事を思い出しているらしく、由紀の大きな瞳は揺れ動いた。
 父ちゃんの怪我とは、今週の初め、父ちゃんは酔っ払って車に撥ねられた。そのまま救急車で病院に搬送された。ボクらは夜遅くに病院へ駆け付けた。
「ああ、由紀とたくか。心配掛けたな。お医者に聞いたら大丈夫だってさ」
「でも、それ」
由紀が不安そうに指差したのは、父ちゃんの首に巻かれたロボットみたいなコルセットだ。痩せぎすな父ちゃんの首には大き過ぎるように見えた。
 ボクがそれに触れようとすると由紀が
「駄目よ」
とボクを制した。
「ははは、大丈夫。全然痛くないから」
父ちゃんは笑いながらボクと由紀の手を取り、コルセットに触れさせた。
 その時、ガチャリと大きな音がして母ちゃんが入ってきた。母ちゃんはボクらの顔を見て少し驚いたみたいだったが、すぐ気を取り直して父に微笑み掛けた。
「あなた、大丈夫?心配したわ」
「あ、ああ、ありがとう」
父ちゃんはちょっと戸惑ったみたいだった。だって普段の母ちゃんは、あんまり父ちゃんに優しくしないから。
「お前が先に帰っちゃうもんだから、一緒に帰ればこんな目に遭わなかったかもしれなかったよな」
「だって、あなたご機嫌で飲んでたから」
「そうか?ちょっと飲み過ぎて苦しかったんだけどな。お陰で帰り道、足元が覚束なくってな。こんなことになっちまった」
「でも良かったわ。怪我くらいで済んで」
「ああでも、これじゃあ仕事にならないよ・・・」
父ちゃんは明日からの仕事を心配してるみたいだった。
 自宅に刑事が来たのは水曜日だった。ボクらが学校から帰ると玄関の擦りガラスの向こう側に黒い影が見えた。それは一つでは無かった。由紀と二人で恐る恐る近付くと、突然、引き戸が開いた。二人の男が現れた。二人ともボクらから見たら「おじさん」だった。
「じゃ奥さん、また来ますんで」
と二人のうち、年上と思われる男がぺこぺこ頭を下げていた。それに呼応するように家の中から母ちゃんの不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「何しに来るんだよ!もう話すことなんて何にも無いって言ってるだろ」
男はまともに取り合わない、といった感じで
「まあ、これもわたし達の仕事なもんですから、ご容赦下さい」
と丁寧に頭を下げていた。それから二人の男は、ボクらの前を歩いて行った。と、ふいにもう一人の男が立ち止まった。さっき母ちゃんに挨拶した男じゃない方の奴だ。その男は立ち止まるとボクらの方を見た。正確に言うとボクの方ではない。由紀を見ていたんだ。ボクが由紀を見ると、由紀は怖い顔をして、ジッと男を睨み付けていた。ボクはまた男の顔を見た。すると男は恐ろしい顔を突然、ほころばせ、こちらに寄って来た。
「おまえー、恐っとしい目えするのお。うんー、ふふふ、あの母にしてこの娘か・・・」
男が呟いた。
「帰れ!早く!」
由紀がボクの隣りで叫んだ。男は「へへ」と短く笑うと
「くわばらくわばら」
とまた呟きながらボクらに背を向けた。そして二人の男は連れ立って、長屋の向こうへ去っていった。
 ボクらは誰に訊くとも無く、彼らが刑事だと気付いていた。

 そして昨日、ボクらに話し掛けてきた刑事が、学校帰りのボクらの目の前に電柱の影から突然現れたんだ。学校から住宅街を抜けたところ、もう使われていないトタンの倉庫や、締めっきりの店舗などが立ち並ぶ古い通り、あの時間は人が歩いてるのを見たことが無い場所だ。刑事はボクらを待ち伏せしていたように、タイミング良くボクらの行く手を阻んだ。
「兄妹揃って仲良しなんだね」
皮肉っぽい口振りがボクらに威圧感を与えた。ボクらは身体を固くして、じっと黙っていた。
「ふふふ、そんなに怖がらないでくれよ。別に取って喰やあしないからよ」
年の頃はボクらのとうちゃんやかあちゃんと同じ位だろうか?でも、とても同じなんて思えなかった。どうしてって、何か底知れない怖さを纏っていたんだ。でもそれは彼だけの問題じゃなかったのかもしれない。
「こんなこと子供に訊くことじゃないんだが、君ら血が繋がってねえんだろ?」
魔物のような笑みを浮かべながら、刑事はボクらに顔を寄せてきた。
「いや答えたくなきゃいいんだが」
「答える義務がありません」
「え?義務ときたか、ふふふ」
「わたしたち何か悪いことしましたか?」
「いいや、そういう訳じゃ無いんだが」
「じゃ、答える必要ないですよね」
由紀のそれは、明らかに敵意剥き出しだった。
「どいて貰えますか?帰るんで」
由紀はボクの手を握ったまま、露骨に刑事の身体を押し退けた。刑事は苦笑いしながら
「はいよ」
と道を明けた。
「おい、気の強いお姉ちゃんだな。あ、いや妹さんだったか。ははは」
ボクらは刑事の声を無視するように足早に歩き去った。どんどん離れていくボクらの背中に向かって刑事は次第に声を大きくした。
「気の強さは母ちゃん譲りか?はは、おい、余計なお節介だが、今は帰らねえ方が利口だぞ」
突然、由紀の足が止まった。由紀にしっかり手を握られていたボクも立ち止まった。
「ははは、なんだい、分かってんのか、おい?まずいよなあそれは」
僕の手を握る、由紀の力がどんどん強くなっていくのが分かった。由紀は怒っているらしい。みるみる顔が真っ赤になり、刑事をきつく睨み付けた目には涙が滲み始めた。
「い、痛いよ由紀」
爪がボクの手の平に喰い込んだのだった。由紀は慌ててボクの手を離した。
 ボクが自分の手の平を確かめてから顔を上げると、ずっと向こうに刑事の小さな後姿が見えた。
「何をしに来たんだろ?」
「知らない」
ボクらは少ない言葉を交わすと、歩き出した。少し歩くと由紀がボクの手を握り、家とは関係の無い方へ向かった。
「どこ行くんだよ」というボクの言葉を無視して由紀は歩き続けた。それからボクらは日の暮れて肌寒くなるまでずっと歩き続けていた。お陰でボクは風邪を引いてしまったらしい。

ボクは由紀に背を向け、藁に頬を埋めたまま由紀の話を聞いていた。
「あいつ、きっと父ちゃんの怪我を疑ってるんだよ」
「疑うって何を?」
「だから怪我のことよ。本当に交通事故だったのか、ってこと」
「ええ?だってあんなにひどい怪我をしてるじゃん」
「馬鹿ねえ、違うわよ」
違うと言われても、ボクには意味が分からなかった。
 父ちゃんはお酒を飲みに言った帰りに車に撥ねられて大怪我をしたんだ。ムチ打ちなったらしい、だからあんな大きなコルセットを首に巻いてたじゃないか。
「父ちゃん、普段はお酒飲まないじゃない」
「うん、まあね」
「あの日に限ってなんであんなに飲んだの?」
「それはー、母ちゃんが誘ってくれたから、つい飲み過ぎたんじゃない?」
「母ちゃんの方が先に帰って来ちゃったじゃない。自分から誘っといておかしくない?」
「うんー、それはそうだけど。でも母ちゃん言ってたじゃん。ボクたちが心配だったって」
「心配?何が?いつも放りっ放しじゃない」
「うん、まあ、そうだけどー」と言いながらボクは次の言葉を探したが、雪隠詰めに遭ったみたいににっちもさっちも行かなかった。ボクは「でもー、まー、なんて言うかー」なんて繰り返していただけだった。そんなボクに由紀は諭すように言った。
「父ちゃんを撥ねた車、見付かって無いんだよ」
ボクには由紀が言わんとする意味が分かったけれど、ボクはそれを考えないようにしていたんだ。考えないように、というより疑わないようにしてた。
 その時間、母ちゃんは家にいた。ボクらが一緒にいたんだから間違いない。「でも」そう考えた僕の先回りをするように由紀が言った。
「マサ兄は居なかった」
マサ兄はボクらと暮らしてる訳じゃ無いから、ボクらの家に居なくて当然なんだ。でも、ボクと由紀の頭には、マサ兄の姿が浮かんだんだ。
「ねえ由紀」
「ん?」
「ボク、眠いんだ。昨日、ずっと歩いてたでしょ。夕方になったら寒くってさ。風邪引いちゃったんだ。だから少し寝させて」
由紀は小さく「うん、いいよ」と囁いた。すぐにボクの隣りに柔らかい暖かさが拡がるのが分かった。由紀が添い寝してくれたらしい。横を向いたボクの背中を抱くように由紀は身体をくっ付けてくれていた。ボクは徐々に寒気が失せ、快い眠気に沈んでいくのを感じた。気付くと、由紀の寝息が聞こえた。ボクの寝息と相まって、静かな音楽が流れているように聞こえた。
 ボクらは小さな猫の兄妹のようだった。捨て猫の兄妹のように、久しぶりに見付けた快い寝床で睡眠を貪ったんだ。


=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中