「はっ!」
 息が止まったように思えたのだ。続けてわたしは、慌しく深呼吸した。ぜいぜい、と音を立てながらの呼吸に、一つ向こうの席の女性が嫌な顔をした。
 しばらく呼吸を整えると。ここが新幹線の中だと理解できた。上田までは、この三人掛けの椅子にはわたししか座っていなかったが、どこかの駅で女性が座ったらしい。一つ置いた向こう側、通路側の席に腰掛けていた。車窓の外を見ると広い平地が広がっていた。どうやら眠っている間に群馬を通り過ぎたらしい。景色からすると埼玉県に入っっていた。
 なんという夢だったのだろう?まったく夢と言うのは時に突拍子も無い妄想を作り出す。昨日、今日と続けて父と由紀を見舞いに行き、いずれも満足に会えなかった。そのせいだろう、由紀と父が不気味な形で夢に現れた。
「失礼」
 通路側に座る女性に声を掛け、わたしは席を立った。女性は露骨に顔を顰めてみせたが、致し方ない。昼の日中から新幹線の中で転寝するのは良いとして、魘(うな)されて目覚めるのはいただけない。わたしはなるべく女性に触れないよう気を付けながら通路に出た。
 取り合えず洗面台に行き、水で顔を洗った。上気しているのは暖房のせいばかりではない。酷い目に苦しめられた後だ。それもこれも環境の変化がもたらしたものだろう。何しろ、会社の解雇と家庭の解雇、離婚が同時に訪れたのだから。びしょ濡れになった顔が鏡に映っていた。
「なんて顔してるんだ」
濡れ鼠とはこういう顔をしてるのだろう、そう思えるくらい惨めな顔をしていた。
 これが、ほんの数日前まで会社を背負っているなどと思い込んで奔走していたというのだから、お笑い種だ。それも家庭も顧みずに。時代錯誤もいいことに、妻も娘も理解してくれていると信じていたのだ。その結果がこの様だ。会社からは解雇され、妻と娘からは見放された。
 わたしは鏡の中のわたしに向かって嘲笑を浮かべた。鏡の中の情け無い男の顔も歪んだ。それは笑いというより、蔑み。誰を?自分自身を蔑んでいるのだ。
 ほんの数日で、男の顔をいうものはこんなにも変わってしまうものなのか?まるで世を妬んで生きているクズのような男じゃないか。しかしこれがわたしの本当の顔なのだ。そう思うと勘違いも悪くはない。少なくとも数日前のわたしは生き生きとした顔をしていた。そもそも勘違い無しに生きている人間などどれだけいるというのか?皆、自分が作った幻想の中で、日々自分を正当化しながら生きているだけじゃないか?
 幻想を抱いたまま、老いて行くのが一番幸せなことかもしれない。わたしは事実に気付いた今、自分の身の置き所が分からなくなった。自分が何者でも無いことに気付いてしまった。会社はわたしを必要としてはおらず、また妻もわたしを必要としてはいなかった。
 鏡を見て、わたしは納得した。当然と言えば当然のことだ。こんな惨めな顔の男など、誰も必要としないに違いない。
 そしてサラリーマンの場合、そうした精神的な問題だけでは終わらないのだ。酷く物理的な問題、物理的といえば聞こえはいいが、要するに衣食住だ。わたしはこれからどこに住むのか?そして食べたり、服を買ったりするための金をどうするか?そんな問題を解決しないことには、これから先、生きていくことさえ出来ない。

「失礼」
再び、通路側に座る女性に声を掛けると、わたしは一番窓側の席に腰を降ろした。車窓を見るのが癖になってしまったらしい。洗面所に行っている間に随分と外は暗くなっていた。まだそれほど遅い時間ではないのに、冬の只中は夕闇の訪れが早い。窓ガラスが浅い夕闇を背に、うっすらとわたしの顔を映し出していた。わたしは目を背け、両手の平で顔を覆った。つい先ほど洗面所で十二分のその顔を拝んできたばかりなのだ。また同じように黒い気持ちを繰り返したくは無かった。
 手の平の中で目を瞑ると、何かが薄っすらと浮かび上がった。目を凝らしてみたが、それが何かは分からなかった。その時ふいに耳元で声がした。
『健介さん』
それは角の婆さんの声だった。耳から目へと注意を戻すと、そこに見えたのは父の顔だ。いや、先ほど嫌というほど見た顔だ。なんと瓜二つじゃないか。それはその筈だ。わたしはこの北原健介の息子なのだから。
『父と同じく、惨めな人生が待っているというのか?』
わたしは耳元に聞こえた婆さんの声に問うた。しかし婆さんは何も答えてはくれなかった。
ピピピピッ
という電子音が響いた。通路側の女性がまた嫌な顔をした。わたしはポケットから携帯電話を取り出した。メールだった。案の定、大森からの返信だった。
[あなたは誰でしょう?]
文面にはそれだけが書かれていた。意味が分からず、しかし怒りが込み上げてきた。退社した途端、こういう態度に出るのだろうか?
「失礼」
とまた通路側の女性に声を掛け、デッキに出た。女性は「また?」と今度は口に出して不快感を露にした。しかしわたしはそんなことに構う気にはなれなかった。
 携帯で総務課の直通番号を押した。すぐに
「もしもし」
という小島という女子社員の声がした。まだ入って一年目の社員だ。わたしは特に内容も告げず、大森を出すように言った。小島は
「分かりました」
とだけ言い、受話器を離した。受話器の向こうで大森を呼ぶ声が聞こえる。相手を待たせる時は保留ボタンを押すようにと、何度も言われている筈だが、どうしても覚えられないらしい。しばらく待たされた後、受話器に戻った彼女は
「大森はただ今、打ち合わせ中ですが」
と答えた。そう答えることは分かっていた。受話器の向こうで大森が「打ち合わせ中とでも言っといてくれ」と叫んでいるのが聞こえていた。怒りと落胆が同時に全身を包み、身体中が熱くなるのを抑えられなかった。
 数日前まで、大森はわたしを慕っていた筈だった。しかしそれはわたしの勝手な思い込みだったらしい。単なる上司に対するおべっかをそう思い込んでいたに過ぎない。わたしは大森に対し憤りを憶えた。
 しかし、そうとばかりも考えていられない。取り合えず今夜の通夜に行く準備が必要なのだ。
 わたしは気を取り直し、関口の携帯番号を押した。
「はい、もしもし」
くぐもった声が聞こえた。
「今、大丈夫かな?」
と訊ねると
「あ、ちょっと待って下さい」
と答えてから何かが擦れる音がした。移動してるらしい。
「済みません。お待たせしました。今、会議中だったもので」
わたしは関口にわたしの荷物のことを話した。妻から会社宛に送られているであろうこと、次の落ち着き先が決まるまで預かっていて欲しいこと、取り合えず今日は礼服だけを取りに行きたいこと、などだ。関口が電話の向こうで、その都度頷いているのが分かった。
「分かりました。今日は何時ごろ来られるのですか?」
「そうだな。3時半といえば良いんじゃないかな」
「了解しました」
関口は事務的な口調で電話を切った。 

「うえのー、うえのー、どちら様もお忘れ物の無いよう・・・・」
アナウンスの声でわたしは我に返った。慌てて頭の上の棚から荷物を引っ張り出すと、立ち上がった。
「失礼」
とまた、通路側に座る女性に声を掛けたが、女性は横を向いたままわたしと目を会わそうともしなかった。わたしは大き目のバッグを肩に担ぎ、コートを手に抱えてデッキに向かった。
 地下三階のホームは静まり返っていた。降りたのもわたしと他、数名だけだった。わたし以外の客は皆、上階へ向かうエスカレータに乗り込んだ。だが、わたしはこの地価ホームの高い天井を長い間見上げていた。
『間違えた・・・』
東京駅で降りる筈が、慌てていたらしい。寝起きで判断力が鈍っていたのかもしれない。もっとも東銀座にある会社までは、この上野駅からでも東京からでもそう変わらない。わたしは気を取り直しエスカレータに乗り込んだ。
 いつ出来たのだろう?と思った。随分と長く急な傾斜だった。一本目が終わり、また次のに乗り換えた。今度も長く傾斜がきつい。ここは地下三階と言っても、深度は相当なものに違いない。以前はこんな感じじゃあ無かった。1階のホームに乗り付け、降り口から真っ直ぐ歩くと中央改札口だった。
 三本目のエレベーターを降りると、壁際に売店の並ぶ通路を折り返すように歩いた。右斜めの方向に中央改札口が見えた。ふと、右手を見ると地上階のホームが並んでいた。
『そうそう、昔はここへ乗り付けたんだ。ここからだとほら、すぐ出口・・・』
そこは一般車両のホームだった。そこに乗り付けたとすれば、まだ長野新幹線が通る前で、信越線の時代だろう。となると高校を卒業し、大学に入るために上京した時だ。そして、夏や冬に帰省する際にも何度も乗った筈だ。
 しかし、わたしにはいつそれに乗ってきたのか?という記憶が無かった。まだ長野新幹線が出来て10年足らずだから、それまでは何度となく乗ったに違いなのに。呆然と、地上階のホームを見詰めた。
『頭が呆けたかな?』
40を過ぎると記憶力が途端に落ちる、と誰かが言っていた。きっとそのせいだろう。或いは、ここ数日続く頭痛のせいかもしれない。

 山手線で有楽町に出て、そこから歩いた。少し距離はあるが一本道だ。だが、会社の前に着いて時計を見ると4時を少し回っていた。関口に約束したのは3時半だった。
 もっとも30分ばかりの遅刻だから、関口もそう困るまいと思いながらエレベータに乗った。ほんの数日前までわたしの席があった4階に向かったのだった。扉が開くと目の前にドアがあった。ドアには変わらず「企画部」の札が掛かっていた。
 わたしはドアを開けた。同時に
「よう、久しぶり。ははは、まだ三日ぶりか」
とおどけてみせた。20名ばかりの企画部の皆が、いつものように笑いを返してくれる。そう思ったのに、わたしの声を聞いている者は誰もいなかった。
 皆、電話に出たり、打合せをしたり、書類に目を通したりと、自分の業務から目を離す様子は無かった。正確に言うとわたしに感(かま)けている暇は誰にも無いようだった。
 それでもわたしは
「ああ!悪いが、関口はいるかな?」
と声を掛けた。だが誰も返事はしてくれない。
「おい、佐藤。関口はどこかな?」
佐藤はチラとわたしの顔を見るとすぐさま視線を机に落とし、無言で受話器を取った。内線を掛けているところを見るとどうやら社内にいる関口に連絡しているらしい。
佐藤は
「ああ、今来るそうです」
とわたしに視線を向けずに告げた。
 居所の無い空気がわたしの周りを支配していた。オフィスの誰もが、まるでわたしがいないかのように振舞っていた。かつて、この階の主であったわたしの言葉に、皆が注目してくれた。かつてといってもほんの数日前のことだ。冗談の好きなわたしが、それを言うと皆が笑ってくれたのだ。だが、それらがまるで嘘だったかのように思えてきた。
 なにより、わたしを無視して仕事を続けているのかと思いきや、彼ら同士で時に冗談を言い合ったりして笑っていた。目の前にわたしがいるというのに、その笑いはまるでわたしに聞こえないというように、無遠慮なものだった。
「ああ、北原さん」
関口が階段口から現れた。一つ上の階から降りてきたらしい。
「済みません。お待たせして」
「また会議か?」
わたしはたった今、関口が現れた階段口を顎で指し、顔を歪めて笑った。こういう笑いを嘲笑というのだろう、と自分ながらに思った。
 関口は一瞬、困ったように顔を強張らせると話を変えるように自分の席を指差した。
「荷物、届いてますよ」
「今、お持ちします」と言いながら自分の席に向かった。関口が進む先の数人が無言で関口に視線を送ったように見えた。そして関口は歩きながら小さく首を左右に振ったようにも見えた。
 わたしの目の前で関口は、自分の机の向こうにしゃがみ込み、それから立ち上がった。りんご箱大のダンボール箱を一つ、机の上に置いた。それから同じようにしゃがみ込み、もう一つ。どうやらわたしの荷物はその二つだけらしい。関口はそれを縦に積むと両手で持ち上げた。当然、段ボール箱に視界を遮られ進行方向がまともに見えない。だが段ボール箱の脇から覗き込むようにして関口はこちらへ進んできた。その間、何人もの背中を通り抜けて。関口に背中を向けた誰もがそれを手伝おうとしなかった。見て見ぬふりをしていると言って間違いなかった。そしてそれは関口に対してではなく、わたしに対する悪意と予想できた。
「お待たせしました」
関口の声はわたしには聞こえなかった。わたしは他の社員たちの仕打ちに身体中の血が頭に登っていたのだ。
 彼らが元々、わたしと敵対関係にあったというなら、わたしも腹を立てたりなどしない。しかし、ほんの数日前、わたしがここを去る前は、彼らはわたしを慕っていたのではなかった?それらは全て嘘だったというのか。
 わたしは目を瞑り、数日前の企画部の光景を思い出していた。朝、わたしが声を掛けると誰もが「おはようございます」と答えてくれた。士気を上げるために冗談を言うわたしに皆が笑って、、、資料を探していると「手伝いましょうか?」と声を掛けてくれて、、、貴明社長の不甲斐なさや無能さ、不真面目さを嘆いていると、誰もが同調してくれた、、、それらが嘘だったというのか?
 わたしの表情から関口はそれと気付いたらしい。
「あ、北原さん。下の階の応接で確認しましょう」
関口らしい心遣いだった。わたしは今にも企画部の彼らに対し怒鳴り散らしたい気分だったのだ。
「さ、北原さん」
という関口の言葉に頷きながらも、わたしは我慢ならなかった。振り向きざま、
「まったく冷たい連中だ・・・」
と、つい恨み言を口走った。隣りで関口が目を閉じたのが見えた。
 企画部の室内が異様に静まり返ったのが背中から伝わってきた。
「辞めた後まで会社に迷惑掛けんなよ!」
佐藤の声だ。関口が小さく「佐藤」と名を呼び制した。
「個人的な荷物だろ?なんで辞めた会社に送り付けてくるんだよ?」
「やめろ、佐藤!」
「いつまで会社に甘えてんだよ?」
「だからやめろって佐藤!」
関口が制したが佐藤は収まらなかった。まるで不良少年のような暴力的な視線をわたしに向けてきた。
「これ以上、迷惑掛けないで下さい」
突然、黄色い声がした。声の方を見ると留美子だった。留美子の視線は、嫌悪に満ちているように見えた。
わたしを歳の離れた兄のように慕ってくれていた筈だった。何度か、飲み会の後に腕にしがみ付いてきたことがある。恋人と長続きしない性質らしい。危うく男女の仲になりそうになったことさえあった。その彼女が今、汚物に対するように、吐き捨てた。
「部長のお陰で企画部は社長から目を付けられてるんです」
留美子の言葉に同調する者がいた。
「そうだ。まるで俺らまで社長の悪口言ってたみたいに思われてるよ」
「たまんねーよな!」という声が聞こえた。わたしはその声の主が誰であるか確認しようとは思わなかった。既に頭の中が混乱していた。
「あんたがさあ!一人で社長の悪口言ってたんだろ!『そう思うだろ!』なんて強要するから、仕方なく頷いただけだのによ!」
強要?意外な言葉だった。わたしはそんなことをしたつもりは無い。
「おい、お前!」
声の主は木下だった。
「お前、じゃあな。あの貴明の馬鹿が社長でこの会社がやっていけると思うってのか?」
関口が「北原さん!」と言ってわたしを制したが、わたしは収まらなかった。
「やっていけっこねえだろ!」
わたしの声に全員が言葉を失った。彼らはわたしの正論に反論できない、そう思ったのだ。しかし、後になって考えてみると、わたしは何も見えていなかったのだ。
 突然、わたしの思いも寄らぬ声が上がった。
「社長なんて関係ねえよ」
声の方を見ると山本だった。別の方から笑い声が聞こえた。高村だ。
「ほんっと。俺たち社長なんて話したこともねえもの。知らねえよな」
高村は細身の身体を伸ばし、わたしを見下ろすように続けた。
「馬鹿社長だかなんだか知らねえけど、俺たちはその人から給料もらってるんだからよ。あんたじゃねえんだよ。それにどんなに馬鹿だって、ほとんど会ったこともねえし、話したこともねえんだから関係ねえよ。俺たちは自分の仕事をするだけだって」
高村の言葉が終わる前に方々から声が上がった。
「そう、そう、あんた僕らに『今の社長じゃ会社が潰れる』って何度も言ったけど、僕らにどうしろって言うんですか?一緒になって社長の悪口言えば良かったんですか?そんなことしてる暇ありませんよ。僕らは会社に仕事をしに来て、それで給料を貰ってるんだ。人の悪口なんて言ってる暇無いんですよ」
「あたしたちがさ、会社変えられる訳?あたしたちが『社長を替えて欲しい』って言えば変わるの?」
「結局のところ部長、あなた社長を追い出して自分が社長になろうと思ってたとか?それで私たちを利用しようとしてたんじゃ無いですか?」
わたしにとっては信じがたい光景だった。数日前まで皆、わたしに同調してくれたのは、真っ赤な嘘だったというのだろうか。
 わたしは我慢できず、彼らに向かって叫んでいた。
「ちょっと待ってくれ」
今日初めて、彼らはわたしの顔を見てくれた。わたしは少し安堵した。ようやく話を聞いてもらえる気がした。
「わたしが自分の出世の為に君たちを利用するなんてことある訳ないだろう?」
皆それを分かってくれる筈だ、という確信があった。わたしは彼らのためにこそ貴明と戦って来たのだから。
「冷静に考えてくれ。君らだって会社がいずれ倒産してしまっては困るだろう。それには今の社長では、貴明では駄目なんだ」
沈黙が流れた。皆がわたしの言葉を咀嚼しているように見えた。受け止めてくれさえすれば分かってくれる筈だ、とわたしは思った。
 しかし、ふいに笑い声が聞こえた。それは小さい笑いだった。しかし、時とともに笑いは渦となってそこにいるほぼ全員が笑いに同調し始めた。
「この人ぜんぜん分かってねえよ」
誰かが言った。
「人の話聞いてんのかね?」
別の誰かが言った。
 再び留美子の声がした。振り向くと留美子は怒りの表情でわたしを睨み付けていた。
「みんな知ってるんですよ」
留美子の口調は驚くほど厳しかった。わたしは首を傾げた。正直、彼女の言っている意味が分からなかったのだ。
「私たちがみんな社長を嫌ってるって言ったんでしょ?常務や副社長にそうやって言ったんでしょ?取引先にまで行ってそう言ったんでしょ?それって卑怯じゃないですか?」
「え?卑怯?」
「そうでしょ?なんで私たちのせいにするんですか?社長を嫌いなのは部長でしょ?」
反論する言葉が無かった。
「へへへ、ネタは上がってるんだぜ」
「ああ、常務も『北原には困ったもんだ』って言ってた。ほんと困ったよ。社長がさ、企画部は全員解雇だ!って言ってきた時には」
「部長あんた責任も取れないくせしてデカイことばっかり言うもんじゃねえよ」
「結局、負けて出て行くんだから、これ以上、俺らを巻き込むなよな」

わたしは関口からダンボール箱を譲り受けるとエレベータの乗り口へ向かった。
「ったく、喧嘩して辞めた会社へ荷物送ってくるなんてどういう神経してんだよ!」
そういう罵声が浴びせられたが、今更反論する言葉も見付からなかった。もはやわたしはこの会社とは関係の無い人間になったのだから。
 エレベータが開き、中へ乗り込むと壁にダンボールを押し付けて片手を開け、ボタンに指を向けた。初め「1F」と押そうと思ったが、思い直して逆に「R」を押した。
 屋上でエレベータを降りると、そのまま正面に歩いた。行き止まりまで歩くとそこでダンボールを下ろし、手摺りに手を掛けた。そこには見慣れた光景が拡がっていた。
 正面には役所の古い建物があった。それはわたしが入社した時から変わらぬ姿で建っていた。もっとも10年ほど前に一度、外壁の塗り替えていた。しかしその効果も長続きはしなかったらしい。すっかり古びた建物に似合いの煤けた色になっていた。その右隣は金融機関のビルだ。1〜3階がビル名になっている損保会社の店舗となっており、そこから上は保証会社や不動産金融会社、ファイナンス会社など関連業種の事務所が入居していた。茶色で窓の少ない外観は、いつかテレビで観たサバンナにある蟻塚を思わせた。中で軍隊蟻が警戒してるんじゃないか?と思わせるくらい排他的な印象の建物だ。
 左斜め前は雑居ビルだ。年がら年中、テナントが変わっており、会社名を覚えきれない。だが唯一、5階に入居する探偵社はずっと以前から変わらなかった。
 若い頃、それはまだ結婚する前のことだ、帰宅途中に寄った焼き鳥屋でその探偵社の所長と名乗る男と一緒になったことがある。初老の男は白粉を塗ったように顔が白く、表情が読み取れないほど顔に肉が無かった。
「変装し過ぎて自分の顔を無くしちまったのさ」
と男は嘯(うそぶ)いた。
「顔が変われば、なんだか別の人間になったみたいでな。嫌なことも全部忘れる。それがいいんだよ」
「なんか嫌なことあるんですか?」
「ん?こんな仕事してりゃあ、毎日嫌なことだらけだ」
「面白いのかと思った。他人の秘密を覗き見する訳でしょ?」
「秘密?秘密といえば聞こえはいいが、まあ秘密なんて程度のいいもんじゃあねえなあ。人間のアラだ。人間のアラぁ探すのがオレらの仕事さね。アラって奴ぁそりゃあ醜いもんだ」
「へえ・・・それが嫌なんですか。所詮、他人事じゃないんですか?」
「他人事?そりゃそうだがな、醜いものは見たくねえ。それが人情ってもんじゃねえか?」
「うーん、分からないな。醜いものたって、探偵さんが扱うものは酒を飲んで吐いたゲロじゃあなくって、形の無いものでしょ?」
「そう!それだ。ゲロ。いやあ、いい表現だ。まさにゲロなんだ。それをな、忘れられるんだよ。別の人間に変装した瞬間に、前の仕事で見た人間たちのゲロを綺麗さっぱり忘れちまえるんだよなあ」
「所長さん!勘弁してくれよ。他のお客さんが気持ち悪いってよ!」と店主が遮ったところで所長との会話は終わったと記憶している。
 ふいに風が吹いた気がした。振り向いたが、無風の空が拡がっているだけだ。空の下にはビルの屋上が碁盤の目のように広がっていた。容積率の関係でどのビルも同じ高さになってしまうのだ。そして道路の区画に沿ってそれらは規則正しく建っていた。
 それにしてもどれも古びた屋上だ。わたしが社会人になって初めてこの屋上に上がった時と、ビルの数はさして変わらない。ただ、それらが埃にまみれ、雨露による水染みが広がり、日光に晒されて塗装が禿げ上がり、色褪せた壁がそれらを必死に支えていた。
 屋上が形作る碁盤の目を見ていると、そこを三段跳びのように飛び越えて行けるような気がしてきた。どこまでも飛び越えて、会社という理不尽なから空間から解放されるのではないか?と思えてきた。ふと、もしや柴崎専務も同じように考えたのではあるまいか?という思いが湧き上がってきた。そして柴崎さんは人生の大部分を捧げた会社から、あっけなく去っていった。だが、去った先には何も無かったのかもしれない。理不尽な空間すら無かったのかもしれない。それはわたしも同じだ。
 手摺りから、下を覗いてみた。古びたビル群の下を走る中途半端な幅員の道路は、飲み屋街のそれのように始終汚れていたが、ここから見るとまるでおもちゃの道路のように、汚れたものは何一つ見えなかった。時折通る車が、道路脇に立ち並ぶ電柱の避けて蛇行していた。普段は歩行の邪魔に思えるそれも、ここからは面白く見えた。
「二人続けてなんて勘弁してくれよな」
ふいに背後から声を掛けられ、わたしはひどく動揺した。声の主は貴明社長だった。
「まったく会社を辞めてまで、なんで迷惑を掛けるのかねえ?」
嫌味を含んだ言葉だった。彼はいつもそうだ。自己主張と他人の否定以外、頭の中に無いらしい。それにしても通夜の日に、死人を貶(けな)すとは見下げたものだ。
「ふん!そんなに恨みがましい顔で見るなって。一言言っておくが、俺が殺したんじゃねえからな。柴崎は自分で勝手に死んだんだ。それも会社を辞めてもう何ヶ月だ?てっきりどこかの会社に再就職したものと思ってたよ。それがおい、びっくりさせるなって言うんだよ」
相変わらず自分の都合しか考えない物言いだった。わたしは怒りより落胆の思いに胸の内が占められた。
「まったく柴崎といい、お前といい会社の中を掻き回すだけ掻き回しておいて、やっと辞めてくれたかと思ったら、思い出したように会社に現れる。挙句の果てに恨みがましく自殺までしてみせてくれる・・・まったくどういうつもりなんだか理解出来ねえよ」
貴様などに理解出来る訳が無い、とわたしは喉元まで湧き上がった言葉を呑み込んだ。こいつになど言っても仕方の無いことなのだ。歳こそ六十を越えているが何の苦労も知らずに社長になり、仕事らしい仕事をしたことが無い。それが不況になった途端に社員の中に戦犯を見付けさんざんに責め立てる。その筆頭に名指しされたのが柴崎さんだった。そしてわたしか。だが、最後まで会社を改革しようと考えていたわたしたちが戦犯であろう筈も無かった。結局、わたしたちは戦犯というより、貴明の思い通りにならぬ人材に過ぎなかったのだ。
「いい加減なあ、好きにさせてくれよ。お前らがなあ、何十年にも渡って俺を馬鹿にしてなあ、仕事をぜーんぶ取り上げちまったもんだから、俺は何にもして来れなかった。それをな、お前らまるで俺が仕事してねえかのように言ってきただろ?いくらなんでも酷くねえか?」
それはお前が無能だったからだ、会社を守るためには仕方無かった、そう思ったが口には出さなかった。
「でよ、お前らが辞めて、何か会社が変わったか?困ることあったかよ?悪いが、お前らの高い給料が無くなったお陰で会社は大助かりなんだよ」
わたしは身体の血が逆流し始めるのを感じた。
「若い連中にな、ボーナスも出せそうなんだよ。お前らの給料浮いた分でな」
「いくらなんでも失礼でしょう!わたしはともかく、柴崎さんは今夜、通夜なんだ。これ以上、侮辱するな」
「分かってらあ、そんなこと!だがな、お前らは何十年に渡ってそうやって俺を侮辱してきたんだ」
侮辱?侮辱してきたのは貴様の方だろ!この会社を守ってきたのは誰だと思っている?わたしたち社員じゃないか!
 心の中でそう叫んだ時、つい先ほどの光景が目の前に現れた。
『迷惑なんですよ』
わたしが信頼してきた部下達の言葉だ。
『社長を追い出して自分が社長になりたいだけでしょう?』
そんなつもりは毛頭無かった。
『俺たちを巻き込むなよ』
わたしはみんなの為には、貴明は正しくないと思ったからそうしてきたのに・・・・
「若い連中はみんな俺の言うことを聞いてくれる」
勝ち誇ったように貴明が言った。
「さっき、お前が企画部にいた時、俺は階段の影で聞いていた。ふふふ、いくら鈍感なお前だって分かっただろ。迷惑なんだよ。柴崎とお前が迷惑だったんだだよ、若い連中にとってはな」
青い空が揺らめいたように見えた。
「これから若い連中と一緒に会社を立て直すんだ。だから、な、北原よ、お前もう二度と顔を出さないでくれ」
貴明ではなく、わたしの部下たちが言っている聞こえた。正確には、わたしの元・部下たち。彼らが貴明の口を借りてわたしにそう宣告したのだ。
 わたしは重要なことに気付いた。わたしは貴明から追放されたのでは無かった。部下や、同僚、先輩社員らで形作っている会社という世界から捨てられたのだ。
 もしかしたら柴崎さんは、わたしより一足早くそれと気付いたのかもしれない。真面目で一本気な柴崎には絶えられなかったのかもしれない。わたしはと言えば・・・わたしはどうなのだ?自問してみたが答えは返って来なかった。
「おい、もういいだろ。そろそろ下に行って帰ってくれ」
貴明はそう言ってから、わたしが抱える2つのダンボール箱を睨み付けた。
「そんなもの持ってどこへ行く気なんだ」
と吐き捨てた。それから
「しょうがねえ、最後の親切だ」
と言うと内ポケットからメモ帳を出し
「ここへ送り先を書け。総務の人間に送らせてやる」
と言った。
 しばらく、わたしは考えあぐねた。送ってもらうといっても、送ってもらう場所が無いのだ。
「早くしてくれよ」
と貴明にせっつかれ、結果的にわたしが書いたのは実家の住所だった。誰もいないが、角の家の婆さんが受け取ってくれるだろう。
 それからわたしはマジックで「上着類」と書かれたダンボールを開け、礼服を引っ張りだした。封をする間もなく貴明がそれらを抱え上げた。
「もう顔を見せないでくれ」
それが貴明の最後の言葉だった。同時に、この会社の人間がわたしにくれた最後の言葉と言って良かった。


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