「はいこれ!」

「な、なんだよ?いきなり」

「なんだ?ってお仕事よ。往復のチケットと宿泊先の地図、それに今回の注意事項」

こいつはいつだってそうだ、伸一は怒りが込み上げてきた。まるでオレをロボットか何かだと思ってやがる、少なくとも人間とは思っていない。そう思うと身体がぶるぶる震えた。エリーゼ、伸一の師匠である世界的指揮者・シュトレーゼマンが所属するマネジメント事務所のCEO。子供のように奔放なシュトレーゼマンを唯一制御できるやり手のマネージャーだ。また、伸一を無理矢理この事務所と契約させた女でもある。昨年までは一マネージャーに過ぎなかったが、これらの成功の功績が認められつい一ヶ月ほど前一気にCEOに抜擢された。

お陰で今のエリーゼは絶好調。只でさえ傲慢な性格の彼女が、今や所属の演奏家をまるでモノ扱いだ。理由や内容の説明無しにいきなりスケジュールを提示してくる。特に若い伸一に対しては問答無用だ。「何しに行くのか?」とか「何の為に?」などという質問など一切受け付けない。文句を言おうものなら「だって音楽家なのだから演奏するのが当たり前でしょう。マネジメント事務所はスケジュールを押さえるのが第一の仕事なのよー」と軽く一蹴されてしまう。なんとなく分かる気もするが、とどのつまりただ人権を無視しているだけなのだ、と伸一は思っていた。民主主義発祥の地を自認するドイツ連邦共和国の国民とは到底思えぬ強権主義者だと。

「こ、今回の、って昨日ツアーが終了したばかりで、今月中は予定を入れない約束じゃあなかったのか?」

「それはコンサートの話でしょ。今日のはコンサートじゃないの」

「じゃ、なんだ?」

「パーティーよ」

「パーティー?マエストロ主催のか?そうか、矢張り昨晩だけでは終わらなかったのか・・・」

「そんなに落胆することは無いわ。マエストロ主催じゃないから安心して。ほら、これがあなた宛に来た御案内。主催は”プラハ演奏家協会”ってなってるわ。あなたも有名になったものね。こんな歴史ある組織の記念パーティーにお呼ばれするなんて」

「マエストロは?一緒に行かなくていいのか?」

「それが最初は一緒に行かせるつもりだったけど、今朝電話があって朝一番の飛行機に乗るって行ってきたの。『なんでそんな早く行くの!?』って訊いたら新しいお店を見付けたんだって。なんでもそこは深夜一時開店で朝九時まで営業やってるそうよ」

「まさか店の名はOne more kiss?」

「あー、そうそう、そのプラハ店だって」

やっぱり、それにしてもプラハにまで支店を出すとは日本はキャバクラまでグローバル戦略に入ったのか。或いは?伸一は大変なことに気付いた気がした。もしや師匠がその戦略の一翼を担っているとしたら・・・いや、もしかしたら師匠こそがその黒幕。自分の演奏活動の拠点に全て出店させているのかもしれない・・・くそ!相変わらずだ・・・・音楽性と人間性に関する関連性は解明されていないのは事実だが、ここまで酷く乖離している人も珍しい。無頼を売り物にする者の多いロック界にだってここまでひどい人はいないに違いない。伸一は大きな溜息を付いた。

「それからはい、こっちはめぐみちゃんのチケット」

「めぐみ?なんで?」

ネドベド国際音楽祭のエキシビジョン、あれが結構話題になったみたいよ」

「へ?へええ、そうか、それは良かった」

「二人揃っての参加はマエストロの希望でもあるから必ずね」

エリーゼはいつもながらの女帝のような視線で伸一を見下ろすのだった。

エリーゼのオフィスを出てエレベータホールに向かう途中、背後から伸一を呼ぶ声がした。振り返るとオリバーだった。エリーゼの秘書兼ボディガードのドイツ人男。近代的高層ビルの天井は異様に高いというのに、オリバーのスキンヘッドはそこを突き破らんばかりに聳えている。いったいこいつの身長は何メートルなんだ?と伸一が改めて驚愕している間にオリバーが追い付いて来た。手になにやら摘んでいる物がある。よく見ると日本の風呂敷包みだった。縦横2〜30センチはあるのだがオリバーの野太い指に摘まれるとまるで子供用スナック菓子のオマケのように見えてしまう。

「なんだそれは?」

「マエストロの忘れ物ヨ。千秋に持ってきて欲しいって」

「なんだ、相変わらずしょうがねえジジイだな」

「貴重なものだから大切にネって」

「なにが貴重なものか!どうせ饅頭かなにかの詰め合わせだろ、どれ、貸してみろ」

オリバーの指から受け取ると、その重量感に伸一は少し戸惑った。

「意外に重いじゃねえか。なんだろうな?まいったな、荷物が一つ増えちまった」

「よろしくネ!千秋。たしかに渡したヨ」

ああ、分かった分かったと呟きながら伸一はエレベータに乗り込んだ。いかついオリバーが精一杯腰を屈めて見送ってくれたが、どうみても怪物映画のフランケンシュタインにしか見えなかった。エレベータが下りだしたところで据付られた鏡を見た。命からがらフランケンシュタインから逃れた主人公がなんで日本の風呂敷を抱えてるというのだ。なんとも間抜けな姿に伸一は溜息を付いた。