※テレビ版の「のだめカンタービレ」の続きを勝手に書いてみました。

(所謂二次小説で、本物とは一切関係ありません)




それから日曜日までの数日間はあっという間に過ぎた。

いろいろ釈然としないことはあったけれど、やっぱり子供の頃育った街は楽しい。三善家の屋敷を出てからホテルを拠点にあっちこっち、学校とか子供の頃母に連れられて行った商店街に行くと、忘れていた記憶が次々に溢れてくる。なんとなく子供の頃はずっと音楽ばっかりやってた気がしてたけれど、それ以外のこと、普通の子供らしいことも結構やってたな。大通りから外れたところにある公園。よく同級生達とサッカーをして遊んだ。それから街外れの小川では魚釣りをするっていって誰かが持ってきた釣り糸を垂れてたっけ。でも一度も釣れた試しはなかったな。石の上を駆けて歩いたり、魚を釣るには騒ぎ過ぎたんだよな。

それにプラハの中心街に位置するこのゼーマン記念ホール。伸一はのだめとともにホールの前に立ち、感慨深げにその威容を眺めていた。チェコが産んだ名ピアニスト、ズデネク・ゼーマンを記念して建てたこのホールはビエラ先生と出会った場所でもある。

「凄い立派なホールですね。美術館みたい」

そうさ、伝統が息衝くこのホールはこうして外から眺めているだけでも気分がいいんだ。

「ここで夕方からお父さんのコンサートが開かれるなんて凄いことですねえ」

う!っと伸一は思わず唸ってしまった。そうだ、父のコンサートに来たのだ。思えばビエラ先生と初めて会った時も父のコンサートだった気がする。美しい思い出の場所に暗雲が立ち込めたように見えた。なんだか嫌ーな予感がする。これといって具体的に思い当たることは何も無いが、先日のパーティで再開してからというもの、おかしなことばかりあると伸一は感じていた。

「まあま、そんなに難しい顔しないで、コンサートまでまだ半日もありますよ。お昼でも食べて、また観光、観光ー」

相変わらず呑気なことを言うめぐみに引き摺られるように伸一は取り合えずレストランへと向かった。


「何がいいですか?」

メニューを見ながらめぐみが訊ねてきた。バカな、と伸一は呟きながら

「おまえ日常会話が出来ても読み書きはさっぱりだろ。ほら、貸してみろ」

メニューを取り上げ逆に

「何がいいんだ?肉か魚か?」

そーですねー、昨日お肉だったからー、なんてめぐみが言っている間に伸一の携帯が鳴った。液晶画面を見ると母の征子からだ。もうちょっと考えてな、とめぐみに言って携帯に出た。

「伸一。久しぶり。元気にやってる?」

「ああ、母さんこそどうだい?」

「私はいつもと変わらないわ。のだめちゃんは元気?」

「あいつが元気じゃなくなる方法を教えて欲しいくらいだよ」

また、そういうこと言って、と征子はたしなめるような言い方をしてから自ら笑った。いつも単刀直入な母にしては意味の無い挨拶が長過ぎるな、と伸一は話しながら感じていたのだが案の定、征子は切り出しにくい話をする為に掛けてきたのだった。

「お父さんにあったのね」

誰から聞いたのか、征子はプラハでのパーティで二人が再開したことを知っていたのだ。

「どうだった?」

という征子の言葉は、征子自身がなんと伸一に声を掛けていいのか分からないと言っているようだった。

「別に。特段、何も無かった」

「そう、なにしろ予測不能な人だから・・・あなたも音楽界でそれなりに名前が知れて来てるから、あの人が何か言ったのじゃないかって・・・ちょっと心配になったの」

「特にオレの話は何も無かったよ」

「そう、それなら良かった」

「相変わらず自分の話ばっかりだったよ。なんでも神の技を会得したとか。頭大丈夫かな?」

征子母が携帯の向こうで黙り込むのが分かった。伸一には征子がなにか考え事をしているように感じた。「もしもし母さん?」と声を掛けてみたが返答が無かった。が、しばらくして

「あの人ね、若い頃から変わってたの。ううん、普通の人の感覚から言ったら気が狂ってたのかもしれない。多分、それは今も変わらないのだろうけど。あの屋敷に住んでた頃もピアノの練習室にね、一ヶ月の飲まず喰わずで閉じこもって朝から晩まで弾き続けたこともあった。それこそ鍵盤が壊れるくらい強く、叩きつけるみたいに。『なぜもっと早く弾けない?なぜもっと強く弾けないんだ!?』ってね。おかしいでしょ?あの人にとっての音楽ってなんだか闘いみたいだった。そんなだから鍵盤がすっかり削れちゃって。『交換しましょうか?』って言ったら『これは俺の努力の証。砕け散るまでこうしておいてくれ』なんて言ってた。それである日、突然演奏旅行に出掛けてそのまま何年も帰ってこなかったのよ」

そうか、鍵盤の謎が解けた。伸一はめぐみと見たピアノ練習室の鍵盤を思い出していた。それにしても凄ましいピアノ。しかし、それが音楽と言えるのか?あいつのテクニック偏重の演奏が芸術とは到底思えないんだ。

「ま、今も或る意味狂人だよ」

と伸一は父が真夜中に吸血鬼のような格好をしてオープンカーで飛び出していったことを話した。ついでに風見鶏のことも訊ねてみた。もしかしたら母なら何か秘密を知っているかもしれないと思ったのだ。

「ふふふ、犯人はマルチナね」

征子は意外なことを言った。征子は伸一が返答できずにいるのを察して更に続けた。

「マルチナってねえ、とっても綺麗な娘だったの憶えてる?新体操の選手だったのだけれど怪我で若いうちに引退してね。人の紹介をうちの賄いに来てたのよ」

マルチナが綺麗?新体操の選手だった?信じられん。と伸一は思った。子供の頃の記憶など曖昧なものだということは理解できるがそれにしても今のごっついマルチナは誰だ!?別人か?伸一が首を傾げているのを見透かしたように征子が

「東欧の女性って中年になると太るのよね」

と付け加えた。まあ、それはともかくとして、その綺麗でしなやかだったマルチナがどうだって言うんだ?まさか・・・伸一の問いに答えるように征子が説明した。

「マルチナはね。雅之に憧れてたのよ。音楽家らしくない粗野な風貌と野人のような荒々しい雰囲気にね若い娘は弱いの。特に女子スポーツ選手はその傾向が強いらしくて、ニャラポアとかクルニコルとか浮名を流した選手が何人か・・・」

ふん!知ったことか。伸一は鼻を鳴らした。自分の夫の女性遍歴を客観的に把握している妻というのも珍しい、そんなだから簡単に浮気されちゃうんだよ!と伸一は咽まで出掛かって、一度迷い、やっぱりこの際だから言おうと思ったところで

「母さんがダメなのよね」

と先を制されてしまった。

「彼を束縛すると彼の音楽が台無しになってしまう気がして」

なにが「彼の音楽」だ。技術に溺れた単なる速弾き王じゃないか!しかし伸一はそれを口に出さなかった。その代わりに

「で、結局マルチナもあいつの毒牙に掛かったって訳だ」

「さあ、それは分からないわ。でもマルチナなら雅之の言うことには従うでしょう」

ってことはあれは全て手の込んだ作り話か?伸一は風見鶏がカラカラ回り始めたところから雅之がスポーツカーで登場し、去っていくまでの様を思い出していた。征子が伸一の心中を察するように言った。

「あの人って仕掛けが細かいから。演奏者より演出家の方が向いてたんじゃないかしら」

それにしても何の為にあんな手の込んだことを?伸一はしばし考え込んだ。オレをからかおうとしただけか、結論はそれだった。

「ところで元気で良かったわ。あの人に遭ってショックを受けてたらどうしようかと思ってたの」

「ふん!あんな奴。関係ないだろ」

そうは言ってみたもののよく考えると雅之に遭って以来の伸一はすっかり調子が狂っているのだ。それでも一応、母の前では強がっておこうと伸一は思った。

「夕方からあいつのコンサートなんだ。のだめがチケットを貰ったから、ものの試しに聴いてくるよ。ま、どうせ小器用な演奏だろうけど」

「小器用なだけ?」

携帯を通して征子の同様が伝わってきた。それが尋常ではないことが伸一にも分かった。

「・・伸一。あなたあの人の、雅之の演奏を聴いたこと無いの?」

「ああ、無い。無いよ。でも、演奏会の記事はたまに目にする。でもどれを見てもテクニックを褒められてるだけじゃないか。音楽性とかそういう話は読んだことないよ」

征子が絶句するのが分かった。しばらく母子は携帯の向こうとこっちで黙りこんだまま過ごした。それからどちらからともなく「また連絡するね」とぎこちなく言って切った。