『暖かい』
あの日、藁の中で眠ってしまった時と同じだ。藁は太陽の匂いがした。太陽光線の熱をずっとそこへ溜め込んでいたみたいに暖かだった。まるで快適なベッドのようで、僕はすぐに眠ってしまったんだ。隣りで由紀が怒っている声がしたけど、僕は気にせず眠気に身を任せた。やがて由紀の声も聞こえなくなって、気付くと僕の隣りで寝ていた。その時、僕も由紀も父と母の離婚のことや、母とマサ兄の不倫のことなんてすっかり忘れていた。ただ藁の上の心地良さに、ひとときの幸福を感じていたんだ。
 でも、たしか目覚めた時、夜になっていた。涼しい風が吹き、辺りは真っ暗になっていたんだ・・・
 いや、まだ僕は藁の中にいる。とても暖かい。まだ夜じゃないのか?それとも?まるで快適なベッドにいるみたいだ。
「そうですよ」
突然、僕に話し掛ける声がした。驚いた僕は、慌てて目を開いた。開いた僕の目の前に広がったのは白色。限りない白の世界だった。『どこだここは?』混乱した頭をなんとか整理しようと思ったが、眠りから覚めたばかりの僕の脳みそは思うように機能してくれなかった。
「まだ、起きないで下さい。無理しないで」
僕の肩を上から押さえ付ける手があった。その手の先には白い腕があり、腕の先は当たり前のことだが身体につながっていた。身体は、やはり真っ白だった。
「どこか痛いところはありませんか?」
ふいに目の前に、ぼんやりとだが肌色が覆い被さって見えた。
「大丈夫ですか?これ分かりますか?」
指だった。指が一本立てられていた。
「指だろ」
と僕が答えると、すぐに質問が帰ってきた。
「本数は?何本?」
「一本だろ」
「そう、じゃこれは?」
「三本」
「ああ、良かった。大丈夫ね」
ようやく僕の頭は正常な機能を回復したらしい。目の前で看護婦が僕を見下ろしたまま、三本立てた指を下ろしていた。
「どこか具合悪いところありませんか?」
「ん?ああ。今はなんとも」
「今はって言うと?」
そう聞かれ、例の頭痛の件を言い出しそうになって、やめた。まだ秘密にしておいた方が良い気がしたからだ。特に根拠は無いが、なんとなくそんな気がした。
 僕は逆に看護婦に訊ねてみた。
「ところで、なんでこんな所で寝てるんだろ?」
その質問に看護婦は腕を組み、しばらく沈黙した。沈黙は僕を不安にしたが、看護婦はそれほど深い意味をもってそうした訳では無いらしい。ありのままを答えてくれた。
「倒れたんですよ。駅でね。駅長さんが知らせてくれたんですよ。救急車が付いた時はもう意識を失ってたって」
 そうだった。僕は電車が小布施駅に到着した途端、ひどい頭痛に襲われたのだ。乗客は少なく、一番近くに座っていた女性でも車両の反対側のシートだった。その他にあと三人。みんな僕から離れた場所に座っていた。お陰で僕の異常には誰も気付かなかった。僕は静かに立ち上がると扉の前で開くのを待ち構えた。電車は静かに止まった。同時に扉が開くと僕は頭を抑えたまま降車した。そのまま電車が出るのを見送ると、ホームのベンチに腰掛けた。しかし頭痛は止みはしない。ますますズキズキしてきて、もはやこれは自力での回復は期待出来ないような気がしてきた。そうは言っても病院がどこにあるかも知らない。ベンチから顔を起こすと、目の前に改札口が見えた。駅員らしき初老の男がこちらの様子を窺っている。僕は手を上げて彼に助けを求めようと思った。しかし次の瞬間、稲妻のような痛みが頭の中を駆け巡り僕は意識を失ったんだ。
「そうか。あれから救急車で運ばれたなんてまったく気付かなかった」
僕の言葉に看護婦はうんうんと何度も頷いていた。
 それにしてもこの頭痛は何だろう?痛みは尋常ではないし、どんどん痛さが増している。正確に言うなら痛みが深くなっている。痛み始めた頃は、脳というより頭の表面に電流が走った。それがいつの間にか明らかに脳内に苦痛が走るようになった。いよいよ脳の中心が震源地となるのは時間の問題だろう。嫌な予感がした。僕の頭の中には恐ろしい病名が幾つも浮かんでは消えた。このまま自分は朽ち果ててしまうのか?
 朽ち果てるまでの間、自分は誰に世話になるんだろう?妻と別れ、こんな遠くの病院でたった一人病魔を闘うのだろうか?会社を辞めてしまえば保険証も効かないと聞いたこともある。僕は突然、心細くなった。
『会社からも家族からも捨てられた途端、このザマだ!』
僕は舌打ちした。
 突然、笑いが込み上げてきた。なにが「僕」だ。私は子供時代の夢からまだ醒めていない自分が滑稽に思えた。思えば、いつしか人生の折り返し地点を越えていた。平均寿命を考えれば、既に越えてから数年を経ていた。あと何年かで死に往く者も増えていくだろう。そんな、いつ朽ち果ててもおかしくない年齢になった自分を「僕」などと本当に可笑しいことだ。
 きっと人生の全てを失ったこと、捨ててきた筈の故郷に帰ってきたことで、私の精神はノスタルジーの中に埋没しようとしているのかもしれない。しばらくはそれも悪くないかもしれない、そう思った。そうすることでもう一度ここから始めることが出来るのかもしれない。
「何を?」
声の方を振り向くと先ほどの看護婦がいた。私は自分の心の内を覗かれた気がして自分でも滑稽に思うくらい驚いてしまった。
「何を食べます?」
「え?」
「だからお昼です」
「昼?」
「ええ、もう3時過ぎだから時間外なんだけどさっき給食室に聞いたらおにぎりとかトーストなら作れるそうです。どうします?」
「え、ああ。そうだね。じゃ、トーストにして貰おうかな」
「はい。じゃ、コーヒーとジャムと簡単なサラダでいいですね」
部屋を出て行く看護婦の後姿を見ながら、さすが田舎の病院だけあって親切なものだと感心した。もっとも、それも料金の中に入っているのだろう。こんな田舎で総合病院を経営していくのはさぞかし大変に違いない。
 そういう余計な心配をする自分が滑稽だった。いつもそうだが、余計な心配は人生に隘路を作るだけだ。そうやって会社にも居られなくなったのだ。そう思うと苦笑いが込み上げてきた。わたしは立ち上がり窓から外を眺めた。寒空の下、何人かが病院の庭を歩いていた。最近は手術後、なるべく歩かせるらしい。みな一様に背を丸めて歩いているのは手術箇所を庇いながら歩いているのだろう。そんなことを考えているうち、見知らぬ看護婦が入ってきた。随分と若い娘だった。
「お昼お持ちしました」
そう言う彼女のネームプレートを見ると「研修」と書かれていた。看護学校の学生らしい。まだ慣れていないのか、患者と余計な話をしてはいけないと言われているのかトレイを置くとそそくさと部屋を出て行ってしまった。トレイに乗ったトーストやサラダを見ると急に腹が減った。ベッドに戻り、早速頬張った。
「北原さん」
最初の看護婦が現れた。私がパンを齧っているのを見ると
「おいしいですか?」
と訊ねるので私は黙ったまま頷いた。
「ところで北原さん。先生が退院しても構わないと言ってますがどうします?」
「へえ、もう退院してもいいんだね?」
「ええ、眠ってる間にいろいろ検査させて頂きましたがこれといって問題は無いんです」
「そう、それは良かった」
私は他人事のようなことを言いながら、あの頭痛のことを考えた。あれが問題が無いなんてことは有り得ない、ということは、大した検査はしてないに違いない。しかし看護婦の話は私の予想外のものだった。
「一応、脳内をMRIで見たりしたんですがね。今みたいな寒い時期は、その、出血とかで倒れる場合が多いんです。でも何も無かったそうですよ」
それから看護婦はこうも続けた。
「あと、脳の病気も疑って見たんですが、特に何も無かったそうです」
MRIで見ても何もない?じゃ、この痛みは何なのだ?そんな僕の疑問を察して看護婦は答えた。
「過労によるものじゃないかって先生は仰ってます。退院される前に先生から説明しますので詳しいことはその時、聞いて下さい。


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