辺りが十分に暗くなるのを待っていたように月が山の麓から顔を出した。月は濃い橙色に輝き、いつもに増して大きく見えた。
「やった!満月だ」
由紀が小さく叫んだ。
 僕らはかくれんぼにも鬼ごっこにも疲れ果て、社の木の階段に並んで腰を降ろしていた。どれくらい待ったか分からないけれど、暗がりが辺りに満ち始めてから月が顔を出すまで、僕らは随分と焦らされた気がする。だからようやく顔を現した時はなんだかホッとしたんだ。
 由紀は僕の手を握ると、素早く立ち上がった。
「さ、早く行こ」
僕らは目的の場所、境内の入り口の鳥居の下に向かった。木の階段から30メートルほど走ったところにそれはあった。僕と由紀は鳥居の下に立つとすぐ手を合わせ、目を閉じた。
「ところでたく、何てお祈りしてるの?」
由紀の声がした。僕が目を開くと由紀も目を開いて僕を見詰めていた。僕は少し戸惑った。僕はただ手を合わせて「お願いします」と心の中で呟いていただけだった。たしかに何をお願いするのか考えていなかったのだ。どうやら由紀も同じだったらしい。
「『元に戻して下さい』ってお願いしたら?」
僕の意見に由紀は「うーん」と腕組みしてから
「ただ、元に戻して下さいじゃ駄目だわ」
と言った。
「だって母ちゃんが浮気したってことは、もう父ちゃんと仲が悪くなってたってことだもの」
由紀の言うとおりだと思った。でも、じゃどうすればいいのかさっぱり検討が付かなかった。
 それは由紀も同じだったらしい。由紀は不安そうに空を見詰めていた。真っ暗な空には巨大な月が煌々と輝いていた。まるで世界中で僕らだけを照らしているような錯覚に陥るくらい、それは僕らの真上にいた。由紀の不安は、その月が僕らの真上、つまり鳥居の上を通過してしまう前に、お祈りをしなければならないことだった。
 由紀が何か呟いた。でもあんまり小さい声だったから、何を言っているのか聞こえなかった。普段、誰よりもはきはき喋る由紀だったから、余計に聞き取り難かった。僕は由紀の顔を見詰め、首を傾げて見せた。
「時間を遡れないかな?」
想像もしていなかった言葉に僕はなんて反応していいのか分からなかった。
「時間を遡るって、何のために?」
そう問い返すのがやっとだった。由紀は僕の問いに困惑した表情を浮かべながら、また空を見た。月はいよいよ鳥居の真上に達していた。あと少しで鳥居の上を通過してしまう。それまでに願い事をしないと僕らの望みは叶わないという。

「父ちゃんと母ちゃんの仲が悪くなり始めた日に戻るの。そうすれば仲が悪くなった理由も分かるし仲直りさせる方法も見つかるわ」
「仲が悪くなり始めた日って、そんなの分からないよ。だって父ちゃんなんていっつっも機嫌悪かったから、オレ、なんで母ちゃんこんな人と結婚したんだろう?って不思議に思ってたんだもの」
それは僕にとって越えられない二律背反で、そんな僕の父親を由紀の母が愛したから僕らは家族になったんだ。
「父ちゃんのことをそんな風に言っちゃ駄目」
この6年間、何回も繰り返されてきた会話だった。由紀は決して僕の父を悪くは言わなかった。僕の知る限り、父が家にいる時の由紀はいつも無口だった。そんな由紀が父を悪く言わないのは、僕ら家族がいつまでも家族でいるためにはそうするのが一番良いと考えているからだろうと僕は思った。それだけ由紀は僕ら家族を大切に考えているのだと。
 僕はそんな由紀の気持ちは分かったけど、やっぱり父と母がいつまで愛し合っていて、いつから仲が悪くなり始めたのかなんて分からなかった。
「大丈夫、二人の仲が悪くなったのって、そんなに前じゃないと思う」
由紀は確信を持っているように言った。
「一年前はまだ大丈夫だったと思うよ」
「一年前?何だよそれ?」
「みんなでスキーに行ったじゃない。貸別荘に泊まって」
「ああ、あのおんぼろ別荘な。うち貧乏なくせに無理するからひどい目にあったよ。隙間だらけで薪も足りなくて夜雪が吹き込んで大変だったなあ。よく遭難しなかったって・・・」
僕は由紀が泣きそうな顔をしてるのに気付いた。鈍感な僕は、由紀の気持ちなんてさっぱり分からなかったんだ。由紀にとってあの旅行は、とても大切な思い出だったに違いない。僕ら家族は、貧しかったのと、父の仕事に休みが無かった為に外出することがまったく無かったのだ。僕はそれでも気にならなかったが、由紀は賢い子供に特有の強い好奇心から、友達の誰かが遠くへ遊びに行ってきたという話をすると熱心に聞いていたものだ。
だから由紀にとってあのスキー旅行は特別なものだったのだと思う。ただ一度の家族旅行。それはただ、父が知り合いの旅行代理店から無理矢理押し付けられた旅行券で行ったものだ。それでも、それは由紀がずっと望んできたことだったのかもしれない。
ふと、由紀が涙が出そうな顔を左右に小さく振ったのに気付いた。
「隙間って、そこからヤマネが顔出して可愛かったじゃない」
僕は、そんな由紀を傷付けたみたいでばつが悪かった。でも、僕は馬鹿だったからその時、意地を張ってしまった。もっと由紀の気持ちを考えて、話せば良かったのに。
「ヤマネ?ヤマネなんて冬眠してるよ。あれはネズミ。山ネズミさ」
「山ネズミを略してヤマネって言うんじゃないの?」
「馬っ鹿じゃねえの?」
「もう、どうしてタクってそんなに悪くばっかり考えるのよ!楽しかったんだからいいじゃない!」
「ふん!夜中に吹雪が吹き込むようなボロ屋敷に泊まってネズミに馬鹿にされて何が楽しいもんか!その上、レンタルスキーだって今時見たことも無い古くてぼろっちい奴だったし」
「でも、曲がれるようになったわ」
「一生のうちもう行かないんだろうから、一日券くらい買えばいいのに、ケチって回数券にするから、せっかく調子の出たところでお仕舞いだもんな。ふん、我が家なんてそんなもんさ!」
「でも、楽しかったでしょ!父ちゃんも母ちゃんもずっと笑ってたじゃない。たくみだって笑ってたじゃない。とっても楽しかったじゃない」
いつの間にか由紀が泣いているのに気付いた。僕はますますばつが悪くなった。僕がつまらない意地を張ったためにこんなに由紀を傷付けてしまったんだ。
 誰でも自分の大切な思い出を否定されたくない、そんなことはこの時の僕でも分かっていた。でも僕は、自分が言ったことの無神経さに気付いていた分、意地を張ってしまった。だから由紀の顔に涙の筋が流れるたびに僕の心に痛みが走った。
「私たちの家族、みんな仲良しで楽しかったじゃない。それをそんな風にひどく言わないで」
由紀が「たく馬鹿あ」と小さく叫んだが、きちんとした言葉にならなかった。鼻水で鼻が塞がってしまっているようだった。由紀は子供のように泣いた。
 僕は由紀が泣くのを見るのは何年ぶりだろう?と思った。随分と昔、まだ由紀と母が僕の家に来たばかりの頃、由紀が泣いたのを見た気がする。でもそれ以来、由紀は泣かなくなった。勝気で前向きな由紀は、どんな時も最後は良い結果になると確信しているように見えた。だから何事も良い方に考えるのが由紀だった。でも今、そんな由紀にもどうしようも無いことが起こった。父母の離婚という僕ら子供にはどうしようも無い出来事。僕らにはどう考えても前向きな答えが見付からない。それでも由紀は、答えを見付けようとしていたのだ。
 そんな由紀の気持ちを僕は少しも分からず文句ばかり言っていた。僕は「ごめん」と心の中で呟いた。でも、口には出せなかった。

僕らは一緒に目を瞑り、両手を合わせて願った。空の月は鳥居の上を通り過ぎようとしていた。僕らは大分長いこと願っていた。でも何も変化は無かった。
「何も起きないね」
暗闇に包まれた境内は ただ静まり返っているだけだった。
「やっぱり駄目なのかなあ」
僕らが空を見るとあれほど大きかった満月が、薄ぼんやりとしてきた。月に雲が掛かって来たらしい。雲は見る間に月を覆い、辺りは真っ暗になった。何も見えないほどの暗黒に僕らは包まれ立ち竦んだ。洞窟の中にいるようだった。社も鳥居も見えず、帰るべき参道も見えなくなった。僕らはしっかりと手をつなぎ、地面に座り込んだ。


=おすすめブログ=
「知ってトクする保険の知識」連載中