「誰か助けに来てくれないかな?」
僕は不安になった。こんな暗い場所に来たことが無かった。
 ついさっきまで月明かりに照らされいた境内が途端に真っ暗になったのだが、これは月が雲に隠されただけではない暗さだった。普段は、田舎町とはいえ街灯や家の明かりが暗がりを照らしていた。すべての光を遮断したような暗さを僕は初めて体験した。
 それは由紀も同じだったらしい。普段冷静な由紀が息を乱していた。
「ねえ、帰ろ」
僕は心細くなって由紀にそう訴えた。
「馬鹿ね、どうやって帰るの?真っ暗で方向も分からないよ」
「でも、さっきこっち向いて立ってたから、このまま前に進めば石段の方じゃないかな?」
由紀は、由紀らしくもない弱弱しい声で「う、うん」と曖昧な答えをした。
 僕らは真っ暗闇の中を肩を抱き合いながらゆっくりと進んだ。摺り足で地面の感触を確かめながら、参道の方へ向かっているつもりだった。でも、まるで見当違いの方へ進んでいたらしい。僕らはすぐ藪に足を突っ込んだ。
「ああ〜あ!」
僕は情け無い悲鳴を上げてしまった。でも由紀だって僕の上腕を強く掴んで震えていた。僕らは腰が抜けたように、地面に腰を降ろした。もう動き回るのは無理じゃないかと思ったんだ。
「どうしよう?」
由紀に訊ねてみたが、何も答えてくれなかった。由紀だってどうしていいのか分からないのだ。
 空を眺めてみた。今や僕らに分かるのは上下の感覚だけだ。僕らは救いを求めるように空を見上げた。でも、空は相変わらず真っ黒で、さっきまで僕らの真上で輝いていた月は影すら見えなかった。
 しばらくすると夜の闇が寒さを運んできた。僕らは、寄り添って互いの身体を温めあった。由紀が僕の右の上腕にしがみ付いてきた。

「なんだろう?」
突然、由紀が言った。
「え?何が?」
「ほら、耳を澄ませて」
「え?耳?」
由紀は僕の口を手の平で塞いだ。黙って耳に集中しろ、ということらしい。
「ほら!」
また由紀が言ったが、僕には何も聞こえなかった。でも突然、
ゴゴゴッ
という音がした。僕は由紀の顔(があると思われる暗闇)を見詰めた。由紀が僕に額を寄せて
「聞こえるでしょ?」
と確信を持ったように言った。
 それは地鳴りのような音だった。暗闇の中に置き去りにされた僕らには、怪獣の唸り声のようにも聞こえた。それは断続的に繰り返し聞こえた。聞いてるうちに、唸りは次第に大きさを増し、もう耳を澄まさなくてもはっきり聞こえるほどになった。
「なんだろう?怖いよ」
地震かな?それにしては揺れないね」
僕らは必死で目を凝らし辺りを見回してみたが、暗闇は僕らの視力を奪ったかのように何も見せてくれなかった。僕らは目隠しされて放置された子供のようにただ怯えるしかなかった。次に来る何かが、それが僕らにとって良いことであろうと悪いことであろうと、早く訪れてくれた方がいいと思った。ずっとこのままいる方が余程不安だったのだ。
「ああ、もうヤダよう!」
僕が叫んだと同時に、大地を割るような大きな音がした。同時に、辺り一面が真っ白に輝いた。
「雷だわ」
音の正体がはっきりして由紀は落ち着きを取り戻したらしい。僕はと言えば突然聞こえた落雷の音に腰を抜かしていた。
「に、逃げよう」
僕は参道の方へ駆け出そうとした。落雷がもたらした光は、一瞬辺り一面を照らし出したのだ。僕には参道の方向が分かったのだ。半分抜けた腰でなんとか立ち上がると参道へ向かって走りだそうとした。
「待ちなさいよ」
由紀が僕のTシャツを後ろから引っ張った。「なにするんだよう?」と僕が由紀の手を払おうとすると
「ホント馬鹿ねえ、たくは。雷鳴ってるところへ出てったら、それこそ死んじゃうよ」
「え?」
「だって参道に出れば坊主山でしょ。この辺りで一番高い場所だもの。そんなところをフラフラ歩いてたら雷様の格好の餌食になっちゃうわ」
「ほんと?!」
「当たり前じゃない」
「じゃどうするの?まさかずっとここにいるの?なんだか寒くなってきたし、もう帰りたいよう」
僕の台詞に由紀は大きく溜息を付いた。いつもの、しっかりものの由紀に戻ったらしい。
 でも由紀もすぐには答えは見付からないようだった。少し思案し、それから僕を見た。
「まだ雷はやみそうもないわ」
たしかに空の上ではゴロゴロ音がし、時折、黒雲の間を白い閃光が走った。
「やんだとしても、きっと雨が来る。それもこの調子だと土砂降りになるわ」
僕は「ええー」と大きな声を出してしまった。由紀に不満をぶつけてもしょうがないのに。
 それから由紀はまた考え込んだ。考えては顔を上げて辺りを見回した。雲の合間から漏れる雷の閃光が漏れていた。それが照明の代わりになり、薄っすらと辺りの景色が見えた。
「雨が来るまでにどこかへ入りましょ」
僕はまた「ええー」と叫んでしまった。
「しょうがないでしょ。このまま無理して帰ったら雷に打たれて死ぬか、途中で大雨に降られて風邪を引くか」
「分かったよう。でもどこにする?」
「うーん、社の中かな?」
「鍵が掛かってて駄目だよ。前に入ろうとして鍵が開かないかやってみたけど無理だった」
「じゃ、床下?」
「やだよ。さっきかくれんぼの時、覗いてみたら蜘蛛の巣だらけだった」
「じゃあ、」と言って由紀は考え込んでいた。その時、僕には一つの場所が思い浮かんだけど、僕はそれを気付かないフリをした。由紀が気付かないよう、心の中で祈ったりした。でも「鍵」とか「かくれんぼ」とか、その場所を連想する言葉を僕は不用意にも連発してしまっていた。頭のいい由紀が気付かない筈が無かった。
「社の裏の倉庫へ行こうよ」
僕は「しまった」と思ったが、由紀は既に歩き始めていた。雷を避けるよう境内の縁に生える杉の木に添って歩いていた。僕は由紀のすぐ後を追いながら、なんとか思いとどまらせようと言葉を探した。
「あそこはやめた方がいいよ」
取り合えず僕の口から出たのは、そんな言葉だった。すぐさま由紀の返事が帰って来た。
「なんで?」
「なんでって、えーっと、なんというか、あそこは鍵が・・・」
「ちょうどいいじゃない。鍵が壊れてて。簡単に中へ入れるわ」
「いや、そうじゃなくって、えーと、あそこは蜘蛛の巣、そう蜘蛛の巣だらけだよ。床下なんてもんじゃなかったよ」
「え?この前入った時は綺麗だったじゃない」
「いやあ・・あれから蜘蛛が入り込んだらしくて、今日は蜘蛛の巣だらけ・・・」
「あんたなんで知ってんの?」
突然、由紀が足を止め、振り返った。
「さっき、中を見てないじゃない。鍵は掛かったままだった」
僕は由紀の言葉に気圧されて返答できなかった。
「ねえ、何?あそこになにかあるの?さっきかくれんぼの時だって、わたしがやめて倉庫でお昼ねしよう、って言った時も嫌がってたわよね。何?何なの?」
由紀は僕の胸倉を掴まんという勢いで問い詰めてきた。僕は、どう答え良いのか分からなかった。実際、何も見てはいない。開いた引き戸の向こうに、誰かと誰かの気配がしたけれど、見た訳じゃないんだ。
 それに、不思議なのは僕が引き戸を閉めようとして、でも身体が固くなって閉められなくて、そこへ由紀が来て、僕は慌てて閉めようとしたんだ。由紀にその光景を見せたくなかったから。でもその時、引き戸は閉まっていた。そして由紀が言うように鍵も閉まっていたんだ。僕は狐にでも化かされたのだろうか?
「しょうがないわねえ、答えられないんなら行くよ!」
僕は仕方なく由紀の後に付いて行った。

 社の裏手へ出ると、荒地の中ほどに倉庫が立っていた。磨りガラスの窓からは、光が漏れていない。ということは、もう誰もいないらしい。もっとも初めから居なかったのかも知れない。僕が白昼夢のようなものを見たか、薄暗い倉庫の奥にお化けがいて僕を脅かしたのか、そのどちらかもしれない。僕は馬鹿らしくなってそれ以上、考えるのをやめた。
「開いた」
数日前と同じように由紀が金具を引っ張ると南京錠は簡単に開いてしまった。中がすっかり錆び付いて使い物にならないのだ。
 由紀が引き戸を開ける時、僕は心臓がどきどきした。さっきかくれんぼをしていた時に見た光景――いや僕は何も見ていないから、感じた雰囲気と言った方が良いのだろうか?――僕らが見てはいけない何かがそこにあったらどうしよう?と思ったんだ。
「真っ暗ね」
由紀が呟く声に僕は飛び上がって驚いた。
「何してんの?」
不思議そうに由紀は言った。僕は由紀の声が倉庫の中の何かの音かと勘違いしたのだ。真っ暗な倉庫の中は静まり返っていた。
「どこかに・・・」
由紀が何かを探しているようだった。
「ないかなあ・・・」
「何が?」
「スイッチよ。電気の」
「そんなのあるかな?」
「あるよ。だって作業台がある。こんな窓の少ない倉庫じゃ、仕事をするには昼間だって暗いでしょ」
「そりゃそうだ」
僕は阿呆のように納得した。
 ふたりで随分と長い間、壁を手で触れてスイッチを探した。だけどなかなか見付からなかった。やがて僕が、探すのに飽きた時、それは見付かった。
「ここ、ここだよ」
え、どこ?と由紀が喜んで近付いて来た時、僕はスイッチを押した。蛍光灯が二三度瞬いた後、倉庫の中が明るくなった。
「柱の裏側にあった。ぶら下がろうとしたら手に触れたんだ」
僕は見付けた経緯を説明した。

 気付くと倉庫の外は静まり返っていた。時折、小さく雷の鳴る音がゴロゴロと聞こえた。それも遠ざかっていく感じだった。
「雷、行っちゃったね」
僕は「帰ろう」という意味で由紀に言った。でも由紀はゆっくりと首を左右に振った。それと同時に、倉庫の外で大きな音がした。それは雷の音ではない。バケツをひっくり返したような音。土砂降りの雨が訪れたのだ。
 突如、降り始めた雨は、激しく倉庫の屋根を叩いた。
「壊れないかなあ?」
僕は不安になった。なにしろ簡単な作りの倉庫だから、大粒の雨に派手な音を立てていた。
「大丈夫よ。トタン屋根だから音が響くのよ。それだけ」
たしかに音は派手だが、水が浸入してくる気配は無かった。
「ほら、慌てて帰らなくて良かったでしょう。帰ってたら今頃濡れ鼠よ」
そりゃそうかもしれないが、ここに居たっていつになった家に帰れるか分からないじゃないか、と僕は思った。それに、激しい雨が倉庫の熱を奪っているらしい。だんだん寒くなってきた。夜になってただでさえ寒いのに、冷たい雨が僕らを凍えさせようとしていた。
「寒いね」
僕らは同時に言った。僕らはすぐに山と積まれた藁を発見した。それは数日前、潜り込んだ藁だ。太陽の熱がそのまま保たれているように暖かだった。
「あそこに入ろうよ」
一番高く積まれた、ちょうど僕らの身長ほどに積まれた藁の間に潜り込んだ。
「暖かいね」
由紀が笑った。その笑顔を見て僕も笑った。藁は太陽の光の匂いが充満していた。予想していた通りの暖かだった。藁は、太陽の光を保存できるのかも知れない、そう思った。それくらい、まるで藁そのものが太陽のように暖かだったのだ。
「なんか眠くなっちゃったね」
どちらからともなくそう言うと自然と目蓋が落ちてきた。意識が薄らいできた時、由紀が
「目が覚めた時、全部元通りになってるかも」
と呟いたのが聞こえた気がした。でもその直後、僕の意識は消えてしまった。


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