※テレビ版の「のだめカンタービレ」の続きを勝手に書いてみました。

(所謂二次小説で、本物とは一切関係ありません)


ようやく落ち着いて辺りを見回すとその荘厳なる内観に息を呑んだ。プラハのすべてがここにある。世界一美しい都プラハの美が壁、天井、観客席のすべてに表現されていた。さながらここがオペラの舞台であるかのような錯覚を観客一人一人に抱かせるような物語性のある配置、重厚で格式高い造り、整然とした導線はここにいること自体に悦びを感じさせてくれる。伸一は満ち足りた気分になり、ゆったりと席に腰を降ろした。今更ながら音楽の素晴らしさを確認した気持ちになった。この美しい建物も音楽が生み出した芸術に違いない。こんな美しいホールで演奏できる奏者は幸せだろうな、伸一はまだ見ぬ奏者たちに思いを馳せた。

そういえば、あいつは何を演奏するんだ?のだめがあいつからチケットを貰った時、一緒にパンフレットも渡されてた筈だ。あいつの顔が大写しで出てたから見なかったけど、プログラムくらいはあらかじめ読んでおいた方がいい。伸一はめぐみのバッグのポケットからチケットと一緒に入れてあるパンフレットを出した。ええっと、、、最初の曲が、、、何?

リスト超絶技巧練習曲第5番

その名が示す取り超絶な技巧を要求する難曲。しかし練習曲と呼ばれるように技巧が強調され易い。そもそもあいつはテクニック偏重だから、技巧という意味では得意分野かもしれないが、超絶技巧練習曲に技巧派のピアニスト。マッチし過ぎるんじゃないか?単なる味気ない演奏になりはしないか?伸一は首を傾げたがこの曲を選んだ意図が分からなかった。選曲ミスじゃないのかな?まあ、いいか。他の奏者ならともかく、あいつのことだ。どんな演奏をしてみせるのかとくと拝見させて貰おう。伸一は腕組みをすると座席に深く座り直した。その音でめぐみが目覚めたらしい。

「あれ?先輩。もう始まったんですか?」

「あ?ああ、もう始まる」

「いやー、どうしたんでしょうかねえー。ぐっすり眠っちゃいましたよ。あれ?いつここに座ったんでしたっけ?」

まったく能天気な奴。オレに頭突きで気絶させられたのにすっかり忘れちまったらしいな。まあいい。伸一がにんまりと笑っていると

「ああ出てきた出てきた」

というめぐみの声に誘われるかのように、ステージの袖からオケのメンバーが姿を現した。

「わあ、みんな立派そうな人たちばっかりですねえ、わあ、凄い、うん、へえ、ああ、あれ?なんか皆さんちょっとお疲れ?」

真っ青な顔色の者、足元がおぼつかない者、人知れず悲嘆にくれる者、皆一流の演奏者だというのにこの有様はなんだ?何か事件でも怒ったのか?例えばシュトレーゼマンが死んだとか?な、分けないか。さっきオレと親父の遣り取りを横で聞きながらニヤニヤ笑ってたんだ。案の定、オケのメンバーが入場してくるステージの袖から顔だけ出し、おどけながらこちらに向かって手を振っていた。

「あ、ミルフィーだ!」

めぐみが手を振り替えした。バカだなこいつら相変わらず・・・伸一は呆れて溜息を付いたのだが、その時更なる異変に気付いた。

『メンバーが多い!』

それにはめぐみも気付いたらしい。

「あれー、なんだか多くないですかー。何人いますー、えっといち、にい、さんと・・・」

他の観衆達も気付いたらしい。会場がざわめき始めた。なんなんだこれは、ゆうに百人は超えている。それどころか、袖の向こうにまだ何人か控えてるじゃないか。どういうことだ?伸一のみならず観衆がみな首を傾げてる間にシュトレーゼマンが登場した。喝采に応じて満面の笑顔で挨拶してる。そしていよいよ雅之が現れた。観衆からは唸るようなどよめきとご婦人方の黄色い歓声。なんなんだ?女どもの黄色い声はともかくこのどよめきは?観衆の多くはプラハ在住、普段から雅之の演奏を聴いている筈。その彼らのこの反応は何だ?伸一の疑問に答えるように後部座席の客が呟いた。

「いよいよアレを披露してくれるんだよなあ」

アレ?あれってなんだ?いますぐ訊いてみたい衝動に駆られたがなんとか我慢した。

初めて聞くコンサート会場での父の演奏。いや、子供の頃何度も聞いていた筈なのにまったく憶えてない。父を拒否してからなのか?あるいは子供の頃の記憶なんてそんなものなのか?伸一は不思議に思った。まあ、そんなことはどうでもいい。シュトレーゼマンと父のコンチェルトが始まる。テクニックに偏重したバランスの悪い演奏だろうけど、一応音楽の都プラハで名前が通っている演奏者だ。聞く価値はある。それにしても初めは「リスト超絶技巧練習曲第5番」だからソロなんだろうな・・・どうやら演奏が始まるらしい気配に伸一は息を飲んだ。

雅之はまるで鍵盤を見下ろすような視線を落とし、ゆっくりと演奏に入った。いきなりの超絶技巧。リストはまるで意地悪でもするかのようにスタートから全力疾走を強いる。しかし、、、雅之はまるで超絶技巧が標準的なリズムだと言わんばかりの余裕を持った演奏をする。余裕すら感じられる表情は、まるでリストすら見下さんとするかのようだ。なんて傲慢な奴!伸一は一瞬にして雅之の演奏に反感を持った。偉大なリストを冒涜するかのようなテクニックの誇示!何が「神の領域に達した」だ。バカらしい。技術のみを追求しただけの異様な演奏じゃないか!それにしても、そもそもなぜ神はこの男にこれほど高度なテクニックを与え賜うたのだ?その人格、品行、その他人間性のあらゆるものが芸術から縁遠い、いや対極の位置に属するというのに。なぜこんな野蛮人の指に、先人達の美しい音色を奏でる資格を与えたのだ?この男に音楽界は相応しくない。まるで天使の群れの中に一匹の野獣を送り込んだに等しい。優れた先人達の音楽は穢され、地に堕ちるのみだ。そうか!そうに違いない。彼にテクニックを与えたのは芸術の神などではない。そうだ、穢らわしい人外の者。伸一がそう心の中で叫び終わるのを待っていたように雅之は演奏を止めた。

?なんだ?なぜ弾くのをやめる?伸一が首を傾げた瞬間、雅之がニヤリと薄気味悪い微笑みを浮かべた。まるでスローモーションのように振り下ろされる雅之の両腕。伸一は、雅之に鍵盤ごとピアノを破壊するかのような殺意を感じた。ガガガガガ!!暴力と破壊の音が鳴り響いた気がした。伸一は慌てて音の出所を探した。しかしどこにも見当たらない。それが自らの脳内から発していることに気付いた時、雅之の演奏が再会していた。

『ぐう!なんだこれは!いきなりのフォルテシモ。いや、それだけじゃない!これはなんだ?この曲をこのスピードで弾くのか!』

恐るべき音の洪水は、嵐が招いた激流のごとくホールに満ち溢れた。

『くく!まったく、なんて演奏しやがる。まるで心も何もない、技巧だけじゃねえか。しかし、、、ぐぐっ!な!なんだ、心臓が叩き割られる!ああ、破壊される・・・』

激流は伸一の血管を通り心臓の中に進入し掻き乱し、やがて心臓が止まりそうな、耐え切れないほどの苦痛を与えた。

『これは!く、苦しい!死ぬ!、、、他の観客は大丈夫なのか?のだめは?』

隣に座るのだめを見る。普段、猫背の筈ののだめがなぜか背筋を伸ばし、一心不乱に聞き入っている。

『おい!どうしたんだ!?』

表情を覗き見て伸一は驚愕した。カッと見開かれたのだめの眼球がぐるぐると回転していたのだ。

『お!おい!大丈夫か!?』

しかし伸一の声は雅之の奏でる恐るべき音楽に掻き消された。その時、ふと周りの観衆の顔が目に入ってきた。皆、のだめと同じように眼球をぐるぐると回している。伸一は腰を浮かせて会場を見渡した。そして恐ろしい予感は的中した。誰も彼も眼球をぐるぐると回転させていたのだ。

『これはいったいなんなんだ!?』

伸一には何が起こっているのか分からなかった。ただ、雅之の奏でる音楽の激流が更に勢いを増したのを感じた。