※テレビ版の「のだめカンタービレ」の続きを勝手に書いてみました。

『黒い・・・真っ黒な羽。カラス?大きい?なんて大きいカラスなんだ!いや、カラスじゃない。マント?黒いマントだ。マントが空を飛んでいるんだ。いいや違う、空じゃないぞ。これは。道だ。そう道を走ってる。誰かが空を飛ぶように道を走ってるんだ。そう真っ暗な道を、それよりもっと黒い色のマントを着た男が走ってる。誰だ?誰?う・ん?知ってる。オレは確かに彼を知ってる。でも誰だ?誰なんだ?うーん、思い出せない・・・・なんだか気持ち悪い・・・』

がぁ!という自分の声に驚き、伸一は目覚めた。悪い夢を見たらしい。少し飲み過ぎたか?全身、汗ぐっしょりだった。まだ真っ暗だ。柱時計のある位置に目を凝らすが暗過ぎて何も見えなかった。日本と違って部屋が広いのは快適だが、折り重なる闇の距離が長い分だけ夜目が効かない。こういう不便もあるのだ枕もとを探るとすぐに携帯が見付かった。開くと液晶画面が闇に七色の光を照らし出した。

『一時か・・・まだ寝たばかりじゃないか』

師匠であるシュトレーゼマンのコンサート・ツアーの成功を祝う宴に付き合わされ、帰ってきたのはつい一時間ほど前だ。シャワーもそこそこにベッドに潜り込んだのだった。お祭り騒ぎの好きな師匠のお相手も大変だ。ツアーが終了するごとに毎度毎度さながらリオのカーニバルのような騒ぎをやらかすのだから。今夜もパリだというのにこともあろうにキャバクラ。そこを借り切り乱痴気騒ぎのし放題だ。

もっとも日本から出てきていきなり若手指揮者コンクールに優勝できたのも師匠のお陰だし、更にこの一年近く指揮者として大きく成長できたのもまた師匠のお陰だ。まったく人格は最低だが音楽はまさに巨人と呼ばれるに相応しい人だから手に負えない。まあ、あれだけ繊細な音楽を作り上げる人だから緊張をほぐす為には乱痴気騒ぎが必要なのかもしれないな。伸一は暗闇の中で上半身だけ起こしたままそんな風についさっきのことを思い出していた。

突然、隣でもぞもぞと毛布が蠢いた。まるで大きな虫が身体をくねらせたような動きだった。液晶画面が発する光に反応したらしい。

「たく!相変わらず寝相の悪い奴!」

伸一はブツブツ文句を呟きながらその”虫”に毛布を掛け直してやった。それは伸一の妻、いや正式にはまだ婚約者だ。

カフカの小説に出てくる奴みたいに悩んだり苦悶したりすれば少しは成長するだろうに・・・』

もっともいつもの宴に比べると早く帰宅できたのは彼女のお陰だった。違う事務所の所属だというのに師匠のお気に入りということで宴に参加したのだ。が、あっという間に酔い潰れ師匠から撤去指令が出た。未来の夫の上司の前で酔い潰れるとは呆れたものだが、こいつは昔から場を演じるとか、空気を読むといった人に気を使う系の思考回路が故障しているらしい。あるいは生まれた時から欠陥だったのかもしれない。

ともあれその”欠陥”のお陰で今夜はあの気狂いじみた宴から日付けを超えないうちに開放されたのだった。

『まったく成長の無い』

伸一が毛布の淵から覗き込むと闇の中にもそのあどけない顔立ちが浮かび上がった。もう二十代も半ばに近付いているというのにこのあどけなさ。こいつはやはりどこかが故障しているに違いない、と思いつつたちまち幸せな気持ちが込み上げてくる。そんな自分に苦笑いしながら伸一は汗でぐっしょりになったパジャマを着替え再び毛布を被った。

目を瞑ると先週、ネドベド国際音楽祭のエキシビジョンで行ったピアノコンチェルトの音色が聞こえてきた。

ラフマニノフ・ピアノ協奏曲3番

いつの間にこんな難曲を弾きこなすようになったのか?と衝撃を受けたのを思い出した。本来テクニックで勝負するタイプでは無いからどちかというと不得手な部類に入る選曲の筈だった。初めてのピアノコンチェルト。伸一と競演するのも初めてなのだ。伸一はというと師匠についてツアーに回ってる真っ最中であったし相変わらずお節介な師匠が二人に内緒でセッティングしてくれたエキシビションだったから、二人で合わせる時間も当日の午前中しかなかった。不安を抱えながらリハーサルに挑んだ伸一だったが、めぐみの指が鍵盤の上を滑るように動き始めるや驚きに指揮棒を振るのを忘れるほどだった。相変わらずのいきなりのフォルテシモは変わらなかったものの、難曲が要求する超絶技巧を一気に飛び越えホールの空気を別の色へと塗り替えてしまった。恐らくそれはラフマニノフが吸っていた空気、ピアノ協奏曲1番で苦悩を乗り越え喜びに満ち満ちた彼が、充実を享受した日々の空気がホールに充満した気がした。

『いつの間にこんな演奏を・・・・ったく。いつもこれだ。知らぬ間に壁を飛び越していってしまう』

ほんの数ヶ月前コンセルバドワールの恩師にプロとしての演奏を目覚めさせられたばかりというのに、また一足飛びに成長しやがった。まったく、天才とヘボは紙一重とはまさにこいつのことだ・・・めぐみの成長に伸一は目を細めながらも胸の奥から湧き上がる不安と闘わねばならない自分を感じたのだ。

『大丈夫。それは覚悟しているから。おまえと一緒にいるということは、そういうことだから』

伸一は毛布の中で思わず微笑んでしまった。そこへ

「先輩、ふへ、へへへへ」

という寝言が聞こえてきた。

『相変わらず「先輩」なんて呼んでやがる』

伸一は一人呟きながら、幸せな眠りについた。