「目ぇが覚めたかや?」
老婆の声でわたしは目覚めた。
「まったく突然『うん、うん』唸り出すからびっくりしたで。こっちゃ久しぶりに酔って気持ちよーく寝てたっつーのによ」
わたしは布団の中にいた。婆さんが敷いてくれたのだ。婆さんは文句を言いながら立ち上げると台所に向かった。年寄りの一人暮らしにぎりぎり必要なスペースしかない部屋だった。それでも台所は独立した室になっていた。婆さんは湯を沸かしていたらしい。戻った時には盆に急須と湯呑みを乗せていた。
 婆さんの淹れた茶は渋かったが、酒明けの朝にはちょうど良い。わたしは渋みを味わうように少しずつ口に含んだ。
「おめえ、どっか悪いんか?」
率直な訊き方は、無神経から来ているものではなかった。むしろ様々な気遣いの果てに、呆けたような物言いの仕方を選んだに違いない。幾人もの死と付き合ってきた者の為せる業だ。
「そういえば昨夜も病院の方から来たな。まさか逃げてきたんじゃあるめ?」
わたしは「そんな馬鹿な」と一笑した。
「昼間、駅で倒れたんだ。気付くとあの病院にいた。なんといったか、新生病院だったかな?」
「ああ、あそこの先生らはみーんな神様のために働いておられる。よかったなー、いい医者に観てもらって」
「うーん、そうかなあ?実は原因がさっぱり分からない」
「原因とは?」
「ああ、二三日前から時々頭痛するようになった。少しずつその頻度が多くなり、痛みも酷くなってきた。この町の駅に着いた時、その痛みが最高潮に達した訳だ」
言いながらわたしは、昨夜の頭痛は駅でのそれより軽かったような気がした。酔っていた為だろうか?
 婆さんは横を向いたまま聞いていた。一見、興味が無いように見えるがこれも婆さんの気遣いだろう。
「その痛みの原因が分からんのか?」
「昨日、意識を失っている間に病院へ担ぎ込まれ、いろいろ検査されたらしいが、特に悪いところは無かったそうだ」
もっとも頭痛のことを医者に話してないから、詳しい検査はしてないのだろう。そう思ったが、特に婆さんには言わなかった。こんな片田舎で入院しなくとも東京に帰れば幾らでも検査施設が整った病院があるのだ。
 婆さんはわたしが持つ湯呑み茶碗に急須で茶を継ぎ足してくれた。
「いずれにせよ、一度ちゃーんと調べてもらった方がいい。ありゃちょっとなあ、凄かったぞ。『うん、うん、うぐぐぐ』って死ぬのかと思ったわ」
笑いながらまた立ち上がった。台所に入るとなにやら鍋で似ているようだった。しばらくして器に入れて持ってきたものを見ると、粥だった。よほど体調が悪く見えたらしい。わたしは少し可笑しく思ったが、せっかくの婆さんの思いやりだからありがたく食べた。
「うめえか?」
「ん?ああ、うまい。この漬物と合う」
「ああ?野沢菜か?まだ漬けたばっかだからなあ、味が染みてねくねえか?」
「いや、この位の浅漬けの方が口に合うよ」
「おめえの父ちゃんは古漬けが好きだったなあ。こう、もうなんつーかしょっぱくってなあ、何杯も飯が喰えるくれーの奴だ」
うちへ来て、茶飲んじゃー喰ってたわ、と老婆は言った。わたしはふと、違和感を感じた。あの父が近所の家へ茶を飲みに行くなどということがあったのだろうか?まだ小学生のわたしの記憶は、朝帰って来ては怒鳴るか、寝るかのどちらかだった。
「うちに居ずらかったってのもあるんだろーなあ。うちへ良く来ちゃあ、正夫の帰るのをジッと待ってた」
『正夫?』わたしは思い掛けぬ婆さんの言葉に首を傾げた。
 正夫とは、当時わたしたちがマサ兄と呼んでいた父の弟のことだ。マサ兄が義母と不倫したためにわたしたち家族はばらばらになったのだ。
 それにしても父がマサ兄が帰るのをジッと待ってたとはどういうことだ。わたしの記憶にない話ばかりだった。
「待っていたって、ここでかい?」
「ああ、あ、まあおめえはまだ子供だったからな。親のそんな話、今更聞いても仕方あるめえ」
婆さんは再び立ち上がると台所に向かった。ちょうど湯が沸騰した音がした。わたしは老婆が茶を淹れ替えるまでの間、もう少し詳しく訊こうか悩んだ。わたしの知らない過去の話がひどく気になったのだ。だが、老婆の言うのはもっともなことで、親達は子供のわたしに知られないように努力していたに違いない。今更そんな話を蒸し返すことに何の意味も無いのだ。
 婆さんが淹れ替えてくれた茶を一口啜ったところで、
「ありがとう。世話になった。今夜、帰ろうと思う」
と伝えた。婆さんはうんうんと頷いて
「そっか、また来ることがありゃあな。いつでも寄っとくれ。昨日みたいに泊まってってもいい」
そう言った。しかし言ってから何かを思い出したように顔色を変えた。
「そうだ。おめえたちの家だが、あれから誰も住む者が無くってな。ほら、あれだろ。あんな死に方しちまったからな。縁起が悪いってんで借り手が付かなかったんだな。さりとて、わしがここに住んでるから役場でもぶっ壊す訳にゃいかんってことで、そのまんまにしてあるんだ」
『死に方?』わたしはまるで思い当たることの無い言葉に再び疑問を持った。しかし婆さんはそんなわたしを無視するように話を続けた。
「ぶっ壊さねえとなると誰も中の荷物を処分すらしようとしなかった。住む人間が居なくなっても、皆お前の家に関わることが嫌だったんだろ。簡単に言うと管理放棄だな。今でもなあ、あん時のまんま手付かずだ」
それから婆さんは立ち上がり茶箪笥の引き出しを探った。
「ほれ、このとおり鍵もわしが預かっとる」
たしかに見覚えがあった。わたしたちの家の鍵だ。



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