「うっぷぷぷぷっ!ひぇ〜」

何度乗っても気持ち悪い。大学院の最初の年、めぐみがどこぞから仕入れてきた催眠術とやらでオレの”飛行機恐怖症”を治した筈なのに。しかし未だにこの有様はどうだ。めぐみの催眠術はインチキだったのか?いいや、そうか、分かったぞ。そうに違いない。遂に真実を突き止めた。そう、どうやらオレがめぐみに掛けられたのは飛行機恐怖症が治ったと思い込む催眠術らしい。なんてことだ!やはりめぐみのインチキに引っかかったのだ。くそ!めぐみの奴!しかし・・・・もっとも欧州来たさについオレの方も安易に術に乗ってしまったのだ。その意味では自業自得と言わねばなるまい。

「あ、あ、あ、あ、〜」

パリからプラハに向かう旅客機の中で伸一は悶絶していた。

「よーし、よし、よし、よし」

遠くから犬をあやす声が聞こえてきた。誰だ?どこから?ん?めぐみ?めぐみの声じゃないか。何故だ?めぐみは犬をあやしていたのじゃあ?違う。オレを、あまりの恐怖に飛行機酔いしたオレを介抱しているのだ。

などと伸一が苦悶している間に旅客機はエアポケットに入った。一瞬にして足元が抜け落ちたような恐怖のどん底に陥る、直後に来る激しい振動は伸一の体内の血液という血液を攪拌し、遠心分離機さながらに固形物と液体に分離しようとしているらしい。その結果、スカスカになった脳を置き去りにして、液体だけがオレの口から吹き出ようとしている。

「よーし、よし、よし。あー、よだれがこぼれちゃったねー」

誰?誰かがオレの口元をぬぐっている。誰でもない。めぐみだ。どうやら危うく嘔吐しそうになったらしい。ああ、なんて様なんだ。くそう、めぐみのインチキ催眠術のお陰で・・・・しかしそれもこれも、インチキに引っかかったオレが悪いのだ・・・

旅客機は何の問題も無くルズィネ国際空港に滑り降りた。これ以上無いくらいスムーズな着陸だった。乗客の中にはまだ空を飛んでるものだと勘違いしている者もいたほどだ。唯一、伸一だけは違っていた。機体の降下による血圧の乱高下に耐え切れず、意識を失った。

『ああ〜落ちる〜。落ちた。遂に落ちたんだ。真っ暗な地獄に。それみたことか、みんなでオレを馬鹿にしやがって。「千秋、おまえ飛行機怖ええの?ぎゃははは」、「先輩ったら私の腕の中で子犬のように震えて、ぷぷぷぷっ」とか笑い者にしやがって!でもどうだ!やっぱり飛行機は危ねえじゃねえか!ほら見ろ!言ったこっちゃ無い。こんな地獄の底に墜落したんだぞ!待て?待てよ。飛行機が墜落したとしたら一緒に乗ってためぐみはどうした?おい!めぐみー!どこだー!返事しろー!あれ?他の乗客はどうなったんだ?一人もいねえじゃねえか。それに機体はどうした?これだけの墜落だ。残骸が辺り一面を多い尽くし・・・う!もしやオレが死んだのか?死んで今は幽体離脱した状態なのか?じゃ、めぐみはどうした?生きてるのか?助かったのか?おい!何も見えねえじゃねえか!霊になったのに何も見えないなんておかしいぞ!

「しゃがんでみろ」

え?誰だ?今しゃべったのは誰だ?

「いいからしゃがんで」

あ、ああ、こうか。

「そしたら立って」

立つ?立つってこうだろ。

「またしゃがむ」

う、ああ。

「立つ」

おお。

「しゃがむ」

「立つ」

「しゃがむ」

「立つ」

「しゃがむ」

おおーい!なにやらせるんだ!言うとおりやっちまったじゃねえか!

「はははー!そう怒るな怒るな。お陰で脚があることが分かったろ」

あ、脚?ああ、あるな。

「お化けには脚が無い」

お、そうか!じゃ、オレは生きてるんだ。

「ご名答!」

ところで誰だ貴様は!?

「俺か?俺は」

うわ!バサァー!っておい、なんだいきなり失礼な奴め。あ!あああ!黒いマントの男。あの夢に出てきた!誰なんだいったい?お前は誰だ?

「ふははははは!伸一、まだまだ甘いのー、ふははははは」

ああー!』

「先輩、先輩」

めぐみの囁くような声に伸一は深い眠りから覚めた。

「先輩、恥ずかしいですよ。『ああー』なんて大声出して」

言われて周囲を見渡すと、なにやらみんな自分を見ている。一様に不自然に強張った顔をしているのは、笑いを堪えているからに違いない。しかし人生経験の豊富な大人ならともかくも、子供には忍耐の限界がある。小学生くらいの、そう顔立ちからプラハの生まれに違いない少年が、小さな両手を口に当てプルプルと震えていた。あんな子供に我慢を強いるとは因果なことだと伸一が溜息を付いたのを合図に、子供が限界を超えたらしい。ぶーっという間抜けな音を出して噴出した。母親らしい女性が

「こら!」

と叱りながら自分の膝に子供の顔を押し付けたが、今度は周囲の大人たちの何人かが小さく噴出しては各々自国語で

「失礼」

と呟いた。中には伸一に向かって申し訳なさそうに会釈する者もいて、伸一をますます暗澹たる気分にさせた。

「困りましたねー先輩は。なんだか最近、ますます酷くなってますよ。催眠術が切れてきたんですかねー?」

また今夜辺りこの懐中時計を使って私が催眠術を掛けて差し上げます、と言うめぐみを伸一は

「今度はちゃんとした医者へ行くよ」

と制して立ち上がった。旅客機がタラップに繋がったのだ。伸一は何事も無かったように出口に向かった。めぐみはというといつもそうするように食べかけ飲みかけの菓子、ジュース類を慌てて口に運んでから後を追い掛けた。