それはかつて何度も見た光景だった。いや、正確に言うと僕は毎日それを見ていたんだ。
「行って来るね!」
由紀が明るい声を放った。母が、優しい笑顔で僕らを見送った。もう6年もそんな光景を見ているというのに、僕はこの母娘のこんな姿をみるのが好きだった。
 由紀の、放課後に僕を拘束する癖には辟易したけれど、彼女は僕の自慢の妹だった。同級生だし、誰が見ても由紀の方が大人っぽいから、誰かに由紀のことを「妹」と言うと笑われる。でも僕の方が一ヶ月早く生まれたのは確かなのだから、僕が兄であることに間違いは無いんだ。
 僕は由紀に比べのろまだったから、朝はいつも由紀に遅れて玄関を出た。ポッケにハンカチを入れたり、カバンを担いだり、靴下を履くのに由紀より時間が掛かったんだ。だから僕が玄関を出ると由紀はいつもブランコに腰掛けていた。コの字に建った長屋に囲まれた場所に立つブランコは毎朝、ベンチの代わりをしていた。
 毎朝、このブランコを見るたびに意地悪だった由紀を思い出すんだ。由紀はいつも僕に敵意を剥き出しにしていた。特に母が僕を甘えさせている時など、今にも喰い付くんじゃないかって顔をしてた。ことあるごとに僕を悪者にしようとしてた。だからブランコから落ちた時だって、僕のせいにしたんだ。でも母はまるで取り合ってくれなかったから、由紀は涙が枯れるんじゃないかと思うくらい泣いた。駄々を捏ねて泣いた。母が僕を叱るまで泣き止まないと脅したりもした。僕に、思いつく限りの罵声を浴びせた。でも、まだ小学校一年生の由紀には、思い付く罵声と言ってもそう多くは無かったから、本人は余計に悲しくなってしまったらしい。そういう時間を経て、僕らはすっかり兄妹になったんだ。それからの由紀は、相変わらず僕を馬鹿にしてはいたけれど、僕を兄として受け入れてくれた。どう違うって?良く分からないけど、僕が母に愛されることを許した、ということだろうか。僕が母の膝に凭れていても、風呂で母に身体を洗って貰っていても、以前のように不機嫌にはならなかった。なにごとも無いかのように今日、小学校で起こった出来事や、放課後した遊びのことなどを母に話していた。

 でも、この光景を見るのもあと僅かだった。母は父に許されなかったのだ。母と由紀はこの家を出て行く。
 授業がすべて終わり放課後になった。僕は由紀が何をしたいかが分かっていた。鳥居へ行くんだ。山の斜面の参道を登った神社の、鳥居へ。
 僕らはそこで願掛けをした。髭おじにそそのかされた形で。もっとも髭おじを悪く言うと由紀が怒ったから、僕は彼については何も言わない。でも、もし由紀が言うようにあの日、僕が「父が居なくなるように」なんて願ったから、父母が分かれることになったのだとすれば、そうさせたのは髭おじだ。髭おじが「満月の晩、鳥居の下で願い事をすれば叶うかもしれない」なんて、中途半端なことを言うからいけないんだ。絶対叶う、って言ってくれれば、不用意な願いはしなかった。もっと厳選して願掛けしたんだ。逆に髭おじが、あんなこと言わなければ願い事をすることも無かったんだ。そうすれば僕ら家族はこれまでどおり安泰で暮らせていたかもしれない。
 でも、おかしいことが一つある。僕の願いが叶った為に父母が分かれることになったのだとすれば、僕はどうなるのだ?願いの通りになるとすれば、僕は父を置いて母と由紀とともにこの家を出て行くことになるのだ。しかし現実にそれはあり得ない。父母が分かれることで、血の繋がらない僕が二人と一緒に暮らす”理由”が無くなってしまうのだから。
「行こ」
下駄箱の前に座り込み、僕が靴を穿いていると頭上で由紀の声がした。僕はそれに頷き、立ち上がった。僕らは手に手を取るようにして玄関を飛び出した。背後で声が聞こえた。
「お二人さーん、仲良過ぎー!」
「見せ付けるなあ、もう!」
「両親が離婚したんだから、結婚できるんだよ君たちはあ!」
子供は残酷だ。無責任な言葉で囃し立てられながら、でも僕らはそんなことを気にも止めず、目的の場所へ走った。
 もっとも、慌てて向かっても夕陽が沈む時間にならなくちゃ目的は達成できないんだ。途中でそれに気付いた僕は、由紀に「歩こうよ」と提案した。クラスで一番、脚の早い由紀にくっついて走るのはかなり大変だったから。由紀は僕に言われるがまま走るのを止めた。
 僕らはゆっくりと歩き始めた。まだ時間はあったから。その時までには、まだ十分な時間があったんだ。
 僕らは、無為に時間を浪費し、時が来るのを待った。それでも僕らは、僕らが待っている時間が来るよりずっと前にその場所に着いた。子供には浪費しても終わらない時間が与えられているらしい。そんな時間を贅沢に持て余しながら、僕らは待ちくたびれてさえいた。
 ある日、どんなに努力しても時の速度に追い付けないことに気付くのだ。何もかもが取り返しの付かない状態で、過去に消え去っていってしまった時、僕らは大人になるのかもしれない。僕は今日に限って、自分の中にそんな年寄り染みた考えが浮かび上がって来ることに疑問を感じていた。

 僕らは暇つぶしに、境内で何かやろうということになった。初め由紀がかけっこ(走競争の方言)をやろうと言い出したが、6年生の僕らには境内は狭かったし、学年で一番早い由紀に僕が叶う訳が無かった。「繰り返しやれば勝てるかもよ」と由紀が言ったが僕にしてみれば負けの決まった勝負はやる気が出なかった。そこで色々考えた結果、単純だがかくれんぼをすることになった。じゃんけんをするとまず由紀が鬼になった。
 由紀が境内で一番太い杉の木に顔を当て「十」を数え始めた。僕は、ぐるりと境内を見渡し、社の影に隠れることにした。在り来たりだが、境内の周囲に他に隠れる場所が見当たらなかったのだ。由紀が「八」と言ったのを聞いて僕は走り出した。一度、社とは反対の方向へ走ってから、今度は足音を立てないように社の裏へ向かった。由紀の耳を眩ますためだ。なるべく大回りをして、境内の縁に沿って社の裏へ回った。由紀の数える声が小さく聞こえた。「四」と言った。僕はそれそれ慌てて隠れ場所を探さなければと思った。社の裏から建物の下に潜り込もうか、と思って床下を覗くとそこは蜘蛛の巣だらけで途端に侵入する気が失せた。そこを諦めた僕が辺りを見回すと手頃な隠れ場所になりそうなものが目に入った。それは倉庫だ。物置くらいの大きさの倉庫。数日前、由紀と一緒に来た時に見付けた。中には藁が沢山、仕舞いこんであった。そこに潜り込んでしまえば由紀も容易に見付けることは出来無いだろう。
 あの時、由紀が壊してしまった南京錠はそのままだった。僕は南京錠を外すとなるべく音を立てないように引き戸を開けた。少し開いたところで中に誰かの気配がした。気配は一人ではなかった。

「中に誰かいる」
僕は、僕の心の声に戦慄した。心の底から震えが来た。なにをそんなに恐れたのか?僕には分からなかった。僕は何も見なかった気がする。だからその気配が人間のものだったか、それとも犬や猫だったのか、それすら思い出せない。でもその引き戸の向こうには僕の知らない場所、僕が認めたくない世界があるような気がしたんだ。だから僕はただその気配に気圧され恐れおののき、ただその場に立ち尽くしていた。
 それはひどく長い時間に感じられた。ずっと僕は硬直した身体の中で、心も凍り付いたように動かせなかった。唯一、僕は開け放った引き戸が気になっていた。引き戸を閉めなければ、とそればかり気にしていた。なぜそんなことが気になったのか?やがて僕を探しに来る由紀に見せたくなかったのだろうか?しかしそれとは違う何かだった気がする。違う何かが、僕に引き戸を閉めるよう命じていた。
 でも僕の身体は何かに金縛りにあったように動かなかった。引き戸はずっと開けられたままで、僕の左手にはずっしりと重い壊れた南京錠がぶら下がっていた。役立たずな鍵がなぜこれほど重いのか、僕は疑問に思った。
「たく」
誰かが背中を叩いた。振り返ると由紀がいた。

「見付けたよ!」
由紀は満面の笑みを浮かべていた。父母の離婚が決まってから沈みがちだった由紀の久しぶりの笑顔だった。勉強も運動もいつも一番で、勝気な由紀には笑顔の方がよく似合った。その笑顔があんまり輝いて見えたから、その時、僕は不条理というものをよく理解したんだ。
 僕らはこの6年間、幾つもの衝突を経て兄妹になった。僕らの家族としての絆は、血の繋がった家族のそれと遜色なんてありはしない。でも、間もなくそんな僕らは引き裂かれる。親たちの勝手な都合によってだ。思えば六年前、由紀が僕の家で一緒に暮らすことになったことだって、由紀が望んだことではない。あの頃、由紀が酷く意地悪く見えたのは、由紀なりに不条理な現実と戦っていたのだ。由紀から見たら、同い年の僕だって不条理な現実の一部にしか見えなかったんだ。そしてあと後数日で、由紀は同じことをもう一度繰り返さなければならなくなるのだ。
 僕はふと気が付いた。この引き戸の向こうに何があるのかを。それは大人たちの勝手な都合。僕ら子供に知らされない理屈かもしれない。
「どうしたの?」
由紀が僕に近付いてきた。僕は慌てて引き戸を閉めようと由紀に背を向けた。しかし引き戸は閉まっていた。それだけじゃない。あの壊れた南京錠も掛かったままだ。僕は狐に摘まれたような気分だった。ほんのつい今しがた僕が南京錠を外し、引き戸を開け、そして中から湧き上がるように現れたある予感に僕は苛まれていたんだ。でも、今僕の目の前の引き戸は閉まっていた。もちろん南京錠も外れてはいない。開けられた形跡すら無かった。
「どうしたの?」
由紀は不思議そうに、僕が見詰める南京錠に顔を近付けた。
「この間の南京錠だねえ、これがどうしたの?」
あんまり由紀が顔を近づけるものだから、僕は由紀に引き戸の中まで見られてしまうような気がした。僕は力任せに慌てて由紀を押し戻した。
「きゃ!なにするの」
転びそうになった由紀は
「乱暴なたくね。訳わかんない」
と頬を膨らませた。
「何やったたのよう。もう簡単に見付かって。ちゃんと隠れないとつまんないよ。でも、たくが鬼だからね!」
「分かってるよう」
僕らは社の裏から境内へ向かって歩き始めた。鬼が目隠しをする杉の木に向かって。
「ねえ、やっぱり鬼ごっこやめにしない?」
突然、由紀が言った。悪戯っぽい笑みを浮かべている。由紀は最近、こういう表情を見せるようになった。由紀は、僕の妹なのに、ずっと僕より大人びていた。だからいつも悪戯するのは僕で、その僕を叱るのは由紀と役割が決まっていた。でもいつからだろう?ほんの最近、時としてまるで子供のような顔をするようになった。年齢的にはずっと、そして今も子供の筈なのに、由紀はようやく最近、子供になったような気がした。それが何故なのか。僕にはまるで分からなかった。
「やめて何をするの?」
僕の問いに由紀は「えへへ」と小さく笑うと、僕らの後方を指差した。
「え?何?」
「さっきの」
「さっきの?」
「倉庫」
「倉庫?」
「あそこでこの間みたいにお昼ねしよ。まだ暗くなるまで時間あるしさ」
僕は慌てて首を左右に振った。僕の目には倉庫の中にまだあの何かが潜んでいるのが見えた。それは黒い渦のように、倉庫の奥で暗いエネルギーを発していた。もしかしたら魔物かもしれない、と僕は思った。こんな古びた神社の裏にある、汚らしい倉庫だから、妖怪の一匹や二匹いても不思議は無いのかもしれない。
「駄目だよ!、駄目駄目!」
僕は強く否定して、由紀の腕を強く引っ張った。
 由紀は「なんで?」と首を傾げながらも、しぶしぶ僕に着いて来た。

 それから僕らは夕闇が迫るまでずっとかくれんぼをした。でも僕はもう社の裏へは行かなかったし、由紀にも行かせなかった。


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