その時、突然二人の耳をつんざくほどの轟音が聞こえた。まるで国際線の旅客機のジェット噴射口が耳元で唸りを上げたようだった。二人が振り向くと、全身汗まみれの巨人が畳の間の入り口に立っていた。
「オヤカタ。稽古に顔を見せずにナニシテルノカト思ったら、イチと密談ですか?」
親方は明らかにギクリとしました、とでも言うように、大きく一度唾を飲み込んだ。それから気を取り直し、慌てて
「密談なんて聞こえが悪いなカイザーよ。何でもオープンにするのが俺の方針だっておめえも知ってるだろう」
と言った。が、瞳が明らかに泳いでいて、どう見ても言い訳に聞こえた。
「ガイジン力士をツイホウしよう、とかソウダンしてたんじゃないの?」
「ば、馬鹿なこと言うな。今や相撲はガイジン力士の人気で持ってるんだ」
「ドーカナ?ニッポン人は閉鎖的だから。でも、ボクが横綱になったらクーデターは許さないヨ」
魁座亜皇関は、まるで三階建ての窓から覗き込んでいると思えるほどの高さから親方を見下し、一睨みした。
「松の海親方のアトガマに座ろうともオモッテルンダ」
と言うと魁座亜皇関は、唇の端を歪めて笑った。市太郎はふいに
カタカタカタカタカタカタ
という音を聞いた。視線だけで音の在りかを探すと、親方のライターが卓袱台に小刻みにぶつかっているのだ。親方が震えているのに気付いた。魁座亜皇関の言葉は、まさに角界占領を意味する。若い市太郎にその是非は良く分からなかったが、歳の行った親方にしてみれば、恐ろしいことなのかもしれない。
 もっとも他の外人力士であれば親方も震えるようなことは無いであろう。魁座亜皇関が問題なのだ。圧倒的な強さを誇りながら溢れ返るほど金銭欲、出世欲が強い彼は、角界の全てを掌中に収めても足りないであろう。彼が横綱から協会長に出世しようものなら、角界を崩壊に導くほどの恐怖政治を展開するに違い無い。下手をすれば今人気の異種格闘技団体へと衣替えしようなどと画策する可能性すらある。親方はそれを恐れているのだ。
 市太郎がそんなことを考えてるところへ、突然、ビンタが飛んできた。それは三階の屋上から振り下ろされたかのように加速度がついており、市太郎の巨体が宙に浮くほどだった。
「イチ!オメエそんな茶髪しやがって!ナンド親方を困ラセレバ気が済むんだ!デントーをナイガシロにしやがって!」
魁座亜皇関は市太郎の茶髪を鷲掴みにして引っ張り、無理矢理立たせた。
「オレが直接ケイコをツケテヤル。来い!」
多分、魁座亜皇関は親方と市太郎の会話を聞いていたに違い無い。いや、さっき稽古場から魁座亜皇関の笑い声が聞こえたから立ち聞きしていた訳ではなかろう。まさかとは思うが、しばらく前に親方が首を傾げていた件を思い出した。
『おっかしいんだよなー。カイザーの野郎。俺の考えをみんな知ってるみてえだ』
もしや魁座亜皇関は親方の部屋に盗聴器を付けてるのではあるまいか?
「おいおい!カイザー!相手はまだ子供なんだからな、ちゃんと手加減しろよ!」
そう叫びながら親方が後を追って来たが魁座亜皇関はまるで無視して、ずっと市太郎の髪を掴んだまま、引き摺るように稽古場まで連れて行った。
「サア、この大関・カイザーオウが入門シタテのオマエナンカに直々にケイコをツケテヤルナンテ、メッタニナイんだ。アリガタク思え!」
いきなり頬に張り手が飛び、市太郎は摺り足の練習をしていた他の力士の真っ只中へ突っ伏した。たちまち身体中、砂まみれになった。ゆっくりと後を追うように魁座亜皇関が稽古場の土俵に降り立った。うっすらと笑みを浮かべている。他の力士達は、自分にとばっちりが来ないよう一斉に場所を開けた。後から付いてきた親方が震え、なす術もなくうろたえていた。
「かかかカイザーの野郎。イチを壊す気だ。日本の希望の芽を摘んでしまう気なんだ!」
親方の声にならぬ叫びを聞いて魁座亜皇関は大きく頷いた。そうして市太郎を土俵に立たせると、自分の胸をドンと一つ打ち、胸を貸す格好ををしてみせた。しかし市太郎が唸り声を上げながらぶつかると、それを待ち構えていたように全身でカウンター。市太郎は軽々と宙に浮き、そして落下した。まるで三階の窓から叩き落されたような激痛。自身の体重が重い分、返ってくる衝撃も大きいのだ。
「ドーシタ?モウ終わりか、ニッポンのキボー君」
やはり魁座亜皇関は聞いていたのだ。盗聴器が仕掛けてあるに違い無い。きっと親方の部屋だけでなく、この部屋全体に何箇所も仕掛けてあるに違い無い。なんとスポーツマンシップに悖る行為!しかし正々堂々など国内の理念に過ぎない。グローバリゼーションの中ではアマチュアの戯言に過ぎないのだ。
 市太郎は先ほどより更に大声を上げながら魁座亜皇関に体当たりした。しかし今度はぶつかる瞬間、魁座亜皇関はひらりとかわした。市太郎の身体はぶつかる目標を失い、猪突猛進する猪のごとくそのまま壁に激突した。
「魁座亜皇関!貴様!卑っ怯だぞ!」
思わず親方が声を上げた。しかし魁座亜皇関は気にする風も無く、逆に
「ショーブの世界の厳シサをオシエテルンデスヨ。若イウチカラカラダニ叩きコンデオカナイトネ」
言うが早いか魁座亜皇関は、壁にぶつかりうつ伏せに倒れたままの市太郎の尻を力任せに蹴り上げた。魁座亜皇関が叩き込もうとしているのが勝負の真理などでは無いことは明らかだった。若い将来有望な力士に自分に対する恐怖を叩き込もうとしているのだ。魁座亜皇関は蹴り上げた足を宙に浮かせ、今度は踵を力一杯市太郎の背中に落した。プロレスで言うところのストンピングである。ゴキっと骨の軋む音がした。
「ああ!大丈夫か市太郎。頼むカイザー!イチを壊さんでくれ」
親方が土下座して懇願した。