電話に出ると関口だった。わたしの直属の部下である。もっともわたしの退社は既に決まっているのだから「だった」と言った方が正しいのだろう。
「どうした?」
わたしは無力感を隠さなかった。関口もまた、会社に絶望感を持っている一人だ。だから変な期待を持たせてはいけないと思ったのだ。
「なにか忘れ物をしてしまったかな?」
敢えて惚けたことを言ってみた。もはや他人であることを関口に示したかったのだ。だが、実際は自分に言い聞かせたのかもしれない。わたしにはもう、後戻り出来る道は無かった。次の人生を模索する以外、生きていく道は無いのだ。そんなわたしの心中を察してか関口は
「いや、特に」
と短く答えた。わたしはすぐに「じゃあまた」と言って切ろうと思ったし、切るべきなのだ思った。だが、彼の心遣いに感謝すると、つい余計なことを言いたくなってしまった。
「悪いな。もう一緒に戦うことは出来ない。もう、無関係な人間になったんだ」
関口は無言だった。言ったわたし自身も、そんな戯言を無視して欲しいと思った。しかし本来は、戯言と分かっているならわたしの方が言うべきでは無いのだ。だが、わたしはお仕舞いにすることが出来なかった。更に余計な事を言った。
「もっとも会社にいる時から俺は能無しだった。何もしてやれなかった。二代目の馬鹿社長なんて世の中にゴマンといる。みんなそういう中で頑張っているというのに、俺は逃げ出したんだ」
関口の溜息が聞こえた。長身の彼が大きく肩を落とす様が頭に浮かんだ。余計な話を余計な話を生むものだ。関口はわたしの言葉に感化させられたのか、彼らしくも無いことを言った。
「オレも辞めちゃおうかな」
高校、大学と野球部で鳴らした彼は、元来が前向きな性格だった。そんな彼に後ろ向きな気持ちを抱かせるような会社に未来は無い。それは間違いない。しかし、そう思う一方でわたしは自分にも責任があるように思った。わたしの踏ん切りの悪さが、彼に余計な感情を抱かせてしまっている、そうわたしは自分を戒めた。
 つい昨日までそんなふうに思ったことは無かったのに、そうわたしは思った。昨日までは、すべて会社が悪かったのだ。自分の側に問題があるなど微塵も思わなかった。今にして思えば、それはサラリーマン特有の思考だったのかもしれない。或る意味、家族的な思考。会社にとって自分が欠くべからざる家族の一員である、という考え。そういう幻想が前提となっていたように思えた。
『俺の場合、家族も同じかもしれない』
昨日、妻が事務的な手付きで次々と片付けてくれるのは大いに助かった。わたしは約束の昨日までに、何一つ自分の荷物をまとめていなかったのだ。しかし事務的なその様は、既にわたしを必要としていない、という宣言のようにも見えた。互いに支え合い必要とし合ってきたという思いは、幻想でしかなかった。事実、妻も娘もわたしを離れた方が幸せになれるのだ。
 そんなことを考えている間に関口の次の言葉が聞こえてきた。
「もうこの歳じゃ再就職は難しいと思うけど、選ばなきゃ仕事はあると思うんですよ」
「そうだな。しかし厳しいぞ。俺もなんどか職業安定所に行ってみたが簡単じゃない。特に企画部門なんかに居た人間は潰しが効かない」
「オレもう、ゴミ掃除でもなんでもいいっすよ」
思わず「お前のように優秀な男が勿体無い」と言った自分の言葉の無意味さに、わたしは唇を噛んだ。
 もはや会社に未来が無いのは明白だった。生まれてこの方、仕事というものをしたことが無いボンクラが、会社の業績が悪化したことを理由に実権を握ったのだ。事業計画から始まり人事に至るまで無知の産物を積み重ねた。それで業績が悪化しない方が不思議なのだ。
 関口のような男が、そんな会社に居続けるべきでは無いと、わたしは思った。しかし、わたしは「辞めろ」とは言えなかった。そんな彼にもまともな再就職の道があるとも思えなかったからだ。関口が優秀と言っても、所詮は三流企業の中の話である。会社から一歩出た途端、大衆の中に埋没してしまうに違いないのだ。



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