しかし、病院から北に出たわたしの目の前には、葦の藪など無かった。葦が生えていた筈の場所は病院の駐車場になっていた。機械で管理されたそれは、都会のものと変わり無かった。振り返ってみると、かつて木造だった病院は鉄筋コンクリートの建物に建て替え…

荷物を片付けながら『つまり早く出て行けということか』と僕は理解した。 医師の説明は看護婦のそれとさして変わりは無かった。ただの過労だそうだ。もっとも僕は頭痛のことは一言も話して無かった。だから、それを話せば医師の判断も違ったものになっていた…

◇ 『暖かい』 あの日、藁の中で眠ってしまった時と同じだ。藁は太陽の匂いがした。太陽光線の熱をずっとそこへ溜め込んでいたみたいに暖かだった。まるで快適なベッドのようで、僕はすぐに眠ってしまったんだ。隣りで由紀が怒っている声がしたけど、僕は気に…

◇ 「由紀、由紀」 月が山裾から顔を出した時、僕らは鳥居の下に並んで座っていた。僕は由紀に肘鉄を喰らって目を覚ました。 「痛ててて。何するんだよう」 「あんたが寝惚けて人の名前呼ぶからよ」 「え?誰かの名前呼んだ?」 「ふん、馬鹿ねえ。ホントその…

こんなことを考えているなんて、あの会社のみんなに知れたら大変なことになるな。裏切り者の誹(そし)りを受けるだけでは済まないかもしれない。しかし、自分でも驚くほど早く会社と無関係な人間になっていた。 未練がましく会社のことを考えていること自体…

「お客さん。どうかしましたか?」 タクシーの運転手が不愉快そうに訊ねてきた。自分のことを笑われたと思ったらしい。まったく人間というものはどこまでも自分という狭い世界で生きているものだ。目の前で起きている全ての事柄が自分を中心に回っていると勘…

もはやこれ以上、交わす言葉も見付からなかった。会社から逃げ出したわたしの言葉など、彼にとって害悪以外の何ものでも無かった。 「悪いな、関口。今、親父の見舞いに来たんだ。退社した報告もしなきゃならんし、何より久しぶりなんだ・・・それが妙なこと…

◇ 電話に出ると関口だった。わたしの直属の部下である。もっともわたしの退社は既に決まっているのだから「だった」と言った方が正しいのだろう。 「どうした?」 わたしは無力感を隠さなかった。関口もまた、会社に絶望感を持っている一人だ。だから変な期…

◇ 善光寺下駅は長野駅から三つ目だった。地方の鉄道にしては珍しく地下鉄である。大掛かりな都市の再開発を行った際、鉄道敷きに幹線道路を造ったのだ。この為、鉄道は道路の地下を走ることになった。しかし、地下に駅があるのは長野駅から二つ目の権堂駅ま…

「あ、パパ」 出たのは有希だった。まるで一昨日までと変わらぬ様子だった。 「忘れ物でもしたの?」 有希は先回りして訊いてきた。有希は、わたしに似ずしっかり者だった。勉強もスポーツも出来、時々、連れて来る友達の話を聞くとクラスのまとめ役だという…

◇◇別離◇◇ 翌朝、早くに目が覚めたわたしは私鉄の時刻表を見るためにロビーへ降りた。私鉄は長野電鉄という一社しかない。更に単線だから、壁に張られている時刻表は単純なものだった。 取り敢えず父の元を訊ねてみようと思ったのだ。祖父母はとっくに死に、…

新幹線はエレベータより静かに停車した。それとともに乗客が次々に立ち上がり、降り口を目指した。わたしもそれに続いた。改札は駅の建屋の二階だった。そこへ向かうエスカレータに乗りながら、先ほど見失った記憶のことを考えてみた。だが、すぐに夢の記憶…

◇◇ どこか遠くで汽笛が鳴る音が聞こえた。薄っすらと意識が戻って来るにつれ、それも夢の一部に違いないと苦笑いが込み上げてきた。新幹線が汽笛を鳴らす筈がない。耳に意識を集中すると、それは場内放送の声だった。 「次は終点ながのとなりますー。お忘れ…

◇ 僕らは一週間前に髭おじから 「満月が昇る頃、鳥居の下で願えば叶う」 などといういい加減な話を聞き、試しにここへ来たのだ。そして、月が昇るのを待って――実際は、僕らに気付かないように月は昇っていたのだが――僕らは鳥居の下で願いを掛けた。 父が居な…

それから僕らはまた太陽の光を背にして歩き始めた。でも幾ら歩いてもこの街から逃れられないような気がした。街に居る大人がみんな僕らを見て、僕らの不幸に付いて話し合っているような気がした。通行人、買い物客、店の奥の暗闇からレジを打つ手を止めて僕…

僕らは髭おじの家を出た。僕はなるべく家から遠くに行こう思った。昨夜以来、僕らは近所の大人たちの好奇の目に晒されていた。そして今も誰かが僕らのことを監視しているような気がしたんだ。由紀も僕と同じことを考えていたらしい。僕らは並んで袋小路を出…

その晩遅くに、母と由紀は荷物をまとめ、家を出た。出たといってもこんな真夜中であるし遠くに行くことなど出来ない。取り敢えず髭おじの家に泊めて貰う事になった。これから先どうするのか僕には想像も出来なかった。考えてみれば母の実家には行ったことが…

僕らが部屋に入ると母が床に突っ伏し、その前に父が仁王立ちしていた。二人とも肩で大きく息をしていた。母が、僕らに気付いたのか顔を上げた。母の右頬は痛々しく充血して赤くなっていた。 「駄目よ。たくちゃん!由紀!表に出てなさい!」 母が叫んだ。僕…

妻にすっかり荷造りしてもらい十数年暮らしたマンションを出た。手には小さなボストンバッグ一つ抱えているだけだ。その気楽な姿は、離婚などという深刻な事態を連想させないようだった。通路で擦れ違った顔見知りの老婦人から「あら!どこかにご出張?」な…

そんなことを考えているうちに、妻はせっせと私の荷物をまとめ始めていた。離婚して、今日別居する私の荷物をである。つくづく女という生き物は強いものだと思う。様々な自分の思いを帳消しにしてまでも、今自分が為すべき事に没頭できるのだ。彼女達はそれ…

ずっと自分はスタンダードな社会人だと思ってきたのだ。にも関わらずいつの間にか最低限の生活すらままならない自分がいた。会社が年功序列をやめ能力主義にした途端、私の給料は大幅に下がり始めたのだ。会社は私の給料を初任給そこそこまで下げた。もっと…

◇帰郷◇ どうやら眠っていたらしい。夢を見ていたのだ。しかし、それは夢というより記憶だった。遠い昔の記憶、すっかり忘れていた子供の頃の出来事が今頃思い出されたのだ。もっとも、私がこれから向うのは故郷である。高校を卒業して以来、一度も帰ったこと…

僕は布団に入ってから、今日一日のことを思い出してみた。なんだか変な一日だった。学校で淳司が新しいゲームを買ったって自慢してて、それで授業が終わったらみんなで淳司の家に行く約束をした。その為には由紀から逃れなければならない。しかし結局、掴ま…

僕は身体をすっかり洗い終わると湯船に浸かり、じっと母の白い肌を見詰めていた。それは湯気に当たるとみるみる薄いピンク色に色づくのだ。僕はその変化を見るのが大好きになっていた。それを見るのはゲームより楽しくなっていた。僕はその肌にこっそりと見…

以来、僕ら三人はずっと一緒に風呂に入った。この家の風呂が広かったこともある。家は小さいのに、風呂だけ別の場所から持ってきたような感じだった。だから僕ら三人で一緒に入っても全然狭くは無い。もっともそんなことよりもっと大きな原因があった。それ…

僕は小学校六年生になった今でも母と風呂に入っていた。もちろん由紀も一緒だ。彼女たち二人がこの家に着てからずっとそうなのだ。 彼女たちがこの家に来た時、僕はもう小学生だったから風呂に一人で入るのは当たり前になっていた。小さい頃に母が居なくなっ…

「さ、お夕飯にしよ」 美和は、思い出したようにそう言うと台所に立った。美和は何かに付け穏やかだが、同時に少しトロいところもあって、よく父に叱られていた。でも、僕にとっては彼女のそんなところが可愛らしく思えるのだった。 僕は家に帰ってきて、こ…

小説一覧

わたしのブログが色んなところにあって、 非常に分かりにくいとのご指摘を頂きましたので、 下記に目次を掲載させて頂きます。結構、大変でしたが読んで頂けるなら嬉しいですよ。 ■のだめカンタービレ二次小説 ※全て画面表示は下から順番になっています(分…

アメブロに引っ越しました。 58以降はこちら↓に書きます。 http://ameblo.jp/dogman-x/

※テレビ版の「のだめカンタービレ」の続きを勝手に書いてみました。(所謂二次小説で、本物とは一切関係ありません) ☆ 時間などあっという間に過ぎてしまう。真一がふと顔を上げ、カレンダーを確認すると今日は雅之のコンサートだった。まだ何も解決してい…