「あ、パパ」
出たのは有希だった。まるで一昨日までと変わらぬ様子だった。
「忘れ物でもしたの?」
有希は先回りして訊いてきた。有希は、わたしに似ずしっかり者だった。勉強もスポーツも出来、時々、連れて来る友達の話を聞くとクラスのまとめ役だという。そんなところは、ますますわたしに似ていない。親として嬉しく思う反面、寂しくもあった。いつから彼女はこんなにしっかりしたのだろう?と思うと自虐的な気持ちになった。自分の弱さが娘を強くしているように思えるのだ。
 妻とわたしが離婚することについても、娘は一度も不平を言わなかった。ただ一度だけ「お父さんはどうやって暮らしていくの?」と訊いただけだった。わたしが「どうとだって生きて行けるさ」と根拠の無い強がりを言うと、少しわたしを見詰め、それから「分かった」と笑顔で言った。自分だって父親と別れ母と二人暮らしをする、それも見知らぬ男が時々出入りする家でだ。そういうことに対し不安を感じていた筈だ。しかし有希は一切、不平も言わず、表情にも出さなかった。それどころか、一人になるわたしも心配をしていたのだった。
「もしかして、ママに用事?」
耳元で有希の声がした。少し声の調子を低くしている。おそらく近くに妻がいるのだろうが、わたしが掛けたのは妻の電話だから、妻に気取られて困ることは無い。気の回る有希にはその位、分かる筈だった。だとすれば、その男が来ているのかもしれない。そうわたしは思った。わたしは改めて電話を掛けることにした。有希にそう伝えようと思った瞬間、有希の声が響いた。
「代わる?」
電話の向こうの様子をあれこれ詮索していたわたしは、返答する言葉を失った。すると有希はそれと察したように「ちょっと待ってね」と続けた。受話器の向うで娘と妻の会話が聞こえた。耳を澄ましてみたが、それ以外の声は混じっていなかった気がする。そんなことを考えているうちに、妻の声が聞こえた。あまり好意的な声ではなかった。
「なあに?昨日の今日で電話してくるなんて?」
「ああ、ちょっと頼みがあって」
「もう二三日泊めてくれなんて駄目よ。もうずっと前から言っておいたのにアパートを探さなかったあなたが悪いんでしょ」
妻の語気に気圧されたわたしは何も返答できずにいた。
「まったく、困らなければ動かないんだから。少しは薬になった?」
その問いにわたしが「ああ、大分ね」と答えると、改めて呆れたらしい、電話越しに大きな溜息が聞こえた。少し腹が立ったが我慢した。早く本題に入りたかったのだ。
「ところで、俺の荷物はさ。まだ、そこにあるかな?」
「宅配便屋さんには今日の夕方までに取りに来て頂戴っていってあるけど、今はまだあるわ」
「悪いがそこから探して欲しいものがある」
「何かしら」
「封筒入れなんだが」
「封筒入れ?」
「いや、そこに挟んである手紙」
「なんの?」
「父さんから貰った手紙」
その時、電話の向こうで沈黙が流れた。しばらくの後、妻は「お父さん?」と困惑したように言った。
「どうしたんだ?ふざけてないで頼むよ。今、長野にいるんだ。これから父さんが入居する介護施設に見舞いに行きたいんだ」
妻は「へえ」と気の無い返事をすると、
「介護?施設?」
と確認してきた。
「そうだよ介護施設、君を連れ行ったことも無かったかな?父さんが入居してる病院」
「病院?」
「う、ん、病院の隣に併設されていた、と思う」
そこまで言ってわたしは自分の記憶の曖昧さに気付いた。つい先ほどまで父が入居する介護施設が明確に頭の中でイメージ出来たのに、今はそれがどんな形だったかもはっきりしない。やはりわたしの頭はどうかしている。そんなわたしの困惑に気付いたのか、妻は諭すように問い掛けてきた。
「今、長野にいるのね?」
「そうだ。昨日の夜、こっちに着いたんだ」
「それで、お父さん、、、、病院にいるの?」
「当たり前じゃないか!ずっとそうだったろ?」
「そこから着ていた手紙を見たいの?」
「そう、時々届いていただろ?その病院名と住所を知りたいんだ」
妻は溜息を付くと「ちょっと探して掛け直すわ」と言って電話を切った。いったい何だと言うんだ?わたしは妻の勿体付けた口ぶりに腹が立った。しかしそんなことに腹を立てても仕方が無い。今は妻に早く住所を探して貰うことの方が大切だった。そして、そう時間は掛からずに携帯が鳴った。妻からだ。
「いい?メモできる?」
わたしが「ああ」と答えると妻は事務的な口調で住所と電話番号を言った。
「ありがとう。感謝するよ」
わたしがそう告げると妻は
「ううん、それはいいけどあなた、、、」
と何か言い掛けた。わたしが「え?」と聞き返すと
「なんでもないわ」
と答えた。なんでもはっきりと言う妻には珍しい、曖昧な返答だった。
 それから妻は
「次の住まいが決まったら教えてね。早めに決まるようなら荷物はそちらに送ります。辞める会社に送っても、迷惑がられるでしょ?」
と言って来た。わたしは少し不思議に思った。ここ数年、彼女がこんな気遣いをしてくれたことは無かったのだ。
 電話を切ってから、もう一度メモを見た。なんだかメモした文字が消えて無くなってしまいそうな気がしたからだ。ホテルの備え付けのメモ用紙には、たしかに住所と電話番号が記されていた。もう一度それを確認しながら、最寄の駅は善光寺下駅だったことに気付いた。気付いた瞬間、頭の中に激痛が走った。先ほどまでの頭痛はただ閃光が走るだけだったが、今回のものは違う。すぐに治まったとはいえどうやら悪化しているらしい。わたしは少し不安になった。これからは一人で生きていかなければならない。その上、仕事も一から出直しなのだ。頭痛持ちの中年を雇ってくれるところがあるだろうか?
 考えてみると事実上のリストラとはいえ、形の上では依願退職だから今月で社会保険も切れてしまう。その前に病院に行ってみようと思った。

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